物外不遷(1794~1867)
(1)怪力自慢でしられる。
金剛夜叉明王の生まれ変わり、弁慶の再来とも呼ばれた。
「永平寺の釣り鐘を軽々と持ち上げた」「千石船の艫綱を造作もなくねじり切った」と、その怪力に対するエピソードが数多く存在し、柱や碁盤に花押がわりと拳骨の跡を残した事から『拳骨和尚』とのあだ名がつけられた。
伊予(愛媛)の生まれで、武田家と言う松山藩の家臣である家に生まれた。少年時代に安芸(広島)の伝福寺に預けられたが、あまりの悪童ぶりで十五才になると破門となった。
後、全国を修業の為出立。その際、武芸諸流を身につけたが、一方で禅寺に止住した。その際己の力に頼った増上慢を戒められた。
しかし、その元来の性格から、多くの荒事と関わってきた。
鎖鎌や剣術に秀でていて、弟子入り志願の者が数百人もいたとされる。
多くの武芸者が、物外と手合わせを願い、それに物外も受けてたった。
多くの武勇伝が知られるが、中でも有名なのが新撰組の近藤勇との手合わせである。
槍を持った新撰組の近藤勇に対し、托鉢用の鉄鉢二つで立ち向かい、一括のもと近藤勇を押し倒したという。
参考
学研 『仏教人物の事典』
最終更新:2006年10月11日 21:12