沢庵宗彭(1573~1645)
(1)但馬(兵庫県)山名氏の家臣のもとに生まれ、十歳で
浄土宗・唱念寺に入門。やがて
禅宗に己の進むべき道を見つけ、春屋宗園に参禅し宗彭の名を授けられる。
三十二歳で大悟の印可を授けられ、三十七歳で大徳寺の弟一座となったが、三日で大徳寺住職の座を去る。これは朝廷とその直属である林下と呼ばれる寺院を、幕府側が露骨に陥れるため起こった事件『紫衣事件』により、流罪となったからである。
大徳寺を去り、流罪先の出羽国(山形県)に『春雨庵』という庵を結び、武芸者と交流をし、禅の心法をして兵法の極意を悟らしめている。
柳生但馬守宗矩との関係は有名で、木刀を構えた宗矩に対し無手のまま端座。その一分も隙の無い姿に、宗矩も兜を脱いだと言う。
流罪は三年で解かれたが、徳川将軍家光は沢庵を江戸に招待し、江戸にとどめておくため品川に『東海寺』という寺を設けている。
沢庵は弟子に『夢』の一筆を残し、息を引き取った。
参考
学研発行 仏教人物辞典
最終更新:2006年09月22日 18:33