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  • 大垣まつり資料庫
  • 青山松任『大垣まつりの記』

大垣まつり資料庫

青山松任『大垣まつりの記』

最終更新:2024年03月03日 18:34

ogaki-matsuri

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管理者のみ編集可
以下は、青山松任『大垣まつりの記』の本文を電子化したものである。
底本としては、美濃民俗文化の会による複製版(昭和42年(1967年)刊)を用いた。なお、その複製版の跋文にある通り、本書は、戦前(昭和9年(1934年)頃か)に青山松任氏が美濃大正新聞上に連載していた文章が、昭和28年(1953年)に小森嘉兵衛氏の筆と川地寿山氏の絵によって集録浄書されたものである。
※青山松任氏は昭和10年(1935年)ご逝去のため、著作権保護期間は既に満了している。

凡例
  • 電子化にあたっては、誤字脱字や仮名遣い・句読点はそのまま再現したが、変体仮名および漢字は通行の字体に直した(「燈」「臺」「餘」「藝」「辨」を除く)。ただし、促音や拗音を表すのに用いる「っ」「ゃ」等の仮名は、大書きのものも散見するが、ここでは小書きに統一した。また、リーダは点の数や長さが一定しないが、原則として「……」に統一し、特に短いもののみ「…」とした。
  • 本書には美濃民俗文化の会による正誤表が付属する。該当箇所の《 》内には、これに示されている修正後の形を示した。また、この正誤表で指摘されていないものの誤写と考えられる箇所に関しては、必要に応じて【 】内に青山松任氏の原文にあったと推定される形を示した。なお、誤写によって存在しない文字が書かれている場合、これを「〓」とした。
  • ページの区切りは水平線で示し、底本(袋綴装)に丁番号が付されている場合、これに「表」または「裏」を加えてページごとに【一表】などと示した。なお、挿絵のある丁(挿絵は表面に書かれ、裏側は白紙)など、丁番号のない丁も一部ある。
  • 割注は〈 〉内に示し、割注内の改行は全角スラッシュ(「/」)で示す。
  • 字下げなどの字配りや文字の大きさについては、必ずしも正確に再現していない。
  • 複製版刊行に際する印(扉に「此書複写百五十部/第五拾号」「美濃民俗文化之会印」の押印あり)や挿絵(掲載箇所を【挿絵】で示す)は省略した。

大垣祭りの記

【一表】
  大垣祭り
       はしがき
段々と大垣の五月祭が近よって来た、私は祭りが好きである。
元気な神輿を思ひ、裕長な山車を思ひほの〴〵ともへあがるあこがれの燈籠の火を思ふと、私の若い心はたまらなくなって来る、  祭りは民衆的である山車といひ神輿といひ、厳格なる階級制度の中にあって間歇的に迸り出た平民の自由平等観の表象ではなからうか。神輿は僧侶の政権獲得運動に其の端を発し、山車は祭りを我物にせん

【一裏】
との目識から土分に虐伝《士分に虐待》された城下の平民の間に発達したものである。大垣においても東大寺の寺領であった昔から殊に華美を極めた徳川時代を経て今日に至るまでの長い道程において、氏神八幡神社を中心にした大垣祭りは順次に発展して来た
私は今この伝統的な大垣の祭りを愛する心からいさゝか私が趣味を以て研究した八幡神社や山車の歴史について思ひ浮ぶまゝ、又聞いたまゝを書きつらねてみたいと思ふ。

【二表】
 大垣祭り
   八幡神社
大垣市の氏神として市民の尊崇深い大垣八幡神社の祭神は応仁天皇でその御神体は天平十五年(紀元一四〇三)東大寺の建立された時宇佐から迎へ奉った八幡を正慶《元弘》(一九九一)建武(一九九六)の年間即ち南北朝時代にこの地へ御移祀したものであるといふ。当時この地は大井庄《大井荘(以下同)》といって東大寺の寺領であった大垣城主歴代記によると、美濃国安八郡大井庄鎮守八幡宮は初は南藤江村の犀角子(サイカチ)の森に奉安し、次で宝徳三年(二一一一)に宮村地内に遷しこの八幡宮を中央に稲荷社を東の社に天神社を西の社として

【二裏】
祀り奉り、別当は牛屋山大日寺遮那院、社家は中川円宮(現社司中川五月氏の先社【先祖】)御朱印十石三斗としるされてゐるが、これ実に足利義政よりの朱印である。この八幡が大井庄へ遷座されたのに就ては種々なる説があるが、伝説によると、昔奈良の東大寺に奉安してあった八幡の御身体《御神体(以下同)》が紛失したことがあった。之をお守りしてゐた社人や社僧は大いに驚いて種々協議の結果兎に角全国的に之を捜索する事となり御身体の形を絹地に模写したのを二十一枚作り一々三尺の錦布に包んで之を二十一人の社僧に持たせて国々へ派遣したのであった其の中の一人は巡り巡って美濃へ出で安八郡に入って其日に室村の某家に宿泊

【三表】
したが、何だか気が変になって眠に落ちることが出来す身悶(ミモダ)へてゐる中に夢か現か目の前に自分の探し求めてゐる八幡神があらはれ給ひ「この土地後々吉事多く、余はこの地に永住するによって其方は早々南都に帰り皆々にさう告げ申せ」との有難い託宣(タクセン)があった社僧は翌朝目覚めて奇異(キイ)な思ひに満たされつゝ東の方藤江村のあたりを眺め渡すと不思議にも大いなる瑞光(ズイコウ)あらはれ我を招くかの如くであるので光を辿(タド)って急いできてみると犀角子の木の下で紛(マガ)ふ方なき八幡の御身体に会ひ奉ったのである、社僧は大いに喜んで、模写の絹画と引くらべてその事実なるを確め模写を捨て三尺の錦布に之を

【三裏】
包んで脊に負ふて勇み南都を差して帰らうとしたが不思議にも目がくらみ足が立たず其処へ打倒れて暫くは人事不省であった。折りしも其処を通り掛った大日寺の和尚に発見され和尚の取扱ひで其の八幡の神託を徳とし、大井庄十八郷の鎮守の神としたといふのが其大体であって、此時用ひられて《用ひられた》三尺の錦布は今でも八幡神社の御身体を奉安する櫃の中にあるといひ伝へられてゐる。

また一説には当時南北朝時代で管轄充分でなかったのを幸に東大寺の寺僧がひそかに大井庄大日寺の和尚に諸式諸共若干の金を以て譲り渡し

【四表】
たものであるといひ昔聖武天皇が宇佐から此の御身体を迎ひに遣はせられた勅使衆のの本造《木造》の彫刻などもその頃共にこの地へ渡されたもので今も尚其の幾つかが現存する筈であると伝へられるが何れにもせよ
南ヶ輪村(後の南頬) 南寺内(後の寺内) 南東前樋口新田(後の福田新田) 江渡(後の江崎) 東高橋、西高橋、三塚、藤江、林本郷、林東村、林中村、貝曽根、高屋、宮牛、室《宮、室、牛屋》(後の西崎)、切石、
等十八ヶ村の多郷から成ってゐる大井庄を統一し、人心を収攬(シウラン)するにはどうしても日本の国体上から神を基準とすべく、神社を建立するに若かすといふ、大日寺の和尚の卓見を持って東大寺に祀ってあった八幡を

【四裏】
御移祀したものであることは確からしい。大井庄はその後
東前枝郷田中、林中村枝郷西村、
室技郷《室枝郷》入方、三塚枝郷入方、
の四ヶ村を加へて二十二郷に膨張し戸数人口の増加と共にだん〳〵説備《設備》もとゝのひ、祭にも《祭も》徐々に盛になって来たものらしいが、慶長五年には関ヶ原戦争で境内を荒され慶長十一年には時の城主石川長門守が、家康の歓心を買はんとして同社に伝はる粟田口吉光の宝刀を江戸へ献上し其他の宝物を私腹に収めるなど一時疲弊(ヒヘイ)の極に対したが、寛永十二年戸田左門氏鉄公着封後は世の中も平和に秩序だって祭式も行はれ、藩主より鳥居、本社、舞殿等

【五表】
を立派に改築さるなど、たちまちにして面目を一新し慶安元年徳川家光将軍よりは改めて御朱印十石を拝領し、明治の御代には県社に指定され以て今日に至ったのである。

現今大垣八幡神社の敷地は約三千坪あり、其中に本殿、幣殿、舞殿、拝殿、神饌殿等型の通り配置され、社頭に聳ゆる高さ約二丈の石の大鳥居には大納言藤原行成郷に《行成卿の》筆になるといふ額を掲げ二の鳥居は木造で高さ二丈巾一丈七尺、拝殿に通ずるに一間巾の石畳を設け拝殿に入らんとする所に石の高麗狗(コマイヌ)二基(ツイ)あり

【五裏】
其前に金森吉次郎氏の奉納になる鉄製の篝火台一対あり、この他に稲荷神社、北野神社両摂社及び旧藩時代特に五穀穣風両《風雨》穏順を祈念する為に迎へた広瀬竜田神社あり、建物としてはお馬屋二棟、神輿庫、社務所等あり県社としてその設備のとゝのってゐることは西濃有数である以上の如く神社の歴史が頗る古く、従ってこゝに縛はる《伝はる》宝物等も立派なものが数限りなくあった筈であるが数度の兵乱兵火で散逸して現存する宝物の主なるものは
△縁起書一巻 寛文年間 梶川英盛撰
△大鏡一面 延宝年間 戸田氏鉄公奉納

【六表】
△神号幅一軕【軸】 後陽成天皇御宸筆
△刀 一口 藤原友常作 二尺三寸
△刀 一口 田代兼元作 一尺四寸
△刀大小二口 寛文年間戸田九郎右衛門奉納〈大二尺八寸/小九寸五分〉
△刀 一口 兼光 二尺二寸
△刀 一口 寿命 二尺三寸 濃州清水住
△剣 一口 藤原盛道作
△刀 一口 政俊作 二尺四寸
△刀 一口 吉次作 龍刻む 一尺五寸
△剣 一口 宗次作 八寸五分 明応七年
△鎗 一口 兼房作 一尺
△鎗 一口 長船祐定作

【六裏】
△鎗 一口 藤原貴次作 一尺八寸
△居合刀 一口 勝直作 二尺七寸
△刀 一口 広道作 二尺三寸
△刀 一口 永貞作 二尺三寸 濃州住
△刀 一口 関兼次作 二尺三寸
△剣 一口 奥和泉守秀興作 二尺三寸 薩州
△剣 一口 兼元作 一尺六寸五分
△剣 一口 正直作 二尺二寸 備州住
△大刀作 一口 長船祐之作
△戸田淡路守氏房筆の和歌
等でこの外無名の刀剣数十口甲冑弓等多数あり、古の祭りの餘興に使用せられたといふ大獅師《大獅子》頭及び馬面、馬冑等

【七表】
があるがいづれもその年代や由緒は確かでない而して現今の社司は中川五月氏である。

昭和二十年七月二十 日【二十九日】明方、東亜大戦争の為、米軍の空襲により、全焼せり、終戦後健築【建築】に掛る現在

【七裏】

【八表】
  幕末迄の変遷
 「武者屯(タマリ)の頭(ホト)り金鐸(キンタク)響き、御弓(オユミ)巷口(コウ〳〵)の石泉は清らかに殿宇翼然として是れ何れの処か松杉高く聳へ《聳え》、鵓鳩(ボツキウ)は鳴く」と詩に歌はれる頃の八幡神社は総てが極く整備したもので神輿もあり祭例【祭礼】また華美をつくしたものであらうが藤江の犀角子の森から宮村へ御移祀した頃の祭りはこのころの小さな村の祭にみるやうな極めて簡単なもので、その祭りの月も卯月の中卯月【中卯日】に行ふことになってゐたといふ。而して当時は鎌倉時代の餘習をうけて流(ヤリ)《流(ヤブ)》鏑馬(サメ)などか《などが》しきりに行はれた、その後卯月十四日十五日両日が祭典日に決定され八幡、稲荷、北野

【八裏】
三社の神輿を仮造して十八郷の氏子が其れを舁(カツ)き《舁ぎ》、獅子を舞ひ本楽の日には大将に扮し甲冑に身を固めた武者に続いて打物、神器、宝物等を捧持した数十人が麻上下帯刀で扈従(コジ)《従(ジュウ)》し村々を行列して練り廻ったそうであるが、戸田氏鉄公が大垣へ入国されてからは市街も整頓し正保五年(二三〇八)には三社の神輿が新調され延宝七年(二三三九)には藩主から神楽、大黒、恵比須の三輌軕を大垣十町に下賜され十町又夫々種々なる屋形車、渡り物を作り列をして清水門(現今の清水橋東)から七本柳(現今大橋別邸の南)に入り竹橋から切石馬場の町を久瀬川に出で船町俵町竹島町本町を経て伝馬町より高橋町(今の東長町)を通り新町天神を御旅所(昼の休憩所)

【九表】
として中町より再び名古屋口御門(現今柳原内田水車前)に至り北の冠門(赤坂口で外側町の東端)を出て八幡へ還るので延宝年中における或年の記録によるとその順序は
神楽軕(本町) 恵比須軕(中町) 道外坊《道外軕》(魚屋町)
朝鮮人軕(竹島町) 大黒軕(俵町) 石曳軕(船町)
猩々軕(伝馬町) 吉野軕(岐阜町) 小船軕(新町)
三上軕(宮町)
右の如く何れも綱引くもの操(アヤツ)るもの、歌をうたふもの舞をまふもの等数十人宛あり、続いて
騎馬の神主三方(御供各札一枚に神号を書記して持つ)
予《矛》二振(何れも吹貫附して枠の台に立て十人宛して各別に荷ふ)

【九裏】
板的二枚(二人して別に持つ)
歩行武者一人(具足冑弓矢太刀刀を帯す)
二股竹(一人して持つ)
御太刀二腰(二人して別に持つ)
裸馬一匹鞍置馬二匹(御城より出る)
獅子一頭(五人してあやつる)
具足櫃一荷(二人して舁ぐ)
三社神輿(一社に三十人合せて九十人各別に舁ぐ)
楽人(八人中太鼓二人笛六人)
等で、これが現在行はれてゐる祭りの儀式のもとなし《もとをなし》てゐるのである。
其後幾年かを経て藩主氏教公が御老中を勤め

【十表】
てゐたころである。流石は名君であった、祭りを盛んならしめることは庶民を喜ばせることだ而して庶民をして大垣の藩政を謳歌(オウカ)させるには第一番に庶民の最も熱中する祭りに大いに威厳をもたせるがよからうといふ見地から、神輿に数千の足軽をつけ、神馬に馬具足をつけ警備として町同心を山車の行列の先頭に立たせ、本楽当日は政務を廃すると同時に各町に布令して諸大名の宿泊伝馬継立を禁ずることゝなったので、町民の喜びは如何ばかりであったであらうか十町内は此年総町寄りの大会を開いて、各々永久的の山車を造ることを申合せて藩主に之を上申し、藩主又喜んでこれを許可して此処に各町は競ふて意匠をこ

【十裏】
らし、趣向を調べて、金具、木等の彫刻、水引、幕見送り等の絵画、刺繍等を天下の名手名工に依頼し数年或は数十年にして出来上ったものが
本町 相生山車、中町 布袋山車
新町 船山車《小船山車》、魚屋町 鯰山車
竹島町 朝鮮王山車、俵町 浦島山車
船町 玉井山車、伝馬町 松竹山車
岐阜町 愛宕山車、宮町 猩々山車
等で、殊に水引や、幕や、見送りの支那織物に人物花鳥を浮織りにしたものなどは華麗なもので、就中山車の見送りなどは最も高尚優雅を極め、その結構の美妙なることは近国にその比がないと称せられ、

【十一表】
祭りの当日は山車山車の見送りや水引を見るためにわざ〳〵近郷近在から多数の人出があり尚氏教公が従来民衆娯楽として一般に優雅な能楽を鼓吹してをられた関係上山車の曲藝には大抵能楽が用ひられてゐる趣味がある所から、四方の人民を誘致して祭りはこれからだん〳〵と隆盛に向ったのである。
新緑鵑声(けんせう)乾坤を詩化するといふが。実際八幡社の祭典はいゝものである、音曲がくずれ、儀式か《儀式が》すたれたといはれる今日でさへ、吾々はしかくもゆかしさ懐かしさを感ずるのであるが、その最も華美荘厳を極めたといふ幕末の祭典の具合はどうであっただらうか、昔し三輌山だけは八幡社の境内に山車庫があって、三月三日の

【十一裏】
桃の節句には山車庫を開いて三輌山を当番町へ曳き出し、その日から各町内共打囃子や謡曲舞踊の稽古を始めたものである、而して四月九日には場ならしといって、その稽古場へ長い竹の先に白紙の御幣を括りつけた梵天竹と称するものを建て、各山車に飾るべきものを前にすへて神聖なる本稽古をするのである、かうして本稽古がすめば、翌十日は山車飾りで、この日軕曳きの人夫が集って山車を仕組み、同時に各町山車庫を臨設し、夜中はそれへ引入れるのであるが、老人の話によると魚屋町などは狭い街道の中央につくるので全く往来止めの形であったといふ十二日には各町夫々山車掛り附添ひ山車を八幡社へ曳いて神符を受け、山車

【十二表】
の屋形に安置してのち各町を廻り、これを普通町渡しと称へてゐる十四日は試楽とて町年寄りが山車の支配を司り各山車整列して先づ本町札の辻前に設けられてゐる町会所へ曳き行き、総年寄りの検分を受けて済めば郭内の町奉行所に至って更に検分を受け、こゝに明日の晴れの本楽を待つのであるが、これよりさき三輌山の囃しに対しては特に場ならしの際、町奉行から検分役が出張して、藩主の御前奏楽をなすものに限り一人々々実地にその腕を検査する例になってゐるが、この際検査に通過して愈々藩主の御前奏楽をなし得るとなればその子の家庭では大いにこれを名誉なりとして前祝いをやる位であるといふ。

【十二裏】
愈々祭典当日となれば山車係りの年寄り衆は未明から山車と共に八幡社東の武者溜りに寄り山車は鳥居前で奉藝して順次清水橋御門に向ふのである。
藩主は当日南西の角櫓(現在の鈴木彰氏邸の倉庫の位置)に出張先づ八幡宮を遥拝して櫓の窓から掛け藝を上覧されるので、この時は藩主と雖も容を整へて観覧せられたとかいふから町人百姓が敬意を払ったのは無理もないことである、神楽山《神楽山車(以下準ズ)》が清水橋を渡って大垣藩百官の武士に迎へられながらしず〳〵と清水御門を入ると、八幡社の境内に安置されてある「武運長久の鐘」がゴーン……とおごそかに鳴り響くそれはお祭りが渡ったしらせで、この鐘が鳴ってからは如何に雨が降ら

【十三表】
うが、雪が降らうが、祭りは延びることはないとされてゐる。清水橋から七本柳へ入る川島屋敷前には総年寄りが差扣へ、御鳥屋敷南には町奉行、御厩屋(ウマヤ)前には御馬奉行がいかめしく警固してゐる藩主は濠越(ホリコシ)しに山車の懸藝を上覧されるのであるが、その濠の中には目標として笹竹が建てられてゐるので夫れに依つて山車の位置を定めるので藩主の御前における山車の行動に【行動は】総て役人が扇子を持ってする指揮に従うものであって、殿の御前で懸藝をしてゐる間その山車附添の山車係り数十人は山車の前に土下座《中腰遵居》して藝の済むまで平伏叩頭(タトウ)【叩頭(コウトウ)】する例になってゐて山車が御前を下る時は山車を前に傾けて勢よく三度廻転して走り曳きする又清水橋を入ってからの

【十三裏】
山車の位置は頗る厳格なもので川島屋敷前に一輌御鳥屋敷前に一輌、御上覧場所一輌、御厩前一輌、柳橋一輌にて五輌は一定の場所に並列(ヘイレツ)し藝がすむと順次に竹橋御門へと下ってゆく、尚この荘厳を極めた幕末における祭礼の儀式に就て詳しく調べてみると、神楽山に先立って藩主からの命で先払ひの任に当るべく横目一文字笠を戴いて黒紋附の羽織袴で二人の武士が五色の布を巻いた竹の技《竹の杖》をついて前駆し、彫《簓》を持つ二人、突捧【突棒】の二人指俣と柱(モノリ)《指扠と捩》【刺股と捩(モヂリ)】の二人之に次ぎ九等四番席格の御役人が二人、引手十七人宛二組列をなして前衛を警固し、神楽山車に続いてその他の山車型の如くつらなり、最後の猩々山車の後には御先払として

【十四表】
九等四番席格の御役人が一人、御行列の御神馬二頭(裸馬)二人の仲間に口取られて続き、その傍に立大笠を押(オ)し立て大きな馬柄(イ)《柄(ヒ)》杓(シャク)を振り翳(カザ)した仲間あり、その次には飾り頬面即ち蛇の面を冠(カブ)った仲間が口取った殿様の御馬一匹(鞍置)が続き
御先払の御役人が一人、続いて馬一匹、銀予【矛】、長刀、御榊
歩行武者、御具足櫃一荷、御獅子頭御先払、役人一人
而して神輿は十八郷の村民名主等之を守護して勇ましく舁(カツ)ぎまわり、不破郡青柳町(今の南杭瀬村青柳)からは奉楽員を出し、又十ヶ町・山車に供奉してきらびやかに町中を練りまわるのであるが、藩主の御前では殊に御神馬の前に立った仲間が、馬柄杓を振り翳しつゝ

【十四裏】
足で自分の尻をびた〳〵と打ちながら、声明らかに「大阪天満の真ん中で傘枕で……」と馬柄杓歌を唄ひながら面白く舞踊するがその様は実に面白いもので、馬柄杓歌には尚もう一つ「姉さんよ  原【吉原】はへたかへはへたもはへたも……」といふのがある、
而して此馬柄杓取りは当時東田町と西田町にあった大部屋の仲間が勤めることになってゐて祭礼の二十日程前から盛んに稽古したものであるといふ。

【十五表】
大垣祭り
  山車の順序
高砂に始まって猩々に終る大垣祭りの山車の古の順序はよく考った【考へた】ものであった神聖にして犯すべからざる皇祖天照大神を祀った神楽軕を先頭に謡曲高砂を用ひる本町の相生山車、謡曲加茂を用ひる中町の布袋山車、院曲で種々なる舞踊をなす新町の小船山車、老翁が面白い囃しにつれて鯰押へに腐心する魚屋町の道外坊勇壮な韓人の行列に模した竹島の朝鮮王山車、謡曲浦島にかたどった俵町の浦島山車、謡曲玉の井に飾付をした船町の玉の井山車、謡曲竹生島によった伝馬町の松竹山車、謡曲弓八幡を用ひたる岐阜町の

【十五裏】
愛宕山車、最后に目出度い謡曲猩々を歌ふ宮町の猩々山車、等の順序で大黒山車と恵比寿山車は之を引受けた番町の本山車の先に立つのが例であった、その町分けは大黒山車は俵町、竹島町、魚屋町の三ヶ町、恵比寿山車は岐阜町、伝馬町、宮町、船町の四ヶ町である、神楽山車は中町、本町、新町が交代で之を引受けるが、其の引受けた町の如何にかゝわらず真先に立つ例になってゐて現在尚実行されつゝあるのであるがその他の順序は明治五、六年ころの或る総町寄りの時に何故吾々の山車は年百年中、最后に列せなければならぬのかそんなことを誰が定めたのだ総ては大垣に存在する平等の山車でないかなどゝ宮町側から従来の

【十六表】
山車の順序に対する猛烈な反対が出て各町内これに和して激論して以来大いに変更されて番町を交代制にし番町の山車が必ず神楽山の次に立つことゝなり、祭りの山車に関する総ての事務を毎年番町が交代で取扱ふことになったのである

【挿絵】
神楽山車

【十七表】
    神楽山車
「白布の𥘼【衫】児あいしばしば袚【祓】除し、貂蠑(セウエイ)【貂蝉(テウセン)】冠女(カンジョ)交互に舞ふ、忽ち忘る四月清和の日、呼びなす開昏天地の初め」これは旧藩主戸田氏鉄公が摂州尼ヶ崎から大垣へ御移封される時に彼の地から大垣十ヶ町へ土産に下しおかれた三輌山車の一つである神楽山車を歌った幕末の詩人斎藤百竹の詩であるが神楽山車は一名、市山車ともいひ山上天照大神の祠(ハラ)【祠(ホコラ)】を安置しその前に赤い丈長をつけ島田髷に結(ユ)った天の鈿女命と赮(アカ)ら顔の馬鹿(バカ)に鼻の高い猿田彦命を静置し、一番前には青装束で鈴と扇とを振って神楽を舞ふ少女と白装束で七五三の竹を振りながら…チャンチャンチキ……の囃子(ハヤシ)につれて湯の花をあげる

【十七裏】
山武士とが飾られてる【飾られてゐる】神楽山車は一般に天の岩戸をかたどったものだと伝へられてゐるが、天の岩戸へ天照大神がかくれましましたときだとすると天の鈿女命が舞はねばならぬ筈だし、又猿田彦の命もゐない筈だから。これは蓋し孫(ソ)【孫(マゴ)】瓊々杵尊(ニヽギノミコト)が天祖の御神勅を奉じて豊葦原瑞穂国(トヨアシハラミツホノクニ)へ御降臨ましまさんとするとき国神である猿田彦の命がこれを待ち奉ってゐる所で即ち統治者に対する服従の意義を現はしたもので、
古事記にも
瓊々杵の尊が今、正に天降らうとし給ふ時天の八衢にゐて上は高天原タカマガハラを照し下は葦原の中国を照す大神ありこれ即ち天照大神で大神は葦

【十八表】
原の中国の一角に当って怪しきものあるを発見し天の鈿女の命に詔して往きて問はしめ給ふに、怪しきもの答へて曰く「我は国神で名は猿田彦といひ天神の御子天降りたまふにより御前に仕へ奉らんとお待ち申してゐるのである」といふ
意味の一節があり、多分之によったもので一面猿田彦の命は天孫の御案内役を仕った命であるからこの山車行列の案内として先頭に立つことゝなってゐるのであらうとも解釈せられる、又この山車を別名市山車といわれだしたのはずっと以前のことで社司中川左門氏に市子さんといふ容貌の頗る美しい娘さんがあって、祭典毎に八幡社で神楽を舞ったので城下及び近郷の住民にもてはやされ「神楽を舞ふ」こと

【十八裏】
を通称「市を舞ふ」といわれるやうになり、神前ばかりでなく神楽山車にさへこの名称が用ひられるに至ったのであるといふ。

大黒山車
【挿絵】

昭和十七年八月一日 大東亜戦争勃発し
昭和二十七(十)年八月十五日 終戦の勅語下る(敗戦)
昭和二十年七月二十九日払暁(三時頃) 米空軍の空襲により名残惜しや焼失す 其後昭和二十四五年頃新調す

【十九表】
    大黒山車
大黒さんは福の神である。あのいつもにこ〳〵とした顔、誰のためにも振ることを惜しまないといふ様なあんばいで右手に持った宝槌左の肩にした福袋、それは誰しもなつかしみを感ずる福の神の象徴であるが、殊にお祭りうち山車に飾られた大きな大黒さんが大勢の子供達によって引きまはされてゐるのをみると故もなくクリスマスのサンタクロウスと比較して見るなどして何ともいへぬ好い感じを抱(イダ)かせられる。明治の初年神仏混淆のやかましくいはれた時分、一時大黒の槌の更りに剣を持たされたことがある。 それは大黒さんが元来大黒天と称して仏教の守護神である所からで剣を持たせても支障ない理由もあった、詳しく説明すると大黒天は梵

【十九裏】
語で摩訶迦羅(マカカラ)といひ、訳して大黒又は大闇夜(エンヤ)【闇夜(アンヤ)】とし初めは闘戦の神であったが、その後幾多の変遷を経て主福神として崇拝せらるゝに到ったもので、大自在天の化身ともいひ又は堅牢(カンロウ)【堅牢(ケンロウ)】地神の化身であるともいふ。この大黒天が我が国に伝来したのはいつ頃であらうか、年代は確りとは分らぬけれども、恐らくは平安朝の初期において密教と共に渡来したのであらう。而して神仏同体を論せられるに当ってわが国の大国主命の訛伝(ケデン)【訛伝(カデン)】するに至ったのである。
古事記に徴してみても大国主の命(一名大己貴の命)稲羽の気多前に到り給へる時袋を負ひ給へり、とあって大国の音が大黒に通じ大己貴の音亦大黒に近いのでこれを混同したものであらう。

【二十表】
現今日本では七福神の一にかぞへこれを崇拝し、殊に恵比須さんと相並んで戸毎に祀り福徳円満を祈願してゐるがその形像は頭巾を冠り、狩衣及び袴を着けて足下に米俵を踏み槌と袋をもってゐるのが例である。老人の口碑によると昔の大黒山車を引受けた町は一切鼠を殺生せぬといふ。習慣があったさうであるが、それは恐らく古事記に出てゐる大国主命の事跡によって鼠は命の使獣であるとの見解からいひだされたものであらう又以前までは大黒さんの腰が三年に一度づゝぬけるといって魚屋町が大黒山車を引受ける番になって子供がないのと費用に困窮する為に町内に飾っておくだけでよう曳(ヒ)き出さぬのを悪口いったものだが、近年になってからは三輌山車に元気がなうては大垣の名折れになるとて、殊に皆が骨折るやうに

【二十裏】
なった。
百竹の狂詩に面白いのがある。
現れ来る市井作遷【作銭】の神 天井豈に応化の身なからんや、
世間僭窃す君の名字、漫りに称す僧房枕席の人…
…
而して現在囃には笛・太鼓・鐘等を用ひ、その歌には「なたね」「たんだ」「えすえす」「やまと」「大黒」「帰り山車」「おかゞりこぼし」「おわかれ」等があるがその歌詞の完全に伝ってゐることの極めて少いのは遺憾である。

    大黒山車 追加之部

恵比寿軕
【挿絵】

【二十一表】
    恵比須山車
恵比須さんが大黒さんと共に福の神であることはいふまでもない。然し祭りに引出す山車の上で大黒さんは塗りほどこして綺麗な顔をしてござるにも不枹【不拘】、恵比須さんの、はげ〴〵【はげ〳〵】であるのはどうして【どうした】訳であらうか。口碑(コウヒ)によると、両者とも左甚五郎の作で塗師が手を触れやうとすると大黒さんは水を吹き恵比須さんは火を吹くので火を吹いた恵比須さんには恐れをいだいてそのまゝ現在に及んでゐるのだといふが真偽の程はわからない。又この恵比須さんを山車に祀るに就て藩主が摂津へ御祈願の使を出されたといふ古い話が残ってゐるがそれは摂津の広田神社に併置されてゐる夷子神社ではあるまいか広田神社内には夷子神社を祀って宮が二社あって一は西宮

【二十一裏】
といひ別に夷宮又は西宮夷等と称し祭神は蛭子神(ヒルコジン)、一は南の宮又は奥夷の宮といひ祭神は夷三郎と称してゐる中世以降夷子神を福徳の神と称へ諸人に財福を与へ給ふ神として世の尊敬厚くことに商家は何れも大黒神と並びまつるのはどうした由縁(ユエン)であらうか一説に夷子神とは蛭子命である日本書紀に「伊弉諸尊(イザナキノミコト)【伊弉諾尊(イザナギノミコト)】伊弉冊(イザナキミノ)【伊弉冊(イザナミノ)】尊夫婦となり蛭児生る、既に三才になるといへども脚(アシ)、猶立たず、故にこれを天の磐橡樟(イハクイネ)船【磐櫲樟船(イハクスフネ)】に載せ風にまかせて放棄す」とあり此船が西宮の社下蛭子浦に止りこの浦に謫居(テキキョ)【謫居(タクキョ)】して漁夫となり、里人は尊を夷三郎と呼びその何処か常人と異【異なり】貴品【気品】福徳あるを慕って尊没後神として祠に祀ったので祭神を夷子三郎といふのであるとか。又一説に福神としての恵比須は大国主尊の子

【二十二表】
事代主命であって尊は出雲の国三穂崎に遊び日々海浜に出で釣魚を楽しみにしておられた大国主命及事代主尊は日本最初の国神で福徳の神であるから一は大国といひ一は恵比須と称して諸人これを祭り、福徳神とするのであらうと。蓋し藩主が神楽山車にこの二福神を加へたのは城下の市民に対してその服従を迫ると同時に庶民の福利を増進する善政を敷くの意を遇したものであらう「ゑびす」は「ゑみす」に通じ容顔莞爾(カンジ)として常に笑をふくんでゐるの意である。といって次の様な詩を賦してゐる。
「両脚伸びす三歳の童、孤島に謫居して漁翁となる、釣って紅 (コウソウ)【紅鬃(コウソウ)】を得てより、誤って落つ市喧塵綱【塵網】の中」「僅かに竹竿並びに竹籃を得て、皇宮を遁れ去り釣真【釣魚】に耽(フケ)る嘗て

【二十二裏】
攪乱(カクラン)せず蒼生の意、風致誰か知らん瞿曇(グドン)に勝るを……」山上容顔寛爾(カンジ)【莞爾(カンジ)】たる一翁は左手に紅い鯛をかゝへ右手に釣竿を持ち岩の前に腰かけてゐる。囃には笛、太鼓、鐘等を用ひ、歌には「松づくし」「花づくし」「水づくし」「伊勢まいり」「車かへし」「岡崎」「道行き」等がある。

【挿絵】
相生山車
   本町

【二十三表】
    相生山車  本町
本町山車は謡曲「高砂」を用ひてあるので一名「相生山車」ともいふ高砂は古今集の序(ジョ)に「高砂住の江の松も相生のやうに覚え」とあるのに基いて、高砂住吉の松の精が現れ、松の謂(ユワ)れを述べ、和歌の道を語り、遂に住吉明神出現して神人和合し、君を祝ひ、国を祝ふ目出度い祝言の曲である。山上には三層の勾欄(コウラン)を設けて、第一層には幔亭(マンテイ)があり正面に樹の老松が象徴的に装置されてその樹の下には翁媼(オウ〳〵)が箕箒(キシュ)【箕箒(キシウ)】を持って立ち第二層には唐冠(トウカン)束帯(ソクタイ)して笏(シャク)を持した住吉大神が起舞し第三層には鳥帽(チョウボウ)【烏帽(ウボウ)】緑袍(リョクホウ)の阿蘇(アソ)の祝官友成があり、祝官は即ち変じて一楼船となり、帆を張って上下し波濤の状

【二十三裏】
をする仕掛けになってゐる即ち始めは
「今を始めの旅衣〳〵日もゆくすえぞ久しき。そも〳〵是れは九州肥後の国阿蘇アソの宮の神主友成とは我がことなり我末だ《我未だ》都を見ず思ふほどに、この度おもひたち都に上り候、又よき次なれば播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候」……
と友成が九州からはるばると播州へやって来た所である。而して摂津の国住吉の老翁と、播州高砂の老媼からなってゐるといふ不思議な夫婦に会い色々の物語りをしてゐる中に時が来て老翁が海人(アマ)の小舟で住吉へ替える所を祝官を楼船に変ぜしめて現はしたもので、
「高砂や此浦船に帆をあげて〳〵、月もろともに出でしをの波の淡路アワジの島陰や」……と歌ふ謡曲につれて山上に揺れ

【二十四表】
動く楼船の微妙(ビメウ)な感じはなんともいへぬよいものである。百竹の詩にも「整(トヽノ)ひ成す烏帽(エボウ)【烏帽(ウボウ)】緑藍(リョククヮン)【緑藍(リョクラン)】の衫(キン)【衫(サン)】、晋笏(シンコツ)容顔自ら凡(ボン)ならす何物の仙官ぞ腹(ハラ)海(ウミ)の如し、浮び来る楼艦忽ちに帆を張る」「一片の蒲帆(ボハン)両客艘(リョウキャクソウ)、月光州影蓬窓(ホウソウ)に入る、遙々(ヨウ〳〵)海路須臾(スユ)の事風は春潮を趁(オ)ふて墨江に到る」。此の山車の水引は蜀江錦(ショクコウキン)に西園雅集(セイエンガシウ)の図を刺繍(シシュウ)したもので其構図は古京都の公卿(クゲ)九条家に伝はる有名な屏風から得た精巧なもので、幕には紅羅紗に十二支を繍したのを用ひ、見送りは「高砂」にかたどって老松(ロウショウ)に翁媼一人を織り出し其技術においてその色彩において十ヶ町中最も優れたものといはれてゐる。

【二十四裏】

旭山車 中町
【挿絵】

【二十五表】
    旭山車又は布袋山車  中町
中町山車は「布袋山車」又は「旭山車」といひ古来謡曲「加茂」によった山車として謡ひの声のよいことゝともに山車の設備も可なり立派なものであったが三十四年《二十四年》の濃尾の大地震の折に焼失してその後町内一致共力してその再調に腐心し   《明治卅五》年漸くその塗りを完備したのであるから、その用材に於て細工に於て、其他一般他に勝るといふところのないことは止むを得ないことで車上《軕上》には三層の勾欄を設け、第一層には加茂明神、室明神の神職、神女侍女等を飾ってゐるが老人の話によるともとまではこんな飾りではなかったといふ百竹の詩にも「弥勒(ミロク)今(イマ)布嚢(フノウ)に生れ、禅房を出で得(エ)で【得(エ)て】

【二十五裏】
胡床(コセウ)に踞(キョ)す風狂(フウキョウ)亦復(マタマタ)何事をか成す、只これ嬰児(エイジ)百戯場(ギジョウ)とあって第二層には唐服の女子が扇を握って榻(トス)【榻(トウ)】に登り身をさかさまにして峙立(ジリツ)し或は戯れ、或は舞ひ、第三層には紅装束の少女が頭に金扇を載き《戴き》しば〳〵舞ふて宛転しその様は非常に一般から興がられたといふ。一体布袋さんは七福神の一つであることは勿論であるが布袋和尚は支那梁代(レウダイ)の散聖(サンセイ)で弥勒(ミロク)の化身であり、十六の群童之に付随するといふ故事から、前記の戯児を持って来たもので、祭りが一の散事である所から散聖を奉安した布袋山車は十輌の山車中主き【重き】をなして第二位を占めたのであらう。然し明治維新当時神仏混滑《混淆》が宜しくとがめらるゝやうになったので一時僧形である布袋を廃して玉串榊その後なほ布袋に随ってゐた童子も亦加茂明神及び随臣祝官

【二十六表】
に改作し名を旭山車と改めたもので之を歌った狂詩に面白いのがある、「教主何の心ぞ兜率(カソツ)【兜率(トソツ)】に回(カヘ)りて僅かに留む遊戯(ユウギ)の両嬌児(リョウキョウジ)恨殺(コンサツ)す膨淳(ボウコウ)【膨脝(ボウコウ)】一皮袋、充(ミ)たす今世(コンセイ)ほとんど寒飢(カンキ)す」…かくの如く一時布袋を廃して旭山車としたものゝこれではこの山車の生命がないといふ所から以前の如く布袋を危亭に安置することゝなって現在に及んだのである山車創建以来本町山車と並び称せられた中町山車の水引…蛮錦に桃源(トウゲン)図を繍ったもの…を始めをして、黒羅紗に怪巌蹲虎の図を刺繍した見送り、後山車に厳然と峙立の形にあった竜頭の彫刻等は頗る見事なものであったが三十四年《二十四年》の大火災に焼失したのは惜しいことで現在之に模して総てを飾りつゝあるが軽薄な感じが与へないので同町内では山車の塗りを終ると同時にこの方面

【二十六裏】
にも着手せねばならぬといはれてゐる。

天神山車 新町
【挿絵】

【二十七表】
    天神山車  新町
嵐の山の花ざかり、竜頭蠲首【鷁首】の船に乗り、詩歌、管絃の宴たけなはなり、と太平記にもあるが、京における公卿殿上人の専用の如くにして、諸大名さへ遠慮して餘り使はなかった竜頭の宴船を山車に模した新町の小船山車は大垣の祭りに於ける一の誇りであった小船山車とはいへ、船首(トモ)から船尾(ヘサキ)まで約五間の長さを有し、名工の手になる竜頭厳めしく船首に飾られ、舞台があり屋形があり、勾欄が設けられ、紅羅紗の幕には蝦蟇(ガマ)、鉄拐(テッカイ)両仙人を刺繍し、その中に垂れ下る縦二尺、横九尺の水引には梁川星巌が蝦蟇仙人を賦した「宝鏡新たに開

【二十七裏】
いて丹桂(タンケイ)香(カン)ばし、蝦蟇意を得て正に跳梁し一条の霊気天地を串き散じて金華万道の光となる…」の詩及び鉄拐仙人を賦したところの「般精(ハンセイ)運気(ウンキ)化(カ)して神となる身外身あり千億(オク)の身、鉄拐の木瓢(モクヘウ)皆(スベ)て幼用【幻相】にして知らず孰れか是れ本来の真」… といふ二つの詩を隷書(レイショ)で書き、見送りには雌雄二匹の麝香猫(ジャコウネコ)を織り出し目は宝玉を用ひて色彩華麗に、飾弓彩旗等華々しく立て並べられ三つの車輪を用ひて曳(ヒ)き歩く度毎に船が浪に漂ふ如く揺(ユ)れ動くも面白く、浄瑠璃によって種々なる舞踊が演ぜられたもので、百竹は
雲白く風は薫りて霽色開く、四街混コン々として黄塵漲る、
木蘭船上西施出で匹似す呉王ゴオウの暑を避けて来たるに…

【二十八表】
と歌ってその舞台に舞い出た舞妓の美を設き【説き】、又
楼船を製造ツクるの様又奇にして、蝦蟇鉄拐を紅惟【紅帷】に繍子【繍ふ】、
市人ただ〳〵形容の美を説き、梁翁二首の詩を道エ【道イ】はず…
とて其船山車の奇観を賞讃してゐる、然し、かく賞讃された小船山車も明治二十四年の大地震及火災にかゝって烏有(ウユウ)に期(キ)【帰(キ)】してからは其の影だに見る由なく、現今は菅原山車と称し、同町の氏神が天神さんである所から第一層には同社の御霊を祀り、第二層には唐人(トウジン)一人、第三層には採振(サイフリ)【采振(ザイフリ)】を装置し、第二層の唐子は手習の意味で文字を書く芸当をして観衆を慰めてゐる。水引は白地に龍の天上する図で戸田氏貞氏の下絵なるもの幕には紅羅紗を用ひ、見送りは大橋翠石氏の墨絵になる虎であるが、町内の一部には山車の名に因(チナ)んで有

【二十八表】
名な菅原道真公の歌である『東(ア)《東(コ)》風(チ)吹(フ)かば香(ニホヒ)よ《香お》こせよ梅の花主(アルジ)なきとも《なしとも》春を忘れな《春な忘れそ》』に改めれば興味深いものになるといふ者もあるが面白い意見である。

鯰山車
  魚屋町
【挿絵】

【二十九表】
    鯰山車  魚屋町
「大垣祭りに奇抜なるものが二つある。一は魚屋の鯰山車に一は竹島の朝鮮山車」と旧藩時代から市民を始め近郷近在の人々にもてはやされた鯰山車は山上《軕上》 層【一層】の勾欄を設けて中に幔亭を置き、前に大きな板床を出し床上一人の老翁が金色燦然たる大瓢を両手に振りかざし「ハアーハアー押へたかチガタカチン」といふ面白い囃しに連れて目前の鯰を押へるのに腐心する仕組みになってゐてまことに奇抜なものに相違ない、聞く所によればこの鯰を押へんと努力する老人(一名道外坊)は彼の北条時頼に用ひられて引衆《引付衆》となった剛直清簾《清廉》の聞へ

【二十九裏】
高い青砥(アホト)藤綱(アヂツナ)【藤綱(フヂツナ)】をかたどったもので時勢の変遷と共に従来の如く重箱主義のやり方から脱して臨機応変たらんことを遇意【寓意】し暗に因習的な藩庁の役人を嘲弄(チョウロウ)したのであるといふが、実際当時魚屋町の魚商人が如何に覇気(ハキ)があったがしのばれて痛快である、又祭典における届けにおいても、他の町内が各夫々謡曲の題名や、院曲の題を几帳面(キチョウメン)に届け出でるに引かへ魚屋町はたゞ
(町は御代も豊かに親父オヤジ鯰を押へ申し候。魚屋町年行事。寺社奉行御中。)
と破格な届を年々経続《継続》して知らぬ顔をしてゐたものだそうな、水引には蛮錦に有虞十二章(日、月、星、山、龍、雉(キジ)、虎、藻、火、粉、米、斧(オノ)等つ【)】を刺繍したのを用ひ、幕には紅羅

【三十表】
紗に水雲双竜を繍ひ、見送りは白羅紗に金幣を刺繍したもので、現在使用してゐる見送りは「明治二十年頃金森吉次郎氏の寄進になる物であるといふ。」 百竹は「魚を打つに何ぞ必ず精神を損せん、撚断す霜髭自ら養真、只酒瓢を愛することよく絶大にして、風流甚だ似たり直釣《直鉤》の人……と誦(ヨ)み、或ひは、此叟何ぞ曽て許由に学ぶ紅巾翠袴風流を儘(マヽ)にす、安危を抛却して瓢を取って去り、未だ功名を釣らずして已に白頭……と歌って鯰山車の老翁を直鉤を垂れた太公望や堯帝のお召しに耳を洗った許由等の聖人に比較してゐるが、又説には老翁は鹿島神社の祭神である武甕槌(タケミカツチ)の命であるともいはれてゐて、何れ為政家と解釈して見る方が正しかろう、而してこの山車の玩具がこの地方に

【三十裏】
おいてのみ五月祭りの当時行はれることは人のよく知る通りである。

   竹島町
榊山車
【挿絵】

【三十一表】
    榊山車以前朝鮮山車
            竹島町(上)
現在竹島は榊山車であるが、これは明治 年【二年】新造されたものである。もとまでは朝鮮山車で、之が何れ程大垣の誇りであったらうか。焰魔(エンマ)大王の様な大将官の冠、悪鬼の様な「ゴッカ」の顔、賑やかの彼の囃、勇しいあの行列、懐(オモ)ひ起すだに血湧き肉躍るの感がある古老達は語ってゐる。
抑もこれは今を去る百有餘年前朝鮮国王から幕府への使者の道中の行列に模したもので、現今同町に在住する大黒屋の祖先が自らその行列に加はり、衣装万端から打囃しまでも研究調査を遂げて

【三十一裏】
帰町し、以来祭礼毎にこの行列を組織した山車を引き出すこゝと【ことゝ】なったので、その行列は先づ、先頭に「清道」の二字を大書した二旒の幟を立て、次に割竹二人、大笛一人《大笛二人》、中笛二人、羯鼓一人、大太鼓二人、小太鼓二人、小笛二人、胡弓二人《胡弓一人》打続き次に朝鮮国使に準へたる大将冠は万事朝鮮風に仕組まれたる山車の上に座し竜を描いた大旛をがざし、手には軍配扇をもって威風凛然(リンゼン)と構へこの山車際には稚児髷に結(ユ)って軍扇を持った小姓が三人付随して殿りをしてゐる。尚山車の末払として跟従(コジュウ)【跟従(コンジュウ)】する恐ろしい仮面を被った「ゴッカ」が蕨の杖を打振り打振り立寄る子供を追ひ散らし、子供達亦之に砂礫(シャレキ)を投じて「ゴッカ」〳〵と

【三十二表】
騒ぎまはるのであった、以上の行列は何れも揃ひの艶麗なる朝鮮服に木綿の靴を穿(ウガ)ち、且つ行列に連なる一人毎に笠鋒をさしかけると床几(セウギ)を持ちたる二人のお供が随従することであるから行列は蜒蜿(エン〳〵)として長蛇の如く、而かも朝鮮式の囃は「干」「中干」及び「ながちゃう」の三に分れて極めて勇壮活発なものであった。

    竹島町(下)

朝鮮山車は一名唐人行列、或は朝鮮王山車、朝鮮人山車などゝいひ、その行列は頗る盛なものであったらしい。百竹もその行列を称して、

【三十二裏】
鑾車𨌑被【輾破】す九街ガ【街ガイ】の塵ジン、千古の衣冠イカン日に映じて新なり、笙鼓セウコ都て成す太平の象ショウ、誰か知らん支那人を来聘ライヘイせんとは……
と支那人に擬し
羯鼓カッコ鶯黄ならびに鳳笙ホウセウ、一斉に吹き過ぐ錦衣郎、何人か比例する当年のこと、呼びなす玄宗洛陽に帰る…
と歌って玄宗皇帝帰洛の盛況にに準(ナゾラ)へ、
大唐王帝満清旗、伍列三韓伶士の姿、童衣ドウギ【童衣ドウイ】上下訳司ヤクシに似たり、恍として見る豊公盛時の時……と豊臣
秀吉全盛当時の来朝使を思ひ浮べるなどしてゐるが、この華美を極めて《極めた》朝鮮山車も明治維新になって遂に廃止せらるゝことゝなり。其かはりに榊山車を造ったのである

【三十三表】
榊山車は車上三層の勾欄を設けて、第一層に幔亭(マンテイ)をおき中に白幣を立て第二層には天鈿女の命第三層には祝官を飾附け、曲藝には神楽を用ひてゐる水引には雲錦を用ひ、幕は紅羅紗で、見送りには洋絹に王仁(ワニ)の像を写し、その上に「なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまをはるべとさくやこのはな」の和歌を書いてゐる。而してこの見送りの下絵は江馬源齢《元齢》であるといひ、水引の上に彫刻されてゐる十二支は伝馬町に在住してゐた彫師馬山の作で可なり精巧なものであるといふ。
唐人を把って神木に換へてより、山棚サンボウ地ヂ【地チ】を抜いて屋よりも高し、帷繍漫【謾】に署ショすこの花の歌、誤って王仁ワニの図一幅を作る……

【三十三裏】

浦島山車 俵町
【挿絵】

【三十四表】
    浦島山車  俵町
「明てたに何にかはせん水の江の浦島か子を思ひやりつゝ」といふ小歌がある。私は今この歌を思ひながら彼の、華麗な装飾に富んだ俵町の浦島山車をまのあたりに浮かべてゐる。
浦島山車は謡曲「浦島」によってこしらへられたもので現在は幾分俗化した傾向があるが第一層の危亭に浦島太郎を置き、第二層に乙姫、第三層に竜神而して竜神が珊瑚の樹を持し歌曲につれて舞ひ出す頃の古の仕組みは、何ともいへぬ優雅なものであった。然し此古いしきたりもいつしか廃れて現在竜神と竜女とは第二層に静置せられ、第三層には

【三十四裏】
竜神竜女をかたどった唐子があり
九重出づる旅衣、〳〵、八重の汐路に急がん……
と謡ひ出る頃から色々のしぐさをなして観衆の目を楽ませ
……竜神みぎはの浪に座して、折柄を守護し、又は神風に雲霧を払ってあたりも輝く玉の手籍《手箱》を、彼の旅人の稀なる故に、夢中に顕はしみせ給ふ、夢ばし覚ますな客人よ、夢ばし覚ますな客人よ、
夜はまだ開けじ玉手箱、早くも治る君が代の、勅使を慰めの夜遊ぞかし、海竜王も心せよ、今この君の御政徳、猶も客人に奇特を見せんと、木綿四手の神心、竜神も心を一つに成相の、松風も吹きよせよ、さす汐もよせよと、互による潮の上に蓬莱山を浮べ浮ぶれば、草木もゆるぎ

【三十五表】
合ひ五色の亀も、いさみ〳〵て……
といふあたり、玉手箱を脊にした、亀は恍然と山上《軕上》の波濤に浮び出で、右往左往する中に玉手箱はぱっと開いて中よりは珊瑚その他の宝が出で、尚餘興として亀が口中から観衆にピンポンを吐投げる様になったが、これは餘り俗な趣味であると思ふ。此山車は水引に紺色の文錦を用ひ構図は正面が対ひ竜両側が貝づくしで尚特に短い水引様のものに波浪を描いたのをその上に設け幕には紅羅紗に六波濤《大波濤》を縫ひ、見送りはなしで、浦島の脊の虎の皮及びその後に立てられてゐる彩旗が其のかはりをしてゐる。一説に見送りを殿様の御上覧の場所で落したからないのだとか、その見送りが松濤寺へ打敷に直して寄進してあるとか云はれてゐて

【三十五裏】
私も或程度まで信じてゐたが調査の結果それはどうやら否定されるらしい。元来この山車は頗る風変りに出来てゐて屋形といひ、勾欄といひ塗といひ総て他の山車に追従してゐないところを見ると、見送りも始めから着けなかったものだといふ同町内年寄り連の説も首肯される。
未だ知らず俗諺これ琉球と、握手歓生満眼マンガン想【愁】ふ、一時信ぜず開筐の戒め、忽ち紅顔をして白頭に変ぜしむ…
釣魚の船を浮べて帰らず、恰も漁父と同じく桃源に入る花紅酒碧春海の如し、隔絶【隔断】す家郷七世の孫……。

玉の井山車 船町
【挿絵】

【三十六表】
    玉の井山車  船町
船町の山車は今は優美な踊り山車として有名であるが最初は石曳山車といって極めて野卑なものであったさうな、
それは昔大垣城が築かるゝ際、石材を運搬するに人夫の勢をつけるために使はれた馬鹿囃子をそのまゝ山車に応用したのだといふ。その後氏教公時代行はれた各町内の山車新造に際し、船町も謡曲「玉井」により彦火々出〓命(ヒコホコデミノミコト)【彦火々出見命(ヒコホヽデミノミコト)】が御兄火闌降命(ホノスソリノミコト)の釣針を魚にとられこれを求めんとして、竜宮に至り、豊玉姫(トヨタマヒメ)を娶(アト)【娶(メト)】って失った釣及び潮干(シホヒ)の宝玉を得て帰るの様を擬して、尊の塑像を始め竜神、豊玉姫、玉依姫、天女等を飾り
潮満シホミチ潮干シホヒ二つの玉を〳〵釣針に取り添へ捧げ申し舞

【三十六裏】
楽を奏し豊姫玉依、神【袖】を返して舞ひ給ふ
と山上《軕上》の女性が舞ひ出づるのは次の言葉の
いづれも妙ヒヘ【妙タヘ】なる舞ふ神【舞の袖】。〳〵、玉のかんざし柱【桂】の黛ホユズミ【黛マユズミ】も照り添ふ花の姿雪を廻らす袂かな…
のやうに、いと風雅なものであった竜神山車ともいはれてゐた。然し文化四年の大洪水に、山車附属の人形楽器等を流失し、独り彦火々出見の命の像のみ残すに到ってからは今までの装置を変更して舞台を設け、尊を第一層の危亭内に静置し謡曲の変りに浄瑠璃を用ひあどけない少女をして舞踊を演ぜしめるに到ったもので百竹は成年の祭りの藝題に対し左の如く歌ってゐる。
皇孫何の意ぞ蛇神を聘【娉】す今日音容亦真を写す、甲

【三十七表】
媛嬌顔《嬌歌》し乙姫舞ふ、一時瞞殺す満街の人……
三絃弾出す一歌たくみなり、京華院曲の中より来り、四万八千経巻のみ、野人満口円通を説く――
而して水引には邯鄲(カンタン)の交織繍【文織繍】を用ひ幕は紅羅紗で見送は竜神を繡刺したものであるといふ、なほ危亭の脊後には槍旗と玉旗とを立て此山車の彫刻その他頗るこったもので舞台の脊景には金の唐紙に三階松を描いてゐる。

【三十七裏】

辨天山車 伝馬町
【挿絵】

【三十八表】
    辨天山車  伝馬町
伝馬町は松竹山車又は辨天山車といってもとは謡曲「竹生島」によってつくられたもので車上三層の勾欄を設け第一層には幔亭を置き中に天女(辨財天)の尊像を安置し、第二層には仕女第三層には祝官が白幣を持って楽に応じて舞ふ仕掛になってゐて水引は蛮錦に杏村の近江八景を縫ひ、房は撚糸にて組み上げ、金物は金の「スリハガシ」で頗る優美なもの、幕には紅羅紗、見送りは蜀錦繍を用ひ殊に水引はこの山車を造る頃同年の年寄塩屋某が大奥様から金欄【金襴】の帯を拝領したが餘りに結構な品であるから私しするも勿体ないと山車の水引に寄附したが普通の山車としては少し短かゝったので、山を縮めたといふ由緒あるもの、

【三十八裏】
故にこの山車は細長くて恰好甚だ不均衡であると称へられてゐる。然し山車の飾附から水引、見送りの模様に到るまでよく統一されたもので百竹の詩に曰く。
淡海タンカイの仙区世上に知らる貪り聴く絃宗ゲンソウ意イ将マサに馳せんとす、街頭用ひず方舟の梶カジ、併せて得たり妙音天女の姿
……又曰く
他車の猩幕シウマク【猩幕セウマク】に同じからず繍ひ来る絶景倩人を縫ふ瀬田の夕照石山の月、八走バシ【走バセ】の帰帆三井の鐘……
其後明治維新になって一時天女及び仕女の塑像を廃し、更(カ)ゆるに神鐘【神鏡】司索命巫女等を以てし近時又天女(辨財天)に復旧し前山車の御幣振りが兎(ウサギ)の餅つきに変ぜしめらるゝに至ったのである。

【三十九表】
          伝馬町

【三十九裏】

愛宕山車
    岐阜町
【挿絵】

【四十表】
    愛宕山車  岐阜町
岐阜町はもと伝馬町に属してゐて一個の独立した町ではなかったが、山車は同町の豪家藤島某が自分の趣味から私財を抛って造ったもので、一名藤島山車ともいひ頗る善美を極め中町の布袋山車と並び称されてゐたが、布袋山車が地震で焼失してからは独り岐阜町のみ優美を称せらるゝに至ったのである。
一路黄風【薫風】彩旗を吹く朱欄屈曲して丹塀タンチ《丹墀タンチ》に比す、繁弦急管忽然として起る恰もこれ皇軍奉凱《奏凱》の時……
と歌はれてゐる様に、この愛宕山車は謡曲弓八幡によって神功皇后の三韓征伐後をあらはしたもので、車上三層の勾

【四十裏】
欄を設け第一層には危亭を置き中に神功皇后の塑像を安置し、第二層には武内宿弥【武内宿禰】、第三層には蜑女(アマ)あり、亭後には二流の彩旗並び立てられ、弓八幡の謡曲がゆるやかに謡ひ始められると同時に蜑女は立って踊り、謡ひ半過ぎれば武内宿弥【武内宿禰】の舞ひになるのである、武内宿弥【武内宿禰】の像はもとは皇子を抱いてゐたそうであるがいつの頃から廃せられてしまった。
三百餘齢ヨレイ補佐の臣姓名赫々として古今に薫る、一たび海潮の乾満を測ってより、収捨【収拾】す鶏林八道の雲……
水引は蜀錦に群鳩を描き、その画工は杏村であったが杏村は一度名古屋の建長寺に遊んで鳩の遊べるを見て岐阜町山車のために自分が描いた鳩の形に相違あるを発見し、後から書足しを《をヲトル》たので、鳩に班色があるといひ伝へられてゐる、又見送りは白羅

【四十一表】
紗に仙客竜に乗って玉児を抱(イダ)くの図を縫ひ、之又杏村の下絵で、この山車の両袖にその賛がある、
何知忽遇非常用 不把分誠独登夫 好蔵莫便令人見 恐有痴人似末顛
尚車上の神功皇后を歌った百竹の詩がある。
装束ソウゾク繊腰センヨウ忽ち男に化す、
英威美麗また能く兼ね錦帆波濤を衝き破り去り、
一柳眉幾虎髯を擒トリコにす……。

【四十一裏】

【挿絵】
猩々山車
    宮町

【四十二表】
    猩々山車  宮町
江風陣々として月妍妍たり、吹き起る笛声蘆萩のあたり酔舞酣顔飽アくを知らず、海中の仙酒中の仙を学ぶ……
と百竹は歌った、げに宮町の山車は猩々を以て有名である山車は猩々を以て有名である《山車は猩々を以て有名であるヲ削ル》山車が小さくて後山車がなく、一名重箱山車の譏があるとはいへその技藝は他の山車の何れにもおとらないであらうと旧藩時代には盛に謳歌されたそうな、現今では立派に後山車もつき車上に幔亭を置きその前に大板床を突出し、その上に大酒壱《壷》を置き、猩々はしばしば舞ひ、しば〳〵歩んで壱《壷》の傍に到り酒を口にし鯨飲

【四十二裏】
して紅顔に変じ続いて壱《壷》は壊れて牡丹となり猩々は変じて獅子となり、獅子は咲き誇る牡丹に戯れあたりを狂舞しまはる仕掛になってゐてもとまでは謡曲を使ってゐたやうであるが現今は歌曲のみで、楽器も以前は三味線も入ったそうだが、現に使用しつゝあるものは鐘、太鼓、笛等である、
水引は弘化三年《四年》森寿彦の下絵になる扇面四君子の縫ひ潰しで紅羅紗、見送りには黄羅紗に白沢怪を避くるの図を繍ったのを用ひその上に「五言古風短篇」と題して
黄帝コウテイ東巡の国、白沢克く玄論、賢君俊徳を明らかにし、天祥子孫に降る……
の文字が繍ってある、白沢とは黄帝内伝にいふ神獣の名である。

【四十三表】
壷は牡丹に変じ、猩々は獅子に変ず一時の遊戯充分なり、年に枉費する機関の線只郭鮑老に知チあり……。
なほ此山車の両袖に彫刻してある千匹猿は頗る傑出したものである。

【四十三裏】
              軕の画 川地寿山氏
昭和二十八年十月吉日複写す 自筆  小森嘉兵衛
大垣まつり(完)
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