時差!! ◆z9JH9su20Q
“イカロスのマスター”、
桜井智樹であるということを
鏑木・T・虎徹に確認された後。
彼から聞かされたイカロスのあまりに信じ難い所業を、智樹は驚きのままオウム返ししていた。
そんな馬鹿な。確かにイカロスは非常識な未確認生物だが、その本質はスイカを可愛がったりヒヨコを買って育てたりすることを好む、心優しい女の子だ。
たとえ出自がどうであれ、そんなイカロスが、大切な仲間であるニンフを殺そうとするなんて、あるはずがない――そう思った智樹に、さらに驚愕すべき情報が伝えられる。
「最初に会った時は、殺し合いに乗るのがマスターの命令だって言って、いきなり俺を攻撃してきたんだがな」
「俺の……命令っ!?」
自らのスーツの陥没痕を見下ろす虎徹の言動に、智樹は目眩すら覚える衝撃に見舞われる。
虎徹の言っていることにあまりにも突拍子がなさ過ぎて、脳の理解が追いついていないのだ。
智樹ほどではなくとも、虎徹の言葉はその場にいた他の三人にも、同じく動揺を与えている様子だった。
「待ってください。桜井君はそんな人じゃ――っ!」
「そいつはわかってるよ」
ニンフから聞いた、と虎徹は智樹を庇おうとしたマミを制する。
「だからあの子は、騙されていたんだ。ジェイクみたいな、悪意を持った誰かに。俺を襲ったすぐ後、ニンフがあの子に、それをちゃんと気づかせたんだ」
良かった、とは誰も胸を撫で下ろさない。
虎徹が口にしたイカロスの凶行について、未だ詳細が語られていないからだ。
案の定。虎徹の口から「なのに」という語句が続けられる。
「あの子は――イカロスは、そのニンフを『偽物』だと思っちまったんだ」
「――――は?」
間の抜けた声は、誰の物だっただろうか。
「何でもイカロスの記憶の中じゃ、ニンフにゃ羽が生えてなかったらしい」
エンジェロイドと直接の面識を持たないマミ達三人が虎徹の言葉の意味を図りかねている中、当然というべきか、智樹だけはそれを正しく解していた。
「……どういうことだよ」
だというのに、だからこそか。自分でも、声が震えていることが智樹にはわかった。
「それはもう、昔の話じゃないか! あいつは、ニンフはっ、毟られた羽が生えたってあんなに喜んでいたのに……イカロスだって知ってるはずだろ!?」
「ニンフだってそう言ってたさ。でもイカロスのメモリーなんちゃらがどうのって、ともかくイカロスの記憶の中と目の前のニンフが違ってたのを、自分を騙したマスターと同じ『偽物』だと決め付けて攻撃しちまったんだそうだ」
その後のことはわからない、と口にしている本人も、まるで納得した様子ではない。又聞きとなった智樹は尚更だ。こちらの様子を伺った虎徹は、そこで小さく頭を下げた。
「すまない。俺が最初にあの子と会った時に、止めていられりゃ良かったんだ。あの子を、マスターに言われたからって何でも従ってるんじゃねぇって突き放していなけりゃ……」
謝罪をされたが、虎徹に何の落ち度もないことは智樹とてわかっている。だが、それでもどうしてそんなことになってしまったのかと思わずにはいられない。
そはらが、
アストレアが、ニンフが、そして、イカロスが。かけがえのない日常を織り成す大切な彼女達が、同じく日常への帰還のためにひたすら苦難に立ち向かっていた中、怠惰にエロ本を読み耽っていた己への罰なのかと、自責の念が重さを増して来る。
皆が苦しみ、悩み、戦っている中。自分は呑気に、何をやっていたのか……っ!
「おっさんのせいじゃ……ねぇよ」
重苦に苛まれる中、ようやくそれだけの言葉を絞り出した智樹の肩に、ふと柔らかい掌が添えられた。
「あなたのせいでも、ないわよ」
まるで心の内を見透かしたかのようなタイミングで、そんな言葉をかけてくれたのはマミだった。
あるいは誰からでも見て取れるほど、智樹の疲弊した精神は外面に現れていたのかもしれない。
そして――折角言葉をかけて貰ったというのに、智樹は何も彼女に言えなかった。
それはあるいは、イカロス達の現状が、本当に智樹のせいではなかったとしても。
相手があの、智樹自身殺したいと願った吐き気を催す下種だったとしても。命を結ぶために魔法少女になり、本当はジェイクさえも殺さずに場を収めようとしたこの優しい少女の手をたった今汚させたのが、言い逃れのしようもなく智樹のせいだったからかもしれない。
たとえどんなことであれ、それが事実だとしても。「俺のせいじゃないよな」なんて、マミに対してだけは言ってはならないのではないかと、智樹はそう感じていたのだ。
「時間軸のズレ――か」
気まずい静寂が続いた後。そんな重苦しい雰囲気を変えるためか、智樹と虎徹の情報交換を聞いていた映司が、そんな単語を口にしていた。
「ああ、ごめん。実は鏑木さんが来る少し前、桜井君が席を外していた間にさ。マミちゃんとまどかちゃんから、そういう話を聞いていたんだ」
何でもマミとまどかの記憶の齟齬から、彼らはあの眼鏡が時間の流れにも干渉できるのではないのかと推測していたらしい。
イカロスの記憶と実物のニンフが異なっていたというのも、おそらくはそのせいなのだろうと。
だから、騙されたばかりだったイカロスが、ニンフを偽物だと思ってしまったのも必然で、智樹の知る誰が悪いというわけでもない。
強いて言うなら――そんなきっかけを用意した、偽物の桜井智樹と、このバトルロワイアルの主催者こそが、憎むべき邪悪なのだ。
「でも――だったらやっぱり、俺達もイカロスちゃんに気をつけた方が良い。特に、桜井君は」
「俺が?」
映司の緊迫感を滲ませた言葉の真意に、智樹はまたも理解が追いつかず、そう素っ頓狂に聞き返すしかなかった。
「イカロスちゃんの知らない、羽の生えたニンフちゃんを知っているということは……桜井君も、イカロスちゃんとは別の時間から連れて来られているということになるよね」
あっ、という声は、二人の少女のもの。対し智樹と虎徹は、未だ映司の言わんとしていることを把握できずにいた。
「だとすると、桜井君もイカロスちゃんから見れば、ニンフちゃんと同じ……偽物だと思われてしまう可能性が高い」
深刻な表情の映司がそこまで告げてくれて、智樹と虎徹もようやく合点が行った。
「俺が……偽物」
「そうか、なまじ偽物の智樹がいるってもう知っているから……クソッ!」
怒涛の衝撃に翻弄されたかのように押し黙る智樹と、その代わりと言わんばかりに理不尽な現状への怒りに吠える虎徹。
「この先イカロスちゃんと合流しても、そのすれ違いをどうにかしないと……きっと大変なことになる。もしもの時は俺が力を貸すから……桜井君は、危険な真似だけはしないで欲しいんだ」
考えの纏まらない智樹は、そんな映司の言葉にも黙ったままだった。
「……とにかくだ。イカロスのことはきちんと伝えたぞ、智樹」
その宣言と共に、虎徹はすっくと巨体を起き上がらせ、衝撃的な言葉を発した。
「――俺はニンフを助けに戻る」
「――っ、ニンフ!?」
弾かれたように顔を起こした智樹と同様、虎徹以外の誰もが、驚愕に染まった表情を見せている。
――ただ一つの例外を、除いて。
「ニンフという参加者は、
ジェイク・マルチネスが殺害したと言っていなかったかい?」
無感情に、ただ事実のみを確認しようとする白い小動物――キュゥべぇの問いかけに、虎徹は鋭く力強い視線で応じる。
「ジェイクの奴は、途中で逃げ出したんだ。確かに人間やNEXTでも死んでるような傷だったから、ジェイクがそう思っても無理はねぇが……ニンフが言っていたんだ。エンジェロイドは、そう簡単に死にはしねぇってな」
「――!」
虎徹の言葉に、智樹も勢いよく立ち上がっていた。
「俺も連れて行ってくれ、おっさん!」
ニンフが生きているかもしれない。そんな話を聞いて、こんなところで落ち込んでじっとしているだけなど智樹には耐えられない。
会いたい。かけがえのない、大切な友達に。
そんな智樹の様子を見て、嬉しそうに口元を歪めた虎徹も、応と小さく頷く。
頷き返した智樹と共に一歩を踏み出そうとした彼を、後ろから引き止める手があった。
「ダメだよ、タイガーさん……! あなたが一番傷だらけなのに……」
「そんなもん、気にしてられっかよ」
「いけません」
まどかの制止を振り切ろうとする虎徹を、今度は正面からマミが邪魔をする。
「気持ちはわかります、ワイルドタイガー。でも鹿目さんの言う通り。今のあなたじゃ、ミイラ取りがミイラになってしまう可能性もあるわ」
「ミイラって……どういう意味だよ!?」
虎徹にそう返されて、ハッとしたようにマミは黙り込む。
その光景がどういう意味なのか、智樹の理解が追いついてしまう一瞬前に――
――それは、突然やって来た。
「!?」
最初に認識できたのは、轟音と共に鉄砲水のように全身を叩いた何かだった。
全身に襲いかかった余りに強いその勢いに、智樹は一瞬たりとも踏み止まることができず吹き飛ばされる。視界が夜の闇ではなく灰色の靄に埋め尽くされたこともあり、上下の感覚を見失って混乱の淵に叩き落とされる。
それから足首や肩に激痛を覚え、それが地面に激突し跳ねていたためだと気づいたのは、転がって勢いが弱まった時だった。
ようやく仰向けに倒れ込む形で止まった智樹は、まず衝撃に息を詰まらせた。次いで巻き起こった粉塵を吸い込んだことで咳き込み、同様に粘膜を刺激されたことで涙と鼻水を零す。
そんな状態から何とか周囲の様子を伺える程度に回復した智樹が面を上げれば、他の四人も程度の差こそあれ、突然の猛威に吹き飛ばされていた。
前触れなく爆撃でも受けたかのようなこの状態に、智樹は心当たりがあった。
(これはまるで……)
彼女達の。
そこまで思い至った智樹が視線を走らせれば、先程五人が密集していた真横の爆心地に、それはいた。
三日月のように歪んだ口元。全裸に近い煤汚れた身体から、直接生えた刃のような翼。
「ごはんだ……」
智樹達から不意に視線を外し、そんなことを口走ったその金髪の少女は、見覚えこそないが見紛う余地もなく――
「エンジェロイド……!」
いや――見覚えが、ない……?
緊迫した声音で呟いてから、ふとした違和感を覚えた智樹だったが、当の少女は答えない。
「あれがイカロスちゃん……っ!?」
「違う。ニンフでもねぇ」
翼の生えた少女、ということで連想したのだろう映司の疑問に虎徹が答えるが、その間も少女はある一点を凝視し続けている。
「何を……見ているの?」
「ごはん……」
マミの問いに答えたわけではないだろうが、再び少女は呟いた。
その視線の先に転がっているのは、智樹達同様に吹き飛ばされたモノ。
力なく四肢を投げ出した――ジェイク・マルチネスの亡骸。
「ごはんごはん……ごはんごはんごはんごはん!」
狂ったようにその単語を繰り返した少女の翼が、息を吐ききったと同時に伸長し――緩く湾曲した軌跡を残して、ジェイクの死体に突き刺さった。
狂気に満ちた行為に目を見張る智樹達を無視して、少女は酷薄な笑みを浮かべる。
「ねぇしってる? 食べることも、愛なんだよ……?」
その言葉を合図に天使の翼が拍動すると、ジェイクの死体が絞んだ。
そこに突き刺さった切っ先が脈打つたびに、さらにジェイクは体積を減らして行く。
「人を……食べてるの……っ!?」
恐怖を孕んだまどかの声に、残りの四人も慄然とした。
なまじ美しい天使の似姿をしているためか。人型のエンジェロイドが、啜るかのように人間を捕食するという光景は、猟奇的でありながらどこか幻想の美を伴っていた。その事実が、それを目にする者により一層の悍ましさを掻き立てる。
ジェイク・マルチネスだったモノが、完全に消失するまでに要した時間はほんの数秒。混乱と畏怖に打たれていた五人が動きを忘れていた間に、少女は大の男一人を見事平らげた。
その姿に、智樹達は新たな違和感を覚える。
初めに見た時よりも、少しだけ彼女が大きくなったような、そんな違和感を。
「私、また大きくなれたの?」
誰が何を言ったわけではないが、彼女はまるで智樹達の心を読んだかのような言葉を、実に嬉しそうに吐いた。
「やったぁ! ねぇしってる? 大きくなるのも愛なんだよ!」
それをはいそうですか、と受け流せる者はこの場にいなかった。
「何なんだよ……何なんだよおまえはっ!?」
忽然と現れた、混沌そのものが具現化したような狂気の天使に、耐え切れなくなった虎徹が叫ぶ。
「私? 私は第二世代エンジェロイドタイプε(イプシロン)・「Chaos(
カオス)」だよ」
そこでふと何か引っかかったように、カオスと名乗ったエンジェロイドは一拍の間を置き――それから行儀良くお辞儀をした。
「よろしくね、おじさん!」
その声の元気の良さと、礼儀正しく頭を下げた様子から――もしかすればイカロスのように、非常識なだけで実は、悪い奴じゃないのではと。
「カオス……おまえがっ!」
エンジェロイド達との付き合いが長い智樹はそんな可能性を見出したが、虎徹の焦燥に駆られた声にその楽観は掻き消される。
「ご存知なんですか?」
「ニンフから聞いた。一番ヤバいエンジェロイドだって……!」
映司に答えながら、慌ててファイティングポーズを虎徹は構える。
智樹も覚えがない名前だったが、一先ずは警戒を解くべきではないと判断して、痛みを圧して立ち上がる。
二人のやり取りに危険性を見出した魔法少女二人もまた、戦闘態勢へと移行し。
それらを見渡したカオスは、嬉しそうに微笑んだ。
「みんな、私に愛をくれるの?」
戦意を持った集団に包囲されたにしては、あまりに不可解なカオスの物言いにまたも智樹達は取り乱される。
「どういう意味、なの……?」
まどかの疑問の発露に、カオスはきょとんとした表情を向けた。
「しらないの、おねぇちゃん? 痛いのが愛なんだよ?」
――痛いのが、愛。
(あれ……これ、って……)
その言葉に、智樹は聞き覚えがあった。
「痛いのが……愛?」
「そっかぁ、しらないんだ。じゃあ……私がおしえてあげる」
旋風。
カオスを中心に生じたそれは、瞬く間に全てを飲み込む竜巻に成長した。
「――みんなに、愛をあげるね」
○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○
「うわぁあああああああああ……って、あれ?」
大自然の猛威に成す術なく巻き上げられた智樹だったが、宙空に投げ出される直前何者かに力強く繋ぎ止められ、引き寄せられていた。
「大丈夫、桜井君!?」
引き寄せられた先にいたのは魔法少女姿のマミ。彼女は黄色のリボンで智樹と自身、さらに竜巻にも動じず就眠に耽るキャッスルドランの首を繋いで、暴風の脅威を凌いでいた。
竜巻の中、一つ一つが恐るべき凶器と化した礫や金属片もマミは光の障壁で遮断し、抱き寄せた智樹と共に安全圏まで離脱する。
「た、助かった……サンキューマミ」
「気にしないで。それに少なくともあなただけは、あのままじゃ間違いなく死んでいたもの」
彼女の視線を追えば、同じくマミのリボンで竜巻から引き抜かれた影が二つ。それを目にしたマミが、苦々しく表情を歪める。
「火野さんは助けられなかった……まだ変身してなかったけれど、オーズの力で切り抜けてくれることを祈るしかないわね」
マミが呟いた直後、巻き上げられていた塵芥に、歪な両翼の影が映った。
「――来るっ!」
呟くや否や、マミはリボンを消失させ、智樹を抱えたままで自由落下を開始した。
「あははははははははは!」
竜巻が消え去る前、力尽くでその壁を突き破ったカオスがその姿を現す。
不可解な言動に躊躇う余地など、もう残されてはいない。彼女は明確な害意を持って、こちらに襲いかかって来ている。
それを迎撃すべくマスケット銃を召喚したマミは落下しつつも弾幕を展開するが、移動する標的を追う速度を緩めぬまま、エンジェロイドは連続する銃弾を容易く躱す。
「鹿目さん!」
「はいっ!」
マミが呼びかける前から、先に着地していたまどかは、既に矢を番えていた。
引き絞られた弓から放たれた光矢は智樹達の脇をすり抜け、回避したカオスの頭上にまで登って行く。
「レガーレ・ヴァスタアリア!」
その瞬間、マミの操る魔法のリボンが、カオスを拘束せんと出現する。
「こいつも喰らっとけ!」
エンジェロイドを戒めるのに、虎徹がジェイクのディパックから確保しておいた支給品、天の鎖(エルキドゥ)を追加する。
それぞれオーズに、またニンフに即破られた程度の縛りでも、重ね合わせをすればカオスの超音速飛行を止めるだけの効力はあった。
絡め取られたカオスは空中に縫い止められ、急な制動に慣性のままその身をがくんと振られながらも、一度は完全に停止する。
「クスクスクス……」
だが、彼女は蜘蛛の巣に掛かった哀れな獲物のような、蹂躙されるだけの弱者ではない。
刃のような翼はさらにその鋭さを増して拘束を脱し踊り、加え無数の鎌鼬が迸る。ほんの一秒程度でリボンも鎖も引き裂かれ、用を為さぬ残骸へと成り果てる。
だが、その隙があれば十分だった。
「――桜井君。耳を塞いでて」
智樹への囁きと同時。再び彼らを追って降下し始めたカオスの目に映ったのは、洞のような大穴。
「ティロ……」
大地に叩きつけられるまでほんの数秒と言ったところで、大砲を召喚したマミは、きっとカオスを睨んでいた。
智樹がマミの忠告を実践した瞬間、まどかが声を張り上げる。
「降りそそげ、天上の矢!」
「――フィナーレ!」
無数の矢はその途方もない密度で点から面と化し、一切の逃げ場を塞いでカオスを叩き落とさんとする。
さらにその矢から身を守る意味でも放たれた膨大な魔力の光が、強力な槌としてカオスを狙い打つ。
二人の魔法少女による上下からの波状攻撃は、確かにエンジェロイドの姿を挟み込み、夜を染める白光で掻き消した――
――はずだった。
「おい……あれはジェイクの……」
着地した智樹とマミを受け止めた虎徹の呆然とした声で、智樹は眩さに瞑っていた瞼を持ち上げる。
「クスクスクス……」
天にあったのは、変わらず健在なカオスの姿。
そして智樹の目に映ったのは彼女の展開した、紫色の障壁だった。
「……バリアじゃねぇかッ!」
「そんな……でも!」
「あれが前方に張られているなら、鹿目さんの矢を防げないはずなのに……」
見ればカオスには、一切の変化がないわけでなかった。
大事なところに申し訳程度の隠しがあっただけだったはずが、いつの間にか赤と黒を基調とした刺々しい甲冑でその手足を覆っていたのだ。
さらによくよく見てみれば。紫色のバリアとは別に、無色の球状の殻がまるでイカロスのイージスのように彼女を包み込み、守護しているではないか。
「あっちのバリアで防がれたの……?」
「もうおしまい?」
クスクスという笑声を漏らすまま、カオスは無邪気に尋ねて来る。
「そっか……じゃあ、こんどは私のばんだね」
誰が何を答えたわけでも、それを推察するだけの間があったわけでもないのに、一人で納得したカオスの姿が、忽然と消えた。
「きゃあっ!」
まず、まどかが吹き飛んだ。
突然四人の目の前に現れたカオスは、手も足も翼も動いていないどころか、目に見える何かが起こしたわけでもないのに。まるで不可視の巨人が殴りつけたかのように、まどかを勢いよく吹き飛ばしていたのだ。
「このぉっ!?」
それに対し拳を叩き込んだ虎徹だったが、装甲された掌にあっさり受け止められ、子供が玩具を振り回すようにして投げ飛ばされる。
ハンドレッドパワーが発動していないとはいえ、いくら重傷の身だとはいえ。あのワイルドタイガーが、まるで赤子の手を捻るように。
瞬く間に二人を退けたカオスは、智樹とマミに対峙する。
「桜井君、下がって!」
マスケット銃を召喚し構えたマミだったが、カオスの振るった鋭利な翼に容易く銃身をスライスされ。呆然とする間にまどか同様、不可視の衝撃に吹き飛ばされて行く。
「マミ!」
「みんなに、ちゃんと愛をあげるけど……おねぇちゃんたちやおじさんは、あとからだよ」
絶望的な戦力差に叩きのめされ、先程ジェイクを退けた三人は這い蹲るしかできずにいた。
映司も離脱させられた以上、残されたのは戦力を持たない智樹ただ一人。
そこでカオスは、自身を振り向いた智樹に対し問いかけた。
「はじめはおにいちゃん……やっぱりおにいちゃん、おにいちゃんだよね?」
外見は智樹と同じか、それより少し上という年頃のカオスは、しかし智樹をおにいちゃんと呼んだ。
そこで智樹は、竜巻に巻き込まれる前に引っかかていた思考に、ようやく確信を持つことができた。
「おまえ……エンジェロイドだったんだな」
あぁ、くそ。
違う、大事なことはそこじゃない。
やっぱり俺が向き合ってなかったから。何もしていなかった間に。
可哀想なこの子は、また可哀想なことになっているじゃないか……!
「……ちみっこ」
「かわいそう……? わたしが?」
突然胸の内を読み取られ、一瞬愕然とはしたが。エンジェロイド相手なら、今更驚くことでもないと智樹は向き直る。
同じくカオスも。「可哀想」という意味を今は説明する気がない智樹の心境を読んだのか、改めて酷薄な笑みを張り付かせていた。
「わたしもエンジェロイドだから……おねえさまたちみたいに、サクライ=トモキと愛をしりたいっておもってたの」
獲物を狙う触手のように蠢く、鋭い切っ先で翼が自身を覆い囲む中。智樹は恐れず一歩、前に出た。
そして――
「――コラ!」
智樹はこつんと、カオスの頭を叩いていた。
以前このちみっこが、同じことを言って現れた時のように。
それが意外なことだったのか、カオスは智樹を包囲していた翼を引っ込めた。
「痛いのが愛とか、そんなわけないって前に教えただろ。だいたい皆をいじめちゃいけないじゃないか」
きょとんとした様子のカオスに、智樹は努めて優しく語りかける。
智樹の中には、上靴を貰って嬉しそうにはしゃぐ、あの時のカオスの笑顔が蘇っていた。
この子も他のエンジェロイドと同じように、悪い子じゃない。ただ純粋で、その分思い込みが少し強いだけで。
ちっちゃい子なんて皆そうだ。だったら周りの人間が、間違った時は止めてやらなくちゃいけないのだ。
「おまえも前に、俺が上靴をあげたらわかってくれただろ? 痛いのじゃなくて、そういうのが愛なんだって……」
「……うそつき」
「えっ?」
「おにいちゃん、うそつきだ……っ!」
ドスッ。
腹の方から聞こえた音に、智樹は視線を巡らせた。
それが何の音なのか、本当は容易に予想できるはずなのに。
直視しても、その光景が真実だとは、どうしても考え難かった。
「私にうわぐつはかせてくれたの、おねぇちゃんだもん! おにいちゃんなんかじゃない、仁美おねぇちゃんだもん!」
カオスが見せたのは、神聖不可侵なるものを穢されることへの、強い拒絶と嫌悪の感情。
その感情はそのまま……彼女の行動に反映されていた。
「ちみ、っご……っ」
言葉が濁ったのは、溢れてきた血塊で喉を詰まらせたためだ。
「うそつきのおにいちゃんなんか、きらいっ!」
カオスの鋭利な翼が、智樹の腹から背中に抜けていた。
「智樹ッ!」
「桜井君!」
立ち上がった虎徹とまどかが、その惨劇を前に悲鳴を上げる。助け出そうと駆け寄って来るが、カオスの展開したバリアによって逆に弾き返される。
カオスが翼を捩る。ブチブチと、草を千切るような不快な音が生じ……肉を内からまさぐられ、骨を割られ、熱を奪われる不快な感覚が、智樹の中を上がって来る。
「うそつき。きらい。だけど……」
直後。血液と共に流れ出て行っていたはずの熱が、自らの内に再補充され――逆に収まりきらず、自らが破裂していくような錯覚さえ智樹は味わう。
「あっ、がぁああああああああああああっ!?」
「……そんなおにいちゃんにも、愛をあげる」
智樹の傷口から漏れる血の煮立つ音は、さながら彼女の愛の産声か。
地獄の責め苦にも勝る激痛に、思考を塗り潰されそうになりながら。智樹は辛うじてまだ、生きていた。
「痛くして……あったかくして……殺して食べるのが、愛なんだよ」
そんな智樹に、カオスは優しく訴えてくる。
「おねぇちゃんやみんなが教えてくれて、私がじぶんで見つけた愛なの。おにいちゃんだって、うそつきだけど、さっき私のために痛くして(ぶって)くれたんでしょ?」
あぁ、くそっ、くそ! 何てことだ!
やっぱりちみっこは、可哀想なだけの良い子じゃないじゃないか……っ!
誰だよこんな変なこと吹き込んだ奴は!
「変なことじゃないよ! みんな、みんないっしょうけんめい、いろんな愛の形を教えてくれたの!」
ほら見ろ良い子だから、誰かが教えてくれたことを疑いもせずに信じてるじゃないか!
教えられたことで食い違いがあったら、それがなくなるように自分で必死に考えて、結局全部真に受けて……!
それでこのまま、勘違いして。善行のつもりで皆から恨まれることを続けるなんて……不憫過ぎる。
「お……ぃ、ちみ……っご」
それを智樹は見逃せなかった。
自分がここで死ぬということは、よく考えなくてもわかっている。ニンフを助けに行けず、イカロスを止めてやることもできないまま、死ぬ。
だが、それなら。これ以上、何かを先延ばしにできないほど時間が限られているなら。
せめて、この子だけでも。
――ドスッ。
虎徹がザンバットソードで、カオスの展開したバリアを引き裂いたと同時。
カオスのもう片翼が、智樹の胸に突き立っていた。
「……さよなら、おにいちゃん」
この子だけでも、止めてやりたい。
――それが、桜井智樹が最期に抱いた願いだった。
○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○
「桜井……君?」
ダメージから回復し、状況を確認したまさにその時。
カオスの翼に吸い尽くされ、跡形もなくなってしまったその人の名を。
巴マミは、呆然とした調子で呟いた。
「そんな……嘘。桜井君……っ!」
嘘だ。嘘だ。そんなのって……
絶望に沈む寸前に、マミを救ってくれた彼が。勝手に諦めていたマミを、独りぼっちではなくしてくれた彼が。
死――
「いやぁあああああああああああああああああああああああああ!?」
「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
マミが絶叫する間に、ザンバットソードを振りかぶった虎徹がカオスに斬りかかる。彼女は防ごうと召喚した青龍刀が半ばまで断ち切られたのを見てそれを手放すと、ビームの弾幕を展開し、その隙に虎徹から距離を取る。
散弾のようにばらまかれたビームを回避しきれず、さらに負傷した虎徹をまどかが支える。彼は本来とてもまどかが支えきれるような重量ではないが、そんなことを気にしていられるほどマミに余裕はなかった。
「――許さないっ!」
憎い。恨めしい。智樹を惨たらしく殺した、あのカオスというエンジェロイドが。
そんなマミの激情に導かれるまま、憎悪に乗った魔力が収束し収斂し、直撃さえすれば二重のバリア越しだろうとあのエンジェロイドを撃滅し得る、巴マミ最強の魔砲が顕現する……はずだったが。
「……どうしてっ!?」
現実に呼び出せたのは、先程カオスに防がれたただの魔砲。
あの切り札を使うには今はセルメダルの数が足りないのだ、という事実にマミが思い至った時には、魔砲は逆にカオスの放ったビームに撃ち抜かれ爆発四散していた。
「――っ!」
さらにメダルを無駄遣いしてしまった。そんな苛立ちに身を焦がしたマミの前に、カオスが姿を現す。
「つぎは、おねぇちゃんのばん……」
先程智樹を差し貫いた、両翼の先端がマミに迫る。
咄嗟に繰り出した防御用のリボンも勢いを減衰することなく切り裂き、そのまま切っ先はマミの眼前にまで到達する。
「――?」
額と胴を貫く寸前、突如としてカオスの翼はその刃を止め、直進ではなく一度撓み、それからマミを払い除けた。
「……くぅっ!?」
それでも、先程食らった不可視の衝撃にも劣らぬ威力。幾つかの腱や筋肉が断裂し、骨が罅割れていてもおかしくないほどだ。
魔法少女だからこそ死なずに済んでいるが、もしただの人間であればこれだけでリタイアだった。
「……どうしてだろ?」
そこに追撃が加わっていれば、魔法少女といえど無事では済まなかっただろうが……その頃カオスは、自身の翼端を眺めていた。
「どうしておねぇちゃん、させなかったのかなぁ……?」
カオスがそんな呟きをしている間に立ち上がろうとするが、ジェイク戦からマミに蓄積されたダメージはそれを阻害していた。
虎徹も今は、まどかから治癒魔法を施されていてもマミと似たような状態だ。カオスと戦うには、もう少し回復する必要がある。
《――プテラ! トリケラ!! ティラノ!!!――》
ハスキーな電子音が聞こえて来たのは、そんな窮地の最中だった。
《――プッ・トッ・ティラッノザ~ウル~ス!!!――》
歌声の直後、戦いで温まっていた夜気が再び冷たさを取り戻す。
その両足で大地を砕きながら着地したのは、凍てつく古の暴君だった。
「――桜井君はっ!?」
今更、というべきか。
いや……彼が竜巻で吹き飛ばされてから、まだ何分と時は経っていないのだ。映司の戦線復帰は、充分に迅速だと言える。
たった、それだけの間に……自分達は、彼を喪った。
「桜井君は……」
伝えようと半身を起こしたマミは、そこで言葉を途切れさせた。
負傷のせいではなく……ただその先の言葉を、どうしても紡ぐことができなかった。
「……そんな。俺は、また……っ!」
嗚咽するマミの様子からその先の言葉を察したオーズは、一瞬だけ立ち尽くしながらも、改めてカオスに対峙する。
「……させない。これ以上は、この俺が!」
仮面ライダーオーズ・プトティラコンボの力は、間違いなく今のマミ達の中では最強だ。無論いくつかの面ではマミ達が凌駕する要素もあるだろうが、それでも紛い物であるジェイクへの苦戦度から考えれば、他の三人が共闘していても彼一人の方が強い可能性さえある。
それでも、相手はそのジェイクの異能を身に付け、マミの見積もりでは基礎的な能力面でもオーズと同等以上、さらにいくつ隠し玉があるかもわからないような強敵だ。
回復次第自分も戦線に加わるつもりだが、その時間稼ぎを本当に彼一人に任せて大丈夫なのか。
他に手段がない以上、そうするしかないとしても、彼の身を案じずにはいられない。
(気をつけて……火野さん)
マミは仲間の無事を祈り、自身の傷を癒すことに専念し――
「――――――――――――火野のおじさん?」
ようとして、底冷えするほどゾッとする声を聞いた。
プトティラの放つ冷気が生温く感じるほどの絶対零度でありながら、その身を焼き尽くすほどの獄炎として燃えている――カオスの憎悪にあてられて。
マミだけでなく、もちろん名指しされたオーズも身を固くする中で――カオスはこれまで以上に壊れた、歪な三日月の笑みを浮かべていた。
「……逢いたかった」
○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○
桜井智樹の死因は、カオスとの時間軸のズレというただ一点に集約されると言って良い。
もし、カオスが主催者に連れ去られるのがもう少しあとの時間軸からであったなら。カオスにとって最も大切な、愛をくれた者との思い出は、智樹との物になっていたのだから。
しかし。“この”カオスに初めて本物の愛を与えたのは桜井智樹ではなく、
志筑仁美なのだ。
このカオスが決して忘れまいと、永遠に大切にしようと決意したのは、彼女との思い出なのだ。
智樹の知るカオスを止めるなら、最善に近いはずだった説得の言葉は……智樹を知らないこのカオスにとっては、彼女の最愛の記憶を冒涜するものでしかなかったのだ。
そんなすれ違いが、桜井智樹を殺した。
――それでも智樹は、死の瞬間にもカオスのことを諦めなかった。
そして彼女の過ちを止めたいと願った智樹が自己進化プログラムPandora(パンドラ)に吸収されたことで、彼の良心に基づくストッパーがカオスに設けられた。
とはいえパンドラの性能が低下していることも相まって、例えばマミを殺そうとしたのを傷つけるだけに止めるような、本当に最低限の制限しかカオスに与えられてはいなかったのだが……
……だが。カオスに芽生え始めた無自覚な道徳は、カオスに潜む無自覚な悪意に踏み潰される。
それを“愛”だと信じたカオスが理解できないまま心に刻んだ、大切な者を奪われた憎しみ。
それを抱いたカオスが聞いたのは、仁美を奪った仇敵の名。
仮面に素顔を隠したその男が、つい先程見た若者だとは気づかずに。ただそう呼ばれていたからと、彼を“
火野映司”だと純粋な彼女は信じて疑わない。
口調ももちろん、何より声が違う。だが仮面越しに加工されている形跡が聞き取れる声だから、記憶と違うのだとカオスは勝手に納得する。
何故なら“火野”と呼ばれたのだから、きっと眼前の紫の怪物は“火野映司(仁美の仇)”に違いないのだ。
それを疑うだけの判断力がカオスにあるのなら、そもそもここまで歪みはしない。
こうして。一人の悪が吐いた嘘によって、智樹(うそつきのおにいちゃん)の願いは踏み躙られることになる。
【桜井智樹@そらのおとしもの 死亡】
最終更新:2013年11月12日 23:58