極北の酒場にて、熱砂の砂漠にて


寒冷地のとある酒場。薄暮の空になると暖衣に身を包んだ客たちは樽のジョッキを交わし始める。
やがて談笑は騒がしく聞こえてくる。酒気と料理の香り漂う喧しい場所だ。

カウンター席では、頼んだであろう料理が配膳されても一向に食事を摂らずにいる男が居た。
ホットワインで煮込んだ野菜と羊肉のシチューから湯気の姿はなく、もはや温め直すことを求めるぐらいに冷めてしまっている。
しかし、男は気に留めていない様子で筆を執り思いの丈を走らせている。

『旅路において重要なのは[不変的と可変的]に基づく堪能の価値観、時運と健康な身体である。』

「――違うな。意に反してはいないが、もっと適した表現があるはずだ。…相応しい言葉選びは……」

酒場の店主はもはや声をかけることなく作業している。筆を置く動きがない様に――彼はいつもそうなのだ――と、他の客からの質問に時折応えている。

猫舌もびっくりなほど冷めた料理には依然として手は着けず、彼は小さな文字でヨレた手記に書き続けている。
程なくして、一人の女性が彼の右肩を掴んで声をかけた。

「アンタが、噂に聞いたモノ好きな旅人さんかい?」

彼は手を止め、声の主は誰だ――と、顔を上げる。

「お、聞いた通りだ。銀髪の似合う少し渋い顔に金色の瞳。年季の入ったコートと手袋。うわ、高そうな筆」
「…君は誰だね。見たところ…冒険者のように見えるが」
「アタシはナジャーレ。タウラ・ナジャーレ。砂地から離れて暮らすダークエルフさ。アタシは兼業冒険者だから、半分正解だね」

褐色の麗しい女性――タウラ・ナジャーレは、彼の右隣の席へそのまま流れるように座った。

「それでだけど、ハバリル地方で聞いた噂の人物ってのはアンタで合ってるかい?」
「ハバリル地方で聞いたのならば、恐らくは間違いようがない。私のことだろう」
「人探し成功っと。皆から話を聞いてさ、面白そうな奴が来てたんだなーって思って探してたんだよねぇ」

彼女はいくつかの料理とシルバーラガーを注文し、話を続ける。

「ま。これも縁ってことで。今後は長い付き合いになりそうだしさぁ――うわ、苦っ!」
「すまない、どういう意味か解りかねる」
「どうって、ほら。あれを書いたのはアンタだろ? 面白そうな募集内容のわりには、立候補した冒険者は居ないって聞いたしさ」

彼女はカウンター席から離れた場所を指差した。酒場の壁に画鋲で留められている紙には、
オートデザイスの地理に詳しい腕利きの冒険者求む。我こそはと思う者は、酒場の店主に連絡願う。なお雇用期間と報酬は要相談とする。』
という文章で冒険者の募集をかけている様であった。

「――なるほど。ということは、君はあれに興味があるわけだな。であるならば」

彼は立ち上がり、軽く身だしなみを整えると彼女の方へと向き直る。

「自己紹介が遅れた。私の名はフォールド・スタイン。君の言う通り、モノ好きな旅人だ。…首を長くして待った甲斐があったな。君の飲食代は私が出そう」
「おお~ありがたいねぇ。まあそれはともかく、アタシは意外とシビアだよ? 安くつくなんて甘い考えは、今のうちに捨てときなよ」
「こちらも交渉決裂は困るのでね。可能な限り応えてみせよう」



「――旅行記…?」
「こんなボロボロな見た目だがね。もう何十冊書いたか……憶えていないほどに認(したた)めている」

彼――フォールド・スタインはようやく冷めたシチューに手を着けた。美味しさも半減しているであろうに、そのまま食べ進めている。
途中、追加で注文した水酒がカウンターに置かれると、水の代わりとばかりに飲んでいる。

「へー、冊数が分からないほど書いてるんだ。それさ、後で見せてよ」
「構わないが、さして面白くないと述べておく。所詮は感想を羅列した日記だ」
ナジャーレは、そう感じるのは書いた本人だからでしょ――と言いながら、シルバーラガーの入ったジョッキに口をつける。苦味を我慢しながら飲んでいるようだ。

「私がどこの誰で、どこから来たのか。そして見聞きした事から得た知見は何であったか。コイツはそれらを纏めた物だ」
「ふーん…」
シルバーラガーに水を注ぎ入れながらナジャーレは応える。
スタインは休めた手を動かし、残りのシチューを完食すると、そのまま水酒を流し込むように飲み干した。

「私が旅人となった経緯は、このだだっ広い『ロクシア』という世界を詳しく知りたいという好奇心からだ。それが旅人の戯言だと云われぬよう、コイツに書き記し、清書したものを世に送り出している」
「ほー、立派だねえ。…ん? アンタ、今世に送り出しているって言ったかい?」

首を傾げる彼女に、そうだが?とスタインは言った。

「なんだい。アンタ、実は学者かなんかだったりするのかい?」
「――いや、ただのモノ好きな旅行者だ。子供心を忘れずに歳をとった人族の大人だよ」
「ふーん……アンタ、面白いね」

ナジャーレはジョッキを置くと、軽く頬杖をしながら彼を見つめた。
こいつは何とも愉快な奴だ。気が済むまで同行するのも悪くない。そんな風に見える。
フォールドは彼女の『面白いね』という言葉を賛辞として受け取っておくと述べた上で、

「…ところで、食事は気が済んだかね? 早速で申し訳ないが出立する準備をしてほしい。ハバリル地方で一つ、やり残したことがあるのでね」

と、切り出した。やり残したことが何であるかの問いに、彼の答えは意外なものであった。

雪豹狩りだ――」






カンカン照りのうなだれる暑さ――否、それすら生易しいとも云える。
地平線まで続くサラサラとした赤熱する砂漠には似つかわしい、二人の男女が踏みしめながら歩いていた。
二人ともツバ広の帽子を被り、綿と麻の混紡生地で織られた服に見を包んでいる。

「長いこと旅してると、変な奴と知り合いになったりするんだよなあ…」
「――そいつは『長生きしてると』の間違いじゃねえのか」

褐色美麗の女がこぼした独り言に左隣を歩くが反応した。
彼女はふと男の顔を見ると、たらたらと額から汗を流す様子に水を飲むように促して応える。

「何言ってんだい。変な奴と会う確率はただ長生きしてるより、よっぽど高いだろ。そういうもんだよ」
「はっ…くだらねえな。――親父はこんな女(エルフ)の何に惚れたんだか。気に入ってるところ聞いときゃよかったな」

男が水を飲むとお前も飲め。と残り少ない水を彼女に手渡した。

「あ゛、言ったな。今はない邸の跡地を案内してやったのは誰だと思ってんだい! こっちもアンタと長くつるんでるんだ。頭から砂に埋もれるぐらい感謝してほしいもんだねぇ゛!」

彼女は右手で水の入った筒を、左手で男の後頭部を掴む。どうやら力を込めて彼を足元に沈めようとしているようだ。が、男も負けじと抗い、半身の姿勢から横に反れた。
睨みながら舌打ちをして水を飲む彼女の様子に、男は少し楽しそうだ。

程なくして二人はひたすら歩き続ける。
かつての旅人が横断した、広漠の大地を――。


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最終更新:2024年04月09日 22:14