三月が夜を照らす。
妖しく輝く夜桜から立ちのぼる香りは、天下人が住まう城にまで届く。
静寂に満ちた城に響くは、そこを住処とする唸り声と風切りの音。
そして、一人の浪人の呟き。
「常闇の殿守に住むヌシに用心せねばならぬは宵も同じ。さあ、城のヌシどもよ。俺の得物の切れ味、篤と堪能するがいい」
いつまでも終わることのない春の匂いをよそに、男は唾を飲み込み得物を構える。
その男に対して犬歯を剥き出しにし、涎を流すような唸り方をする城の主たち。
それは天下を統べる皇が住まう場所には不釣合いの招かれざる客。通常の体躯を優に超える獸、『魔物』の姿がそこにはあった。
「――秘剣、燐!」
――――
故郷を離れ尾張に向かう道中。
なにを血迷ったか、伊勢へ立ち寄り参拝した後、尾張へ歩を進めたあの日。
あの日から何日、……いや何年経ったか。
今いるは草木豊かな山々でも旅籠でもない。埃と黴の匂いがする裳抜けの城の中。
灯台はあれど蝋ひとつとしてないが、殿守から望む景色は絶景と言って差し支えない。しかし、どれほど陽と月が沈んでも外の様子はほぼ変わらない。
風に運ばれて漂う、甘い香りのする桜が望めるこの城に居着いてどれほど経ったか。
「空腹になれば″狩り″をし、鈍った得物で肉を捌くなどよくある日常にすぎんな」
主のいない殿守がどうなるのか、一度も想像したことはない。
俺は将軍家の世継ぎでもその下につく家臣でもない。ただの庶民だ。故に体躯が抜きん出ている獸の住処に成るとは予想もしない。
「さてと……こんなものか」
鉛の刀で牡丹を捌き終えた。六尺六寸を優に超えるであろう大きさはあったが、この程度脅威ではない。
「今日は牡丹鍋だ。昨日は紅葉だったが、正直言ってどれも味がきついな」
しかしそう贅沢を言っては居られぬ。これも死せずして帰るためだ。
ここから出れるのならば今すぐにでも飛び出して往きたい。そう、今すぐにでも往きたい。往きたいのだが……。
「この城、なにやら妖術が張られていて出れないからなぁ…………。っと、火が弱いな」
俺は見知らぬ城にどういうわけか閉じ込められている。しかし城に入った記憶はない。街道を過ぎてしばらくした山中を歩いていたからだ。
「腹ごしらえが済んだ後の暇と対峙しても、鍛練を積むか、大人しく眠るかぐらい。全くもってやることがない。外は桜の香りがきつくて長い間眺めるのは辛いしな」
誰もいない厨房から誰もいない部屋に移り、鍋をつついて愚痴を吐く。
気を確かにする方法はこれしかないのだ。正気を保つのもそろそろ難しくなった。
「御粗末。さて……三月を眺めて眠るか」
妖術が張られた殿守より見える景色は、雲から顔を出した満ち欠けの異なる三つの月が桜並木を照らした光景であった。
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最終更新:2019年10月18日 13:02