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*劉備 :姓|劉 :名|備 :字|玄徳 :誕生年|161年 :死亡年|223年4月24日(63歳) :出身地|予州沛国[言焦]県 **年表 |年|所在|立場|出典|備考| |175|幽州[シ豕]郡[シ豕]県|[[公孫(王賛)]]と共に[[盧植]]に師事。|蜀書・先主伝|| |184||[[鄒靖]]に従って黄巾討伐に従軍。|蜀書・先主伝|| |?|冀州中山国安熹県|黄巾討伐の功績で安熹県令となるも、督郵を杖で打ち据えて逃亡。|蜀書・先主伝|| |?|徐州下邳郡|[[何進]]の命を受けた[[毋丘毅]]に従い丹陽で募兵に向かう途中、下邳で賊退治。|蜀書・先主伝|| |?|青州北海国下密県|上記功績で下密の丞となるが棄官。|蜀書・先主伝|| |?|青州平原国高唐県|高唐の尉に就任。|蜀書・先主伝|| |?|青州平原国高唐県|高唐の県令に昇進。|蜀書・先主伝|| |?|幽州右北平郡|賊に敗れて公孫(王賛)を頼る。|蜀書・先主伝|| |?|青州平原国平原県|[[田楷]]と共に[[袁紹]]と戦い、平原の国相となる。|蜀書・先主伝|| |193|徐州|[[曹操]]に攻められた[[陶謙]]を助けに徐州に赴く。|蜀書・先主伝|| |193|予州沛国沛県|陶謙の上表で予州刺史となり、小沛に駐屯。|蜀書・先主伝|| |194|徐州下邳郡下邳県|陶謙の死後、徐州牧の地位を譲られる。|蜀書・先主伝|| |196|徐州広陵郡淮陰県|淮陰に侵入した[[袁術]]を撃退。|蜀書・先主伝|| |196|徐州広陵郡淮陰県|曹操の上表で鎮東将軍・宜城亭侯となる。|蜀書・先主伝|| |196|徐州広陵郡海西県|呂布に下邳を奪われて海西に移動。|蜀書・先主伝|| ||徐州?|楊奉、韓暹を撃破。|蜀書・先主伝|| ||予州沛国沛県|呂布に降伏して小沛に駐屯。|蜀書・先主伝|| ||予州潁川郡許県|呂布に攻撃されて曹操を頼る。予州牧となる。|蜀書・先主伝|| |198?|予州沛国沛県|夏侯惇と共に高順と戦うが敗北。|蜀書・先主伝|| |198|徐州下邳郡下邳県|12月、曹操と共に下邳を包囲、呂布を斬る。|蜀書・先主伝|| ||予州潁川郡許県|左将軍となる。|蜀書・先主伝|| ||徐州|徐州を通過して青州に向かう袁術を撃つために出撃、しかし袁術は病死。|蜀書・先主伝|| ||徐州下邳郡下邳県|徐州刺史の[[車胄]]を殺害して曹操に叛旗。下邳に[[関羽]]を置いて小沛に駐屯。|蜀書・先主伝|| ||予州沛国沛県|曹操が派遣した[[劉岱]]・[[王忠]]を撃退。[[孫乾]]を派遣して袁紹と組む。|蜀書・先主伝|| |200|予州沛国沛県|1月、曹操が討伐に来たので青州に逃亡、袁紹を頼る。|蜀書・先主伝|| |200|エン州東郡延津県|4月、文醜と共に出撃するが、曹操に敗北。|魏書・袁紹伝|| |200|予州汝南郡|劉辟と組んで汝南で曹操に反抗するが、曹仁に敗北し[業β]に戻る。|魏書・袁紹伝|| |200|予州汝南郡|[[劉表]]と出陣を促す名目で[[(龍共)都]]と組んで汝南を荒らす。[[蔡陽]]を撃破。|魏書・袁紹伝|| |201|荊州南陽郡新野県|曹操の攻撃を受けて劉表を頼る。新野の守りにつく。|魏書・袁紹伝|| |203|荊州南陽郡博望県|8月、博望で[[夏侯惇]]・[[李典]]を破る。|蜀書・先主伝|魏書・李典伝によれば黎陽で[[袁尚]]と戦った(202年)後で李典は夏侯惇と共に劉備と戦い不利だったとあり、その後[業β]を包囲(204年2月)している。従って203年8月に曹操が劉表と戦った武帝紀の記述がこの戦いだと推測する。| **備考 -先主伝の注に[[張純]]討伐に従軍し、後に軍功で安熹県の尉になったとあるが、張純の反乱は187-188のことで黄巾の乱のかなり後である。 -同じく注に曹操と共に洛陽を脱出し沛で反[[董卓]]の挙兵をしたとある。 ----
*劉備 :姓|劉 :名|備 :字|玄徳 :誕生年|161年 :死亡年|223年4月24日(63歳) :出身地|予州沛国[言焦]県 **年表 |年|所在|立場|出典|備考| |175|幽州[シ豕]郡[シ豕]県|[[公孫(王賛)]]と共に[[盧植]]に師事。|蜀書・先主伝|| |184||[[鄒靖]]に従って黄巾討伐に従軍。|蜀書・先主伝|| |?|冀州中山国安熹県|黄巾討伐の功績で安熹県令となるも、督郵を杖で打ち据えて逃亡。|蜀書・先主伝|| |?|徐州下邳郡|[[何進]]の命を受けた[[毋丘毅]]に従い丹陽で募兵に向かう途中、下邳で賊退治。|蜀書・先主伝|| |?|青州北海国下密県|上記功績で下密の丞となるが棄官。|蜀書・先主伝|| |?|青州平原国高唐県|高唐の尉に就任。|蜀書・先主伝|| |?|青州平原国高唐県|高唐の県令に昇進。|蜀書・先主伝|| |?|幽州右北平郡|賊に敗れて公孫(王賛)を頼る。|蜀書・先主伝|| |?|青州平原国平原県|[[田楷]]と共に[[袁紹]]と戦い、平原の国相となる。|蜀書・先主伝|| |193|徐州|[[曹操]]に攻められた[[陶謙]]を助けに徐州に赴く。|蜀書・先主伝|| |193|予州沛国沛県|陶謙の上表で予州刺史となり、小沛に駐屯。|蜀書・先主伝|| |194|徐州下邳郡下邳県|陶謙の死後、徐州牧の地位を譲られる。|蜀書・先主伝|| |196|徐州広陵郡淮陰県|淮陰に侵入した[[袁術]]を撃退。|蜀書・先主伝|| |196|徐州広陵郡淮陰県|曹操の上表で鎮東将軍・宜城亭侯となる。|蜀書・先主伝|| |196|徐州広陵郡海西県|呂布に下邳を奪われて海西に移動。|蜀書・先主伝|| ||徐州?|楊奉、韓暹を撃破。|蜀書・先主伝|| ||予州沛国沛県|呂布に降伏して小沛に駐屯。|蜀書・先主伝|| ||予州潁川郡許県|呂布に攻撃されて曹操を頼る。予州牧となる。|蜀書・先主伝|| |198?|予州沛国沛県|夏侯惇と共に高順と戦うが敗北。|蜀書・先主伝|| |198|徐州下邳郡下邳県|12月、曹操と共に下邳を包囲、呂布を斬る。|蜀書・先主伝|| ||予州潁川郡許県|左将軍となる。|蜀書・先主伝|| ||徐州|徐州を通過して青州に向かう袁術を撃つために出撃、しかし袁術は病死。|蜀書・先主伝|| ||徐州下邳郡下邳県|徐州刺史の[[車胄]]を殺害して曹操に叛旗。下邳に[[関羽]]を置いて小沛に駐屯。|蜀書・先主伝|| ||予州沛国沛県|曹操が派遣した[[劉岱]]・[[王忠]]を撃退。[[孫乾]]を派遣して袁紹と組む。|蜀書・先主伝|| |200|予州沛国沛県|1月、曹操が討伐に来たので青州に逃亡、袁紹を頼る。|蜀書・先主伝|| |200|エン州東郡延津県|4月、文醜と共に出撃するが、曹操に敗北。|魏書・袁紹伝|| |200|予州汝南郡|劉辟と組んで汝南で曹操に反抗するが、曹仁に敗北し[業β]に戻る。|魏書・袁紹伝|| |200|予州汝南郡|[[劉表]]と出陣を促す名目で[[(龍共)都]]と組んで汝南を荒らす。[[蔡陽]]を撃破。|魏書・袁紹伝|| |201|荊州南陽郡新野県|曹操の攻撃を受けて劉表を頼る。新野の守りにつく。|魏書・袁紹伝|| |203|荊州南陽郡博望県|8月、博望で[[夏侯惇]]・[[李典]]を破る。|蜀書・先主伝|魏書・李典伝によれば黎陽で[[袁尚]]と戦った(203年3月)後で李典は夏侯惇と共に劉備と戦い不利だったとあり、その後[業β]を包囲(204年2月)している。従って203年8月に曹操が劉表と戦った武帝紀の記述がこの戦いだと思われる。| **備考 -先主伝の注に[[張純]]討伐に従軍し、後に軍功で安熹県の尉になったとあるが、張純の反乱は187-188のことで黄巾の乱のかなり後である。 -同じく注に曹操と共に洛陽を脱出し沛で反[[董卓]]の挙兵をしたとある。 ----

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