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曹丕 - (2007/05/14 (月) 22:09:14) のソース

*曹丕

:姓|曹
:名|丕
:字|子桓
:誕生年|187年
:死亡年|226年3月17日
:出身地|予州沛国[言焦]県 


**年表

|年|所在|立場・事跡|出典|備考|
|208|予州潁川郡許県|司徒の[[趙温]]に招聘される。しかし[[曹操]]は趙温が自分におもねって曹丕を招聘したとして、趙温を免職とした。|魏書・文帝記||
|211|予州潁川郡許県|五官中郎将、副丞相となる。|魏書・文帝記||
|217|冀州魏郡[業β]県|魏の王太子となる。|魏書・文帝記||
|220|冀州魏郡[業β]県|1月、曹操が死去すると、後を継いで魏王となった。|魏書・文帝記||
|220|冀州魏郡[業β]県|2月、[[賈(言羽)]]を太中大夫から太尉に、[[華(音欠)]]を御史大夫から相国に、[[王朗]]を大理から御史大夫に、[[夏侯惇]]を大将軍に任命。|魏書・文帝記||
|220|冀州魏郡[業β]県|2月、獩貊・扶余の単于と焉耆・于闐の王が朝貢の使者を送ってきた。|魏書・文帝記||
|220|冀州魏郡[業β]県|5月、馮翊の鮮卑族である[[鄭甘]]と[[王照]]が帰順。|魏書・文帝記||
|220|冀州魏郡[業β]県|6月、南方征伐に出発。|魏書・文帝記||
|220|冀州魏郡[業β]県|7月、孫権が献上物を送ってくる。|魏書・文帝記||
|220|益州漢中郡上庸県(新城郡上庸県に改めた?)|7月、[[孟達]]が魏に帰順する。孟達を新城太守に任命する。|魏書・文帝記||
|220|涼州漢陽郡|7月、武都の(氏一)族の王である[[楊僕]]が帰順し、漢陽郡に移住。|魏書・文帝記||
|220|豫州潁川郡許県|10月、漢から禅譲を受けて魏の皇帝に即位。|魏書・文帝記||
|220|司隷河南尹洛陽県|12月、洛陽に都を定める。|魏書・文帝記||
|221|司隷河南尹洛陽県|8月、孫権が上奏し、于禁を返還。孫権を大将軍・呉王とした。|魏書・文帝記||
|222|司隷河南尹洛陽県|2月、鄯善、亀茲、于闐の王が朝貢の使者を送ってきたので返礼の使者を送った。西域との交通が再び開けたので戊己校尉を設置した。|魏書・文帝記||
|222|冀州|7月、イナゴの被害が大きく、尚書の[[杜畿]]に命じて官倉を開いて人民を救済した。|魏書・文帝記||
|222|荊州|8月、[[黄権]]が魏に降伏。|魏書・文帝記||
|222|司隷河南尹洛陽県|10月、[[孫権]]が再び反逆。曹丕は南征をう。|魏書・文帝記|孫権伝には9月に[[曹休]]・[[張遼]]・[[臧覇]]を洞口に、[[曹仁]]を濡須に、[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[張(合β)]]・[[徐晃]]を南郡に送って攻めたとある。|
|222|荊州南陽郡宛県|11月、宛に駐屯。|魏書・文帝記||
|223|司隷河南尹洛陽県|1月、復讐を禁止する令を定める。|魏書・文帝記||
|223|荊州南陽郡宛県|3月、宛に南巡台を築く。洛陽に帰還する。|魏書・文帝記||
|223|豫州穎川郡許昌県|9月、許昌に行幸。|魏書・文帝記||
|224|豫州穎川郡許昌県|1月、反逆以外の密告を禁じる令を定める。|魏書・文帝記||
|224|司隷河南尹洛陽県|3月、洛陽に帰還する。|魏書・文帝記||
|224|司隷河南尹洛陽県|4月、大学を立て、五経の試験方法を制定。|魏書・文帝記||
|224|豫州穎川郡許昌県|7月、許昌に行幸。|魏書・文帝記||
|224|揚州九江郡寿春県|8月、船で淮水を経由して寿春に行幸。|魏書・文帝記||
|224|徐州広陵郡|9月、広陵に到着。青州、徐州の犯罪者を赦免する。|魏書・文帝記||
|224|豫州穎川郡許昌県|10月、許昌に帰還。|魏書・文帝記||
|224|豫州穎川郡許昌県|11月、冀州で飢饉が起き、官倉を開けて人民を救済した。|魏書・文帝記||
|224|豫州穎川郡許昌県|12月、天地と先祖以外の祭祀を禁止する令を定める。|魏書・文帝記||


**備考

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