通り悪魔――――
むかし川井某といへる武家ある時当番よりかへり、わが居間にて上下服を著かへて座につき、庭前をながめゐたりしに、縁さきなる手水鉢の
もとにある、葉蘭の生ひしげりたる中より、燄炎々ともゆる三尺ばかり、その烟さかんに立ちのぼるをいぶかしくおもひ、心づきて家来をよび、
刀脇指を次へ取りのけさせ、心地あしきとて夜著とりよせて打臥し、気を鎮めて見るに、その燄のむかうなる板屛の上より、ひらりと飛びおりる
ものあり、目をとめて見るに、髪ふりみだしたる男の白き襦袢着て鋒のきらめく鎗打ちふり、すつくと立ちてこなたを白眼(にらみ)たる面ざし
尋常ならざるゆゑ、猶も心を臍下にしづめ、一睡して後再び見るに、今まで燃立てる燄もあとかたなく消え、かの男もいづち行きけん、
常にかはらぬ庭のおもなりけり、かくて茶などのみて何心なく居けるに、その隣の家の騒動大かたならず、何事にかと尋ぬるに、
その家あるじ物にくるひ白刃をふり廻し、あらぬことのみ匐り叫びけるなりといへるにて、さては先きの怪異のしわざにこそとて、
家内のものにかのあやしきもの語して、われは心を納めたればこそ、妖孽(わざはひ)隣家にうつりて、
その家のあるじ、怪しみ驚きし心より邪気に犯されたると見えたれ、これ世俗のいわゆる通り悪魔といふものといへり
――――山崎美成/世事百談 巻之四
□
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
薄暗い裸電球の明かりと、何処からか聞こえてくる蜜蜂の唸るような音に、男は目を覚ました。
体が痛む。
どうも少し寒いようだ。
「あっ、よかった。気がつきましたね」
最初に目に飛び込んできたのは少女の姿だった。
短く切り揃えられた茶髪の頭頂から、時計の針のような形をしたアホ毛がピョンと飛び出している。
このアホ毛の形、見間違えるわけがない。間違いなくこの少女は、男が意識を失う前に襲い、殺そうとした娘だった。
そしてその娘の背後にいるもう一人の女。
まるで星辰の女神の如き怜悧玲瓏冷厳たる美貌の麗女。
彼女は――――
「ヒィッ!」
襲いかかってくる、やわいのに固いアミーバの衝撃。
自分が気絶した原因、この体に残る痛みの由来、そしてこの美しき金毛白皙の妖女の正体を思い出し
男は咄嗟にその場から逃れようとする。
だが男の体がその場より動くことは叶わない。その時になって初めて、男は自分の身体がロープで縛められていることに気付いた。
「待って!落ち着いてください!
この人は宇宙から来た宇宙人で……でも悪い人じゃないんです。
あの時も、私を助けようとして攻撃したんです」
蛾眉を寸毫も動かさぬ女の代わりに、アホ毛の少女が必死になって弁明してきた。
宇宙人。
そんな事もあるのだろう。
この世には不思議な事など何もないのだから。
ただ己の知る微小な知識や常識を森羅万象の総てと勘違いした愚か者が、己が内的世界の常識に当てはまらぬからと言って
ヤレ不思議だのソレ奇態だのと騒ぎ立てる。それだけの事なのだ。
もがくのを止めた男に、娘……時田は自己紹介をしてきた。
背後のセスペェリアと呼ばれた異星の客は、言葉を発するどころか顔の筋一つすら動かさない。
「あの、よければ貴方の名前も教えてもらえませんか?」
時田の問いに、男は粘着く喉から掠れた声を絞り出して答えた。
「京極……竹人……」
□
こうして――
京極と彼がつい数刻前に殺そうとした娘……時田刻の会話は始まったのだった。
会話の内容は、要は現在の状況についての情報交換だ。
何故自分が殺し合いに巻き込まれたのか心当たりはあるか。この島に来てから誰か他の参加者と出会ったか。
他の参加者の中に知り合いはいるか――等々。
時田はまず一通り自分の知っている情報を述べると、京極にも同じ内容を尋ねた。
それに対して京極は答えようとするが――何せこの
京極竹人という男、ただでさえ日常生活においては口数の少ない上に、喋り方もボソボソしていて大変聞き取りにくい。
要するに口下手なのである。
更に、アホ毛をチクタクと動かしながら彼の話を懸命に聞き取ろうとする娘――時田に対する罪悪感が、京極の心に重く圧し掛かっている。
やろうと思えば、この少女は自分を殺そうとした相手に制裁を加えることができた。
しかし彼女は意識を失っている襲撃者に危害を加えたりしなかった。それどころか、彼を坑道内に見捨てず台車でこの休憩所まで運んでくれたのだ。
京極は――そんな優しい娘を殺そうとしたのだ。
慙愧の念が、呵責の思いが重石となり、京極の口下手に更なる拍車をかける。
違う。
自分は好き好んで、彼女を殺そうとしたわけではない。
ただ、
『あいつ』が
『あいつ』が来ると、京極は京極でいられなくなるのだ。
『あいつ』が何処から湧いて来るのか、京極には分からない。
自分の内から湧くのか、自分の外から来るのか。
神経細胞のシナプスから湧くのか、それとも不可知の因果地平の果てより来るのか。
或いは、部屋の四隅の隙間――遍く空間の境界より、『あいつ』は湧いて来るのか。
京極には分からない。ただ一つはっきりしていることは、『あいつ』は京極自身の意志ではどうすることもできないという事だけだ。
だから『あいつ』が通り過ぎるのを待つしかない。それが出来ない時は――――
『あいつ』の願いを叶えるしかない。そうしなければ、『あいつ』から理性を取り戻せない。京極は京極でいられなくなる。
だから殺さなければならないのだ。
『あいつ』の命じる通りに。
そんな余計な事を考えている所為か、京極の口下手は余計に悪化する。
故にどもる。つっかえる。同じ話繰り返す。言葉を失って黙り込む。
黙り込んでいると時田が心配そうな目でこちらを見てくる。
その時田の目に羞恥心と罪悪感が刺激される。赤面する。喋らなければと焦る。慌てる。
故に更にどもる。更につっかえる。
そんな事を続けるうちに、羞恥と自己嫌悪から京極の声はますます陰気になる。
それに伴ってただでさえ不健康で陰気な面相もますます陰気になって
まるで五大陸全てが沈没した上に一族郎党姻族に至るまで全員が死滅したかのような、陰々滅々たる表情と化していく。最早陰気を通り越して凶相ですらある。
しかし時田は天性の根明さゆえか、京極の話の拙さ陰気さに嫌気が差しても話を打ち切ることなく、粘り強く会話を続けてくれた。
そんな聞き上手な少女のお陰か、京極もこの男にしては珍しく他人に胸襟を開き
自分が古本屋兼小説家を生業としている事
このバトルロワイアルの参加者に知り合いはいない事
初期配置は鉱山内で遭遇した参加者は時田たちのみという事
自分は平々凡々な小市民でありテロリストに拉致され殺し合いを強いられるような覚えは一つもない事
実家で芋虫という名前の猫を飼っている事
……等を、時田につっかえつっかえながらも教えたのだった。
(その間セスペェリアは一言も発さず、ただ会話する二人を観察するように眺めているだけだった)
こうして、嘗ての殺そうとした者と殺されかけた者の対話は平和に進行していった。
否――していくかと思われた。
□
「――でも安心しました。京極さん、やっぱりあの時は混乱してただけだったんですね」
「混乱?」
暫しの会話の後、時田が気の抜けたような笑顔で言った台詞。
それが、京極には引っかかった。
「私を襲った……私と最初に会った時ですよ。
京極さん、急にこんな場所につれてこられて混乱してたんですよね? 殺し合いだなんて言われた所為で――」
「――――否、それは違う」
「へっ?」
「あの状態の僕を君が混乱状態だとカテゴライズするならばそれは宜しかろう。
だが殺し合えと言われ、次の瞬間には一瞬で空間を飛び越え暗黒の坑道内に送られたが故に僕が混乱状態に陥った
――と君が考えているのであれば、それは間違っている」
時田はぽかんとしている。
京極の話の内容もさることながら、彼が突然饒舌になったことに驚いたのだろう。
嗚呼、自分は余計なことを言おうとしている。そう京極は思う。
彼女の言うとおり、殺し合いの場に放り込まれて混乱していたのだと言っておけば
――仮令それが嘘だったとしても――全てが丸く収まるのに。
そうすれば京極は少女の常識内の人間、少女の世界の人間として存在できるのに。
しかし京極は耐えられない。自分の行為が、他者の狭量な常識とやらに当て嵌められて解釈されることに、彼は耐えられない。
「えっ、だけど、それじゃ何で私をその、襲ったりしたんですか?
ま、まさか殺し合いに乗って本当に他の人たちを皆殺しにする気だったとか……?」
「真逆――あんな誇大妄想狂の戯言を真に受けるつもりはないよ。
ただこの状況下、この場所で君と出会ったというだけで、僕が君を襲った事に何らあの虚気者の影響はない」
「でも、それじゃあまるで私を襲う理由がないじゃないですか」
「理由……犯罪を行う動機か」
京極の無精髭の生えた口元を歪ませる。嘲笑ったか。それとも顔を顰めたか。両方だ。
「動機……動機など世間を納得させる為だけに必要とされる幻想に過ぎない。
そんなものには何の価値もないよ」
「はい?」
京極の答えに、時田が頓狂な声を出す。
「で、でも、動機って大事なんじゃないんですか?
刑事ドラマでもみんな動機を調べて犯人を捕まえてるし……」
しどろもどろに問いかける時田に、京極はいいかね、と打って変わって落ち着いた態度で、諭すように前置きをした。
「犯罪、特に殺人などといった行為はね、並べて痙攣的な行いなんだ。
犯罪者と非犯罪者を隔てるのは、犯行を行う切っ掛け……ほんの一瞬に魔が差すか差さないかという、たったそれだけの違いに過ぎない。
しかしそれを――犯罪者の精神と自分たちの精神の間に大した違いなどないことを認めたくない市井の自称罪無き一般市民とやらが
自分たちは犯罪者とは違うのだと遠まわしに証明するために動機などというものを必要とし、動機などというものを信じ込むんだ。
動機を自供する犯罪者自身にしたってそうさ。自供内容を考えている時点で、犯人は自分の過去の犯罪を客観的に観察している
第三者に過ぎなくなっているんだからね。そして動機などという自己欺瞞を考え出すのだ。
成程――君はこう反論するかもしれないね。世には予め計画の準備された殺人もあるのではないかと。
しかしね、誰かを殺したいなんて思考は、僕でも君でも、程度の差こそあれ誰でも心の中に持っているものなんだ。
それを現実に犯行を為すには、やはり『魔が差す』必要があるのさ。それだけの違いなんだ。
しかし世間の人間はそれを認めたがらない。自分も魔が差せば犯罪を行う……という事実を直視するのが恐ろしいのだね。
それ故に世間の人間は犯罪者に動機を求める。犯罪者は異常な環境下、異常な心理状態でこそ悪行を為したのだと納得したいのだ。
故に、犯罪者の動機がありがちであればあるほど犯罪は信憑性を増し、深刻であればあるほど世間は納得する。
そうやって犯罪者を自分たちの日常から切り離し、穢れとして彼岸の匣に封じて安心を得ようとする……。
無意味蒙昧な愚行だ……愚行だよ……愚行愚行……」
長口上を休みなく澱みなく述べる京極は、先程の口下手な男とはまるで別人のようだった。
呆気にとられて彼の語りを聞いている少女の目には、京極が何かに取り憑かれたように映るかもしれない。
しかしこれこそが京極自身の、京極の理性の叫びだった。
其の様子はまるで、自分が殺そうとした少女に対して必死に何事かを釈明しているように
否、少女を越えた向こう側にある世界に対して、誰にも理解されない真実を必死で暴き立てているように見えた。
「つ、つまりですね……京極さんが私を襲ったのは、単に魔が差したからだと……?」
京極の突然の変化に面食らい、混乱し、頭のアホ毛を?の形状に変形させながらも
時田は何とか彼の話を理解しようと努め、質問を続ける。
その発言を受けて京極が更に言の葉を紡ごうとした其の時――
やって来た
再びやって来た
『あいつ』が、京極の心の中にやって来た。
□
呼吸が荒くなり、目が充血し、体中から脂汗が湧き出すのが分かる。
京極の異変に気付いたのか、目の前の少女は怯えた顔になった。
この娘を□したい。■したい。■■したい。
沸き上がるこの衝動は自分の意志ではどうすることもできない。
今の自分は身動きが取れない。今の自分は凶器を持たない。
そんな事情などでは、『あいつ』を止める事など出来はしない。
『あいつ』さえ――『あいつ』さえ来なければ、自分も人を殺したり、その罪を他人に擦り付けたりせずに済んだのに。
少女は怯えて後退る。その背後にいる異星の美女の貌は――
女の彫像のような口元が、笑っているように見えるのは気のせいだろうか?
女のその顔を見た時、少しだけ、何故だか京極は理性を取り戻した。
「匣……」
「えっ?」
「匣は……匣はないかね……
人が一人入れるくらいの大きさの匣だ……」
「箱って……セスペェリアさん、そんなものありましたっけ?」
「そうね……たしか物置部屋に人が隠れられそうなダンボール箱があったけど」
僥倖だ。
最早一刻の猶予もない。自分の理性が潰える前に、『あいつ』が通るのをやり過ごさなくては。
「その匣をここに持ってきて……匣の中に僕を詰めてくれ」
「――えぇ……?」
唐突な謎のリクエストに、時田は狂人を見るような目でこちらを見てくる。
この娘は分かっちゃいない。狂ってるから匣に入るんじゃない。狂わないために匣に入る必要があるのだ。
『あいつ』に憑かれる前に――――
故に京極は叫ぶ。
「早く……!早くしてくれ!間に合わなくなっても知らんぞ!」
■
持ってきたダンボール匣に、時田とセスペェリアは二人がかりで拘束されたままの京極の身体を詰めてくれた。
「隙間の無いようにみつしりと詰め込んでくれたまえ……。隙間はいかんのだ。隙間には良くないモノが湧く……」
京極の面倒臭い要求通りに、二人の女性は京極をみつしりと匣の中に詰め込んだ。
今、京極の身体は匣の中にみつしりと詰まっている。
嗚呼
安心する。
こうして閉ざされた空間の中にみつしりと詰まることが、『あいつ』を遣り過ごす唯一の手段なのだ。
何時でもこう上手くいく訳ではない。今回はダンボールがあって幸運だった。
親指を内側に握りしめる。
ここは暗い。
そして静かだ。
「ほう」
溜め息が、京極の口から漏れた。
そしてそれきり、京極竹人は何も答えなくなった。
最終更新:2015年07月12日 02:57