一年前。悪名高いカラミティ(災害)は捕縛された。
 実に呆気なく、原始的な制圧術によって。

 開闢以後、それはジェーン・マッドハッターにとって、初めての経験だった。
 防弾チョッキを貫通し、急所を穿つ筈のボールペンは呆気なく素手の掌底で弾かれ、後方に跳ねていった。
 瞬きの間に頸動脈を裂く筈の頭髪は、自然の摂理にしたがって首の表皮を滑るだけ。
 ならばと繰り出したライターによる火炎放射は当然のように不発。

 唖然としている隙に胸ぐらを掴まれ、地面に引き倒される。
 寝技によって両の腕と足の自由を奪われ、しかし常ならば、そこからでも逆転の目があった。
 仰向けに倒れた体勢のまま、拘束に掛かる敵の顔面に唾を吐きかける。
 唾の中にはあらかじめ口に含んでいた小石が混じっており、直撃を浴びた敵の頭は至近距離で銃弾を食らったように弾け―――

「……な……んで……?」
「無駄な抵抗はやめなさい。カラミティ・ジェーン」

 ぽたりと、敵の額に付着していた小石が、ジェーンの頬に落下する。
 覆いかぶさっている赤い髪の女は表情ひとつ変えず、その悪あがきを受け止めていた。
 顔はジェーンの唾をまとも食らって、まるで無傷。
 しかしそれは、思えば当たり前の事であった。

 軽く振られたボールペンは掌打と拮抗しない。
 頭髪は首を切り裂かない。
 ライターは大量の炎を散布しない。
 吐き出された小石は、額を貫かない。
 普通のことだ。普通の人間が振るう暴力ならば、当たり前のことだ。
 しかしジェーンにとっては、ずっとそうではなかったのに。

「わたくしの超力は『超力の無効化』。貴女の力は通用しません」

 開闢以後、それはジェーン・マッドハッターにとって、初めての経験だった。
 殺そうと思って殺せなかった敵など、この日まで、彼女の前に現れることは無かったのだ。
 “欧州超力警察機構”の女が備えた『超力の無効化』の力、それは能力を犯罪に使う者達にとっての天敵だった。
 振るう物質に過剰なまでの殺傷力を付与するという、ジェーンの歪みを真っ向正す、正しき力。

 ジェーンは心から安堵した。
 やっと、来てくれたのだと。

「遅いよ。ほんと」  

 今日まで、数え切れないほどの罪を重ねてきた。
 数え切れないほどの人間を殺してきた。
 生きるために、殺して、殺して、殺し続けて。
 生きるために、仕方ないと割り切ることすら出来なかった。

 こんな力を与えられてしまったから。
 最初は過失だった。殺したくなんてなかった。
 殺した人の顔を、誰も忘れることができない。
 死者の夢に、うなされなかった夜はない。
 だけど、そんなこと、何一つ、免罪符にはならない。

 ジェーンがそれを悪だと自認している。
 それが全てだった。

 ずっと、間違っていると思っていた。
 こんな血塗られた超力、それを抱えたまま生きる自分、そんな自分を生かし続ける世界のそのもの。
 全部、全部、全部、大嫌いだった。

「殺しなよ、ほら」

 報いを待っていた。
 正される日を待っていた。
 正しい人が、正しい力で、終わらせてくれる日が今日なのだと。
 なのに、やっと巡り会えた天敵は、

「殺しませんよ。カラミティ……いえ、ジェーン・マッドハッター。貴女を、拘束します」

 ジェーンの腕に、システムAを内蔵した手錠を嵌めた。

「なんでだよ……殺してよ……アンタなら出来るでしょ?」

 心から羨望を覚える。
 目の前の女を、正しい力を与えられた者を、ジェーンは妬ましく思う。

「殺しません」
「殺してよ……こんな力を持って……こんな世界で……生きてたってしかたないよ」
「殺しません。だって……この世界には……生きる価値があるから……」

 語られる説法じみた言葉に、苛立ちが湧き上がる。
 だけど何故か、ジェーンは反論することが出来なかった。

「この世界には……生きる価値がある……守る価値がある……」

 それは、女がジェーンと同じくらい、苦しそうに、呻くように話していたから。

「そうじゃなきゃ……」

 そうであってほしいと、何かに縋り付くように。 

「そうじゃなきゃ……彼はいったい……なんのために……」

 まるで、自分自身に言い聞かせるように。





「ジェーン!」

 何度目かの呼び声に前を走る背中が僅かに反応し、少しずつ距離が詰まっていく。
 ああ、よかった。聞こえてないのかと思った。
 長く伸びた通路の途中。やっと足を止めた少女に追いついた私は、ぜえぜえと息を切らしながらその肩に手を置いた。

「ちょっと……いくらなんでも……飛ばしすぎだって……!」
「あ……ごめん」

 はっとしたように振り返りながら、ジェーン・マッドハッターはバツが悪そうに詫びる。
 次いでごまかすように、そっぽを向きながら一言を添えた。

「いや、でも、メリリンこそ体力なさすぎじゃない? 私、別にそこまで全力で走ってないけど」
「あのねぇ、育ち盛りのネイティブ世代と一緒にしないでよ。それに身軽な状態ならともかく、この装備抱えながらじゃ流石にしんどいって」

 ほれ見ろ、と。
 腰に手を当てながら汗だくの状況をアピール。
 私の肘に引っ付いた金属板が、がちゃがちゃと音をたてて揺れる。

 身に纏うプレートアーマーは移動に際して一部取り外し、随伴するラジコンとドローンに運ばせているけれど。
 流石に全部のパーツを外すわけにも行かなかった。
 肩や肘、脛など、私の身体には今も重りが装着されたままなのだ。
 いくら開闢を経た人類と言っても、この状態で動き続ければ当然じわじわ体力を消耗してしまう。

「焦る気持ちは私も一緒。だけど目標を見つけてからが本番なんだからさ」
「……ごめん、ごめん、そうだったね。あと少し行けば次のエリアだし、休憩がてら歩いていこう」
「ん、わかればよろしい」

 エントランスで発生した戦闘をローマンに任せ、私とジェーンは西側のエリアに入っていた。
 ブラックペンタゴン1階、南西第2ブロック、温室エリア。
 それが、いま、私たちの現在地。

 東側の工場エリアとは打って変わって、色彩に満ちた空間だった。
 殺し合いの場には不釣り合いな長閑さ。
 通路の左右には樹木が生い茂り、人工の日差しが降り注ぐ。
 天井と壁には、ご丁寧に青空のホログラムまで展開されていて、まるで建物の外に出たかのような錯覚に陥りそうになる。

「やっぱり、ドミニカが気になる?」 
「まあね、だけどメリリンの言う通り、焦ってがむしゃらに走り回ってもしょうがないし……」

 ジェーンは私に気を使っているのか、できる限り冷静に振る舞っているようだけど。
 やっぱり、少し焦っているのが伝わってきた。

 無理もない。気持ちは私も一緒だ。私たちにはタイムリミットがある。
 事象改変型の能力。メアリー・エバンスの接近。
 産声を上げた瞬間に周囲の人間を殺戮したという、危険極まる超力を撒き散らす少女が、すぐそこまで迫っている。

「さっきも、走りながら考え込んでたみたいけだけど」
「ああ、それはまた別のことよ」

 2人分の足音が、清掃の行き届いた廊下に反響している。
 見たところ、温室エリアに人は居ないようだった。
 先客が残したと思われる痕跡もない。ここに入ったのは私たちが最初なのだろうか。

「ソフィア・チェリー・ブロッサムのこと、思い出してたわ」

 それは、今の私達の目標。
 見つけなければならない人物の名前だった。

「ジェーンはその、ソフィアに捕まったのよね?」
「一年前にね。まさか、あっちもアビスに堕ちてくるなんて思わなかったけど」

 事象改変型への数少ない対抗策。超力を無効化する能力者。
 災害を止めるため、一人立ち向かったドミニカ・マリノフスキ。彼女の託した人探し。

 冷静に考えれば、ジェーンには逃げるという選択肢もあった筈だ。
 私を見捨て、ドミニカを見捨て、ブラックペンタゴンを離れることだって出来た。
 だけどジェーンは、それをしなかった。


 なんとなくだけど、いまのジェーンは出会った時の彼女とは少し違って見える。
 ドミニカとジェーンの間に、どんなやりとりがあったのか、私は知らない。
 だけどいま、ジェーンが滲ませる感情には、私との契約とはまた別の、彼女自身の目的のようなものがあるように思えた。
 あるいはこれが、素の彼女……なのだろうか?

「メリリンこそ、よかったの?」
「……え、え? なにが?」

 なんて考えていたところに、急に話を振られ、つい聞き返してしまった。

「いたんでしょ、貴女の標的」
「気づいてたんだ……」
「事前に聞いてた話で、軍勢型(レギオン)じゃないかとは思ってたからね。だけど正直驚いた。
 実在するんだね、ああいうの。ハイブのニュースで知ってはいたけど、直に見るのは初めてよ」

 エントランスでの戦闘。
 ジェーンが参加したのは一瞬だったけど、それだけで彼女は見抜いたようだった。

 そう、確かに、あそこにいた。
 私の標的、ジェーンに殺害を依頼した対象。
 私の親友を殺した。サリヤを殺した。そして殺すだけじゃ飽き足らず、死後まで冒涜した許しがたい存在。

「残ってもよかったのに」

 戦いの決着は、まだついていない。
 果たしてローマンが奴に勝てるのか、それは分からない。
 気にならない、なんて言えば嘘になる。

「気を使わなくていいよ。私はいま、メリリンとの契約より、ドミニカとの約束を優先してる。
 メリリンとの契約のほうが先だったのに。これはきっと、不義理だ。その自覚はある。だから、メリリンが私に付き合う必要ないよ。
 なんなら今からでも戻ったって……」
「ううん、これでいい。だって私が……足引っ張ってたから」

 ネイ・ローマンは強い。
 人格はアレだけど。その力は本物だ。
 それは、これまでの戦いでよく分かってた。
 ジェーンとドミニカを同時に制圧した圧倒的な超力。
 それが何故、先の戦いでアレほどの苦戦を強いられていたのか。

 分かってる。私だ。私が邪魔だったんだ。
 ローマンの超力は周囲を巻き込む。
 つまり、たった一人でこそ、その真価を発揮する。
 誰かを慮りながらの戦闘じゃあ、実力の半分も出せない。

 彼は孤高のギャングスタ。それでこその強さ。
 なんか盾にされたり、一緒くたにぶっ飛ばされたりもしたけど、それでもあいつは力を抑えてた。
 つまり、ようするに、本当に、ほんとにほんと~にムカつくけど、認めるしかない。
 私は、守られていた。私こそが、あいつのハンデになっていたんだ。
 それが分かったから、離れるのが正しい。仇を、討ち倒してくれるなら、可能性が高い方に賭けるべきだ。

「それにほら、ローマンが勝てなかった時は、ジェーンが契約を果たしてくれるんでしょ? 頼りにしてるから」
「……まあ、ね。そのために追いかけたわけだし」

 ほんの少し、今までと違うリアクション。 
 照れたように、メッシュのかかった髪を触るジェーンの表情は、漸く見せた年相応の反応だった。

「ほら、もう次のブロックに入るよ。警戒して」

 足早にジェーンを追い抜いて、連絡通路の終端に至る。
 後ろ髪を引かれる思いはあるけれど、振り切って進むと決めたのだ。
 この決断は正しい、そう信じて、進むしかない。

「だけど……メリリン……本当にいいの?」 
「いいんだって、しつこいな。最終的に奴を倒せれば、私はそれでいいんだから」
「……でも」

 通路の開閉装置に手を掛ける。

「でもメリリンは……さ」

 そのとき、ジェーンが言おうとして。
 口ごもって、結局、小さく声にした言葉は、

「もう一度、話したかったんじゃないの? あいつと」

 聞こえないふりをして、扉を開いた。





 たった数時間前、いまと同じ図書室にて。

『軍勢型(レギオン)の出現が社会に与えた影響について、ソフィアは知っていますか?』

 紙と指の摩擦する、かすかな音が耳に残っている。
 木製の椅子に腰掛けたソフィア・チェリー・ブロッサムの傍らで、女は顔を綻ばせながら手記の頁を捲っていた。
 からからと、常のように、友人に向ける朗らかな表情のまま。

『意思が肉体を離れて存在する現象の観測。つまり、魂の存在証明……ですわね。それがなにか?』

 さすがはGPAの捜査官、博識ですね。
 などと、軽口を叩きながら、ルクレツィア・ファルネーゼは手に持った本の表紙を掲げてみせた。

『"超力のシステム化、その最終段階ついての所見"。
 狂気の科学者、シエンシアによる研究手記のようです。闇市場に流せば途方もない値が付きますよ?』
『科学にも、お金にも、貴女は興味なんてないでしょうに』
『ふふ……仰るとおり、後者についてはそうですね。しかし前者、彼女の研究内容については、前々から気になっていたのです』
『どうせ凄惨な人体実験の内容が気になるとか、そういう話でしょう? 貴女のことですから』
『あら、ソフィアも随分、私の事を理解してくれるようになったのですね。うれしいことです』

 本当に嬉しそうなルクレツィアから、ソフィアは鼻を鳴らして視線を逸らす。
 貴女の言いそうなことなんて、ちょっと関われば分かるでしょう。
 なんて不毛なツッコミは体力の無駄だと分かっている。

『それで、マッドサイエンティストの実験は、貴女の眼鏡にかなったのです?』

 自分から話題を逸らすために聞いた直後、しまったと思った。
 それを聞いてしまっては、結局話に乗る結果に違いはないのに。
 案の定、ルクレツィアはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに目を輝かせ。

『実に興味深いですよ。
 たとえばいま、丁度読んでいるのですが、シエンシアが産み出した"失敗作"の一つ。
 軍勢型(レギオン)、コードネーム:ハイヴ(巣)の項なんて特に』

 なるほど、それでさっきの話に繋がるのかと納得し、先を促す。

『欧州潜伏期のシエンシアが、身寄りのないストリートチルドレンの赤子を実験台にして産み出した怪物。
 ハイオールドの技術をデザインネイティブに応用して造られたハイブリッド型新人類。
 その存在が明るみに出たとき、それはそれは大変な騒ぎになりましたね』

 一時、欧州を震え上がらせた怪物(ハイヴ)のニュースについては、ソフィアもよく憶えていた。
 殺害した者の魂を収穫し、際限なく総体を増やす群生。
 死者を引き連れるその悍ましき特性と、それ以上に世間を脅かしたもの。

 それは彼女らが、魂の実在を証明してしまったことだ。
 死後の概念。肉体を離れる意思が観測されたという事実に、どれほど多くの宗教が脅かされたかは想像に難くない。 

『実験は凄惨を極めたことでしょう。
 幼い少女の身体を絶え間なく切り刻み、その尊厳を徹底的に破壊する。
 長い地獄の日々の果て、孤独な彼女が悍ましき力に目覚めるまでに受け続けたその苦痛、苦悩、苦悶……絶望!』

 テンションが上がってきたかに見えたルクレツィアが徐々に語調を強め。
 げんなりするソフィアの反応に構わず、両手を広げて。

『が、全く書かれていませんでした。
 実に期待外れです。ゴミですねこの手記は』

 ポイッと、本を投げ捨てた。



 闇市場に持ち込めば億万長者も夢ではない希少な文書が、ホコリまみれの床を滑っていく。

『貴女の期待した残虐(スプラッタ)は書いてなかったと?』
『いいえ、ありましたよ。脳のどの部分を切り取って、どの部分に電極を刺して、どのくらい長い苦痛を与えて。
 けれどもソフィア、そんなことは全く重要ではないのです。
 解体する手順なんてどうでもいい。肝心なのは感情、少女の魂が受容した感情こそが重要なのです』
『著者にとって重要でなかったというだけでは……』

 ルクレツィアは不満げに、若干の怒りすら滲ませて話す。

『だとすれば、この著者は実につまらない。
 加虐する対象の感情に興味が無いなんて、生命に対して全く誠実ではありません』

 同じく人を殺すものとして、命を弄ぶものとして。
 それを蔑ろにするなんてありえない。

 なんて勿体ない。他者を殺すならば、傷つけるならば、徹底的に味わうのが礼儀だ。
 苦しみに喘ぐ生の感情まで、残らず平らげてこそ。
 それがルクレツィアにとって、他者を慈しむという、当たり前の作法なのだと。

『あら、これも中々……』

 早々に手記から興味を失い、次の本へと手を伸ばすルクレツィア。
 対して、ソフィアはいま少し、先程のやり取りに囚われていた。

『……魂が、実在するなら』

 昔、大好な人に、教えてもらったことがある。
 東洋には輪廻転生という思想があるらしい。
 人の死後、魂は巡り、生まれ直して新たな人生を始めるのだと。 

 ならば、自らの存在そのものを消失させた彼の魂は、世界から忘れ去られた彼の人生は、どこに行ったのだろう。
 どこにも行けないまま、果てしない虚無に落ちていったのか。
 それとも、いまもあの場所に、取り残されているのか。

 世界を救ったのに。自らを犠牲に、何もかも取りこぼさないように、戦ったのに。
 世界は彼を顧みないまま、魂さえも、今は世界のどこにも残されていない。
 記憶だけがある、ソフィアの中に、今も、大好きだった彼の笑顔が。

『ルクレツィアは、地獄があると信じますか?』
『さて、どうでしょう?』

 自分が死ぬとき、どこに行くのだろうと思う。
 ソフィアは少し考えて、意味のない思考だと切り捨てた。
 何れにせよ、彼と同じ場所には、たどり着けないだろうから。

『でも……あれば素敵だと思いますよ。
 死後にまで味わえる感情(くつう)があるなら。それは喜ばしいことですから』





 どうして、いま、そんなことを思い出すのだろう。
 飛散する木片を躱しながら、ソフィアの思考は漠然と流れている。

 やはり、図書室に戻ってきたことが大きな要因だろうか。
 頭上で砕けた椅子の背もたれに、ルクレツィアが腰掛けていたことを思い出し、それが回想の契機となったのか。
 ぐわんと回転する視界の端に、彼女が投げ捨てた書物が映り込んだからか。
 あるいは―――

「……こん……のォ……!」

 振り下ろされたナイフが眼球の一センチ手前で静止する。
 咄嗟に左手で対敵の手首を掴み、力の天秤を拮抗させた。
 組み敷かれた体勢は明確に不利ではあるが、未だ勝負はついていない。

「いい加減……くたばり……やが……れ……!」

 今、ソフィアの目に刃を突き立てようとしている男―――ジェイ・ハリックは舞い込んだ好機を逃すつもりはないらしく。
 握る木製のナイフに全体重をかけ、抵抗を突破するべく筋力を総動員させている。
 床に叩きつけられた衝撃による混乱から意識を鮮明に戻すまで、僅かな隙があった。
 その隙が窮地を呼び込んでいる。いや、そもそも、なぜ転倒する羽目に遭ったのか。

 そこまで考えて、漸く思い出す。
 回転する視界の端、ルクレツィアが床に放り投げた本、それに足を取られたのだ。

「―――ッ!」

 ソフィアの思考が瞬時に白熱する。
 ならば結局あの女のせいじゃないか。こうなったのも全部。
 あの女に出会ってから、全部上手くいかない、何もかもが狂っていく。
 湧き上がる怒り、苛立ちが、より意識をハッキリさせ、取るべく対処を明確にした。

 右手を突き出して、自らナイフの刃先に掌をぶつける。
 当然、切先が皮膚と肉を貫通し、鋭い痛みと共に鮮血が溢れ出た。

 驚きに目を見開くジェイ、彼もソフィアの狙いに気付いた筈だ。
 しかし遅い。ナイフを掌に固定した状態のまま、身体を折りたたむようにして、男の胴体との間に両足を差し込んだ。

「……なっ!」

 上方へと一気に伸ばした脚が、ジェイの下半身を持ち上げる。
 同時に後転、巴投げの要領で状況をクリア。
 密着していた身体が一時的に離れる。

 ソフィアの打開策は不利な体勢の解消だけに留まらない。
 背中から床に叩きつけられたジェイは朦朧としつつも、強靭な意思でナイフを手放さなかった。
 それが生命線であることを理解しているのだろう。

 しかしソフィアも、彼が粘ることは見越していた。
 跳ね起き、今度はこちらがマウントポジションに移行する。
 ソフィアの右手には貫通したナイフが固定されている。
 ジェイの掌ごと握り込み、刃を敵の胸に向け落下させるべく体重をかけた。

「……くそ……が」

 数秒前とは全く逆の構図。
 今度はジェイが抵抗する番だった。
 男はナイフとの間に両腕を差し込み、刃の落下を遅らせる。
 しかし、寝技の土俵ではソフィアの技量に軍配が上るようだった。
 両足の動きを封じ、腕力による延命以上の抵抗を封じている。

 ―――勝てる。
 ソフィアはそう直感した。

 相当の苦戦を強いられたものの、ギリギリで勝ちの目が見えた。
 危ない場面は何度もあった。
 ジェイの展開する暗殺術は戦いが長引くほどにキレを増し、少しずつ全盛に戻ろうとしているようだった。
 しかし彼のブランクが解消し切る前に接近戦に持ち込めたこと。
 なにより、暗殺者相手に、"存在が判明している状態"で戦闘を始められたこと。
 この二点、特に後者の要因が大きかった。

 暗殺術とは、存在の秘匿が大前提。
 活動が露見しては本領が発揮できない。

 ―――勝てる。
 確信を深める。

 ならば残る問題があるとすれば、一つだけ。

「ハ――殺すか? 俺を」
「…………」

 殺せるのか、ということ。

「……なに迷ってんだよ、ええ?」

 逡巡を見抜かれている。
 なにが敵に伝わったのか。
 手の震え、瞳の揺らぎ、僅かな発汗。 
 あるいは何れかの複合なのか、ソフィア自身には分からない。


 相手は無期懲役の罪人。それは、殺す正当性として妥当なのか。
 いったいどれほどの罪科が殺害を良しとする。
 ソフィアは未だ、答えを出せずにいた。

『―――ソフィア』

 どうして、いま、そんなことを思い出すのだろう。
 ゆっくりと落ちていくナイフの切先、力の天秤が傾き始めた。
 ソフィアの思考は、漠然と流れている。

『―――友人になりましょう』

 やはり、図書館に戻ってきたことが大きな要因だろうか。
 彼女が投げ捨てた本を見たからなのか。
 あるいは―――


「―――ソフィア・チェリー・ブロッサム!!」


 これが、最後の機会だから、なのだろうか。



「話を聞いてッ!」


 ソフィアの動きが、ナイフを振り下ろす体勢のまま止まった。 
 焦点は未だジェイの眉間で結ばれたまま、周辺視野で現れた二人組を認識する。

「メアリー・エバンスが、領域を拡大しながら近づいてきてる」

 南側の通路から侵入してきた女が二人。
 新手であれば、どのように対処するかを思考しつつ。
 事はそう単純ではないと、冷静な頭は既に結論を出している。

 二人組の片方はソフィアの姿を見るなり名前を読んだ。
 つまり、外見を把握されている相手。声、髪色、一瞬だけ飛ばした目線に捉えた特徴が、1年前の記憶を掘り起こす。

「今はドミニカ・マリノフスキが食い止めてるけど、何分持つかもわからない」

 ジェーン・マッドハッター。
 かつて、他ならぬソフィアが逮捕した女だった。

「もう、こんなところで、殺し合いなんてしてる場合じゃないんだよ!」 

 よく通る声だった。
 そして、切実さを滲ませる口調だった。

 本当だとするならば、確かにこんな事をしている場合ではない。
 メアリー・エバンスの脅威なら、ソフィアだって知っている。
 彼女達がソフィアを探していた理由も自明だ。
『超力の無効化』、それはメアリーという災害に対して、この上ないワイルドカードなのだから。

 何れにせよ、逃げるか、食い止めるか。
 だれもが今すぐ決断し、対処を強いられている。
 しかしそれは――ソフィアだけは例外であり。

「私たちと来て欲しい。協力してメアリーを―――」 

 声が遠くなっていく。
 聴覚が歪んでいく。

 ああ、まただ。
 ソフィアはまず、最初に思った。

 まただ、また機会がやってきた。
 殺し合いの場に放り込まれて、これが二度目。
 いや、三度目の機会になる。

 前回は、"葉月りんか"と"交尾紗奈"、あの純真な少女たちと出会ったとき。
 ソフィアは素晴らしい機会を得た。
 暗がりの道を引き返し、間違いを正し、日の当たる場所に戻る転機を。
 なのにソフィアは、天から慈悲のように与えられたその機会を棒に振った。
 愚かにも、庇護すべき少女たちと別れ、過ちを継続した。


 今、寛大な神はもう一度チャンスを与えてくれたのかもしれない。
 いまこそ正義の志を思い出し、醜き迷いと葛藤から開放される。
 現れた二人は福音だ。彼女らと共に行けば、それが叶うだろう。
 メアリー、災害の接近。対処できるのは自分だけ。まるでこの日のために誂えたような超力だ。

 かつて、ソフィアを好いてくれたあの人に、大好きだった彼に、誇れる自分に戻ることが出来る。
 これ以上の機会はきっと訪れない。
 あるいは、神様はどうしても、"それを言わせたいのだろうか"とも思った。
 迷うまでもないことだ。答えは、最初から出ていたのだから。

「……どうして?」

 ジェーンが動揺の声を上げていた。
 ソフィアの手元でナイフの刃が砕ける。
 いつの間にか、ジェーンの握るボルトガンが、刀身を撃ち抜いたようだった。

 ソフィアは手から木片を払い、止血しながら後方に飛び退く。
 周辺に展開されたドローンからボルトが連射され、さっきまでソフィアが居た場所を撃ち抜いていた。
 結果として窮地を脱したジェイは床を這いずり、本棚の影に身を滑り込ませる。

「どうしてなの?」

 ジェーンの問いが重ねられる。意味のない行為だった。
 ソフィアが渾身の力を込めて、ジェイの首ににナイフを振り下ろそうとした。
 その予備動作を見取り妨害したのならば、質問に答えるまでもなく状況は明らかなのに。

「どうしてよ……ソフィア」

 あるいは、ジェーンはそうであることを、認めたくないのだろうか。
 おかしな話だとソフィアは思う。
 それは、ソフィア自身が、ずっと認め難い事実だった。
 だけど今、運命はソフィアに直面を強いている。

『―――ソフィア』

 何故かいま、彼女の言葉を思い出す。
 彼ではなく、彼女の。

 きっと、これが最後の機会だから。
 きっと、それが最初の機会だったから。

 いいのだろうか。
 ソフィアは最後まで逡巡する。

 いいのだろうか。
 そのように振る舞っても。 

『私がグレゴリー・ペックだったなら』

 いいのだろうか。
 身勝手に、罪深く、自らのエゴを押し通すように生きても。

『間違いなくあのままオードリーを監禁していたと思います』

 いい筈がない。すべて、間違っている。
 彼女は、ルクレツィア・ファルネーゼは正しくない、間違っている。

 だけどソフィアはこの刑務で、彼女をずっと見てきた。
 彼女と過ごして、生き様に触れて。
 そして、思ってしまったのだ。

「どうして、ですか」

 あんなふうに、生きられたなら。
 身勝手に、罪深く、我欲を押し通すように生きられたなら。

 あのとき世界を滅ぼしてでも、彼をさらって逃げてしまえたなら。
 彼女のように、間違えて、しまえたなら。
 彼女のように、そう、彼女のように―――

「ごめんなさい、ジェーン」

 堕ちる桜花はようやく、花弁が朱に染まっていることを自覚した。
 三度目の機会にそれを告げる。

「わたくしは、もう―――悪人なのです」





 蹴り上げられた辞書が空中で凶刃の塊に変ずる。
 ばらりと開かれた頁の一枚一枚、かするだけで肉を裂き骨を絶つ。
 直撃なんて受けてしまえば、もちろん人体にひとたまりのない損壊を及ぼすだろう。

 私の隣から射出されたその一撃。
 ジェーンの超力、災害(カラミティ)とまで呼ばれた超力の真骨頂。
 もし狙われたのが私なら、避ける以前に認識する事もできず死んでいてもおかしくない。
 それほどの攻勢を、ソフィア・チェリー・ブロッサムは呆気なく片手で払い飛ばした。

 噂に違わぬ超力無効化。
 あの真紅の人狼にすら深手を通した殺傷力を、ただの投擲の域に戻してしまう。

 素早く床を滑り、机の下をくぐり抜け、こちらに突っ込んでくるソフィア。
 対応の構えをとったジェーンに対し、咄嗟に私は叫んでいた。

「だめっ! 下がって、ジェーン!」

 ジェーンの目が見開かれた。
 失策に気づいたのか、だけどもう遅い。
 既にソフィアは、彼女の間合いまで距離を詰め切っている。

 至近距離で打ち出された打撃技。その狙いは明らかだった。
 突きから払いに軌道を変じた手刀が、ジェーンの手首に直撃する。
 宙を舞う金属の塊、事前に渡していたボルトガンが弾き飛ばされた。

 おそらくソフィアの側に飛び道具はない。
 ゆえに武装の優位を奪い、状況をイーブンにするための、実に冷静で論理的な判断。
 しかも私がドローンで援護しようにも、ここまで近づかれたらジェーンが邪魔で狙えない。

 ―――まずい。どうして。

 私の脳内を、その一言が席巻する。
 ソフィア・チェリー・ブロッサムが協力を拒み、敵対してしまう。
 今の状況は想定して然るべきだった。いや、想定していたはずなのに。

 少なくともローマンはこの状況を見越していて、事前に取り決めまでしていたのに。
 だから私が驚いたのはソフィアに、ではなくて、ジェーンに対してだ。
 彼女がソフィアの行動に、こんな凡ミスをおかすほどのショックを受けるなんて。

「―――補え、私の愛する人工物質(モルデオ・アルティフィシアル)ッ!」

 打撃戦を開始した二人に向かって、私も意を決して突っ込んでいく。 
 踏み込みに合わせ、ドローンとラジコンが私の周囲を旋回し、瞬く間に全身を金属のプレートが覆う。

「どっりぁああああああああああ!!」

 鉄の塊になって飛びかかる私を察知した二人は、さすがの対応力で身を躱していた。
 結果として、私は図書室の柱に思いっきしぶつかる羽目に遭ったけど。
 でもかわりに、目的を果たすことは出来た。 

「交代交代ッ! 相手が逆でしょうが!」
「ごめん、そうだった!」

 私がソフィアと対峙し、同時にジェーンが瞬時に後ろに下がり、前衛と後衛がスイッチする。
 なんか癪だけど、ここはローマンの采配通りいこう。

 後方で待機させていたドローンとラジコンが起動し、ソフィアを取り囲んでいく。
 複数の角度から放たれたボルトガンの攻撃を、彼女は床を転がり、障害物を盾にして躱しきったけど。
 つまりそれは、躱す必要があるということだ。

「痛った!」

 躱し際にソフィアが投げつけたのだろう、物陰から飛んできた椅子が私の胴に直撃する。
 衝撃と痛みに、よろよろと後ろに下がる。だけど、逆に言うとそれで済んでる。ジェーンの殺傷力とは比べるべくもない。
 無効化能力は確かに厄介だけど、ソフィアの振るう攻撃も、常識的な範囲に留まるのだ。

『ソフィアがゴネるようなら、メリリン、お前ががシメろ』

 ローマンの読み通り、確かに私にとって相性は悪くない。
 "既に造った機械"は無効化の範疇を出ているし、アーマーは生半可な打撃を通さない。
 だけど問題はここから。シメろって言ったって彼女を説得することは可能なのか。

 それに状況は彼の言ったパターンよりもうちょっと複雑だ。
 図書室にいる敵はソフィアだけじゃない。

「させないよ」

 金属性の物質同士が衝突するような、耳障りな高音が私の首元で鳴った。
 気づかない内に私の真横に知らない男が立っていて、その間にジェーンが割り込んでいる。
 異様な光景だった。ジェーンは数本の髪の毛を両手でぴんと伸ばし、翳したそれで男の握る透明なナニカを受け止めている。
 ジェーンが指で弾いたナットが男の脇腹を裂き、男の振り切った不可視の武器が、ジェーンの頬を掠める。


 危なかった。いくらプレートで身を固めていても、鎧の隙間に差し込まれたら致命傷を負いかねない。
 一瞬の攻防の中で、ジェーンがいなければ、既に私は生きていなかっただろう。

「んだよ、同業者か?」
「かもね、アンタみたいなのが考えそうなことは、だいたい分かるんだよ」

 連射されるジェーンの指弾を、男は床を転がりながら避け、腕を一振した。
 その手には何も握られていない、筈なのに。私の頭上から、何かが落ちてくる。
 ヘルメットに当たってから足元に転がったそれは、私の生成したドローンの一機だった。
 パーツの一部が不自然に抉れている。まるで、見えない刃に裂かれたように。
 次いで、物陰から声が上がった。

「ジェイ・ハリック」
「よお、姉ちゃん。俺も言おうとしてたところだ」

 その意図は明確だ。
 ソフィアの援護。私たちが来たことでパワーバランスが変わった。
 敵は、即席の連携で対応しようとしているのか。

「一時休戦といこうや」

 2対1対1から、2対2へと。

「是非もありませんわね」

 物陰から飛び出したソフィアが、一気に距離を詰めてくる。
 同時に男――ジェイ・ハリックも床を蹴った。

 二人とも、狙いは私。
 ドローンとラジコンの主を最優先で潰そうとしている。

 ジェーンもすぐさま対応した。
 私の背後、ジェイの進行方向に飛び出し、苛烈な接近戦を繰り広げる。
 超力無効化の範囲外において、二人の殺傷能力は惜しみなく発揮されていた。
 私では全く目で追えない身体捌きが展開され、血風の匂いが空間に漂い始める。

「メリリンは自分の敵を見て!」
「わかった!」

 発破に従い、ジェイの対処をジェーンに任せ、私は正面のソフィアに意識を集中させた。
 ドローンとラジコンが彼女を追い続け、装着したボルトガンを発射する。
 動き続ける標的に対して命中率は低いけど、根気強く撃ち続けることで数発被弾させることに成功した。

 数本のボルトがソフィアの足に突き刺さる。
 がくりと体勢が崩れ、床に血が流れた。

 チャンスだ。ソフィアとジェイが協力体制に移行したのは厄介だけど。
 私がソフィアを制圧できれば、この場の趨勢は一気にきまる。
 後ろのことは気になるけどジェーンを信じて、このまま物量任せの攻めで勝負をつけようと。
 残りのドローンを操ろうとしたときだった。

「――――ぁ」

 妙な物が、視界を過った。

「なんだ……? ありゃ」 

 背後でジェイの怪訝そうな声が聞こえた。
 つまり、あれは私の幻覚ではないらしい。

「人間なのか……?」

 続いてジェーンの、警戒心に満ちた声音が響く。
 ふたりとも、アレが何かはわからないようだった。
 もちろん私も分からない。

「……ァ……ォ」

 図書室の北側からにじり寄ってきた、ナニカ。
 赤黒く、濡れていて、ゴポゴポと全身から体液を撒き散らしながら進む、生物らしきもの。

「……ォ……ガ……ァ」

 血の匂いを撒き散らし、膨張した肉は沸騰するように泡立ち。
 頭頂部と思しき部分は不自然に隆起し、一定の間隔で破裂と再生を繰り返す。
 そんな、もはや人体とは見なせないような、グロテスクな物体を。

 美しく終わることの出来なかった。
 何らかの残骸を。

「ォ……ィ……ァ」

 蠢く血と肉の塊のような怪物を。

「……ソ……ィ……ァ」

 この場で、ただ一人、正しく認識できる者がいた。

「ルクレ……ツィア……?」

 ソフィアは驚愕に塗れた表情で、その成れの果てを見ていた。
 信じがたい現象に遭遇したかのように、ありえないものに行きあったように。


 対して、名を呼ばれた肉塊は、ほんの少し、身体を震わせた。
 ひしゃげた頭部が形を歪め、角度によっては、まるで笑っているように見えなくもない。

「ぉん……がぇ……ぎ」

 肉塊が、腕の一本を掲げる。

「…………き、ぎ、ぎ」

 肉塊がうめき声を上げた。
 腕の終端に、突如出現した煙管のような長物。
 それは超力、未知の力が発せられる前兆だった。

 何をするつもりだ。一体何を。
 分かっていても、動くことが出来ない。
 初見の超力に私は、対応するすべを持たなくて。

「ぎ、い、ぃぃぃぃぃぃぃぃィ!」

 せめてもの対策をするために、ドローンの構成を組み換える。

「アアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァッ!!」

 その次の瞬間、凄まじい金切り声とともに、煙管から紫煙の奔流が流れ出す。
 咄嗟にドローンを飛ばした直後、私はの全身は煙に巻かれていた。

「――――ぁ」

 実に呆気なかった。プレートの隙間から煙が入ってくる。
 腕で口を覆ったけど、それくらいじゃ何の対策にもならない。
 ほんの一瞬、僅かに吸い込んだだけで視界が霞んでいく。

 目眩がする。
 ぐわんぐわんと世界が回って、右も左も上も下も分からなくなる。
 まともな意識が、保てない。

 明滅する視界の中で、誰かの足音を聞く。 
 私はいま、立っているのか、もう倒れてしまったのか、それすらも分からない。

『―――メリリン』

 懐かしい声がする。
 視界には図書室の床、散乱する本と椅子の破片、そして傍らに立つ誰かの足。
 かろうじて動く眼球の角度を変え、ぼんやりと上を見る。

『―――あなたが、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン?』

 一瞬にして、背景が夜の酒場に切り替わる。
 ああ、幻覚だと、すぐに分かった。
 吸い込んだ紫煙には、そういう作用でもあるのだろうか。

 あれはいつだったか。
 肩代わりした両親の借金をやっとの思いで返し終え、貯蓄も家も明日の着替えも、気力も何もかも無くしたあの頃の私。
 色々どうでもよくなって、わずかに残った小銭を使って、酒場で飲んだくれていた夜のこと。

『―――私たち、きっと似たもの同士ね』

 いつかの記憶、いつかの彼女。

『―――私はサリヤ。サリヤ・―――』 

 記憶が、途切れ途切れに再生される。
 場面が高速で切り替わる。
 酒場の背景はモンタージュのように捲れ、また別の夜へと。

『―――こんなの、どうでもいい話よ。全部忘れていいわ』

 狭くて散らかった部屋だ。だけど馴染のある。
 私の部屋。向かい合う、小さなテーブルの向こう側で。
 一人の女性がワイングラスを片手に、いつか、話してくれた事があった。

『―――超力のシステム化、つまらない理論、くだらない思想、ばかげた妄想よ。だけど、その根幹は―――』

 そうだ、彼女は、あのとき。

『―――メリリン、これだけは憶えておいて』

 なんて言ってたっけ? 

『―――"銀の弾丸"は、最後までとっておくものよ』



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最終更新:2025年07月26日 22:57