月が爛爛と輝いて、水の張られた田に反射する。
心地よい風が、まだ実もつけていない稲の葉茎を静かに揺らす。
キチキチ、ジキジキとコオロギやササキリが鳴きながら、背丈の低い草葉を揺らす。
喧噪から離れた郊外にて、東から、西から、ざっざっと草を踏みしめて進んでくる人影が、互いに一定の距離を取って立ち止まる。
ゾンビの呻き声がはびこる高級住宅街や旧市街と比べれば、田園地帯はずっと平和だ。
畔の決壊や地震による虫や小動物のパニックこそあれど、ほかは平時と何も変わらない平和な地区。
仮にゾンビがいたとして、それは田畑の様子を見に来た農夫か、あるいは田畑の作物を狙う犯罪者の成れの果てくらいであろう。
まして、互いを認識して立ち止まる人影など、正常感染者以外に考えられない。
正常感染者同士ならば、それはそれで互いにターゲットであり、敵である。
見敵必殺のスタンスを取る村人や特殊部隊を除けば、声をかけるか攻撃するか、それとも背を向けて逃げるか、現れた選択肢に逡巡する時間。
けれども、そのセオリーを無視して、西から来た小さいほうの人影が、一歩先に踏み出し、もう一人に声をかけた。
「先生?」
月光に照らし出されるその背格好、服装、容姿。
東側から来た人間は、半々日前まで目にしていたスーツ姿そのままで、違いと言えば災害時の非常用持ちだし袋を背負っていることくらいだ。
そして、かけられたその声を聞いて相手の正体に気付く。
「環? 環か!? 無事だったか!」
「せ、先生ぇ~!」
女子生徒は環円華、教師は碓氷誠吾。
二人の関係は決していかがわしいものではない。
環はその整った容姿と小動物のような愛らしさ、そして広い交友関係から、学年で人気の女子だが、浮いた噂が流れたことはない。
碓氷はそのルックスと高い身長に軽妙なトーク、そして誠実な態度によって、女子生徒から高い人気をほこるが、決して生徒と一線を超えたことはない。
二人は山折高等学校第一学年の担任と生徒、それ以上でもそれ以下でもない関係だ。
けれど、知り合いの大半がゾンビと化し、魔女狩りを扇動するような放送すら流れた今、
近しい人間の存在というのはただそれだけで安堵を得られる。
「う、うぅぅぅ……」
碓氷の姿を捉えると、張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れたのだろうか。
環の目から、堰を切ったように涙があふれ出す。
「ほかには? 親御さんや友達はいないのかい?」
「う、うぅぅ……。
パパやママは畑の様子を見るからって別れて、それっきり。
私は近所のみんなと先に避難所に行こうとしてたんだけど、……みんな、みんなおかしくなっちゃったの。
あの放送のあと、朝菜ちゃんがおかしくて、光兎ちゃんもおかしくて……」
浅見光兎と八雲朝菜。
よく環円華と一緒にいる女子だ。
何でもそつなくこなすが控えめな優等生の浅見と、その対極に位置するような天真爛漫――言い換えればクラスの問題児の女子、八雲。
趣味などまるで合いそうにない二人だが、彼女――環円華を中心によく交流しているのを碓氷はたびたび目にしている。
「それで、それでね。朝菜ちゃんが必死で私をかばってくれて……。
ねえ、先生。わたし、わたし、友達を見捨てちゃった。
助けられたかもしれないのに、友達を見捨てて逃げてきちゃった……。
先生、どうしよう。みんなに何て言えばいいのかな。
美森ちゃん、許してくれるかな……」
岡山美森は、岡山林業の二人いる社長令嬢のうちの姉のほうだ。
村の有力者の娘であり、最近は碓氷につたないながらもアプローチをかけてくるため、殊更に碓氷の記憶に残っている女子の一人だ。
姉妹そろって男まさりで、活発で、正義感の強い女子生徒。
そして、小学生のときから、岡山と環はいつも一緒に行動している、いわば親友の関係と言っていいだろう。
びくびくおどおどしている環を岡山が守っている姿がしばしば目撃されている。
「いつもみんなに、仲よくしようよって言ってるのに……!
日本で一番仲良しなクラスを作るって千歩果ちゃんと約束してたのに……!
もう、みんなと顔を合わせられないよぉ!」
うつむいてぽろぽろと涙を流す環に、碓氷は何も声をかけることはしなかった。
いつもの甘いトークは成りをひそめ、今はただ一人の大人として、生徒の言葉を聞いていた。
野暮な非常袋は地面に置き、ただ、そっと近づいて、優しく抱きしめるように、そっと背中をさすっていた。
背中にざらざらとした土の感触があるが、それで手を止めることはしない。
環も碓氷の胸に顔をうずめ、言葉を切らしながら嗚咽する。
頭が胸板に押し付けられる感触を直に感じつつ、あたりを見回すが、まわりにはゾンビも、ほかの正常感染者もいない。
桃のようなシャンプーの香りと、土の香りの入り混じった匂いを感じながら、碓氷はそっと環の頭を撫でた。
■
■■■■
■
学校は楽しい。
優しくてかっこいい先生。個性豊かなクラスメート。笑顔が絶えない明るい教室。
ひとつ上の学年じゃ、いじめも起きたりしてるみたいだけど、どうしてそんなことするのかな。
痛いのなんてイヤじゃない。心ない言葉は傷つくじゃない。
私はしがない農民の子。日本人らしく、クラスみんなで仲良くするのが一番いいって思ってるの。
けれど、私はトクベツに目立つことは何もしない。
小学生のときも、中学生のときも、高校生の今も、学校生活がとっても充実するようにちょっとがんばるだけ。
小学校に入学した私は真っ先に、高谷千歩果ちゃんや犬山うさぎちゃん、岡山美森ちゃんに声をかけた。
私と友達になってよってお願いした。
誰もが認める、明るくてかわいくて人を引き付ける魅力のある女の子。
ちょっとマイペースだけれど、はんなりしてて育ちのよさそうな、旧い神社の子。
男まさりで快活な、村の有力企業の岡山林業の社長令嬢のお姉ちゃんのほう。
当時の私は村の事情なんて知りっこない。だから彼女たちに声をかけたのは直感。
関係を作っておけば、九年間、クラスの上位階層が約束されるという直感にしたがったの。
体育の授業でペアを組んだら、私一人余るなんて耐えられな~い!
トイレにこもってぼそぼそとお弁当を食べる毎日なんて耐えられな~い!
遠足の班決めで、ありあわせの余り物で作ったごった煮の味噌汁みたいな組に入れられるなんて耐えられな~い!
だから、ただの農家の娘にすぎない私は、賭けに出て、賭けに勝った。
最初に立場を築き上げれば、小中学校の九年間、ずっと快適なスクールライフが約束されるの。
脳みそが性欲や嫉妬やお気持ちでできてる、猛牛ばりの突撃バカどもが、私の立場を奪えるわけないじゃない。
え~? そんなブサイクなツラで、クラスの人気者になれるってほんとに思ってるの~?
え~? そんなヒステリックな性格で、クラスの中心にいられるってほんとに思ってるの~?
そんな内心、みんなには絶対に見せない。
ちゃんと信用を溜めておかないと、猟友会のブスみたいに、何を言ってもみっともないの一言で流されちゃう。
いつもうわキツセンスの若作りファッションしてるから思わず鼻で笑っちゃうんだけど、
私のことをメスガキ呼ばわりして怒り狂ったところで、普段の行いがイタいしそれ以前にブスだから、悪者になるのはいつも向こうだ。
信用貯金はとっても大切。
小物のザコ相手に擦り減らすなんてムダだよね。
面倒なヤツが絡んできても、友達の後ろに隠れて、怯えた目で見つめておけばそれでいい。
誰か助けてってお願いすればいい。
暴力男子は美森ちゃんが成敗してくれる。
嫉妬女子は私より目立つ千歩果ちゃんが引き受けてくれる。
仲直りは、ほんわかしたうさぎちゃんが仲介してくれる。
私は三人を盾にして、仲よくしようよ~ときれいごとを吐き続けるだけでいい。
私一人だけが目立たないように、私一人だけが飛び出ないように、クラスみんなでまあるく手をつないで、少しずつ少しずつ仲良しの環(わ)を広げていくの。
一年も経てば、クラスの上下関係は揺るがない。
だからこそ、こう、はっきりと言える。
『クラスのみんな、仲良くしようよ♪』
学校って、ほんと~に楽しいねっ♪
学年の中心の四人娘。
中学生にあがるころには、私のまわりにも人が寄ってくるようになった。
そうだよ、私と仲良くなっておけば、中学生活は安泰だよ♪
そうだよ、私と関係を作っておけば、スクールライフは充実だよ♪
美森ちゃんは元気っ子で男子とも仲良くできるけど、仲良しの環を広げること自体にはさして興味はない。
うさぎちゃんは飼育委員のお仕事が充実しすぎてて、あまりクラスの関係には首を突っ込まなくなってきた。
そして千歩果ちゃんは学生アイドルになって山折村の名を広めるんだと、中学の卒業とともに村の外へと出ていっちゃった。
ふーん、ほ~ん、へ~。
そっかー、千歩果ちゃんいなくなっちゃうんだ。
でも、大丈夫。
もう、あなたがいなくなっても、十分にクラスの中心で居続けられるから。
『今まで仲良くしてくれてありがとう♪
でも、離れても私たちは友達だよ♪
千歩果ちゃんが外の人をたくさん連れて帰ってきたら、日本一の仲良しクラスを見せちゃうから!』
白々しくて薄っぺらくて口に出すのも恥ずかしい。
けど、九年もそんなキャラを演じ続ければ、息を吐くように言葉に出せる。
バス停の前で、ハグして、言葉をかけあって、バスがトンネルの向こうに消えるまで手を振る親友の理想のお別れ。
そうして、千歩果ちゃんはいなくなった。美森ちゃんもうさぎちゃんもクラスの雰囲気作りにはさして興味はない。
好きにしちゃっていいよね。
私の自由にクラスを作っちゃっていいよね。
小中学校は統合されてるのに、高等学校だけ独立しているのは、高校から入ってくる生徒たちがいるから。
村長の村おこしの一環で、優秀な先生と生徒を集めて進学率をアップ……ってそんなのどうでもいいか。
とにかく、高校になると外から新しい友達が入ってくる。
高校デビューに失敗して白い目で見られるのはつらいよねぇ。
誰とも話す勇気が持てずに、家と学校を往復するだけの生活はつらいよねぇ。
仲のいいクラスメート同士がカラオケの約束をする中、自分一人だけ置いてかれるのはつらいよねぇ。
ノートの裏にくっだらねえ漫画を書いては、それが見つかってせせら笑われるのはつらいよねぇ。
だから私が助けてあげるよ。
『ねえ、そっちで見てるだけじゃなくてさ、こっちにおいでよ』
『わあ、すごい! すごーい! それ、本当に動かせるんだ!』
『ね、キミ、頭いいんだよね? ちょっと教えてほしいところがあるんだけど、いいかな?』
『うふふ、キミってとっても面白い人なんだね。私は円華って言うの。その、よければ、お友達になってほしいな』
私は、何も与えていない。
ただ、声をかけてあげるだけ。
ただ、ほめてあげるだけ。
ただ、認めてあげるだけ。
何度かそれを繰り返すだけで、山奥に一人送り込まれて不安な外部生は、私に心を開いてくれるの。
はぐれぼっちの男子たちは、その才能を私のために使ってくれるようになるの。
承認欲求に飢えていた女子たちは、私に必死にアピールし始めるの。
デビューに失敗してどん底のスクールライフに絶望していた陽キャ崩れは、私にすがってくるようになるの。
自分に気があるんじゃないかと勘違いしたマヌケな男子が、格好つけようとしてくるようになるの。
たまに口の悪い身の程知らずの新入りが私を妬んで暴言を吐いてくることもあるけれど……ねえ、キミは誰を相手にしてるか分かってるのかな?
『私は仲良くしたいだけなのに……ひどいよう』
私の願い言葉に出すだけで、小学生からの親友の美森ちゃんは私の盾になってくれる。
私の『おともだち』たちが無言の非難を反逆者に浴びせてくれる。
ありがとう。私の味方になってくれて。
ありがとう。私を信じてくれて。
ありがとう。めんどくさい汚れ仕事を全部やってくれて。
ありがとう。私に逆らうバカを懲らしめてくれて。
山折村の村人はみんな知り合い。
あいつは育ちが悪いとか、あいつは性根が曲がってるとか、そんな噂はあっという間に広がる。
たった一人で、村中の無言の重圧を三年間受け続けるなんて、とっても耐えられないでしょ?
クラスのみんなからひそひそと噂されるのなんて、とても耐えられないでしょ?
くだらない嫉妬にまかせて、私に逆らったこと、後悔してるでしょ?
いくらでも人のいる都会ならともかく~、閉じられたこの村でこの先やってけると思うなよ?
立場を理解していないバカがたじろいだところで、優しくみんなを諭すの。
『ありがとう、みんな。でも、やりすぎちゃダメだよ。
私はみんなと仲良くしたいだけなんだから』
そうすれば、騒動はおしまい。
あとは多忙なうさぎちゃんをなんとかつかまえて窓口にして、頭を下げて私に詫びを入れるなり、
あるいは一人で惨めな高校生活を送るなり、お好きにどうぞ。
ネチネチと陰口叩くしかできないやつなんて、所詮はザコ。
消えない上下関係を刻みこんで、心を圧し折ってあげるだけで、それ以上は何もできなくなる。
陰口も誹謗中傷もなくなって、クリアな空気に満ち溢れた明るいクラス。
暴力なんて何一つない、平和な仲良しクラス。
仮に他学年だったらそうはいかなかったかもしれない。
私があと一年二年はやく生まれてたら、こうはならなかったかもしれない。
二年生は陰湿で暴力的でいじめや不登校が横行してる反社集団。
うかつに近づけば、大火傷が待ってる。
美森ちゃんのお父さんみたいなファッション木更津組ならともかく、真の木更津組と繋がってそうな人たちには関わりたくない。
三年生はお前ら鎌倉武士団かよってくらい男子も女子も武術を習ってる人が多い。
それこそ美森ちゃん級の武闘派がわんさかいる上に、村長の息子っていう絶対的な中心人物までいる。
クラスの中心にはなれっこないし、次期村長の隣の座をめぐって、山折殿の三人娘で情念バトルとか、心底やりたくないよね。
けれど私は山折高校の一年生。
上級生の事情なんて知らないもん。
私を常に守ってくれる親友たち。
愛しい愛しいクラスメートのみんな。
背が高くてイケメンで顔のいい先生。
私の城は決して崩れない。
私を守ろ♪ 私に貢ご♪ 私に捧げちゃお♪ 私を称えちゃお♪ 私に従お♪ 私に忖度しよっ♪ 私に搾取されちゃお♪
そしたら、代価としてお前らに『ありがとう』をくれてあげる。
山折高校一年は、クラスのみんながとっても仲良しで、笑顔に満ち溢れた理想のクラスです!
胸を張って、笑顔で私はそう言えるよ。
さあ、クラスのみんな、仲よくしよう! みんなで環になって、仲良しを広げよう!
■
■■
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私の城は決して崩れない。
山折村という堅固な土台の上に建った山折高校第一学年と言う城。
友達という兵隊が、親友という親衛隊が私を守ってくれる。
土台ごと崩れる事故なんて想定していない……。
クラスどころか村どころか国まるごと敵にまわる想定なんてしてない!
9年かけて作った城が島ごと沈む想定なんてしてない!
さっきまでお話してたお友達がいきなり襲ってくるなんて考えたこともない!
「光兎ちゃん! 元に戻ってよぉっ!」
光兎ちゃんは低い呻き声をあげ、赤い眼を鈍く輝かせ、じりじりとにじりよってくる。
慎重で臆病でヘタレだからこそ、一息に押し寄せてこないのかもしれないけれど、いつもの理性的な姿はどこにもない。
「ねえ、朝菜ちゃん……。私たち、友達じゃなかったの? どうしてこんなことするの……?」
朝菜ちゃんは狂ったような笑い声をあげて、腕を振り回す。
そこには、いつものバカやってるときのどうしようもなさは微塵も感じられなかった。
朝菜ちゃんに持たせていた荷物が腕からすっぽ抜けて、私の顔をかすめる。
それに呆けていた隙に、朝菜ちゃんが私を押し倒してきた。
光兎ちゃんもじりじりと私を食い殺そうと近づいてくる。
今まで荷物持ちなんかさせてごめんなさい。
ウチの農園のお手伝いに駆り出してごめんなさい。
ボランティアのとき力仕事を全部任せてごめんなさい。
私のお願いに不満があったなら、言ってくれたら直したのに。
だって、私たち友達でしょ?
そんなふうに謝ったところで、ゾンビとなった二人は止まらない。
そもそも、私自身、その言葉は薄っぺらいなって思っちゃう。
ゾンビは肉体のリミッターが解除されてものすごい力を発揮すると聞いたことはあるけれど、これは単純に身体能力の差。
加えて、一対一でもマウントを取られているのに、二対一。この優位性は覆らない。
助けてくれる友達も親友も、ここにはいない。
「離して、離してよ、離せええェッ!」
そんな言葉が届くはずないのに、私は演技すら捨てて醜く叫ぶ。
頭。首。腕。掌。腹筋。足。膝。
抵抗なんてムダ、そんな理に逆らうように、ありとあらゆる箇所で抵抗する。
そして、存在するはずのないところに、存在するはずのない感覚を探り当てた。
押さえつけられているはずの私が、押さえつけている腕の力を緩める感覚。
自分の身体じゃないものを自分の身体のように動かす感覚。
まるでコンピュータゲームのコントローラを操作するような奇妙な感覚だった。
ゾンビとなって白目を剥いた朝菜ちゃんは、だらんと力無く呆けたままだ。
光兎ちゃんはゆっくりと近寄ってきている。
彼女に捕まる前に、地面を蹴って、必死で拘束を解き、身体を抜け出すや否や、
糸の切れた操り人形のような朝菜ちゃんの肉体を渾身の力で蹴り飛ばした。
後ろからねじり寄ってきた光兎ちゃんの身体を巻き込んで倒れ込む。
今ならきっと逃げられる。
逃げて、逃げて、……それで?
感情が冷え切っているのが分かる。
バカを見下すときの感情とはまた別、もっと鋭くて冷たい感情がこぽこぽと湧いてくる。
命の危機の為せる感情なのかもしれないし、
あるいは私の感情がみんなの行為を裏切りだと感じてるのかもしれない。
あるいはもっと原始的な、人間の遺伝子に刻み込まれた生存本能というやつなのかもしれない。
光兎ちゃん。
会話にヘタれて、席を立って歩いては、席に戻って座ってたときのことはよく覚えてるよ。
地震の後、すぐに駆け付けて何すればいいか教えてくれたこと、ほんとありがとう。
日持ちのいい保存食とか、もう一回余震が来たらうちの家も危ないこととか、色々教えてくれてありがとう。
こんなときにはしゃぎまわる朝菜ちゃんのたずなを締めておいてくれてありがとう。
ほんと危機管理も対応力すごいよね。
あなたがお友達でほんとによかったぁ。
それから、朝菜ちゃん?
入学式で天元突破のアホさを堂々と見せつけてドン引きされてたの、よく覚えてるよ。
見かねてグループに誘ってあげた後は、ずいぶんと気を許してきたよね。
はっきりいってめちゃくちゃウザかったし、あなたとお話するときは精神修行してるみたいだったよ。
日課の煽りなんて、いつか脳みそが爆裂するんじゃないかってひやひやしてたよ。
岡山社長に『お勤めご苦労様です』って本当に言ったのは大爆笑だったよね。
二人とも、美森ちゃんたちと違って利用価値のある取り巻き程度としか自覚してなかったんだけどさ、
どうやらとっくに私たちはお友達だったみたい。
そっちはどう思ってたのかな? 気付くのが遅くなってごめんね。
二人とも、ありがとう。
光兎ちゃんが上に乗ってる朝菜ちゃんの身体にツメを立て、朝菜ちゃんが肘や掌で光兎ちゃんの身体を殴りつける。
同士討ち、仲間割れ。そんな光景。
いつもの学校だったら、喧嘩なんてしちゃダメだよ~って言いながら、誰かに仲裁させるんだろうな。
さっきまでの私なら、きっとこの隙に一目散に逃げていたんだろうな。
再び見えない感覚を動かす。
その感覚は朝菜ちゃんの身体と繋がって、私の一部であるかのように動かせる。
今までありがとう。
朝菜ちゃんが光兎ちゃんの首筋を噛みちぎる。
ぴゅーっと噴き出す血しぶきが朝菜ちゃんの顔を濡らす。
今までありがとう。
用水路を補強するコンクリートに朝菜ちゃん自身の頭を打ち付ける。
一回。血が噴き出る。
二回。ばっくりと額が割れる。
三回。全身がぴくりと震えて、動かなくなる。
首から血をだくだく流してた光兎ちゃんも、だんだん動きが鈍くなって、斃れちゃった。
二人を手にかけた感覚はまるでなかった。
私はただ、こう動いてとお願いして、朝菜ちゃんがその通りに動いてくれた、それだけの感覚だった。
私は小学校、中学校、そして高校と、充実して平穏な生活を送るのが望みなの。
でも高校生活はもうダメそう。
せっかく作りあげた私の城はめちゃくちゃになっちゃった。
こんなの、私に限ったことじゃないかもしれないけれど。
これまで散々他人にお願いをしてきたからかもしれないし、
元々そういう素質があったのかもしれない。
割と自分自身のこと、ロクでもない性質だなーって思ってたけれど。
いざというとき、私は他人の命すら犠牲にすることができる。
そういう人間だったみたい。
あなたの命をかけて私を守ってね、と臆面もなく言える人間だったみたい。
けれども、私は決して強くはない。
圧倒的な暴力には成す術もなく殺されてしまう。
それどころか、相手が二人いるだけで、あっという間に殺されてしまうだろう。
保護者が必要だ。
友達が必要だ。
私のお願いを聞いて、それをかなえてくれる仲間が必要だ。
哀れさをにじませろ。
弱弱しさを演出しろ。
無力さを漂わせろ。
いつでも殺せると思わせろ。
これまでずっと培ってきた演技力で、懐へと入り込んでいけ。
他者への接触そのものが、命を張った賭けになる。
けれど、小学校のころから、やることは変わらない。
この人なら、私によくしてくれる。
この人なら、利用できる。
そんな人間を探し出して、仲間になるの。友達になるの。
ねえ、道の向こうから歩いてくる誰かさん。
もしよければ、友達になってくれないかな?
私を守ってくれないかな?
■
■■■
■
なんで僕は教師になったんだろうね。
ま、誰かにそう聞かれたら、高校時代の恩師のような素晴らしい先生に僕もなりたかったから――そんなテンプレみたいな回答をするだろうけどさ。
ホンネ?
もちろん、若い女の子たちと楽しくおしゃべりができる仕事だと思ってたから、に決まってるでしょ?
成人女性には成人女性のいいところはあるけれど、それとは別に癒しも欲しいじゃない?
女性の嫉妬深さや疑り深さは、大学在学中に十分に経験させてもらったよ。
向こうから僕に告白してきたくせに、ちょっと僕が友達と遊ぶだけで怒り出すコなんてザラにいたしね。
よくWEBの連載漫画に出てくる束縛彼女ってやつなのかもしれないね。
付き合うコ付き合うコ、そんなコばっかりだと女性不信になっちゃいそうだよ。
合コン? 別にいいじゃん、友達や女の子とおしゃべりするだけでしょ?
キャバクラ? 別にいいじゃん、僕がお金払って女の子と楽しくお酒を飲んでるだけなんだから。
ホテル? 別にいいじゃん、向こうがその気になって誘ってきたんだから応えてあげないと失礼でしょ。
けれどまあ、実際少しでも疑われるとガミガミ言われるし、だったら大手を振って女の子と話せる仕事に就けばいいかなって。
水商売や芸能人も考えたけど、前者は年取ったら難しくなるし、後者は道のりが険しい。
他に何かないかなと考えたとき、教職が選択肢に上がってきたわけだね。
女子高に行かなかった理由?
さあ、面接に落ちただけだから、担当の人に聞いてよ。
たぶん女の子の教育に悪いと思われたからじゃないかな?
今流行のルッキズムってやつ?
人を容姿で差別するなんて、時代に逆行してるよね。
それで念願の教師になれたわけだけれど、見事に職業の選択を間違えたなあとも思ってはいるんだ。
まさか就職希望地がまったく反映されないなんて思うかい?
県で一番女の子がかわいい高校がいいって答えたら、B29が空を飛んで空襲警報が発動しそうな風景をしたド田舎に飛ばされたんだよ?
あの面接、やる意味あった? 絶対面接前に配属地決まってたでしょ。
けど、速攻投げ出すのも負けた気がしてイヤじゃない?
だから、早く次の配属先が決まらないかなーって思いながらダラダラと教師続けてたんだけど。
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■
こんなことなら、さっさと教師辞めて東京か大阪で別の仕事を探すべきだったと心から後悔してるよ。
何? ウイルス漏れ? バイオハザード?
そんなZ級映画みたいなこと本当に起こるワケ?
「先生ぇ……私たち、どうなるんだろ」
不安そうな声をもらしながら、僕にぴとりとくっついてくる女子生徒。
岡山美森ちゃんっていって、僕が担任やってるクラスの女子のトップ層みたいな子だ。
ヒノキみたいに色白で手触りのよさそうな肌をした茶髪の女の子で、男子とも女子ともすぐに打ち解ける。
僕にも積極的に話しかけてくるから、よくクラスの関係性とかを教えてもらってた、そんなコ。
僕は放送を聞きながら、これヤバいんじゃないと思ってすぐに校舎に避難したけれど、校庭に残ってる人たちは次々とゾンビになっていく。
美森ちゃんもちょっと前までは元気だったのに、今や座り込んで、息を荒げて苦しそうにしてる。
「大丈夫だよ、先生がそばにいてあげるから」
美森ちゃんが、僕の腕をぎゅっとつかむ。
こういう雰囲気も嫌いじゃないんだけど、今は少し鬱陶しいんだよね。
さてはて、ふと、違和感を覚えた。
美森ちゃん、キミ、なんで青く光ってんの?
いや、これ光っているのは彼女じゃないな。
僕の目が、彼女の感情を検知して、光として感じ取っているんだ。
青は信頼の証。そして赤は不信の証。
一人一人に信号機が外付けされたかのように、みんなが僕をどう思っているのかがわかる。
ああ、これが適合なんだ。
そして、彼女はそうじゃなかった。
美森ちゃん、君は本当にすごいよね。
友達が心配で居ても立ってもいられないからって、学校まで来る行動力、僕にはとてもマネできないや。
僕も避難所の学校に来る道中でさ、いろんな人の助けを求める声を聞いたけど、全部無視したからね。
ガレキの山の前で誰かママを助けて~とぴぃぴぃ泣いてる男の子とか、
今にも潰れそうな家屋の前でまだ息子が家の中にいるんですと喚いてるおばさんとか。
そういう人たちを助けるのって、警察とか消防、あと自衛隊の仕事でしょ?
僕が勝手に仕事取っちゃダメでしょ。
僕が地震の後したことって、校庭に溢れかえってる避難民に体育館を解放して、
その間に教室に置いてあった備品の、災害時帰宅支援者向け非常用持ちだし袋を自分用に確保することくらいだったしね。
僕は器用じゃないから、自分のことで精一杯なんだ。
体育館や校庭に集まった避難民たちは、もうほぼほぼゾンビと化してしまってる。
まだ正気の避難民もいるみたいだけれど、完全にゾンビと化した避難民に寄って集って食いちぎられてる。
うわ、こんなこと本当にあるんだってちょっとドン引きだよ。
僕もそろそろ、お暇しないと本当にまずいかもね。
「先生ぇ……どこ、行くの?」
美森ちゃんが僕を引き留めようとして、掴んだ腕に力を込める。
ものすごく冷たい。死人みたいだな。ああ、ゾンビだったよね。
平時なら夜の校舎でこういうシチュエーションって男冥利に尽きるけど、ごめんね、今は非常事態なんだ。
「どうやら、僕は適合者に選ばれたらしい。
だから、岡山は先生を信じて、そこでなんとか耐えてくれ!」
「え、そんな……。こんなところで、耐えてだなんて……。
こんなところで、待っててだなんて……」
腕に絡みついた美森ちゃんを乱暴に振り払う。
普段の快活さからは想像もできないほど弱弱しくなった彼女は、抵抗といった抵抗はおこなわない。
「大丈夫だ、必ず助けを呼んでくるから!」
「やだ、先生! 行かないでっ! 見捨てないでっ!」
それでも僕の足にすがりついてくる岡山。
鬱陶しいなあ。
だから、蹴り飛ばした。
「いたっ! あ、あああっ……!」
青い光を放っていた岡山美森。
何が起きたのか理解できないとばかり呆けていた彼女から、青い光が消えていく。
淡いその光が青から赤へと変わっていく。
ひどいなあ。僕を信用してくれないなんて。
じゃあ、もういいよ。
だって、僕を信じてくれないんだから、仕方ないよね。
「先生、せんせぇぇ……あぁぁぁぁァァァァッッッ!」
かわいい生徒の断末魔を聞きながら、左の耳から右の耳へと聞き流して、非常口から校舎の裏側へと出ていく。
まあ別に本当に死んだわけじゃないし、最終的に女王感染者が死ねば元に戻るわけだし、僕が彼女を見捨てたわけじゃないんだよ。
蹴り飛ばされた? それは気のせいじゃない?
目覚めた超能力は便利だけど、これで女王感染者を殺すことはできない。やはり武器が必要だ。
鍬や鋤、斧なら校舎にもあるけど、常時携帯するには少し重すぎるし、今から学校のプレハブ倉庫を開けるのはちょっと手間がかかりすぎるよね。
ここはやはり、銃などどうだろう。
交番か猟師小屋ならば武器もあるはずだよね。
田畑を通ればほとんどゾンビには遭わないし、道中で桃などの食料を得ることもできる。
それに、もし青い光の適合者を見つければ、有利に立ち回ることだってできるだろう。
そう、たとえば目の前から来ている誰かのように、ね。
■
■■■■
■
「……先生、ごめんなさい」
嗚咽が収まったところで、環はようやく顔を上げることが出来た。
その時にはもう、目の周りも鼻の頭も真っ赤になっていたけれど。
「いいよ」
それでも碓氷はなにも言わなかったし、何も聞かない。
黙ってハンカチを差し出して、受け取った環が涙を拭うのを待つ。
「ありがとう」
「うん」
どことなく気まずい雰囲気が漂う。
数十秒の静寂のあと、それを破ったのは環のほうであった。
「先生、私も一緒に行っていいですか?
一人じゃ心細いし、また誰かに、友達に襲われたらどうしようって、不安で、不安で……」
環が声を震わせる。
手を離せば二度と戻ってこないような、小さくて、儚くて、か細い声。
庇護欲をそそられるような気持ちを抑えて、碓氷は優しい声で答えを返す。
「もちろんさ。
というより、環が一人で行こうとしていたら、間違いなく止めていたよ。
でも、家には戻らなくていいのかい?」
「家に戻っても、きっとパパもママも、おかしくなっちゃってる。
友達がおかしくなってるところも、パパやママがおかしくなってるところも、見に行きたくはないです。
こんなの私のワガママです。
けれど、先生お願いします。一緒に連れていってください」
孤独に怯え、現実に怯える、まだまだ幼くか弱い少女。
たとえ断っても勝手についてくることは火を見るよりも明らかだ。
「分かった。環の判断を尊重しよう。
とはいえ、先生も身を守る手段は欲しいからね。
正気を失った村人たちに遭わずに、猟師小屋か交番にいけそうなルートがあれば教えてくれないかな」
「ありがとうございます、先生!
交番はこっち、猟師小屋ならここから……」
環の先導で、二人は目的地を目指す。
かつて環が高谷千歩果に語った、日本で一番仲良しな理想のクラス。
教師と二人の生徒しか残っていないけれど、強い信用で結ばれた、仲良しの環。
その結実が、ここにあった。
【C-6/田園地帯/一日目 深夜】
【
環 円華】
[状態]:健康、ウソ泣きで顔が腫れてる
[道具]:なし
[方針]
基本行動方針:他人を盾にして生き残る
1.信用できる盾(
碓氷 誠吾)からさらなる庇護を得る
2.手駒を集める
【
碓氷 誠吾】
[状態]:健康
[道具]:災害時非常持ち出し袋(食料[乾パン・氷砂糖・水]、軍手、簡易トイレ、オールラウンドマルチツール、懐中電灯ほか)
[方針]
基本行動方針:他人を蹴落として生き残る
1.自分を信用する女(
環 円華)のさらなる信頼を得る
2.捨て駒を集める
※災害時非常持ち出し袋:食料や軍手、簡易トイレや懐中電灯など色々入っています。
※浅見光兎(ゾンビ)、八雲朝菜(ゾンビ)は死亡しました
最終更新:2023年02月25日 15:44