「あそこが猟師小屋です。
 明かりはついてないみたい? 誰もいないのかなあ」

月明かりだけを頼りにのぼる真っ暗な山道。
段々畑を上へとのぼり、田園地帯を抜けた先。
山と里との境界線、そびえ立つ山折岳の麓。
そこにひっそりと佇んでいる、カビの生えてそうな古い木造のちゃちな小屋が猟師小屋。
建物は母屋と納屋、あと車庫とに分かれてるけど、どれもこれも古くてよくあの地震で崩れなかったよね。
中は明かりがついてないけど、玄関灯だけはつきっぱなしで、ブイブイや蛾がたくさん集まってる。
窓ガラスが割れてるみたいで中も少し覗けるね。
たまに猟友会の人たちが詰めてるらしいけど、人がいるかいないかは半々ってところかなあ。

「環、ちょっと待ってくれないか? 歩くのが速すぎる……!
 僕、まだ革靴だから歩きにくくてさ」

うーん、山歩きに革靴は山をナメてるけど。
先生のは装備じゃなくて単純に体力と慣れの問題じゃないかな?

「先生体力なさすぎですよう。
 ほら、もうちょっとで目的地ですから、がんばりましょう?
 ふれーふれー♪」

ほらほら先生、がんばれがんばれ?
かわいい生徒が応援してるんだよ?
プライド見せて?

「……いや、そういう応援は勘弁してくれないかな。
 恥ずかしいから。ほんと恥ずかしいから」

そう? 私は応援大好き。
クラスの威信を全部背負ってガチガチしてる健康優良児と仲良くなれる機会だもん。
炎天下、汗を飛び散らせながら敵チームとぶつかるクラスメートを、
テントの下でわらびもち飲みながら眺めるのは気持ちいいよね。
三位決定戦のチームに、決勝進出チームとしてエールを送るのはたまらないよね。
フレッシュトマトみたいに真っ赤な顔して、今にも破裂しそうな顔して走ってる運動音痴ちゃんたちを、
ゴールテープ前で拍手で出迎えてあげるのは優悦を感じるよね。


「ほら、先生。あと100メートルもないですから」
「いやさ、僕は子供じゃないんだから、先に小屋に入って待っててくれてもいいんだよ?」
「ええっ? 先生を置いて、私一人で先にくつろいでるなんてできませんよう!
 それに暗くてちょっと怖いですし……」
「……」
「……」

今のは言い訳がわざとらしかったかなあ。
まわる頭があるなら気付くよね。気付きますよね。

猟師小屋の中に明かりは見えない。
入り口を照らす玄関灯だけが母屋をぼんやり浮かび上がらせてる。

夏の電力不足でもあるまいし、政府に節電をお願いされたわけでもないし。
カテエネポイント1000P溜めるチャレンジでもやってなきゃ、この状況で明かり消さないでしょ。

暗い小屋にはまずゾンビはいない。
わざわざ明かりを消してからゾンビになるやつもいないしね。
ただ、誰かが目立たないようにここまで逃げ込んできて、暗闇の中で潜んでる可能性だってある。だから。


夜分遅くに失礼いたしますって感じで夜回り先生をお願いしたいなあ、って。
聖職者として、危険なシーンは一手に引き受けてほしいなあ、なんて。
ダメですか?
女子生徒を先頭に立たせちゃいますか?
保護者として、相応しい行動を取るべきだと思いま~す。
先生が女子高生とパパ活してるって警察にタレコミしてもいい?
女子生徒随伴罪で村の警察から発砲されるようになるけどいい?
先生。ファーストペンギンお願いします!


円華ちゃん。
ちょっと年長者に対する思いやりが足りないんじゃないかな。
ド田舎生まれの君たちと違って僕は都会人だからさ。
くぼみができてたり、ぬかるんでたりする悪路は歩き慣れてないんだよね。
あと、そもそも僕に付いてきてほしいって最初に言ったのは君だからね?
もう少し、僕のペースに合わせてくれてもいいと思うんだよ。

あとさ、キミの言う『暗くてちょっと怖い』ってさ、『暗いのが怖い』じゃなくて、
『暗闇から誰かが襲ってくるかもしれないから怖い』だよね?
キミ、くぼみを避けてスイスイあぜ道を進んでたもんね。

光は青。僕を信用してくれるのは分かる。
けど、この光って悪意があるかどうかまでは分からないんだよ。
キミってさ、もしかしなくても、男をATMとしか思ってない女の子ってやつじゃない?
出すもの出せないと、一瞬で赤に変わったりしない?


「……」
「……」

数秒の沈黙のあと、円華ちゃんは道から少し外れた藪の影へと入っていく。
そこで、彼女は少しうつむいて軽く息を吐き。
意を決したように口を開いた。

「先生、ごめんなさい。
 もしかしたら私、先生を信用しきれていなかったかもしれないです」

なるほど。
いや、それウソだよね?
だって、キミの光は青いじゃない。
キミは僕を信用している。そうだよね?

「甘えちゃいました。試すような行動、取っちゃいました。
 先生だって怖いはずなのに、危ないところを全部押し付けようとしちゃいました。
 ごめんなさい。
 あの放送を聞いてから、ずっと怖かったんです。
 みんな私を殺しに来るんじゃないかって。
 微笑みの裏で、私を殺そうと刃物を研いでるんじゃないかって。
 友達を見捨てたときから、私の味方はいないんじゃないかって」

「うーん、環はさ、先生のことを殺そうと思ってたの?」
「……! そんなワケないじゃないですか!」
「僕だって同じだよ。大事な生徒を手に掛けられるわけないじゃないか」
「せんせぇ……!」

全部ウソだと仮定してさ。
藪の影まで移動したのも、小屋に誰かいたときに、銃で狙撃されないため、かな?
ちゃっかりしてるよね、キミ。

「先生、あの、もう一つ。
 気持ち悪いかもしれないけれど、聞いてくれますか?
 私、いつからか、変な超能力みたいなもの……言葉にすると、そうですね。異能、とか?
 そんなものが使えるようになってるんです」

……薄々そうじゃないかなって思ってたけど、やっぱり、僕以外もなのか。
けれど、おそらく僕と同じ性質のものじゃあない。
そっちから聞かせてくれるなら、ありがたく拝聴させてもらおうじゃない。

「それって、どんなものなの? 怖がったりしないから、見せてほしいな」
「ゾンビになった人の動きを止める異能です。
 正気の人に使ったことはないので、お願いですから、びっくりしないでくださいね」

そういうと、円華ちゃんの眼が僕を射すくめる。

その瞬間、息が止まる。
まばたきが止まる。
指一本、身じろぎ一つできなくなる。
これ、金縛りってやつ?
思考だけはクリアなのもそれっぽい。

え、ちょっと待って? ほんとに息できないんだけど?
僕を殺す気なんてなかったんじゃないのか!?
全部ウソだとしても、いくらなんでも早すぎない!?
おい、やめろ、これは本気でまずい!

「!!!!」
動いた。
感覚が戻るまでにかかったのは、五秒くらいだったんじゃないかと思う。

「せ、先生! 大丈夫でしたか!?
 そんなに危険なものだとは思ってなくて!」
「ハァ、ハァ、息が止まったかと思った。
 これ、人には使わないほうがいいね」

事故か、故意か。
今すぐ糾弾したい気持ちはあるけれど、この状況でそれはまずい。

だって円華ちゃん。キミ、またウソついたよね?
ゾンビの動きを止める異能だと言ったときだけ、キミは赤い光を放ってたから。


映画特撮ドラマアニメ漫画ゲームラノベ、クラスのみんなと話をしていればある程度の知識は自然と入ってくる。
私個人としては、新作スイーツとか最先端コスメのほうが興味あるんだけど、
休み時間にオタク共に話しかけてやると、壊れた蛇口みたいにドバドバとどうでもいい豆知識を吐き出してくるんだよね。

このチカラ、学校でもたびたび流行ってる、少年漫画とか"異世界"ものに出てくる能力そのものだよね?
チート……って呼び方はオタクたちと同類に思われそうだから異能と呼ばせてもらうけど。
最終的な勝ち負けはともかく、あの手の物語でやってることは知識と応用の応酬。
何ができるかは、知っておかないとダメだよね。

備えあれば嬉しいな。私の好きな言葉だよ。
最初にしっかり基盤さえ作って備えておけば、ラクでもズルでもなんでもできるってこと。
クラスの立ち位置確保も、友達作りも、全部そう。
異能だってその辺は違わないでしょ?


私が誠意を見せて『お願い』すれば、みんなが私の言うことを聞いてくれる。
お友達として、私の言うことを聞いてくれる。
ウソはついていないからいいよね?
止まる以外のことも『お願い』できるけど、アイコンタクトでいいけど、そんなのは些細なことだよね?

もちろん、友達や仲間のことも知っておかなくちゃダメ。
だからお願い、先生。
「私の異能はさっきお見せしたようなものなんですけれど、
 先生の異能ってなんなんですか?」
私に先生の異能、おしえて?


「……」
どうしたんですか、先生?

「僕の異能は、人間が光って見える異能だ。
 正気を保った人間であれば、遠くにいてもぼんやりと光が見える。
 ゾンビたちには効かないのが欠点だけどね。
 きっと、生徒たちを守るために、偵察のような異能を授かったんじゃないかなって思ってるんだ」

……。

「そう、ですか。先生らしいです。
 とても優しくて、いつも私たち生徒のことを考えてくださってて、本当に尊敬します。
 あ、光が見えるってことは、小屋のほうってどう見えてますか?
 窓とかから、光漏れてたりしませんか?」
「ああ、それは大丈夫そうだね。僕の異能だと、誰かが窓からこちらを見てるって感じはなさそうだ。
 じゃあ、僕が正面の扉を担当するから、環は窓のほうから、中に人がいないか見てくれないかな。
 万が一誰かいても、それで対処できるはずだ。
 大丈夫、僕は君を信じてるからさ」
「わ、分かりました。なんとか、やってみます!」

……。


……先生。
異能を語るときさ。
なんで目、逸らしたの?
なんで瞳が右上に揺れたのかな?
口を開くまでの不自然な間、あれってさ、どう答えようか考えたってことじゃないですか?
準備してなかった? それとも、私の異能にびっくりして、考えてたウソがどこかに飛んで行っちゃった?

先生さ。
もう自分の異能で何ができるか、分かってるよね。
本当に人が光って見えるだけの無害な異能なら、先生が言葉通りの生徒思いで誠実な人だったら、
この緊急事態で、わざわざ今まで異能のことを隠し通さないと思うんだ。
それとも、16年しか生きていない小娘ならだまくらかせるとでも思ってた?
それはちょっと、悲しい気持ちになっちゃうな~。


(生徒の真剣なお話を誤魔化すなんて、ひどい先生だよね)
(また僕の言葉を信用してくれなかったんだ。先生を信用しないだなんて、悪い生徒だなあ)

(ねえ、先生?)
(ねえ、円華ちゃん?)

((お前はウソをついている。だからお前は信用できない) )


結局、母屋の中は空振りだ。納屋にも車庫にも、誰もいなかった。
あと円華ちゃん、僕から言わせてもらうとね、その異能使っておけば、誰かいてもどうとでもできるんじゃない?

それとも、人に使ったことがなかったから僕で試してみたりした?
声か。視線か。何秒有効か。そんなフィードバックが欲しかったのかな。

それと、自分から異能の話を振っておきながら一部を隠してる件。
自分から切り出せばそれ以上は追及されない。
そんな魂胆が透けて見えるよ? 僕じゃなきゃ見逃しちゃうけどね。

母屋は地震の影響か、ずいぶん荒れ果てているけれど、武器や食料は無事らしい。
高校からは慌てて逃げてきたからね、僕も円華ちゃんも、小屋にあったものを使って再度荷造りしてる。

殺し合いならここで毒を仕込むとか定番だけど、ここに来たばかりでいきなり毒なんて調達はできないだろうし、ずっと手元に荷物は置いてあるからね。
そこの心配はしていない。

あと、少し前までは確かに誰かがいたらしい。
避難所へ救護活動をしに行くということと、ヒグマが山から降りてきていることへの注意書きがあった。
ヒグマ……?

「ヒグマってなんなんだ……?」
「いるらしいですよ、ヒグマ。
 猟友会の六紋名人が見つけたそうですし、今の二年生の人たちも騒いでましたよ。
 それに山折村の七不思議にも出てくるくらいですしね」
「いや、ナチュラルにいるらしいって言われても困惑するんだけど?
 あと学校の七不思議じゃなくて?」
「山折村が小さな村だからじゃないですか?
 湖のワニなんてのもありますし。
 プールの代わりに湖使ってますから、あそこも学校扱いされてるのかもですけど」
「ちなみにヒグマの七不思議ってどんなやつ?」
「夜に学校の裏山に入ると、笑顔を浮かべた巨大な人面ヒグマが現れるそうです。
 『風さん風さん、ご所望のハチミツです。どうかお帰りください』ってハチミツを差し出せば立ち去っていくそうです」

その七不思議を考え出した人は一体何を考えていたんだろう?
個別のシチュエーションは定番に見えるけど、構成のパーツがおかしくない?

「一時期は肝試しの定番だったんですけど、猟友会の人たちに激怒されて廃れたみたいです。
 それからは、『真夜中、霧がかった日に山に入ると化け物に襲われて、歩いても歩いても山を抜けられなくなる』
 っていう新しい七不思議ができたんですよ」
「激怒されたの?」
「……怖いですよね~。荷物にハチミツ入れておきますか?」
「それはクマじゃなくて猟友会の人たちが怖かったってことだよね?」

最初にそのウワサ流したの、絶対村の偉い人の誰かでしょ。
学校の裏山ってあたりも子供の侵入防止用っぽいよね。
というかその七不思議さ、『村の地下に秘密の研究所がある』みたいなの、なかった?


にしても、ゾンビだけでも手を焼くってのに、ヒグマとかほんとに勘弁してよ。
ほんとこの村なんなんだ。もう街に帰りたいよ。
ヒグマの目撃地がこの近くじゃないことだけは救いだけどさ。

手紙によれば、昼間の時点での目撃箇所は村の南西にある高山の麓。
猟師小屋にあった山折村周辺の古地図。
ハンターマップには載っていない、細い獣道まで細やかに描かれている地図。
その南西部にバッテンが付けられているから。

だから、こっちのほうにはヒグマは当分来ないはずだよね。
外に出たらいきなりヒグマに出くわしてゲームオーバーは笑えないけど、可能性としては低い。
むしろ、危ないのは小屋の中のほうだ。


円華ちゃん。
今、キミは僕を信用していないよね。

異能を語ったとき、僕は敢えて不審な動きを見せた。
敢えて、不自然な間を取った。
口では尊敬していると言いながら、心は正直だね。
キミはあれからずっと、赤く光ったままだ。
異能がなければ気付かなかっただろう。
女の子って本当に怖いなあ。


五秒といえども、動きを止められたら太刀打ちできない。
けれども、キミは僕の言葉を信用していない。
だから、今は僕の異能を警戒してるんだろう?
キミがウソをついたように、僕もウソをついてるって考えるはずだから。

「環。そろそろ午前1時もまわるだろう?
 先生が見張っておくよ。一度仮眠でもとったらどうだ?」
「あっ、そうですね。ありがとうございます。
 それじゃ、夜更かしはお肌にも悪いですし、先に休ませてもらいますね、先生」


うわ、なにこれ、お酒の匂い?
猟師小屋の奥のお座敷に入ったとたん、宴会のときによく漂ってる香り――
甘いような辛いような、胸に溜まるような重い香りが鼻をつんざく。
見回すと神棚が地震で倒れてて、お供えのお神酒が割れて、畳や散乱した毛皮に染みわたってた。
白熱電球点けてたら延焼しちゃいそう。
寝室としては環境サイアク。

祀ってるのって山の神とかいうやつだよねえ。
鴨出のオバサンが何かにつけて吹聴してる神さまでしょ。
うさぎちゃんとこの神社で毎年六月の終わりごろにやってる鳥獣慰霊祭関係のやつ。
憑代役の女の子の前で剣舞とかやってる物々しい儀式。
絶対山の神って祟り神だよね。祟りを鎮めるために山のどこかに祠立ててそうだよね。ここで寝てると祟られそう。


作業部屋から持ち込んだザックを開ける。
音の違うたくさんの熊鈴に、拝借してきたくくり罠、あと寝袋。
まあ、女子として手鏡の一個くらいは持っていきたいし、火種なんかも何かと入り用だろうし。
ヒグマに火って効くんだっけ? 知らないけど。

布団は押し入れの中、カビ生えそうだけど引っ張り出して、中央に敷く。
空気こもりそうだし、窓を背にして扇風機を最大風量で回しちゃえ。
ぶおおおっと大きな風斬り音が鳴り響くけど問題ないよね。
部屋の窓ガラスは割れてて、人間一人十分通れるスペースがある。
虫とか入ってきそうだなあ。
部屋のドアにカギがないのも、というか障子にカギなんてあるわけないんだけど、それもちょっと嫌だよねえ。
窓の向こうには、採光窓すらない大きな納屋の入り口があるし、
ほんとに真っ暗で、あそこから誰か覗いてそうで怖いよねえ。


外套とか足袋とか食料は山狩り――いや、ヒグマ狩りのために準備されたものなんだろうね。
マスクもあったけど、これは感染症対策かな。今さら感染症もクソもないけど。
熊狩り用の銃も用意されてたようだけど、私のザックには入れてない。
だって私、銃なんて使えないもん。
銃なんて初見の人が一日二日練習して当たるものじゃないでしょ。
誰かにお願いして撃ってもらう選択肢もあるけど、
そのために2.5リットルペットボトルの二倍くらい重いものを持ち歩くの、ちょっとナンセンスかなって。

それよりは、ユーティリティナイフや剣ナタのほうがまだ使いやすいと思う。
持ってきたのかって? そんなの使うなんて野蛮じゃない?
私がナイフ振り回したところで、古民家に立ち並ぶ武士養成所の皆々様がたに通用するわけないじゃない。

それよりは、誰でも雑に使えて雑に効果的なものがいい。
それこそが護身武器に求められる規格だと思うんだよね。

そんな都合のいいもの、あるんだよ。

ポリスマグナム。
米軍御用達、お高いお高い1桁万円の催涙スプレー。

男社会の猟友会にも人間(♀)の事務員はいる。
意識は高そうだから持ってると思ってたし、ロッカーを開けたら案の定ごろごろっと出てきたよ。
別に事務員はクマ狩りなんて行かないでしょ。
99年使われないまま付喪神になっちゃうなんて、とっても残酷。
私が消費してあげて、環境スリーアールの精神でSDGsに貢献するの。


催涙スプレーは女の子のマストアイテム。常識だよね。
自分に使うのはアルコールスプレー、他人に使うのは催涙スプレー。常識だよね。
これがなきゃ、夜道なんてとても歩けない。
今日だって持ち歩いてたんだよ? 朝菜ちゃんにぶん投げられて水路にどんぶらこしちゃったけれどさ。
――あの子は前も腕をクロスさせてスプレー二刀プッシュ! とかやらかして催涙スプレーの威力を私に刻み込んでくれたけどさ。


山折村は廃棄物処理場なんかじゃないんだよ?
噂じゃ二年の先輩の実家がそんなことやってるらしいけど、それを聞かなかったことにしても、
11月25日違反が平然と闊歩してるのはひどいと思わない?

『俺も君たちとお友達になってあげるんだな♡』じゃねーよ! 私のほうからお断りだよ!
『むふん、パパって呼んでくれてもいいんだな♡』じゃねーよ! 金積まれても願い下げだよ!
『俺の好意を断るなんて、礼儀がなってないんだな。これは分からせてあげないといけませんなあ』じゃねーよ! 礼儀がなってないのはお前だろ!

貴方様のご劣情に対して総合的に検討しました結果、ご期待に添えかねました。
警察に相談することになりましたことは大変心苦しい限りでございますが、貴方様の今後のご冥福をお祈り申し上げます。
本ッ当に治安悪いのがいるよね。

そんな場所なだけに、山折村クリーン作戦であの辺の住宅街の路地裏に行くときなんか、催涙スプレーは絶対必要だよ。
ワンプッシュで手軽に国際貢献。うれしくて涙が出ちゃう。


そしてここにあるのはそんな生易しいものじゃない。
グリズリーすら泣きながら緊急搬送されるクマ専用の超強力版。
ゴキジェットならぬクマジェット。

部屋の隙間から噴き出されたら、異能とか関係なく悶絶する。
まともに吸い込めば、目も開けられない息もまともにできないと思うなあ。
そのまま一昼夜のたうち回って、あとは野となれゾンビのエサとなれ、ってヤツ?

ハンカチ? マスク? 関係ない。
固定ホルダー? セーフティピン? 関係ない。
だって、『お願い』すればそのマスク外してくれるもんね?
『お願い』すれば、ピンを外すまで待ってくれるもんね?


真鍮の鈴に細いテグス糸を通し、取り付ける。
飲食店の扉を開けたときにからんからんと鳴りわたるベルをイメージして、音が響くように取り付ける。

先生が何か企んでるのは分かってるから。
こういうとき、仲の良いお友達がいたら先生の様子を見てきてもらうんだけどなあ。

実際、誰がどんな異能持ってるかって分かりっこないじゃない?
呪詛返しみたいな、私を殺すとお前も死ぬぞ、なんて異能の人がいたら最悪じゃない?
だからそういうことはできるだけ誰かにお願いしたいんだけど、誰もいないから自分でやるしかないんだよね。
ほんと億劫。

別に先生を信じていないわけじゃないよ?
でも、私たちはちょっと仲良しが足りないみたいなんだよね。
先生だって大人の男性だし、万が一があったらイヤじゃない?
頼りがいのある大人の男性は嫌いじゃないけどお、ナイフ隠し持ったボディガードとか怖いじゃない?
裏側にどっぷり毒の塗られた盾ってヤでしょ?
だからいざというときは身を守らせてもらうけど、仕方ないよね。


地震こそあったけど、朝起きて普通に一日生活して、お昼寝もしないままもう日が回った。
生活サイクルの破綻は美容の敵、健康の敵。
だからありがたく仮眠させてもらうね。

寝袋に身を包んで、イメージする。
異能がもっと、もっと私に馴染むようにとイメージする。
脳により強く結びつくように、身体とより一体化するように。
虫の声を子守唄に、意識を深みへ深みへと沈めていく。


道端で力尽きてる二人。
僕の受け持ってる学年の生徒。
円華ちゃんとよく一緒にいた二人だね。
さて、何が起こったのか、藪蛇な詮索はしないけれどさ。
ヘタを打っていたら、僕もこの二人の仲間入りだったと考えておくよ。

『小屋の外に誰かがいるようだから、様子を見てくる。
 もし戻ってこなければ、僕は死んだものと考えてくれてかまわない』
そんな建前以外のなにものでもない書き置きだけ残した。
猟師小屋にあった衣服をまとい、武器をいくつか見繕う。
ライフルは屋台のコルクライフルしか使ったことなくて、持っていくか悩んだけど、ないよりはいいよね。
そして、荷物を手に、暗視スコープを手に、足早に猟師小屋を離れた。
追いかけてくる様子はないし、考えすぎだったかもだけれど。
――そもそも考えすぎないといけない事態そのものがダメじゃない?

決して僕は円華ちゃんのことが嫌いなわけじゃないんだよ。
学校や村の噂に詳しいし、慕ってくれるし、見た目も十分かわいいしね。
けれど、……なんていうか、一緒にいて疲れるんだよねえ。


仮眠を取っていいと僕は言った。
そして、彼女は僕を信用していない。
だったら、眠ってる間に襲ってくるって考えるよね。
見張りしておきますから先生は眠ってくださ~い! なんて言われたら僕だって同じこと考えるよ。

このまま何もせずに一晩過ごす?
そしてずっと気を張り詰めたまま、日中も過ごすかい?
いや、そこまでする義理なんてこれっぽっちもないでしょ。
所詮教師と生徒、僕にとってはただの商売客なんだしさ。
彼女さ、今きっとパトランプみたいに真っ赤っ赤に光ってると思うんだよね。
レッドオーシャンの中で我慢するよりは、やっぱりブルーオーシャンでしょ。

虎穴に入らずんば虎子を得ず、だっけ。
だとしたら、僕は兎の穴を探して兎の子を売って生きる。
円華ちゃん、僕たちは会わなかったことにしようか。
そのほうが、気疲れしないでしょ? お互いにさ。

フレネミーな子はしばらくお腹いっぱいだ。
美森ちゃんが適応できてたら便利だったんだけど、彼女ももうゾンビだからねえ。
もっと純朴で心から僕を慕ってくれそうな、青々と光ってる子、どこかにいないかなあ。


【B-6/猟師小屋/一日目 黎明】
環 円華
[状態]:健康、仮眠中
[道具]:ザック(手鏡、着火剤付マッチ、食料、ポリスマグナム(1秒×7回分)×2)、熊鈴複数、寝袋、テグス糸、マスク、くくり罠
[方針]
基本行動方針:他人を盾にして生き残る
1.襲撃警戒中
2.仮眠中
3.手駒を集める

【B-5/道はずれ/一日目 黎明】
碓氷 誠吾
[状態]:健康
[道具]:災害時非常持ち出し袋(食料[乾パン・氷砂糖・水]二日分、軍手、簡易トイレ、オールラウンドマルチツール、懐中電灯、ほか)、ザック(古地図、寝袋、剣ナタ)
    山歩き装備、暗視スコープ、ライフル銃(残弾5/5)
[方針]
基本行動方針:他人を蹴落として生き残る
1.もっと信用させやすい人間を探す
2.捨て駒を集める

047.山折村の明日 投下順で読む 049.追跡者
時系列順で読む
みんな仲良し山折高校第一学年 環 円華 山折村血風録・序
碓氷 誠吾 ギザギザチャートの信頼口座

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最終更新:2023年02月13日 10:28