「よぉ『せんせー』。烏宿ちゃんとのデートはどうだった?」
「ちょっ、やめてくださいよ六紋さん。烏宿さんは後輩というか教え子というか、そんなものでして」

山折村の猟師・嵐山岳の携帯に着信が入ったのは、
彼を『先生』として慕う烏宿ひなたとの猟を終え、
猟師小屋に戻ってきた時だった。

嵐山岳。高校卒業後、村を離れて大学で生物学の学位を取得。
その後村に戻り、猟師になったという異色の経歴の持ち主である。
眼鏡を掛け、性格も表情も穏和な彼は、一見すると教師か研究者のようである。
だが、子供のころから村の山々を駆け巡り、逞しく育ったその身体は、
彼が間違いなく山の男であることを証明していた。

発信者は六紋兵衛。
『現代の名人』と称される、山折村一番のベテラン猟師である。

「くっひっひ、どうだか。いろいろ聞き出してえところだが……」
六紋が咳払いをした。彼の声が、ひょうきんなオヤジから、練達の猟師のものに変わる。

「嵐山。これからマジの話をする。――ヒグマが出たぜ」
「えっ……」

嵐山は絶句した。



山折村周辺の山にヒグマがいる、という噂はあった。
その噂の出所となったのは、六紋兵衛その人である。

数年前、ある霧の深い日のこと。
山の奥地を歩いていた六紋の前に、突如3mはあるかという巨大な影が現れ、襲い掛かってきた。
六紋は咄嗟に銃を構え、その右眼を撃ち抜いた。
そいつは呻き声を上げ、霧の中に消えていった。

この日本で3mを超える陸生動物など、ヒグマしか考えられない。
だが、学術的には、本州にヒグマは存在しないはずである。
当の六紋すら、悪い夢でも見ていたのではないか、との疑いを抱いていたほどだったが、
万一を考え、「ヒグマの疑いあり」としてこれを報告した。

その後、猟友会は周辺の山の調査を継続的に行ったが、
決定的な証拠を掴むことができないまま月日が流れた。

状況が動いたのは今年に入ってからだ。
ヒグマのものと見られる足跡が発見されたのである。

この山にヒグマがいる可能性は極めて高い――
それを知った猟友会は、北海道の猟友会とも協議を実施、警戒を引き上げようとしていた、
その矢先のことだった。



「……何があったんですか?」
「山でヒグマに荷物を奪われたっていう男が来たんだ。
 しかもその男ってのがな。聞いて驚け。工藤清澄だ」

嵐山の目が点になった。

「えっとぉ…… どなたでしたっけ?」
「っっかぁぁ~~……これだからインテリさんは。男ならMMAの世界戦くらい見るもんだぜ?
 一言でいや、世界的格闘家だよ。山で修行中に一休みしようとしたら、自分の荷物をクマがあさってたんだと。
 で、本気の蹴りを背中にかましたんだが、その瞬間悟ったってよ。『あ、こりゃ無理だ』って。
 幸いこっちを振り向きもしなかったんで、何とか逃げることができたってさ」
「それはその…… なんというか」
「聞くに、あの巨漢の工藤清澄が、見上げなきゃらないほどデカかったそうだ。
 言ってることが嘘じゃなけりゃ、まず間違いなくヒグマだわな」

嵐山は思案する。
つまり、そのヒグマは相当村に近いところにいるということだ。
下手をすると、今夜にでも村に降りてくるかもしれない。
熊撃ち用のライフル銃自体は、足跡が発見された後、
猟友会メンバーであり投資家でもある山狩昴が、気前よく全員分を手配した。
だが、それで熊を射殺できるかどうかは話が別だ。
的確に眉間や心臓を撃ち抜かなければ、興奮したヒグマが時速50キロを超えるスピードで襲い掛かってくる。
一応、模型を使った訓練はしているが、実践でそれができる自信ははっきり言ってない。
この村でそれが可能なのは、六紋だけだろう。


「……でだな、嵐山。ここからが問題なんだが……」

……ここから?
ヒグマがいる、それ以上に重大なことなんて……
訝しむ嵐山に、六紋が、低い声で告げた。

「そのヒグマ、右眼が無かったそうだ」



嵐山は、息を呑んだ。
「……手負い、ってことですか。しかも、右眼って……?」
「ああ。あの時、俺が仕損じた奴の可能性が高い」

背中に冷気が走った。
手負いのヒグマは、凶暴化する。一刻も早く駆除しなければ、恐ろしい事態を招きかねない。

「……嵐山よ。手負いのヒグマは、恐ろしいぜ。
 俺は北海道で見た。本物の、化け物だ」

「……はい」

「俺はあの時、自分の眼を信じられなかった。鬼か天狗でも出たのかと思ったぜ。
 だが、それも言い訳だ。
 ヒグマを手負いで逃したなんちゃあ、この六紋兵衛、一生の不覚だ。
 俺が作った化け物の為に、一人でも死ぬなんてことがあっちゃ、俺ぁ死んでも死にきれねえ。
 この村を守る為にも、討たなきゃなんねえ。
 奴の首は取るぜ。この村の為にも、な」
嵐山は、これほど鬼気迫った六紋の声を聞いたことが無かった。

六紋が咳払いをし、口調を普段の調子に戻した。
「つーわけでだな、明日からは山狩りの準備だ。
 ま、あんまり不安になるな。ダチの北海道の連中も呼ぶ。
 どいつも腕利きぞろいだ。お前ら若ぇ奴らにゃ無理はさせねえからよ。
 ただまあ、今夜現れた時の為に、悪いが一晩小屋で待機してくれねえか?
 俺ももう少ししたら戻る」

「分かりました。ところで六紋さんは今どこにいるんです?」
「公民館に向かってるとこだ。村のボスのトリプル一郎にこれを伝えに――

 次の瞬間、未曾有の大地震が山折村を襲った。



「くっ…… 治まりましたか」
嵐山は、テーブルの下から這い出しながら言った、

古い狩猟小屋は、幸い壁や天井は崩れはしなかったものの、
窓の一部が割れ、中はまるで嵐が過ぎ去った後のようだ。

「つっ……」
割れたガラスで左手首を切ってしまった。
傷口は小さいが、動脈を切ってしまったらしく、血が噴き出る。
包帯をきつく巻き付け、なんとか止血する。

「電話は…… 通じるはずがありませんか」
六紋には待機するように言われたが、ここは被災者の救護が優先だ。
まずは避難所に向かうべきだろう。
ザックにロープや非常食、水、医療品を放りこむ。

銃を持っていくかは迷ったが、
この状況で、万が一にでもヒグマが避難所を襲えば大惨事である。
杞憂で済むことを祈りつつ、使い慣れた散弾銃と、山狩からもらったライフル銃を肩に掛けた。

村の避難所は、公民館か学校である。
公民館には六紋が向かった。なら自分が行くべきは学校だろう。
誰かが戻ってきた時の為に、書置きを残し、小屋を出た。

田園沿いをしばらく歩き、広場が見えてきたころ、
運命の放送が鳴り響いた。



(ウイルス…… ゾンビ…… 解決策は女王感染者の殺害…… タイムリミットは48時間)
嵐山は、悪夢ともいうべき内容に驚愕しながらも、冷静になるよう自分に言い聞かせ、放送の内容を反芻する。
(素直に受け取れば、速やかに女王感染者を殺害する。
 すなわち、正気の人間全員が互いに殺しあう、あるいは自殺する――のが最善ですね。
 最悪、正気の人間が全員犠牲になるだけで、ゾンビ化した人間を含め、全てを救うことができる)

 その誘惑に対し、嵐山は、首を振る。

(それを決断するには早すぎます。そもそも、あの放送が本当に真実なのか分かりません。
 ウイルスは研究施設から漏れた、と言ってましたね。
 つまり、その施設なら、何か手掛かりがある可能性が高い。
 ……考えていても仕方ありません。とにかく、まずは生存者を――!?)

先ほど負った手首の傷が、突然疼いた。思わず包帯を外すと、
開いた傷口から流れ出た血が、散弾銃の実包に変化していた。
(血が弾に……? そうか。これが私の異能……)
散弾銃に装填したところ、ピタリと収まり、普通の弾と同じように使えそうである。
物は試しと、今度はライフル銃の弾丸をイメージしたところ、
思った通り、ライフル弾に変化した。

(……血を失うという代償があるにしても、
 弾丸を補充できるというのはありがたい。だが……)

嵐山は、眉間にしわを寄せた。

(……気に入りませんね)
運命が、自分に撃て、撃て、撃ち殺せ、と言っている気がした。



昔から、自然と動物が好きだった。
晴れの日は山を、森を駆け回り、
雨雪の日は図鑑や本を読んで育った少年は、
のちに村を出て、街の大学に進学した。
生物学のゼミで、研究やフィールドワークに明け暮れる日々は充実していたが、
どこか、物足りなさを感じていた。
就職先について悩んでいたころ、たまには息を抜こうと久しぶりに山折村に帰省した。
自分の原点である山に登り、山頂から村を見下ろしたとき、彼は悟った。
ああ、自分は、この山折村が好きだったんだ。
向かうべき道は決まった。

猟師・嵐山岳を理解できないという者は多い。
動物好きは周知であるのに、獣害が発生した時はその駆除に率先して動く。
ではシカやイノシシやクマは邪魔だから全部駆除してくれ、と言えば、それは良くないと諭す。
人と自然は、完全に相容れることはできない。
どうしても払えない業があるなら、せめて自分がそれを背負う。
その上で、その業をできるだけ軽くするため、自分のできることを探し続ける。
それが嵐山岳の信念だ。



これからどうすべきか整理する。
まずは高校と小中学校周辺にいる生存者を探す。
ゾンビは多いだろうが、学校なら隠れられるところも多いし、生存者もいる可能性が高い、と踏んだ。
救出できたら、猟師小屋へ戻る。
近くに住宅や人が集まる施設は無いので、周囲にいるゾンビはかなり少ないはずだ。
猟をするときの非常食も、水も、医療品もある。
さらに、あまり使いたくはないが、予備の銃や弾丸もある。
少人数の拠点にはうってつけだろう。
当面の安全が確保出来たら、ウイルスが保管されていたという研究施設を探し出す。
それから先は、その時に考えるしかない。

六紋さんはどうしただろうか。
正気を保っているなら、彼なら心配はいらないだろう。
だが、もし、ウイルスに適応できていなかったら……?

首を振って余計な考えを捨てる。
分からないことは考えても仕方ない。
今は、自分がやるべきと信じたことをやるしかないのだ。

深呼吸をして、覚悟を決める。
(猟友会のみんな…… 烏宿さん…… 無事でいてください)
散弾銃を握りしめ、目の前の山折高校に向け歩き出す。


だが、彼は知らない。
村の猟師でウイルスに適応できたのは、彼一人だけだということを。

彼は知らない。
猟友会が追ってきた片眼のヒグマが、
彼を慕う少女、烏宿ひなたのすぐ近くに姿を現したことを。

彼は知らない。
自衛隊の秘密特殊作戦部隊が、
正常感染者抹殺を目的とした作戦行動を既に開始していることを。

この先に何が待ち受けているのか、彼に知る由はない。
全ては、霧の中だ。

【C-7/高校裏手/1日目・深夜】
嵐山 岳
[状態]:健康、左手首に軽度の切り傷(止血済)
[道具]:散弾銃(残弾3/3)、ライフル銃(残弾5/5)、小型ザック(ロープ、非常食、水、医療品)、ウエストポーチ(ナイフ、予備の弾丸)
[方針]
基本.生存者を探し、安全を確保する。その後、バイオハザードの解決策を考える。
1.高校、小中学校周辺の生存者を探す。生存者を見つけたら猟師小屋に戻る。
2.猟友会のメンバーや烏宿ひなたが心配。
3.片眼のヒグマ(独眼熊)のことは頭の片隅に置いておく。一応警戒はする。




「あ、が、が、が、が」

放送が流れる直前、六紋兵衛は、公民館に続く道の途中で突っ伏していた。
彼はウイルスに適応できなかった。そして不適応者はゾンビとなる。
歴戦の猟師である彼とて例外ではない。

自分の脳が侵食されていくのが分かる。
六紋兵衛の人格が、破壊されていく。

「あ……?」

突然、ほんの一瞬だけ、自分の嗅覚が異常に鋭敏になった気がした。
それは、もし彼がウイルスに適応した時に得られたであろう異能の一端か、それともただの幻覚か。

「これ、は……」

忌まわしき臭いが、風に乗って、彼の鼻に届いた。

「忘れもしねえっ! あの時、霧の中で嗅いだあの臭いだ!!
 奴はもうこの村の中にいる…… いやがるっっ!!!」

立たねば。己が撃たねば。自分が生み出したあの怪物を。
だが、その意志がもう、彼の身体を動かすことはない。
ウイルスに支配された身体は、応えない。

「何百何千と殺生をしてきた俺だ…… 俺は死んでもいいっっ!!」
 だが、若ぇ連中だけは…… この村だけはっっ!!!」
残された最後の力を使って叫ぶ。
その叫びが誰に届くことはない。六紋兵衛にできることは、何もない。

次の瞬間、ウイルスが、彼の人格の最後の一片を刈り取った。
深い霧の中で、悪鬼のように笑う片眼の羆を幻視しながら、六紋兵衛の意識は途絶えた。



彼はしばらく、死んだように動かなかったが、やがて、ゆっくりと起き上がった。
だが、そこにいるのは最早、

「あーー……」

一人の老人のゾンビだけ。

※ライフル銃(残弾5/5)を背負った六紋兵衛(ゾンビ)が公民館近くの路上(B-3)にいます。


029.みんな仲良し山折高校第一学年 投下順で読む 031.同志の絆 ~無限爆破編~
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SURVIVE START 嵐山 岳 山折村の明日

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最終更新:2023年01月18日 00:22