トレーラーの心臓であるディーゼルエンジンの騒音がふっと途絶えたのはその時だった。
移動する度に重低音を響かせるトレーラーが、いつの間にかブラヴォー・フォーの真横で停車し、
その運転席側のドアからボギーが身を乗り出していた。
くたびれた森林迷彩の戦闘服を着込んだ壮齢の男――ボギーは、その太い手に電子タバコを持ちながら、
軍人特有の硬い歩き方でムーシェに近寄ってくる。
ムーシェは両手を上げて「降参」のポーズを取り、ボギーに現状を報告した。
「ボギー、爆砕ボルトが作動しない」
「ああ、そのようだな」
電子タバコを咥えながら応じたボギーが、ぶっ倒れた軽量二脚型ACを見上げて、
短く刈り上げたアッシュブロンドの髪を困ったように撫で上げる。
長年の軍隊生活で鍛え上げられた屈強な肉体に、ここ数日で早くも顎を覆い始めた無精髭が良く似合うおじさんといった風なボギーだったが、
彼もこの手のハプニングに遭遇するのは初めての様だった。
頭の中でACの操縦マニュアルを思い出そうと努力しながら、ムーシェは「ふうむ」と唸り声をあげるボギーに言った。
「何か他にハッチをこじ開ける良い方法はないか?」
「……俺がなんでも知っていると思わないことだな。リーダー」
仏頂面で言い返されたムーシェは面食らい、きょとんとした表情を浮かべた後、額を左手で抑えて天を仰いだ。
もうどうしろってんだと、溜息を吐き出しながら悪態も吐いたムーシェの隣で、ボギーは電子タバコを吸って、続けて言った。
「ともかく、こいつのハッチを開けなければならないんだろう? なら、それ以外の手段を見つけだして、それを使ってハッチを開けることだ。
気温も下がってきた。そろそろ雨も降るぜ?」
「……ようするに、お前は早くハッチをこじ開けてしまえと言いたいんだろう。分かった、オーケイだ、ボギー。
さっさとハッチを開けて、中身を見て、エクシーレに帰ろうじゃないか」
苛立たしげにムーシェが言ったが、ボギーは気にも留めずに「そういうこった」と無愛想な返事をして、大型装甲トレーラーに戻っていった。
いったい何をしにトレーラーを降りてきたのか、嫌味を言うためだったのかと、ムーシェは思った。
そして、くそったれと呟きながら、ブラヴォー・フォーの四本ある脚の一つに小走りで近寄り、そこから野戦整備に必要な工具一式と、
強化プラスティックに覆われたPCを取出す。
どちらも主に整備兵が使うもので、工具セットの中身はACの必要最低限の整備ができる程度に抑えられており、
本格的修理をするにはそれ専用の工具を運搬する車両が必要になる。
ACの整備に必要な工具を野戦整備用工具にすべて加えようとすると、
どうしても機体内部に収納できない大きさの工具が、いくつかあるからだった。
一方で、強化プラスティックの覆いが特徴の防水加工のされた携帯型コンピュータは、
ACに試験作動コードを打ち込んだりする際に使うものだった。
内部にインストールされているのは、ACの整備に必要なアプリケーションだけで、無駄なものは一切組み込まれていない。
これを直結させて、まだ生きている内部機器を経由し、ハッチを解放させる。
コードがどこでどのようなエラーを起こしたかなど、そういうことが詳細に渡って表示される特殊なアプリケーションを持っている
このコンピュータだけに可能な技だったが……さて、どうなることやら。
期待と諦めを胸に抱きながらムーシェはコアによじ登り、頭部接続部の脇にある重く分厚い蓋を開けて、プラグの挿入部を守るように
取り付けられた薄いアクリルの保護板を上に跳ね上げ、コンピュータに繋いだケーブルを手にし、プラグをそこに突き刺した。
折りたたまれていたコンピュータを開いてシステムやアプリケーションを立ち上げ、ハッチ開閉のための試験作動コードを打ち込んだムーシェ
は、デフォルトでいくつか設定されているプログラムの内、このタイプのコアに適したプログラムを選び出して、ACの中に走らせた。
すると、即座にエラーを意味する赤い表示が浮かび上がった。
表示は三ケタの番号で、エラーごとに違った番号が割り振られていた。プログラムを走らせてすぐ出てきたエラーにムーシェは疑念を抱きつ
つ、この番号はなにを表していたものだったかと数十秒ほど悩んだ後、目を見開き、キーボードを打ち込む指の速度を速めた。
打ち間違えをせずに、一度に数か所からプログラムを走らせてみると、まだ〝生きていた〟回路があったらしく、
成功を意味するグリーンでプログラムの通った道筋が表示された。
ムーシェは即、実行プログラムを選び出して、生きていた回路にプログラムを走らせ、同時にコクピット内の与圧を解いた。
コンピュータを傍らに置きながら、ムーシェは薄ら寒い思いに駆られ、サバイバルキットの酸素マスクを持って来れば良かったと後悔した。
試験作動プログラムを走らせた際に表示されたエラーはハッチ開放に関する装置、もしくは回路が「物理的切断状況」にあることを意味して
おり、また機体の自己診断システムにも改竄された跡が見受けられた。
しかし機体の空気清浄化システムなどを含めた、生命維持装置そのものは完璧に動作するよう、手が加えられていた。
こんなことをやらかすサド趣味の変態野郎は、頭のどこの神経がイカれていやがるんだと、
ムーシェは歯を食い縛りながら、心の中で吐き捨てた。
こんな密室にパイロットを生きたまま閉じ込めるなど、正気の沙汰とは到底思えなかった。
ブラヴォー・フォーのそれと同じように、対生物・化学兵器用に与圧されていたコクピットは、空気が抜けるような、
気の抜けた音を吐き出した後、無機質で冷たい駆動音を響かせながら、ハッチを開放させた。
同時に、乾燥し切った大気の中、むわっとした湿気が混じるのをムーシェは感じたが、そんなものなど気にせず、
彼はパイロットシートに座る人影を見た。
上質なミルクを溶かし込んだような、乳白色の肌をした〝彼女〟は、久しぶりに外気にさらされ、微かに身じろぎした。
さらりとダークレッドの髪が頬を撫でて滑り、桜色の薄い唇が何か言いたげに小さく動く。
軽さと着用性を重視したパイロットスーツは、微かに盛り上がった胸部や、
ほっそりとした腰から伸びる脚のラインなどをはっきりと浮かび上がらせている。
まるで絵画から抜け出してきたかのように、その姿は魅力的で、蠱惑的でもあった。
一瞬、世界の歩みが止まったような感覚を味わったムーシェは、彼女が瞼を開き、雲の切れ目から覗く空よりも、
もっと深い色合いの青を湛えた瞳が自分を見ていることに気付いて、ハッとした。
「おい、大丈夫か?」
「…………ん……」
ムーシェがそう言うと、彼女は小さな声を上げて頷き、その華奢な右手を弱々しく、ゆっくりとあげ、ムーシェの右手に触れた。
ムーシェは微かに震える彼女の手を両手で包み込むようにして、作り笑いを浮かべながら
「大丈夫だ。安心しろ」
とはっきりとした発音で言った。
他にも「助かったんだぞ」とか「よく頑張ったな」と、声を掛けてやった。
本当に絶望的な状況に叩き込まれた時、そして、その絶望的な状況から不意に叩き出された時、どうすればいいのかということを、
ムーシェはよく分かっているつもりだった。
女心という奴はどうしても理解できずに、ハイスクールでは手酷い失敗を一度犯していたが、戦う者にとって、自分の味方の体温と言うのは、
心の安らぎを得るのに一番に役立つ。
そしてムーシェは過去何度か部下にそうしてやったように、彼女の頭を抱えるようにして、そっと抱きしめてやった。
お前はよくやっただとか、もう大丈夫だとか、よく頑張ったなとか、素朴なまでの褒め言葉を彼女に与えながら、
ムーシェは彼女を助けるためにどれだけの資源が必要かを、冷静に考え始めていた。
「意識はあるが……衰弱が激しいな。しっかりしろ。俺たちの拠点に連れて行ってやるからな。それで良いな?」
「は……い……。おねがい、します……」
掠れた小さな声で、彼女は言った。
ボギーがこの事をどう見ているかなど気にせずに、ムーシェは今すぐACをトレーラーに詰め込み、エクシーレに帰還すべきだと考え、
ヘッドセットに手をやろうとしたが、瞬間彼女の身体から力が抜け、訓練を受けた人間の体重にしてはいささか軽すぎる重みが腕にかかった。
ヘッドセットに伸ばしかけた手で彼女を支え、ムーシェはそのまま彼女を背負った。
背中になにか柔らかいものが当たってはいたが、この状況でその感触を楽しめるわけもないし、ムーシェはそれに気づく余裕も無かった。
歩兵の装備一式の方が重いんじゃないかと思いながら、ムーシェは両足に力を込めて立ち上がった。
両手は背負った彼女を落とさないように塞がっており、腕を動かしてバランスを取る事ができなくなっていたが、
ムーシェはそのハンディを感じさせないような滑らかな動きで、素早くACから降りて、ヘッドセットに向けて言った。
「ボギー、パイロットを確保した。ACをトレーラーに積み込んでくれ。こっちは俺が運ぶ」
『ラジャー、リーダー。五分でやる』
「頼んだ」
ディーゼルエンジンの騒音をまき散らしながら、トレーラーが動き始める。
それを横目に、ムーシェはブラヴォー・フォーのコアまでウィンチで引き上げられ、コクピットのパイロットシートに彼女を座らせた。
その時ムーシェはふと気づいた。このパイロットは相当な美人だということに。
最終更新:2012年06月22日 13:32