ムーシェは座席下からサバイバルキットを取り出して、中に入っていた簡易型の酸素マスクを彼女の顔につけた。
これで呼吸はかなり楽になる筈だと思いながら、ムーシェは彼女のパイロットスーツを上半身だけ脱がせて、
左腕にゴムバンドを巻きつけ、きつく縛り付けた。
そして小さな点滴装置一式を取り出して、針の先を覆っていたプラスティックの覆いを取り、
手首の辺りを消毒液を付けたガーゼで拭き、三度ほど軽く叩いた後、白い肌に浮き上がった静脈に針をゆっくりと突き刺した。
点滴パックの中身はごく一般的な生理的食塩水だ。
ゴムバンドを外し、テープで針を固定させ、点滴の速度を適当に調整すると、ムーシェはほっと息を吐き出し、
サバイバルキットを片付け、彼女の左腕をパイロットスーツに通してやった。
パイロットスーツの下に着込んだ黒いスポーツブラジャーと、彼女の白い素肌がムーシェの視界に入ったが、
今は魅了されていて良い時ではない。
頭の隅に浮かんだ数々の褒め言葉を葬り去ろうと、ムーシェは頭を左右に振り、二度深呼吸をした。
そしてヘッドセットが鳴った。ボギーからの通信だ。
『雨が降り始めてきた。エクシーレには急ぎで帰るとしよう』
ボギーがそう言うや否や、ぽつりと水の滴がムーシェの頬に当たった。
低気圧の接近を知らせるように、外気はさらに温度を下げつつあった。
ムーシェはパイロットシートで穏やかな表情を浮かべたまま意識を失っている女性の頭を撫でて、
いったい彼女は何時間あの中に閉じ込められていたのだろうと思った。
可愛らしい外見に似合わず、この女性はとてつもなくタフなのではないかと考えながら、
ムーシェはヘッドセットに手を当てて、気だるげに言った。
「……最初から俺はそのつもりだ、ボギー。帰ったら、パイロットの治療を優先させるが……構わないな?」
『私はそれで構わない。好きにやってくれ、リーダー……ACの積み込み完了。帰還しよう』
「ブラヴォー・フォー、ラジャー。アウト」
ヘッドセットの電源スイッチを切り、それもサバイバルキットの中に詰め込む。
肩に掛けっぱなしだったカービン銃も座席の下に仕舞い、元の場所に戻すのを忘れたコンピュータもついでに詰め込む。
ハッチを閉じる前にムーシェはパイロットシートを最大にまで後退させ、シートの高さも最低にまで下げた。
操縦性は格段に低下するが、もう一人小柄な女性をコクピットに入れるとなれば話は別だ。
トレーラーに運び込もうと言う気にもなりはしたが、雨が降り出した中、彼女をトレーラーまで運ぶのは得策ではない気がした。
そしてなにより、ムーシェはこの女性を、一刻も早く衰弱死の危険性から、遠ざけたいと思っていた。
エルフィファーレは夢を見ているんじゃないかと、そう思った。
物音がした後にハッチが開き、素早く駆け下りてきた人が焦燥感を滲ませた声で
「おい、大丈夫か?」
と言いながら、力の入らない身体を支えてくれた。
エルフィファーレを助け出した人物は、そのエメラルドに似た瞳に慈愛と思いやりを湛え、後ろめたい欲や感情が感じられない人物だった。
久し振りに嗅いだ外の空気の臭いに、乾燥した風と砂が肌を撫でる。
機械油の臭いと硝煙の臭いが微かにするのは、ACに染み付いてしまった悪臭だろうか。
しかしエルフィファーレは、5日ぶりに外に出られたと言う感動よりも、5日間という時間閉じ込められていた、
コクピットを見られてしまったと言う恥ずかしさを感じた。
人は生理的欲求を拒否する事ができない。
コクピット内に置かれた携帯トイレは、既に満杯だった。
パイロットスーツに内蔵された排泄物用パックも、同じだった。
けれどその恥ずかしさも、すぐに消えた。
もう二度と外へは出られないだろうと覚悟していたからか、自分が助かったのだと自覚するまで、少し時間がかかったのだ。
もう一度外気に触れる事ができただけでも、エルフィファーレは嬉しかった。
あの重たい倦怠感と脱力感は相変わらずだったが、それでもエルフィファーレは右手をあげ、人肌に触れようと思った。
栄養失調で弱り切った身体は上手く言う事を聞いてくれず、針でつつかれたような鋭い痛みがエルフィファーレを襲ったが、
エルフィファーレはじっと痛みに耐えて、ゆっくりとその右手をあげた。
もうちょっとで彼の頬に触れられると思った瞬間、彼の両手がエルフィファーレの右手を包んだ。
なんとか顔をあげると、引きつり気味の笑顔を浮かべている彼の顔がある。
ほんわりとした人の温もりが右手から全身に広がっていくような感じだった。
作り笑いを浮かべようとして、大失敗してしまった結果であろうその笑顔も、
人とのかかわりを遮断された鉄の棺桶に入っていたエルフィファーレに、人間味というものを感じさせてくれた。
彼は何度もエルフィファーレを勇気づけようと、声を掛けてくれた。
もう大丈夫だ、安心しろと、まるで負傷した戦友を労わるかのように言い続けてくれた。
(……ああ、この人は、とっても優しい人なんだなぁ)
そう思いながら、エルフィファーレはふっと警戒心を解いた。
安心感を与えるためにだろうか。彼はエルフィファーレの後頭部を支えながら、優しく抱きしめ、肩をとんとんと叩いた。
まるで、お前はよくやったと褒められているようで、エルフィファーレはちょっと変な気分になった。
でも、褒められることは嫌いなことではなかった。
ゆっくりと頭を撫でてくれる彼の手の感触に心地よさを感じ、伝わってくる鼓動に人の温かみと息吹を感じ、
はっきりとした発音で勇気づけてくれる彼に、言い表せないほどの感謝の気持ちを抱き、
同時に全身の力が抜けるほどの安心感を覚えた。
「意識はあるが……衰弱が激しいな」
焦燥感に駆られた、切羽詰った呟きにエコーが掛かって聞こえた。
そうですよ、あのコクピットの中に五日も閉じ込められてたんですからと、
そう言いたいのに、喉に何かが詰まったような感じがして、上手く喋れない。
意識も、だんだんと薄れている気がする。
重い瞼が下がり始め、眠気が全身を包んでいくような、心地よい感覚が、エルフィファーレを襲った。
その眠気を振り払うかのように、彼の右手がエルフィファーレの頬を軽く叩く。
重い瞼をなんとかして持ち上げたエルフィファーレは、今にも途切れそうな意識をつなぎ止めながら、彼を見た。
緑色の瞳が、エルフィファーレの碧眼をじっと見つめている。
腕は身体を支え、身体は寄り添い、体温と鼓動が毛布と子守唄のように感じられ、
エルフィファーレの身体に残った芯が、軟化していった。
「しっかりしろ。俺たちの拠点に連れて行ってやるからな。それで良いだろう?」
「は……い……。おねがい、します……」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぐたびに、喉が張り裂けるような痛みがあった。
もう痛いのも、辛いのも嫌だなぁと思いながら、エルフィファーレの意識は彼の体温に包まれ、
心地よい鼓動の音を耳にしながら、安息だけが広がる場所へと落ちて行った。
最終更新:2012年06月27日 02:28