「ヴィルヘルム」
と、呼ぶ声がした。
一瞬、誰に対して呼びかけているかには気づかなかった。
けれど、一拍を置いてそれが元々の名前であったということに気付く。
青年はソファの上で、少女の方へと視線を向けた。
「何、エンリカちゃん」
どれぐらい昔のものだったのか、思い出せないくらいに時を経たかのような響きを帯びて、青年にその名前は感じられた。
二人掛けのソファの隣に腰掛けた少女の目の光は、透き通った茶色の瞳によって、掠れた輝きを帯びているように思われたのだった。
少女はまだ、青年の前で笑うことのなかった頃に、その問いを投げかけてきたのだと、彼は徐々に思い出し始めている。
その後の問いを、彼は知っていたのだ。
「恋って、どんな感じなの」
そして、その問いに対する反応は、どこか筆舌に尽くし難いもので、青年は笑顔のまま固まってしまっていた。
でも少しだけ首を傾げてみせる。どうしてそんなことを訊くのか、という意思表示をするように。
何もかもが記憶の通りであった。
もう、変えることのできないものなのだ、それは。
「もう一人の自分が、自分の中にいる、って感じかな」
そう答えていた。
少女の瞳の中で、その奥のたまりのような場所において、光が静かに、清流が漂っているかのように揺れている。少女もまた、その言葉に対して上手く言葉にできないような、そんな反応をしている。
少女は頭の中で何かを考えているようだった。
「それは、自分の中でなかなかコントロールすることはできないんだ。
もし仮にコントロールすることができたとして、それが決して幸せになれるということかどうかは分からない。とにかく、それは厄介な感情なんだよ」
青年の言葉に、少女は身動きをせず視線を留めている。
二人は暫くの間言葉を交わさずに、静かに視線を預けあっていた。
やがて、少女が目を伏せる。青年はその様子を穏やかに見守っている。
「いつか、私も恋をするのかな」
そう言って、少女は俯いたままでいた。
青年はじっと同じように黙り込んでいる。
暫く黙っていて、それから微笑んだ。
「きっと」
言って、青年は頷いた。
もうどれくらい昔のことなのか、分からないくらい昔のことだった。
◇
「……なあ、ちょっとやっぱおかしいって、声掛けてやってあげてってくれよぉ」
男の情けない様子の呟きに、青い髪の女性は呆れた様子で睨みつけた。
その睨みは中々堂の入ったもので、男はぶるっと震える。
「あんたが行けばいいじゃない。何よAC乗りになんか話しかけたくないってーの、何されるか分かんないんだし」
「大丈夫だって、イケメンだし」
意味が分からなかった。
女性は頭を抱える。そこはキャリア・リグのブリッジというか管制室というか、まあ運転室であった。
運転室とはいえ、その空間は広い。
コンソールが長方形の部屋の壁面にぐるりと備え付けられ、またそのコンソール上方には巨大な外部観測モニターが嵌め付けられている。
今現在キャリア・リグは一時的な停止状態にあった。理由は色々で、突然の依頼があって、現在の運行を一時とりやめてスケジュールを組み直しているとかそういう感じだ。
そして、そんな管制室というか運転室の外部モニターに、リグの外周を映し出している箇所がある。そこには、青年が、開放されたハッチからぶらぶらと砂漠じみた荒野に足を踏み入れて、そぞろに歩いている姿があった。
女性はその映像を憎たらしげに眺めている。
「……あのさ」
不意に、男が静かに声を発した。
女性が面倒くさそうに視線を向ける。
「あの傭兵、女の子に慰められたいって雰囲気がビンビン出てたんだ」
「しね」
「ほんとだって! 朝廊下ですれ違った時に挨拶したら分かったんだよ、軽く笑みは浮かべてたけど、ほんとは心の中ではおっさんのことなんか眼中にないというか、案山子か電信柱か何かとしか思ってないような雰囲気がさあ……!」
「案山子程度に思われたんなら僥倖じゃないの」
男は、うーん、と唸りながら下を向いた。
「……でも、結局チャリオット死んじまったらしいじゃないか。
絶対あの感じだと、責任感じちゃってて、それで今実は胃薬がっぽがっぽで口内炎は大炎上してるんだぜ? きっと――」
その後も、男はワケの分からない言説を延々と述べ続けていた。
長々とその趣旨の分からない話が続いている中で、ふと女性が溜息を吐いて、かぶりを振った。
何かを諦めたらしい。
「……貸イチ」
「お」
女性は言ってそれっきり、そそくさと管制室を後にした。
◇
「……こんにちは」
そしてその夕焼け時の荒野で、女性は躊躇いがちに声を掛けた。
男は砂の上に座り込んでいて、首だけで振り向いた。しばらく、奇妙な視線のやりとりが続いていた。
やがて、女性がくたびれたかのように首を振る。
「……ウチのやつが『グッジョブ!』って言ってましたよ、昨日の試合」
女性がそう言うと、男はくすりと笑った。
「ねえ、何かあったんじゃ……あったんじゃないんですか」
女性の問いかけに、青年は首だけで振り返って、やはり笑った。
「夢を見たんですよ」
と青年は言った。
最終更新:2012年06月28日 06:50