男は窓を背にして座っていた。
椅子のアームレストに肘を置き、薄い唇に指先を置いて黙している。撫でつけた黒髪が赤褐色の斜光を浴びて、ポマードの鈍い光沢を放つ。
顔に落ちる影は濃く表情は窺い知れないが、その黒い瞳にうつるものは、白い。
彼の前には大きな机がある。
電気スタンドと受話器。中央に下敷き用の黒い布が皺無く広げられ、上には先ほどから見つめている紙片が一枚。脇に万年筆。
それら以外は何も置かれていない。
さらに奥行く部屋には橙色の鈍光が染み込み、暗闇がそこかしこに潜んでいる。床に敷き詰めた絨毯は柔らかく、足音一つすら奏でられないだろう。両側面の壁を占める本棚には分厚い本が背丈違わず並んでいて、冷徹な審問官を思わせる。
部屋の中にある物全てが、沈黙を守っていた。息も詰まるような薄ら寒い沈黙を。
男が意を決したように身を起こした。黒革張りの椅子がぎしりと音をたてる。背筋が張り詰められ、紙片に落ちる影が、より一層深くなる。
彼は筆を持った。紙片と向き合う。
卑屈な影の下では細かく連なる文字が滲んでみえ、内容は不確かだ。だが、彼は読まずともその文面を理解していた。これは死亡通達なのだ。ある男の死を認めるための儀式なのだ、と。
長いセンテンスの最後に引かれた細線の上、彼のために設けられた署名欄に筆先を移動させる。相応しい位置を定めると、男はその決意の先を空白に押し当てた。力を込める。黒いインキが滴り、溜まる。そして、名を書く。
Aleph M
そのまま彼は動かなかった。先には何も書かれない。
次第にその筆先が、ほんの僅かであるが、震えだした。表情は依然として影の仮面に包まれ、揺らぎすらも見られない。だが、彼の腕は確かに震えていた。
何を躊躇っている?
男は自問する。自分の行動が理解できないのだ。断固たる決意は彼の指の先を支配していたし、彼自身もそれを受け入れていた。だが、彼の腕は確かに拒んだのだ。一族に受け継がれる血、モーロックの姓を刻むことを。
彼は、姓の意味を知っていた。忌むべき悪魔の名。母親たちに嬰児を生贄に求めた血と涙にまみれた牛頭人体の悪魔の名前だ。
皮肉以外の何ものでもない。
男は既に数え切れないほどの子供たちを業火にくべてきた。彼らの行いは十分に悪と見做されるものだった。男は罪の深さに応じて罰を与えたに過ぎない。一人でもあの悪鬼を逃せば、何百何千と繁殖し、いつかまた銃を突き付けてくるようになるだろう。
筆ではなく銃を選び“あの方”の理想に立ち塞がるような輩は、たとえそれが胎児を腹に抱えた母親であっても排除すべき害虫でしかない。それは正義に属するものならば当然の仕業だ。誰にも責めることなどできやしない。
そうだ。正義だ。自分は正しい側にいるのだ。
個人の残虐行為は、究極の目的、万人の幸福たる秩序の実現のために全て正当化される。大義の旗の下においては大量殺戮者は忠義を尽くした英雄であり、征服者は偉大なる開拓者なのだ。
いつか、怒りは平穏に、憎しみは愛に、美しく昇華するときが来るだろう。
そこに自分はいなくとも、子供たちの瞳には輝きが宿っているはずなのだ。油のようにギラついた濁りは消えているはずなのだ。
兄は妹の晴れ姿を心から祝福し、誰も悲しむことはない。息子は年老いた両親の肩を抱いて感謝を伝え、誰も憎しむことはない。
子は“家族”の愛を受け継ぎ、姓は連綿と続いていくのだ。
それでも、先を書くことは躊躇われた。
新たな世界の夜明けに思いを馳せれば馳せるほど、神経が硬化していく。
自分の憎悪にまみれた泥沼のような人生が神話の時代から運命付けられていたかのようで、姓を己の前に示すことは即ち、その運命を唯々諾々として受け入れていることに思われたからであった。
何故、自分の一族がこのような呪われた姓を、そして運命を持つようになったのか、彼には最早、知る術は残されていない。一つだけ方法はあったが、それを消そうとしていたのは他でもない彼自身である。
あの日、男の一族は全て死に絶えたのだ。母も、妹も、自分も、そして、今なおプラスチックチューブで仮初めの臓に繋がれている父すらも。
それが、予め定められていたものだったとしたら。
水滴が落ちる音に気付く。止まった筆先から黒が滲み、白を浸食していく。
違う。
その手をかざす。黒が混ざる醜い赤。濁りきった赤。
彼の手の中で、万年筆が折れていた。
最終更新:2012年06月30日 03:39