エルフィファーレは夢を見ていた。
夢を見ること事態は珍しくもなんともなかったが、今回の夢は悪夢と言っても良いようなものだった。
自分をACのコアに閉じ込めることになった、とある依頼主に抱かれた夜の事だった。
実を言うと、あまり良い――容姿ではなく性格と道徳的な観点が――男ではなかったため、エルフィファーレも乗り気ではなかった。
どこからか略奪してきただろう大きなベッドで、匂いのきつい香水の香りを漂わせながら、男はこれくらいならどうだと、
それなりの額を提示してきたが、そういう問題じゃないのですとエルフィファーレは返した。
そこは、元は政府軍の検問所かなにかだったであろう場所に建てられていた、地上二階、地下一階の兵舎の一室。
士官用にあてがわれる部屋なのか、そこそこ広く、リノリウムのような色をした壁を除けば、文句ない部屋だった。
もっとも今は男の悪趣味に毒されてしまい、学生運動かなにかの宣伝ポスターのような、見た目だけ派手で意味を持たない張り紙や、
質素さが売りだったこの部屋には不釣り合いな虎の毛皮のレプリカなど、
自己顕示欲が見えすぎていて、思わず苦笑するような空間と化していた。
いくら娼婦でも抱かれたい相手と、嫌でも抱かれたくない相手と言うものがある。
それにエルフィファーレは、性欲のために娼婦をやっているのではなかった。
それなのにこの男は、そこを勘違いして、金さえ積めば抱かせてもらえると思っていた。
結局、依頼主でもある男の機嫌を損ねすぎるのはよくないと思って抱かれてしまったのだが、男はエルフィファーレを満足させずに、
自分だけ充実感に浸って、欲を吐き出し終えた赤ら顔で、ありもしない自慢話や夢物語を散々語り始めた。
事後の微睡みなど一切なかった。
抱かれるだけ抱かれて、それで終わりというほうがまだマシだったかもしれない。
だからエルフィファーレはにっこりと笑って、俺の女にならないかと誘った男に、こう言ってやったのだ。
「ボクは粗末な人とは一緒にならないんですよ」
男は一瞬、こいつはいったい何を言っているんだと言うような顔になった後、
言われた意味を理解したのか、唇を震わせながら部屋から出て行った。
ポケットにいつも忍ばせている32口径の護身用小型拳銃をこっそり枕下に隠して男が戻ってくるのに備えたエルフィファーレだったが、
その夜、男は戻ってこなかった。
きっとその夜の内に依頼終了後に斬り捨てる計画をたてて、機体を弄り回し、例の細工をしたのだろう。
口ばかりの男だと思っていたから、油断して、その結果があの有様だった。
夢の中、五日間も閉じ込められたコクピットの中にエルフィファーレは座っていた。
服はパイロットスーツではなく、何故かお気に入りの私服だった。
黒のホットパンツに薔薇の刺繍があしらわれた白いガーターベルトと、
パリパリっと真っ白なワイシャツと、ちょっとだけ赤みがかった黒いネクタイ。
これがいつものボク、とエルフィファーレは声に出さず、唇を動かした。
脚を折りたたんで、膝を両手で抱え、パイロットシートの上で体育座りをするような格好になりながら、彼女は考えふけった。
いろいろなことを考えて、いろいろなことに反省して、冷静に自分を見つめ直した。
少しの間、ACに乗るのは止めた方が良いな、ということや、当分の間はどこかに定住しようということ。
それらを考え出したところで、彼女は自分が病院の患者服を着ていることに気づき、
ちょっとだけきょとんとした後、微かに笑みを浮かべながら「あぁ……」と吐息を漏らしながら、言った。
「……そういえば、助けてもらったんだよね、ボク」
安堵の溜息を吐き出しながら、エルフィファーレの意識は夢の中からゆっくりと浮上していった。
――――
……身元不明の彼女と、そのACを難民キャンプ『エクシーレ』が回収してから、三日が経っていた。
あの後、一日中振り続けた雨は翌日になってすぐに止み、昼になると今度は太陽が顔を出して、
傍若無人で強力無比な太陽光をさんさんと地上に放射し、 湿度や湿気といったものをすべて蒸発させていた。
三日経った今は、分厚い雲が太陽を遮っている。適度な湿度に、適度な温度だ。
エクシーレの敷地中央にある居住区――とはいっても、プレハブやそれに類似した建築物の群れ――の方から、
子供のはしゃぐ声と、母親たちの談笑が聞こえてくる。
そんな中、
シメオン・ムーシェはよれよれになったオリーブ・ドラブの戦闘服姿で、
灰色のツナギを来た青年と一緒にところどころ錆の浮いた廊下を横並びに歩いていた。
どちらも背筋がピンと伸びているが、服の着こなし方は雑だった。
「んでさ、どうすんだよお前。お姫様拾っちまったわけだろ? しかも目ェ覚めてねえんだろ、まだ」
こつこつと編み上げブーツの靴音を廊下に響かせながら、灰色のツナギを着た青年が言った。
ムーシェに比べて年齢相応といった馴れ馴れしさと、口の悪さが感じられるが、夢見る少年がそのまま大きくなったような、
どこか愛嬌のある顔のせいで、不思議と悪い気は起こらない。
ツンツンに尖った茶色い髪の毛はムーシェのものより短く、目の色も活発そうな褐色で、よく見比べると身長もムーシェより少し低い。
「少なくとも、キスで目覚めさせるつもりはないんだろ?」
へへへっ、と意地悪く笑い、ムーシェを肘で小突いた灰色のツナギを着た青年――ヴィクター・スピアーズは、
皮肉の利いたセリフが帰ってくるのかと期待していたのだが、ムーシェはこう言った。
「案外、そういう手もあるかもしれないな」
いつもの仏頂面でぽつりとつぶやかれた言葉に、スピアーズは目を白黒させた後、急に真面目な顔になっていった。
「おい、シメオン、お前なにか拾い食いしなかったか? もしかして病気なのか。主に頭とか、脳とか、そっちの方で」
「そんなことはしてないし、俺よりお前の頭の方が狂ってるだろう。それよりもお前、
今日はエレナが昼飯作ってくれんだよ、とか昨日言ってなかったか。もう12時だぞ」
ほら、とムーシェは愛用の腕時計をスピアーズに見せてやった。
軍用の物ではなく、小洒落た細身の腕時計の長針は、どちらも真上を指していた。
「げっ……マジかよ。俺の時計壊れてんのかぁ……? さっき見た時はまだ10時だったのによォ」
「ただ時間が過ぎただけだろう。ほら、さっさと行ってこい。女を待たせる人間には、碌な奴がいないんだ」
気だるげな口調で言いながら、ムーシェは右手を振って動物にやるのと同じ「あっち行け」のジェスチャーをした。
そのジェスチャーの意味をくみ取ったスピアーズは軽く溜息を吐き出して、半身になりながら言った。
「わぁーってる。んじゃ、俺の分まで見舞っといてくれよ」
「オーケイ。オペレーターによろしくと言っておいてくれ。いつも頼りにしていると」
「もうちっと軽めの言葉に変換して言っておくわ。エレナがてめえに惚れたら一大事だからな」
ははは、と心の底から面白おかしそうに笑い声を上げ、スピアーズは小走りで廊下を走り抜け、そのまま角を曲がって消えて行った。
スピアーズは暇さえあればモンティ・パイソンだのマーフィーの法則だの、その辺りのユーモラスな書籍を読み耽って、
それを頭の中で再構築しているだけのことはあるのか、冗談をジョークのように飛ばしまくる。
政府軍に入隊する以前からの親友であるムーシェにとって、スピアーズは天秤の向い側の皿に置かれた分銅のようなものだ。
対照的な態度と性格だから、その分つり合いが取れる。
とはいっても、いつも地に足つけず天秤の上で上下されるのも気持ちの良いものではない。
ふっと方から力を抜いて、ムーシェは廊下を歩き続け、そしてその部屋にたどり着いた。
元は工場長が使っていた事務室かなにかだったそこは、工場の隅にひっそりとありながら、
一人分とは思えないような床面積を持っており、その広さから今では医務室代わりに使われている。
扉の向こう側から漂ってくる微かな消毒液の匂いを感じながら、ムーシェはふうと息を吐き出した。
見舞いとは言うが、俺は彼女の名前すらまだ知らないでいるのだ。
彼女のことについて何も知らないという事実が、ムーシェの胸に重く圧し掛かる。
けれどムーシェはそれを無視して意識を切り替え、「医務室」と書かれた扉を二回ノックした。
「どうぞ」
しわがれた柔和な声が、部屋の中から返ってくるのを聞き、ムーシェは扉を開けて部屋の中へ入った。
中は天井が高く、奥行きのある清潔な部屋だった。錆の浮かないプラスティックなどを壁に貼りつけ、
それを眼に優しいクリーム色に塗り、所々の角になっている部分に、目が覚めるような白いカバーが取り付けてあった。
LEDライトは白系統で囲まれた部屋ではよく反射し、目に見える風景の中に影がないようにも見え、距離感がつかみづらい。
斥候狙撃兵としていつも距離と共にあったムーシェは、まったくもって安全であると言うのに、ここにくるといつも不安になるのだった。
「ああ、リーダーじゃないですか。分かってますよ、彼女ですね? 今さっき目を覚ましたところなんですよ」
こちらの顔を見るや否や、応答も聞かずに話を勝手に進めているのは、元政府軍軍医のリチャード・マルコウィッツ少佐で、
いつも空挺徽章とレンジャー徽章が縫い付けられた白衣を着ていることから、難民キャンプであるエクシーレお抱えの戦闘部隊、
『実働部隊』の面子から『アサルト・メディック』と冗談交じりに言われている。
白髪交じりの金髪を歩兵のように刈り上げていて、下手な兵士よりも筋肉質でひょろりとした身体は、とても医者の物とは思えない。
キリスト教の慈愛の精神をはめ込んだような碧眼はいつも患者に安心感を与え、必要とあれば柔和な声を取りさって、厳しく叱咤する事さえある。
身長182㎝のひょろ長いマルコウィッツは、使っていたボールペンをペン立てに戻し、回転椅子から腰を上げて、
クリーム色のカーテンの向こう側に「お客様だけど、今良いかな?」と気軽に声を掛けた。
するとカーテンの向こう側から、透き通ったソプラノの返事がくる。
「ええ、良いですよ」
その声は三日前、衰弱しきった身体をなんとか動かして自分は生きているのだと主張し、
そのまま意識を失ってしまったあの女性のものだとムーシェには分かった。
エクシーレに彼女を運び入れてから三日間―――長いようで短かった時間を経て、彼女はようやく意識を回復し、
極普通に会話ができるようになったのだ。
彼女を助けたムーシェとしては、それだけでも十分に満足できる結果だったが、
どういうわけかさっさと医務室を出ようという気にはなれなかった。
ムーシェはそのままマルコウィッツの傍らに立ち、そっとクリーム色のカーテンを捲って、カーテンの内側に入り込んだ。
マルコウィッツが「私は残りの仕事を片付けるよ」と、カーテンの外側から言うのが聞こえ、続いて、回転椅子が軋む音が部屋に鳴り響いた。
消毒液の匂いに混じって、嗅ぎなれない甘い匂いが鼻腔を擽るのを感じ、ムーシェはパイプベットの上で横になっている彼女を見た。
薄緑色の患者衣に身を包んだ彼女は、以前見た時に比べてはるかに健康そうだった。
肌は色艶を取り戻し、目ははつらつとしていて、その艶やかで華奢な肢体からは、悪戯好きな猫のような雰囲気すら感じられた。
「あなたは……もしかして、ボクを助けてくれた人ですか?」
くりりとした深い青の瞳でこちらを見ながら、彼女は小首を傾げて、その小さな桜色の唇を動かして言った。
ムーシェは、どうして俺がそうだと分かったのだろうと思いながら、ふと彼女をじっと見つめていたことに気付いて、微かに目線を外した。
助け出した時、彼女はかなり衰弱していて、俺は防塵ゴーグルを付けていた状態だった。
防弾性のあるパイロットスーツも着込んでいたし、カービン銃だって持っていたのだ。
自分で言うのもどうかと思うが、あそこにいたシメオン・ムーシェと、ここにいるシメオン・ムーシェは、
まず一目で同一人物と分かる保障などないのだ。
いや、しかし……と、ムーシェはさらにこう考えた。
彼女は会う人全員に、無差別的にこうやって聞いているのではないか。
自分をあの棺桶から助け出した人物が分からないから、手当たり次第に、というわけだ。
それなら、彼女が俺にこういった質問をぶつけてきたのも、納得がいく。
そこまで考え込んでから、ムーシェは落ち着き払った緑色の瞳で彼女の碧眼を見つめ、
軽く相槌を打つように「ああ」と言って、少し間を置いた後に「そうだ」と言った。
すると、彼女の顔がぱっと笑顔に変わった。
その笑顔はまるで、茎の先にぽつりと成った蕾が、ゆっくりと花弁を開いていくような、そんな笑顔だった。
「ともかく、俺の助けた女性が、とても綺麗に笑う人で良かったよ」
苦笑しながら肩を竦めて、ムーシェは彼女に言ってみせた。
仰々しい態度を取られるよりは、こうやってしまったほうが肩の荷も下りて、楽に話し合えるだろうと思ったからだ。
それにもともと、ムーシェは階級の絶対上下関係を除いて、仰々しいことは総じて苦手であり、種類によってはそれを嫌っていた。
人によってはお世辞に聞こえるかもしれない言葉を受けて彼女は「そう言われるととっても嬉しいです」と、満面の笑みで答えた。
久し振りに見た明るい笑顔に、自分も次第に上機嫌になっているのが、ムーシェには分かった。
見舞いに来た人用だと思われるパイプ椅子に腰掛け、ムーシェは「助けて良かった」と小さく呟いた。
彼女の笑みを見ながら、ムーシェは心の中でもう一度だけ、助けてよかった、と呟いた。
彼女を助け出した理由も、どうして他人という気がしないのかも、今ではすべて分かっていた。
触れるべきではない記憶が、無意識に這い出してくる気色悪さに耐えながら、ムーシェは目尻を揉み、
そして彼女が不思議そうな顔をしてこちらを見ているのに気がついた。
「どうかしたのかい?」
「ところで……あの、こんなことを聞くのは失礼かもしれませんけど……なぜ、ボクを助けたんです?」
「……死んだ俺の妹によく似ていたんだ、瞳の色がな。ただ、それだけだ」
落ち込むまいと気を張って言ってはみたものの、結果は大失敗としか言いようがなかった。
いくら三年前の出来事だからと言って、事実が風化することなどない。
死んだ者は生き返らないし、生きている者は生きる限り生き続ける。いなくなったのなら、その帰還を待つか、諦めるしかない。
語尾に近づくにつれて尻下がりになった声でなにかを感じ取ったのか、彼女は心配そうにこちらを見ている。
その様子からなぜか、いつもと違う行動をとった主人を見上げる猫を連想してしまったので、俺は唇の端を持ち上げて、小さく笑った。
なんというか彼女は、猫のようなイメージが湧き易い。かつて、猫のように自由気ままだった、シメオン・ムーシェの妹のように。
「すまない。湿っぽい話だったな。忘れてくれ。実を言うと俺も、君を助けた理由をよく覚えていないんだ」
「あ、いえ……聞いたのはボクですから、そちらは悪くないですよ。悪いのはむしろボクの方です。すいませんでした……えぇと……」
申し訳なさそうに話すムーシェに気を使ってか、彼女は気弱そうに微笑んで見せて、ぺこりと頭を下げたのだが、言葉に詰まった。
その時になってようやくムーシェは自分がまだ一度も名前を名乗っていないことに気がついた。
彼女はムーシェの名前を言おうとして、それを知らないことに後から気づき、そのために言葉に詰まっているのだ。
よくある事とはいえ、なんだかずっと上手く事が運んでくれないなと思いながら、ムーシェは「自己紹介がまだだったな」と
苦笑しながら言って、彼女に言った。
「俺はシメオン・ムーシェ。この難民キャンプの持つ実動部隊の隊長を一応やっている、元政府軍の一等軍曹だ。よろしく」
名乗る時はいつもそうしているように、ムーシェは右手を彼女に差し出した。
すると彼女も右手を差出したので、ムーシェは彼女の華奢な手をしっかりと握って、軽く上下に振った。
「ボクはエルフィファーレ・ノエル・アルゼリアです。助けていただいてありがとうございます、軍曹殿♪」
「軍曹は止めてくれ。極普通にムーシェで良い。俺はもう政府軍の兵士じゃない。階級も今では意味がないんだ」
「それではボクのことはエルフィファーレと呼んでくださいな。呼びづらかったら、エルと呼んでも貰って構いませんから」
「了解だ。それでエルフィファーレ、話しは変わるんだが……君の処遇に関する話をしても良いか?」
彼女――エルフィファーレの手を放して、ムーシェは微笑みながらそう言った。
互いに名前が分かる安心感と言うのは、肩に圧し掛かる重責を微かに取り除いてくれた。
それにムーシェは自分と同世代の女性と話せること自体が嬉しかった。
エクシーレにもムーシェと同世代の女性はいたが、彼女らは総じてムーシェを実動部隊のリーダーとして、自分とは別種の人間として見ていた。
けれどエルフィファーレは、ムーシェを極普通の男として見てくれているような気がした。
ムーシェが彼女を助け出したと言う吊り橋効果もあったのかもしれないが、胸のもやもやがすっと消えて行くような気がして、
ムーシェは自然に笑顔になっていた。
「ええ、ボクもその話がしたかったところです。前の依頼主のところでは、散々でしたからね」
「というと、君はやはり傭兵か。本来なら君を雇って戦力にしたいんだが……生憎、こっちは金欠でな。どこへ行くも君の自由だ。
機体の修理はここでは無理だが、どこか別の整備工場に運べば、稼働状態まで戻してくれるだろう。その場合、トレーラーと作業員は、
こっちで貸し出すが―――」
「そういうサービスは要らないです。ボクはここに残って、少しお仕事をしてみて、気に入ったら居付こうかなって考えてたんです。
機体の修理の方は、後でも構いませんよ?」
「それは、本当か?」
予想外の返答に、ムーシェは一瞬目を点にして、自分の聞き間違いではないかと思い、聞き返した。
「本当のホントーですよー。まだ目が覚めて一日も経ってませんけど、ボクが眠ってる間に酷い事された形跡もないし、
先生も親切で、なにより命を助けられましたからねぇ……できれば、ここに居付きたいなぁと」
「それはこっちも願ってもないことだが……今居付いている場所が工場跡とは言え、難民キャンプということに変わりはない。
生活はもちろん苦しいし、環境だってまだ完全とは言えない。それでも良いなら、俺は君を歓迎する」
「これで話しは纏まりましたねー。それではムーシェさん、ちょっとこっちに来てくださいな。……そうですね、ここに座ってください」
ぽんぽん、とエルフィファーレがベッドを叩いた。白いシーツに覆われたエルフィファーレの両足の、ちょっと横といった位置だ。
ムーシェはまだなにかあるのだろうかと不思議に思いながら椅子から腰を上げた。
一応念のためと、ベットに腰を下ろす際、右腰に吊るしているホルスターのパッチを外しておく。
実際に掛かったことはないが、諜報員は色仕掛けで相手を骨抜きにした後、突然射殺するのだと、噂で聞いたことがあった。
そんなことはないだろうと頭の中で思いながら、ムーシェはエルフィファーレに顔を向け直す。
「で、どうしたんだ? まだ、なにか言いたいことが――」
あるのか? と続けようとした言葉は、唇から発せられることはなかった。
ムーシェの鼻腔を擽る、微かな薔薇の匂い。目には艶のある暗赤い髪の毛が映っていて、
エルフィファーレの柔らかな唇がムーシェの唇に押し付けられていた。
ムーシェはふとハイスクール時代に付き合っていた女としたファーストキスを思いだしたが、その甘美な思い出もすぐに消えて行った。
エルフィファーレの碧眼が悪戯っぽく笑みを浮かべ、自分の緑眼をじっと見つめているのが、ムーシェの視界に入ったからだ。
火照った頬にエルフィファーレの冷たい手が添えられ、熱を持ち始めた碧眼に吸い込まれ、
催眠術にでもかかってしまったかのようにムーシェは身体を強張らせていた。
頭の奥が熱を持って、正常な判断力を鈍らせている。
自分がキスをされているとムーシェが正しく認識できた時には、エルフィファーレの舌先がムーシェの口中に挿しいれられ、
無防備な舌を絡め取られていた。
今まで経験したことがない感覚に、ムーシェの背筋はぞくぞくと震える。
「ん……ふ……」
微かに声を漏らしながら、エルフィファーレはムーシェの顔を近づけた。
突然起こった甘美な出来事に対応出来ず、ムーシェはただただされるがままだった。
それを良い事に、エルフィファーレは口の中で唾液を交ぜあわせて、それを音を立てずに飲み込んでいく。
自分と彼女の唾液が交じり合ったものを飲み込んでいくエルフィファーレの姿は、
ムーシェの胸の鼓動を高めるには十分すぎるほど蠱惑的で、溢れ出す感情に釣られてムーシェは彼女の細い両肩に手を置いた。
このまま押し倒して、自分からキスをしようと、ムーシェはぼうっとしながら考えた。
が、ムーシェが力を込めようとした瞬間、エルフィファーレは唇をそっと離した。
混ざり合った二人の唾液が銀色の橋となって、二人の唇を繋いでいたが、それもエルフィファーレが唇をぺろりと舐めとるまでだった。
名残惜しげに銀色の橋は白いシーツに落ちて、細長い染みに変わる。
「ふふふ……ボクにとってムーシェさんは、白馬の王子さまですからねぇ。今のはボクのストレートな気持ちです」
「な……君はいきなり、いったい何を……」
「本当なら押し倒されたかったんですけど、先生がカーテンの向こう側に居ますしね。続きはまた今度、ということにしましょう」
嬉しそうに言いながら、エルフィファーレは唇に指先を当てて、蠱惑的に微笑んで見せた。
ムーシェはまた胸の鼓動が高鳴るのを感じ、狼狽した。
性的に興奮したと言うよりは、もっと綺麗な感情的欲求がそうさせているような気がしたのだ。
右腰のホルスターのパッチを元に戻しながら、ムーシェはエルフィファーレから目を離して、ベッドからゆっくりと立ち上がろうとした―――
が、エルフィファーレはムーシェの左手をぎゅっと掴んで、その動作を中断させる。
「まだ他に、したいことがあるのか?」
「……いきなりで驚いてしまったなら、すいません。でも、もう一つだけムーシェさんにお願いしたいことがあるんですよ」
さきほど見せていた蠱惑的な表情は成りを潜め、今度は大人しそうな微笑みを浮かべながら、エルフィファーレが静かに言う。
猫を被っているのかと思ったムーシェだったが、その考えを自分で即否定した。
表面だけの取り繕いなら容易に見破る事ができる。
けれど、さっきのエルフィファーレは猫を被っているようにも見えないし、今でもそうだった。
「俺にお願いしたいこと、か……出来ることならやってやろう」
「なら出来ますよ。ボクをぎゅーって抱きしめてください。それだけでボクは、安心できますから」
にっこりと笑ったエルフィファーレだったが、ムーシェはその笑みにどこか影のようなものを感じ、
その影の正体を察して、浮かびかけた腰を再びベッドに下ろす。
あまりにもハツラツとしていたので忘れかけていたが、彼女はあのACのコクピットで数日間ずっと閉じ込められていたのだ。
いつ助けに来るとも知らない人を待ち続けながら、藁にも縋る思いで希望を持ち続け、衰弱死と餓死などの恐怖に耐えながら、生き抜いた。
過酷な斥候狙撃兵訓練も、死の恐怖までは教えてくれなかった。
あの十週間以上に長く思える一日を過ごし、絶望的な密室で狂わずにいたのは、彼女が精神的にタフだったからだろう。
それを賞賛していたのは、他ならぬ自分ではなかったか?
いつの間にか彼女を戦士ではなく女として扱っていた自分に腹を立てながら、ムーシェは深呼吸をして意識を改めた。
甘美だった一時は忘れはしないが、今はその記憶に浸る時ではない。
今は彼女を戦う人間として賞賛し、そして同時に、彼女の孤独を慰めてやる時なのだ。
そうして、ムーシェはエルフィファーレをそっと抱きしめた。
右手は肩に回し、左手は背中に回して、彼女が苦しくない程度に、ぎゅっと手に力を込め、身体を寄せる。
エルフィファーレの細い腕が自分の背中に回るのを感じながら、ムーシェは彼女に「もう一人じゃない。よく耐えたな、君は」と囁いた。
答えは返ってこなかった。
ただ、肩を震わせる彼女の温もりと鼓動が、ムーシェには伝わってきた。
シメオン・ムーシェは戸惑いながらも、彼女を抱きしめ続け、自分の奥底にある感情的欲求の正体に気付き、束の間の自己嫌悪に浸った。
最終更新:2012年07月06日 01:59