シメオン・ムーシェ、とエルフィファーレは数十分前にそそくさと退室していった、彼の名前をぽつりと呟いた。
 何時の時代の物とも知れぬ聖書には、彼の名と同じシメオンと言う人物が二人いたなと、エルフィファーレは退屈を紛らわすため、
 そしてなにより、自分の感情を落ち着かせるために考えを巡らせた。
 一人はとある族長の次男で、シケムという名の男に妹のディナが強姦された際、レビという名の弟と共に、報復を行った。
 町の男たちを騙して割礼させて、弱ったところに襲い掛かり、皆殺しにした。そして後に、シメオンとレビの父親は二人を批難した。
 怒りに囚われて剣を振るい、無力な人々を殺したと言うことで。
 もう一人は後に救世主とあがめられる幼子を抱きあげた、老人のシメオン。
 救世主を見るまでは死なないと聖霊に示され、そして救世主を抱きあげた、そんな老人だ。
 とてもではないが、妹のために男たちを皆殺しにした人物と同じ名前だとは思えない。
 生け贄に捧げられようとしていた救世主を抱き上げて、後の聖母を祝福したのも、彼だ。
 そして、エルフィファーレを闇から光へ抱き上げてくれたあの人は、シメオン・ムーシェ。
 優しげな瞳をしているのに、立ち振る舞いはよく訓練された軍人のそれだった。
 けれど、少し訛りのある発音や、どこか中性的な笑顔が魅力的で、肩に力が入らないようにとお世辞を言ってくれたのも、
 勝手の分からないエルフィファーレからすれば嬉しかった。
 一言で言えば、エルフィファーレはムーシェに一目惚れした。
 本人も吊り橋効果が多いと自覚してはいるが、自覚できたからどうこうできるという問題ではない。
 まだ本調子ではない身体の調子にぷくーっと頬を膨らませながら、
 ふいに一人でなにやってるんだろうと思って、頬に溜めていた空気を吐き出した。
 身も心も、まだまだ整理ができていないのだ。

「なんだか、いろいろ感覚が狂っちゃってますねぇ……」

 元雇い主があまりにも酷い人だったためか、はたまた吊り橋効果によるものか、
 精神的な衰弱で感情が制御できていないのか、もしくはそれらすべてが合わさっているのか、
 エルフィファーレには分からなかったが、ただシメオン・ムーシェなら身体目当てではなく、
 エルフィファーレをエルフィファーレとして見てくれるような気がした。
 エルフィファーレが今まで潜り抜けてきた死線の数は、その外見に不釣り合いなほど多かったが、
 シメオン・ムーシェはきっと同じように死線を潜り抜けてきたのだろうということも、エルフィファーレが惹かれる理由でもある。
 実際、元政府軍で戦闘を経験しているのとしていないのでは、考え方も、なにもかもが違う。
 死線を潜り抜けた者同士は、総じてなんらかの仲間意識を持つ。
 中にはいがみあったり意地を張り合ったりしたりする者もいるが、今のエルフィファーレはそこまで強かではない。
 先程まであまり自覚はなかったが、精神的にも肉体的にも酷く弱り切っている。
 こんな状態のまま、また一人で傭兵に戻ったら、確実に命を落とすだろう。
 そう思ったからこそ、この難民キャンプにしばらく置いてもらおうと、ただそれだけ言おうと思ったのに―――。

「……なに考えてるんでしょうねぇ、ボクは」

 どこか有機物染みたクリーム色の天井を見上げ、微かに発光している白色LED照明に手をかざしながら、
 エルフィファーレは溜息を吐き出すように囁いた。
 彼の戸惑いと驚きに見開かれた目と、煙草の匂いのしない柔らかな唇、
 そして両肩に彼の手が置かれた時の言い表しようのない安心感は、今でも鮮明に思い出せる。
 でも、その安心感の出所がエルフィファーレにはあまり分からなかった。
 傭兵兼娼婦としてこの第9領域を渡り歩いてきたエルフィファーレは、時に男に抱かれて充足感を得たり、
 なんらかの情報を得たり、コネクションを得たりしていた。
 ただ、自分から抱かれたいとストレートに言ったこともなければ、思ったことも無かった。
 相手が癒しを求めている時、エルフィファーレはいつもそっと優しげに手を差し伸べて、
 束の間の安静と微睡みを与えてあげるだけで、それ以上はない。
 五日間の監禁と三日間のベッド生活ですっかり鈍ってしまった身体で、ごろりと寝返りを打って、
 エルフィファーレはもう一度シメオンの表情を思い浮かべた。
 そしてふと胸が苦しい思いに駆られたエルフィファーレは、その小さな乳房と乳房の間に、そっと手で触れてみた。
 とくん、とくんと、心臓が脈打っている。
 けれどその脈拍は、いつもより少し早いような気がした。

「……恋、なのかなぁ……」

 自然と言葉にしていた単語を弄ぶように、エルフィファーレはもう一度「恋」と呟いてみた。
 長らく感じていなかった熱情―――というほど激しくもなく、ただただ身悶えするだけの状況が『恋』なのだろうかと思いながら、
 エルフィファーレは白いシーツを唇辺りまで持ち上げて、これが『恋』なのか確かめるように、もう一度あの言葉を口にしてみた。

「白馬の王子様、か……」

 女性として生を受けたからには、誰しもが一度は夢見る理想。
 多くは幻想として忘れ去られるが、こうして本当に叶ってしまうと、嬉しさや歓喜よりも戸惑いが生まれてしまう。
 白馬は鋼鉄の人型に兵器に、王子様は元政府軍斥候狙撃兵一等軍曹になりはしたものの、
 エルフィファーレにとってシメオン・ムーシェは白馬の王子様で、どこか自分には不釣り合いなような、
 そんな気さえ感じてしまうほど、美化されていた。
 もちろん、シメオン・ムーシェを美化しているとエルフィファーレ自身も自覚していた。
 彼だって男なのだから、欲情だってするし、獣のようになることもあるだろうと、そう考えていた。
 けれどそう考えると、エルフィファーレはこうも思ってしまうのだ。
 その相手がボクだったら、どれほど嬉しく、心が満たされる気持ちになるのだろうか、と。
 考えたエルフィファーレは、ぽっと頬を微かに朱色に染め、身体が火照るのを感じた。
 気恥ずかしさにもぞもぞと身体をシーツの下で動かしていると、ベッドのスプリングが軋みだす。
 クリーム色に塗装し直されてはいるものの、このベッドも使い古されているのかとエルフィファーレは思った。
 難民キャンプとシメオン・ムーシェは言っていたけれど、それは嘘ではないのかもしれない。
 そうだったとしたら、ボクはシメオン・ムーシェを傍らでそっと支えて上げられるかなと、エルフィファーレはふっと思った。
 そして彼女はあることに気付いた。シメオン・ムーシェという人を、自分はまだよく知らないのだと言う事に。
 もちろん、シメオン・ムーシェもエルフィファーレと言う人物をよくは知らなかったが、
 エルフィファーレの好奇心とは違う、ある種の探究心が彼の人物像、もしくはそれに類する情報を求めていた。

「マルコー先生?」

 気がつくとエルフィファーレは、カーテンの向こう側で机と向き合っている元政府軍軍医のマルコウィッツの愛称を口にしていた。
 数々の渾名で呼ばれる彼だったが、子供が変な偏見を持たずに接してくれる愛称だということで、
 ある時から初対面の人物に「マルコーとでも呼んでください」と言うようになっていた。
 ボールペンが紙面上を滑る音がぴたりと止むと同時に、しわがれた声がカーテンの向こう側から返ってくる。

「どうかしましたか、エルフィファーレさん」

 しわがれていて柔和でありながら、訛りや言い淀みのないハッキリとした発音はエルフィファーレの胸に
 すっと違和感なく入り込んできて、エルフィファーレは自然と肩の力が抜けるのを感じた。
 この手のことを得意としているのは基本的に一部の衛生兵だったりするのだが、この軍医は佐官という階級にありながらにして、
 前線の兵士のような技能を取得している。
 服に縫い付けられたレンジャー徽章と言い、空挺徽章と言い、変わり者のレッテルを貼りつけられるのも無理は
 ないかなと思いつつ、エルフィファーレは「こっちに来て良いですよ」と、柔らかな口調で答えた。
 カーテンをすごすごと捲って入ってきたマルコウィッツは、ムーシェが座っていた椅子に「よっこいしょ」と
 言いながら腰を下ろし、微かな笑みを浮かべながら、エルフィファーレと目を合わせて、言った。

「どうかしたのかな。私で良かったら、なんでも質問に乗るけども」
「……単刀直入に聞くのですけど、マルコー先生はムーシェのことをどれくらい知ってます?」

 ただ単に興味があるから聞いてみた、と思わせるように、声に熱がこもらないよう、エルフィファーレは言った。
 するとマルコウィッツは左手で顎を撫でながら、少し顔をしかめて「うーん」と唸り、こう続けた。

「元政府軍と言っても、私のような軍医は後方の所属なんだ。ただ、彼についての噂話や、本人の口から出た過去については知っているよ。
 彼のカルテもあるが、それは個人情報なので見せられないけど」
「先生が知っているムーシェの過去や噂話って、たとえばどんななんです?」
「うーむ……そうだねぇ……基本的なところから言っておくと、彼はここに来るまでACに乗ったことはなくて、
 斥候狙撃兵として小隊を率いていた、ということだね」

 最初は訝しげな表情をしていたマルコウィッツだったが、いざ話し始めるとなかなか乗り気になっていて、
 エルフィファーレはこの軍医がこういった噂話などに耳聡い人で、そういうことを人に語るのを楽しむ人なんだなと察した。
 後方の配属で佐官の軍医ということは、相手にするのは将官などの偉い人たちであり、自然とこの手の話が好きになっていったのだろう。
 エルフィファーレが先を促さなくても、マルコウィッツはシメオン・ムーシェについての話を続けてくれていた。
 エルフィファーレはそれを聞きながら、自分の中でシメオン・ムーシェという男性のイメージを組み上げていく。
 自分を助け、胸を騒がせる人が、どんな人物なのかを確かめるように。

「クーデター時は政府軍側について、貴重な情報を取得していたと聞くが……詳しくは私にもわからない。
 ただ、クーデターの時の彼について、これだけははっきりしていることがあるんだ」
「それは……何なんです?」

 急にマルコウィッツの顔に影が差すのを見て、エルフィファーレは聞いた。
 もしかして、彼が言っていた〝妹〟のことなのだろうかと、エルフィファーレが思っていると、マルコウィッツが言った。

「彼の家族は、あのクーデターで皆死んでいるんだ」
「…………え?」

 ちょっと重い噂話をしているのと変わりないマルコウィッツの口調から飛び出してきた現実に、
 エルフィファーレは胸に氷の杭を打ちこまれたような気分になりながらも、マルコウィッツの言葉を頭の中で反芻した。
 その言葉を受け止めるのにさほどの時間はかからなかったが、それでもエルフィファーレの胸を重くするのには十分だった。
 弱り切った時に、もう大丈夫だ、助かったんだと言いながら、
 精一杯安心させようとしてくれた、真剣そうな瞳に作り笑いを貼りつかせていた彼。
 気の利いた言葉を探しているのか、なんだかちょっとだけおよび腰で、優しげな笑みを浮かべていた彼。
 そして、もう死んだ妹に瞳が良く似ていたからと、諦めきったような表情で言って、すぐに謝って見せた彼。
 そんな彼を支えてくれる人は、一番身近にいてあげられる家族は、もうこの世にはいないのだと知って、
 エルフィファーレはぎゅっとシーツを握りしめ、無理矢理表情を変えて、マルコウィッツの話に耳を傾け続けた。
 彼は優れたリーダーで、大抵の人は彼を好ましく思っているんだと、マルコウィッツが彼を褒め称える。
 浮いた噂もないからねと、マルコウィッツは続ける。
 だがエルフィファーレには、多くの人の乗った船の下で、
 船を沈ませまいとしながら、溺れかけているシメオン・ムーシェが見えていた。
 彼の支えになるものは、聞く限りでは何もない。
 ならボクは、彼の唇を塞ぎ、空気を送り込もう。そして、彼の隣で、一緒に船を支えよう。
 それがボクに出来る最大の恩返しだろうと、エルフィファーレは重くなった胸の中、一つの決意を固めた。





投稿者:狛犬エルス
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最終更新:2012年07月06日 02:28