医務室を退室した後、
シメオン・ムーシェはどこか思いつめたような表情をしながら、
居住区画の片隅にある自分の居住スペースへと足を進めていた。
途中ですれ違った民間人や実動部隊の隊員たちは、ムーシェの表情を見るや否や、
身体を強張らせてなにがあったのだろうと口々に唱えていたが、彼にはその呟き声も聞こえていなかった。
居住区画の片隅にある実動部隊の兵舎の横に併設された、中古のトレーラーハウスがいくつか連なっている場所に
ムーシェが辿り着くと、迷いなく一つのトレーラーハウスの中へ入っていった。
プライベートが守られる空間として、実動部隊の幹部が好んで使うこのトレーラーハウスの一つは、
ムーシェが持ち込んだ装備一式と、簡単な寝具だけがある。
もともと設置されていたシンクやトイレは取り外され、今はそこに軍が使っていたごつごつとしたガンラックが置かれ、
立て掛けられた7.62㎜口径のアサルトライフルや5.56㎜口径の競技用ライフルなどが鈍く光っている。
そこそこ防音性のある薄いドアを閉めたムーシェは、弾薬の入った箱や拳銃、ライフルなどが至る所に置かれた
トレーラーハウスの奥へと歩き、薄汚れたパイプベットのマットに背中から倒れ込んだ。
右腕で目を覆い、重い溜息を吐き出しながら、ムーシェは吐き捨てるように言った。
「……なんだっていうんだ、まったく」
助け出した女にいきなりフレンチキスをかまされたからか、その声はどこか複雑な心境を表すかのように震えていた。
嬉しくもあるのはたしかだが、しかし同時に、時間が経つにつれて嬉しさ以上に戸惑いと警戒心が大きく膨らんでいくのだ。
あれが噂に聞くハニートラップなのかとか、そういった妄想ばかりが肥大化していき、そしてどういうわけか、
あの
エルフィファーレと言う女性の裸体を想像してしまったムーシェは、苛立たしげに舌打ちした。
そういうことを考えて良い時じゃないのは分かってる筈だろうがと、自分の雄としての面に呆れかえりながら、
ムーシェは深く考えるのを止めて、ベッドから降り、ガンラックに立てかけてあった一丁のライフルを手に取った。
艶消しされたサンドイエロー一色に染まったそのライフルの上部には、標準的な10倍率スコープが載せられ、
地面や障害物に反動を逃がす依託射撃をするためのバイポッドが取り付けられている。
スナイパーライフルの標準をそのまま抜き取ったかのようなライフルは大口径の7.62㎜×51㎜弾を使用し、
装弾数は4発。装填方法はボルトアクションであり、腕の良い狙撃手であれば1000m以上先の敵にも命中させることができる代物だ。
ムーシェはそのライフルのボルトを手慣れた様子で引き、内部に弾が入っていないことを確認した後、
合成繊維製の吊り紐を左手に巻きつけ、銃床を支つつライフルのストックを右肩にめり込ませるようにし、
右手でグリップを握り、人差し指をトリガーにそっと当てた。
その動作は非常に滑らかで、一種の造形美すら感じられるほど、自然に行われた。
射撃競技者が取るような完璧な立射姿勢を取ったムーシェは、スコープで拡大されたトレーラーハウスの反対側の壁をじっと見つめた。
それが斥候狙撃兵だったムーシェのリラックス方法だった。
スコープ越しになにかを捉え、狙いをつけ、計算し、計算結果を反映して照準を調整し、引金を引く。
たったそれだけのことが、ムーシェにとっては至上の喜びでもあった。
人殺しを楽しんでいるわけではなく、ただ単にライフルと言う無機質な人殺しの道具が、ムーシェは好きだった。
軍に入ってから、女の身体は心身を鈍らせる性欲を発散するようなものだと思っていたから、女以上にライフルを愛していた。
軍人であった頃には非番を潰してまでライフルの不調の原因を探り出すために、トリガーのスプリングにいたるまで
すべての部品の状態を観察して、それでも駄目なら次の非番や寝る間を潰してでもライフルを整備した。
定期的にガンオイルを塗り、銃口内を清掃し、狙撃に適していると思われる弾頭形状と、発射薬が生み出す高熱のガスを
効率よく弾丸に伝えることのできる薬莢形状を考え、いくつもの試作品を作り上げてきた。良い弾薬もあれば、悪い弾薬もあったのだ。
だというのに、今シメオン・ムーシェの心はただの一人の女に揺れ動いている。
死んだ妹に瞳が良く似ているからというのはまぎれもない真実だったが、
ムーシェはそれだけで自分が彼女に引きつけられるわけがないと思っていた。
実際、エルフィファーレはムーシェをただのムーシェとして、一人の人間として見てくれる女性で、
優しく包み込んでくれるような包容力を感じる。
特にあのキスのことは忘れられない。
手慣れていたが、そんなことなどムーシェには関係なかった。
「やるべきことは決まっている……か」
ぼつりと呟きながら、ムーシェは構えていたライフルをガンラックに戻して、
ライフル用のクリーニング液の匂いが水蒸気のように立ち込める空気を深く吸い込み、そして吐き出した。
昔からこういうことに私情を絡ませると碌なことがないと言うのは知っているが、それでもムーシェはやってやろうと思った。
ハイスクール時代の手酷い失敗以来、一人の女に的を絞ったことなど一度たりともなく、良くて常連のストリップクラブが
あったくらいのムーシェだったが、今回のエルフィファーレという女性には、なにかしらの興味と、守ってやりたいと言う欲があった。
それはきっと、ムーシェの中にある狙撃兵としての血ではなく、古臭く、今では滑稽とも言える男としての血が疼いているからだ。
三年前のクーデター時に戦闘行動中行方不明となった父、マティアス・ムーシェは、
シメオンと同じく射撃の名手であり、厳格な父親だった。
時として優しかったが、それは言葉ではなく行動で示す優しさだった。
父はシメオンのように不器用で、女心をよく知らなかった。
そして枯れ木のような身体付きをした長身痩躯の老人マティアス・ムーシェは、射撃教官として新兵の訓練施設に行ったきり、
死体すら戻ってこなかった。
彼の愛用していた猟銃と授与した勲章だけが、今もムーシェのトレーラーハウスに飾られている。
マティアスの父も、そのまた父も、この過酷な生存競争の世に生まれ、総じて射撃の名手として才能を開花させていた。
軍人、警察官、稀代の殺人鬼、射撃インストラクターなど、ムーシェ一族はライフルと共にあったのだ。
そんな彼らを支えてきた女性はいつも女心の分からない亭主に苦言を呈してきたのだろうと、シメオンには分かっていた。
母であるテレサはそのことをいつもぼやいていたし、ハイスクール時代に恋愛の相談をした時は、お前も父さんと同じなのね
と呆れられたこともあった。
だから、シメオンはもう女を熱烈に愛するつもりも、夫として家庭を持つと言うことも、しないつもりだった。
だがよく考えても見れば、シメオンはいまだ24歳の若造なのだ。
たった一度の手酷い失敗程度で諦めてしまっては、この先なにがあっても最終的には諦めてしまい、
老人になるころにはなにもしなくなっているだろう。
そうであるなら、やってみる価値はある。
私情であろうが、妹の代わりを欲しているだけだとしても、シメオンにとってエルフィファーレという女性は、
ある種特殊な存在になりつつあるのだ。
妥協を多く挟んで一つ覚悟を決めたムーシェは、やるべきことを一つ定めた。
そしてムーシェはパイプベッドの足元に置いてある一際大きな箱を開けて、古びた戦闘服を取り出した。
肘や膝の部分が補強され、擦れて壊れている部分が縫い合わされている部分もある。
今着ている戦闘服よりも古く、防弾などもってのほかのこのボロ臭い戦闘服こそが、
ムーシェにとっての生きる道でもあり、そして一番好きな仕事に使う大切な道具の一つだった。
最終更新:2012年07月06日 02:37