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 三度地平線に日が沈み、三度地平線から日が出た。
 月は日に日に影に覆われて、地面に降り注ぐ青白い光りの量は徐々に少なくなっていき、雲は厚くなりつつあった。
 エクシーレにいる気象観測員は明後日から一週間ほど荒天が続くだろうと
 報告書を書き、それを提出し、民間人らに提示していた。
 この三日間、エルフィファーレはムーシェと何度か会っていたが、個人的な話すをするまでには至らなかった。
 話したことと言えば、自分をあのACに閉じ込めた元雇い主のことや、自分の持っている技能のことや、
 破損したACの取扱いや、医務室から出られるようになったら、どのようにしてエクシーレに貢献するか、
 という話くらいで、エルフィファーレの心を満たしてくれるような、甘美な会話は一度もなく、
 今日に至ってはまだムーシェの顔すら見ていなかった。
 マルコウィッツの噂話でエクシーレやシメオン・ムーシェについての情報を得ていたエルフィファーレだったが、
 やはり一番得策なのは本人に聞いて確かめてみることだ。
 早くムーシェに会っていろいろ聞いてみたいと、エルフィファーレはベッドの上で思った。
 衰弱から脱したのか、大分軽くなった身体が運動不足で疼いていたが、エルフィファーレはそれを無視して、
 絶対安静が解かれるのを待ち、ムーシェがお見舞いに来るのを待っていた。
 シメオン・ムーシェを待ちながら、エルフィファーレは栄養バランスを重視した病院食を朝昼夜の三食食べて、
 暇つぶしにでもなればとムーシェに渡されたミステリー小説を読み耽り、マルコウィッツとの雑談に興じた。
 病院食はそれなりに美味しかったし、ミステリー小説も終盤の展開がスピーディーで楽しめたし、
 マルコウィッツとの雑談はエクシーレの内情を知るのに役に立つからとても興味深かったが、エルフィファーレは空しさを感じていた。
 楽しくないことなどないのに、どうしてかは分からないけれど、満たされないのだ。
 そして気がつけば日が落ちて、夜になっていた。月は三日月で、空を滑る雲は分厚く、灰色をしていた。
 医務室の窓から差し込む青白い月光は弱々しく、しばらくすると月が雲に隠れてしまったのか、
 光りは完全に失われてしまい、医務室は闇に包まれ、レトロな針時計のたてる規則的な音だけが妙に大きく聞こえ始める。
 枕の下に三二口径の小型拳銃がないと、こんなにも不安に駆られるんだなと思いながら、
 エルフィファーレは孤独感を感じて、顔を白い枕に埋め、眠気が意識を刈り取ってくれるまでそうしていようと決めた。
 医務室の向かい側にあるマルコウィッツの私室からは、微かにイビキが聞こえてくる。
 机仕事で疲れたのか、話しぎて疲れたのかははっきりしなかったが、
 なんとなくおかしかったのでエルフィファーレは枕に埋めた顔にくすりと笑みを浮かべた。
 エルフィファーレがエクシーレに留まろうと思ったのは、実を言うとシメオン・ムーシェだけが気に入ったからではなかった。
 老齢に似合わず気さくでお喋りなマルコウィッツもそうだし、なにより日中に聞こえてくる騒ぎ声などが、
 クーデター前のイル・シャロムにあった公園のそれとそっくりに聞こえたからだ。
 生活環境も苦しく、住んでいた場所も奪われた人たちにそんなに明るい声が出せるのかと不思議がって窓の外を覗けば、
 なにもない場所で子供たちがサッカーボールを蹴って遊んでいるのが見えた。
 マルコウィッツの話では、すでにアインベルター社などの中小企業への『移民』が始まっているとのことだったが、
 未だに難民キャンプに留まる者も多いらしい。
 その多くは五体不満足であったり、なにかしらの病気に掛かっていたり、子持ちであったりする人々だという。
 クーデターで発生した戦乱によって住む場所を奪われた難民―――三年も前の出来事が、今なおこうして糸を引いて
 続いているのだと考えて、エルフィファーレはあのクーデターで自分が失ったモノを、一瞬思い浮かべてしまった。
 未だに完治していない深い傷に自分で触れてしまい、エルフィファーレは枕に自分の
 顔を押し当てて、込み上げてくる感情をなんとか押し留めた。
 そして同時に、自分で自分を評価するように「不安定すぎますよね……」と小さく呟く。
 精神的には強かだったはずなのになぁ、と、心の中で思いながら、彼女はさらに
 深くなっていく夜に身体を任せることにした。
 目を瞑ってじっとしていれば、きっと眠気がやってきて意識を有耶無耶にしてくれると、
 そう思っていたからだろうか。それとも、眠ってしまえばこちらのものだと思っていたからだろうか。
 エルフィファーレが医務室の扉が開く気配を感じた時には、侵入者はすでにカーテンを捲っていて、
 そのぎょろりとした瞳がエルフィファーレをじっと見つめていた。
 悲鳴をあげることも、なにかを投げつけることもできなかった。
 俯せに眠る身体が強張って動かなくなり、右側に向いた顔はその侵入者の顔を見たまま、ロックされてしまったようだった。
 その侵入者の目はナイフの切っ先、あるいは拳銃の銃口のようにエルフィファーレに明確な死を感じさせ、
 同時にこれ以上ないほど強く生を感じさせた。エルフィファーレはその実感からぞくぞくと背筋が震え、身体が昂り、火照るのを自覚した。
 じわりと生の実感が染みだし、時間が何倍にまでも圧縮され、心拍数が跳ねあがり、アドレナリンが恐怖さえも
 抑制し、無敵の兵士になったような錯覚を抱かせる。
 その錯覚は錯覚に過ぎないと、そう分かっていたとしても、慣れ親しんだ戦場の感覚はエルフィファーレをしっとりと満たしてくれる。
 戦場に飢えているわけではないが、エルフィファーレにとってそれは、もっとも生きている実感がする瞬間でもあった。

「……一つだけ、君に言っておきたいことがあって来た」

 荒くなる息遣いを抑えようとエルフィファーレがぎゅっと胸に両手を押し付けていると、侵入者は闇に同化した唇を開いて言った。
 唇の部分だけぱっくりと暗闇が開いて、そこから白い歯とピンク色の歯茎が見え、特徴的な訛りのかかった言葉が紡がれていく。
 たったそれだけで、エルフィファーレにはこの侵入者がシメオン・ムーシェだと分かった。
 帽子の周りを覆うように唾のついたブーニーハットと、匍匐前進する際に擦り切れる肘や膝などを補強した戦闘服。
 肩に吊り下げたスポッティングスコープは12倍率から60倍率のズーム機能を持つ軍用品で、握りこぶしくらいのレンズ
 がはめ込まれた単眼鏡が、深緑色の樹脂で覆われている。
 腰のベルトに取り付けられているのは拳銃用のホルスターと水筒、そしてナイフシースが一つと、
 拳銃のマガジンを三本収納可能なマガジン入れだけだった。
 主力となるような武装は後で装備するのだろうかと、そんな関係ないことを考えながら、エルフィファーレはうつぶせのまま小さく言った。

「ボクに言いたいことって、なんです?」
「理由はどうあれ、俺を選ぶのだけは、止めておけ。俺は女心が皆目分からない。きっと君を不幸にする。
 俺が見るのは君の面倒だけで、君自体を見ることはない。だから、諦めてくれ」
「……それは、ボクがムーシェに一目ぼれしたとか、そういう女心が前提になってるんじゃないですか?」

 ぴしゃりと言い返したエルフィファーレは、呼吸が落ち着くのを待ってから、起き上がってムーシェをじっと見つめた。
 こうも冷静に言い返されることなど予想していなかったのか、暗闇にはっきりと浮かび上がった双眸には戸惑いの色が感ぜられた。
 入念に計画を練り上げて、どんなことにも対処する狙撃兵であるムーシェではあったけれども、こうして異性に予想とは違う対応を
 されると、どう応対していいのか分からなくなるのだろうかと、エルフィファーレは彼を観察しながら、そう思った。

「もし君が、助けてくれた礼にとキスをしたのなら、俺はそれで良いと思っている。だが俺を狙ってそうしたのなら、
 止めておいた方が良いと言っているだけだ」

 しばしの無言の後に紡がれた言葉は、どこか言い訳染みたものだった。
 エルフィファーレにはシメオン・ムーシェが自分を突き放したいのか、それとも自分の扱いに困り果てているのか、
 そのどちらなのか分からず、どうすればいいのか一瞬分からなくなった。
 正直に突き放すのはエルフィファーレに悪いからと、言葉をオブラートに包んで言い訳染みたものになったのか、
 それとも応対に困って、結論が出るのを先送りにしようとしているのか。
 どちらにしても―――と、エルフィファーレは優しく微笑んで、ムーシェの右手をとり、それを両手で包み込んだ。
 手と手が触れ合う瞬間に、ムーシェの身体がぴくりと動いたが、その後、
 ムーシェはされるがままにして、真意を探るように碧眼を見つめていた。

(……今ここで、ボクが思っていることをすべて打ち明けて、すべて受け入れて貰ったら……
  もしくは、すべて拒絶して貰ったら、どんなに楽だろう)

 ぽつりぽつりと紡がれる本音は、敢えて心の中で呟く。
 鋭さと精悍さを失わず、変わらず碧眼を見つめているムーシェに、心の不安定さもすべて打ち明けてしまったらどんなに楽だろうと、
 エルフィファーレは手で胸を抑えたくなる衝動を堪えながら、ムーシェの手をぎゅっと握った。

(もしここで、ボクがムーシェを好きだって、本当に本当で好きなんだって言えたら……
 女心なんて理解してもらわなくても、ボクは幸せになれるって言えたら……どんなに気が楽になれるだろう)

 胸の中だけに留めておく本音が次々に紡がれて、エルフィファーレの心の中で空しく響く。
 推測はできていた。彼が何をしに行くのかも、これから彼が何をしようとしているのかも、エルフィファーレには分かっていた。
 だから、彼女は打ち明けたい本音のすべてを胸の中に仕舞い込んで、泣き出したい衝動も、胸を抑えたい衝動も、
 抱きしめてもらいたい衝動も、すべて堪えながら、たった一言だけ言葉を紡ぎだした。

「―――続きは戻ってきてからで良いですよ、ムーシェ。ボクはムーシェが返ってくるまで、
 ボク自身の気持ちを整理して、一つの結論を出しますから。だから……戻ってきてくださいね」

 エルフィファーレが微かに震える声でそう言うと、医務室はしんとして静まり返った。
 彼女が葛藤の末に口にした言葉を聞いてなお、ムーシェは碧眼をじっと見つめ、その右手を強張らせたまま、なにも言わずに立ったままだった。
 なにをいってるんだろうって思われたのかなと、エルフィファーレは我慢できなくなって左手で胸を抑え、すっと顔を伏せて、涙を堪える。
 それだけは見せちゃいけない。涙はじっと我慢しなきゃダメなのにと、肩を震わせながら目をぎゅっと瞑った彼女は、
 肩に回された腕の感触を感じて、思わず「ぁ……」と小さく声を溢した。

「俺は戻ってくる。その時に、結論を聞かせてくれ。お前がそれでもと言うのなら、俺は俺なりに検討する積りだ」

 耳もとでそう優しく囁くのは、軍人としてのムーシェでも、パイロットとしてのムーシェでもなく、一人の男としてのムーシェだった。
 細いけれども鍛え上げられた腕に抱かれて、エルフィファーレは堪えていたものすべてが崩れて壊れるような気がして、
 それは駄目なことだと自分でも分かっていたのに、ぎゅっとムーシェの胸に飛びつき、両腕で彼の背中に腕を回した。
 そこまでやってしまってから我慢しようとしても、それは無理なことだった。
 堪えてきた孤独感や恐怖、寂しさや切なさも全部、感情が濁流となってエルフィファーレの身体から涙と嗚咽となって溢れ出す。
 肩を震わせてしゃくりを上げ、それでもなお泣き続けるエルフィファーレを、ムーシェはそっと抱きしめて、ただただ無言で胸を貸した。
 くぐもった嗚咽と時計の針が進む規則的な音だけが医務室に響き続けた。
 針の音はいつまでも止まることはなかったが、エルフィファーレの涙と嗚咽はしばらくすると止まった。
 赤く腫れた目をムーシェに見せまいと、ぎゅっと抱き着いたまま、震えた声でエルフィファーレは言った。

「やっぱりボク、ちょっと不安定みたいなんです。だから本当は、行って欲しいなんて思ってないんです。
 ずっとずっと居てほしくて、ずっとお話してたいんですよ……」
「PTSDか何かにかかってるんだろう。少佐には、そっち関係のカウンセリングもしてもらうと良い。俺に今できることは、
 これくらいしかない。辛いかもしれないが、待っていてくれ。必ず帰るという約束に、こいつを渡しておく」

 そう言いながらムーシェは、抱き着いたままのエルフィファーレを無理に引き剥がすと言うことはせずに、その膝の上に小さな金属の塊を置いた。
 なんだろうと思ってエルフィファーレが視線をそちらに向けると、護身用にしては無骨でグリップの大きな、
 どこかずんぐりとしたフォルムの自動拳銃が無造作に置かれていた。

「死んだ戦友の形見なんだ。持っていてくれ。帰ってきたら、きちんと返してもらう」
「……良いんですか? 会ってまだ一週間くらいなのに、武器なんて持たせちゃって?」

 ムーシェをやっと解放して、細い指でその自動拳銃に触れながら、エルフィファーレが言う。

「俺は君を信じている。俺が帰って来た時、君が俺の信頼を裏切っていたなら、俺は君を殺すだけだ。
 そして、信頼に答えてくれていた場合、君は俺たちの戦友になるってわけだ」

 それに対してムーシェは、厳格そうな口調を徐々に柔らかなものに変えていきながら、エルフィファーレの右肩に手を置き、
 正面からその碧眼を覗き込んで「オーライ?」と言った。
 思いっ切り泣いてしまったせいで赤く腫れた目元を見られまいとしていたエルフィファーレは一瞬きょとんとした後、
 ばっと顔を伏せてその頬を紅く染めて、ボソボソとした声で「……オーライ、です」と返す。
 その反応が初々しくておもしろかったのか、ムーシェは笑い声を抑えながら笑みを浮かべて、親しい友人にそうするように、
 右肩をトントンと二回叩いた後、背を向けて右の拳を頭上に掲げながら、医務室を出て行った。
 後に残されたエルフィファーレは、その素っ気なく、なんら特別性を感じさせない別れから、
 これが夢なんじゃないのかと一瞬疑ったが、それを否定するかのように、手に握った自動拳銃はずっしりと重く、鈍く光っていた。






投稿者:狛犬エルス
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最終更新:2012年07月07日 04:00