男は項を垂れていた。
 壁に両手をつけ、細かく連続する滴を受け続けている。タイルに砕けた温水が、冷気に当てられて、濃厚な覆いとなって男の身体を包んでいた。切れ間から見える彼の姿は、蒸し焼きにされている鴨肉のようだった。
 男が鏡の曇りを拭う。
 肉塊がそこにあった。
 赤黒いケロイド状の表皮が半身に広がり、無数の傷跡が散らばっている。盛り上がった筋肉は所々縫合用の針金に締め付けられ、はちきれんばかりであった。
 男が、自分の顔に視線を向ける。
 右頬まで裂けた口と様々な方向に折れ曲がった鼻。白く濁った右目はもはや何も映さず、ただひとりでに膿んだ涙を流すだけ。左眉から頭頂を横切り、半月状に削り取られた右耳の裏にまで続く縫合跡の周りには毛の一本も生えていない。
 一度離れ離れになったパーツを拾い集め、溶接し、縫い合わせ、無意味に存在する醜悪な身体。もはや人としての体(てい)を成さない血肉の塊を、クリフォ・カイツールという魂が辛うじて接着していた。
「醜い」
 彼は笑ったつもりだった。だが、鏡の中の自分が顔をぐしゃぐしゃに歪めたのを見て、表情を消した。
「永遠の命など有りはしない」
 そう呟き、ハンドルを捻る。鎌首をもたげる蓮口に顔を上げ、勢いを増した熱水を浴びる。

 生と死について考える。
 生きる、という行動は死に抗うための唯一で絶対の術である。死が無ければ生は成り立たず、これは死にも当てはまる。故に太古の時代より、冥界における魂は永遠の存在であり、現世の肉体はいつか朽ちるものだと信じられてきた。医学の進歩や衛生管理の向上を経て、個人が一世紀近い寿命を得られるようになった後でさえも、その信心は遂に絶えることはなかった。誰もが、生にしがみついていながら、同時に、死後のことを考えずにはいられなかった。現世はあくまで現世であり、永遠など彼岸の先にあって然るべきだったのだ。
 では、俺はなんだ?
 あらゆる死地に首を突っ込んだ。”6フィート3インチの大男(グスタフ)”にACごと粉砕され、頭がばっくりと口を開いた時でさえ、“彼女”は俺を拒んだ。三日三晩の高熱の中に平穏を見出した時でさえ、“彼女”は俺を拒んだ。自らのこめかみにオートマチックの引き金を引いたときでさえ、“彼女”は俺を拒んだ。何をしてもこの心臓を止めることはできない、できないのだ。
 それは、死んだも同然だった。いや、生きてすらいない。この身体はただ俺の魂をここに縛り付けるためだけに存在している。
 “彼女”、いや、ヨローナが俺の生と死を抱いて、死んでしまったあの日から――。

 りん、と鈴の音がひとつ。
 扉の開く甲高い音が彼の思考を中断させた。
「よぉ、いつまでシャワー浴びてんだ――って、わっ」
 振り向くと、そこには少女がいた。
 不機嫌そうなしかめっ面が徐々にニヤケ顔に変わっていく。悪戯好きなグレムリンの舌が突き出される。
「うへぇ。排水口にでも突っ込む気かよ」
 視線を下に落とす。

 ああ、くそ。

 熱水という些細な刺激ですら反応を示すこの身体が、カイツールには腹立たしかった。魂を縛り付けていながら、身体は好き勝手に動いているのだ。
 じろじろと値踏みしてくる少女を押し退けながら、シャワールームを出た。
 そこはホテルの一室だった。
 シャワーとクローゼットがくっ付いただけのそこそこ悪くはなく、そんなに良くもない部屋だった。家具は硬いシングルベッドと膝ぐらいの高さの小さな円卓、木編み椅子がひとつずつ。カーテンには蠅の糞がこびりついていて、窓は開けられないように留め具で固定されていた。
 椅子に脱ぎ掛けていた服を取り、濡れた肌に着る。

「いいケツしてる」
 彼女は笑いながら、ベッドの端に腰掛けた。ぽんぽんとシーツを叩き、隣に座るよう示す。その顔には恥じらいと媚びるような赤色が浮かんでいたが、カイツールは椅子を少し離して座り、あらためて少女を見た。
 ライ麦畑で捕まえられそうにない色の肌はしっとりと汗ばんでいて、どこかチョコレートの香りを漂わせている。豊かに波打つ黒髪は結い上げられ、ピンで後ろにまとめられている。顔立ちは幼いが、顎は魅力的なエッジを描いてどこか大人びた印象を与えた。だが、飢えたコヨーテのようにぎらついた黒い瞳が全てを台無しにしていた。つがいの鳩をも射落とせるだろう。そして何故か、女給のみすぼらしい制服を着ていた。

 作ったのか、盗んだのか。後者の方がありえそうだ。

 カイツールが思案していると、舌打ちが聞こえた。彼女は耳の裏を擦ってガムを剥がしていた。注意を自分に向けるように、音を立てて噛みはじめる。後ろに手を付いて、上体を傾ける。
「あーあ、いい歳コいたオッサンが、なに照れてんのかねぇ」
「いやいや、男はいつまでたっても子供なのさ」
 カイツールのシニックな笑みを、じろり、と視線が刺す。エプロンの染みを見つめがら彼は肩をすくめた。盗んだにプラス一点。頭の中ではまだ考えていた。
「おぉ、イェー。チビりそうだわ、マジで」
 少女は無言のまま、ファイルを投げつけた。カイツールは大袈裟に取り乱して、キャッチする。そして、酸欠の金魚のように口をぱくぱくとさせ、去勢された雄牛の目でファイルと少女の顔を何度も何度も往復する。カイツールは徹底して間抜けなオッサンを振る舞った。それも最盛期が過ぎ去った老コメディアンを崇拝するオッサンのように。
「人使いが荒いぜ、アンタらのボスは。ACに乗るのだって結構辛いもんがあんだぜ。特に膀胱とか腎臓とか」
「その顔やめてくんない?」
「え、なに? どの顔?」
「ボスがあんたのこと気に食わない理由がわかった気がする」
 ガムを天井に向けて吐き出す。彼女は口元を拭いながら微笑みを向けた。
「塩漬けにして保存しておきたいくらいの逸物ぶら下げて、変態プレイ向けの顔と身体しているクセに、ケツを拭くのにも使えねぇ話ばっか垂れ流しやがって」
「こんなナリだもの、ひねくれない方がおかしいぜ」
「捻切れちまえばよかったのに」
 ガムは落ちてこなかった。カイツールがどうしたことかと天井を探っていると、少女はベッドに倒れ込んだ。白いニーソックスを擦り合わせて、エネルギーを溜め込むような伸びをする。
「ね、どうする? まだ時間はあるけど……」
 そう言いながら、スカートの中に手を滑り込ませ、下着に指先を掛ける。挑発的な笑み。
「一発かましておく?」
 だがカイツールはかぶりを降る。少女は上体を起こした。誘うような笑みを貼り付けて、ボタンを外しはじめた。
「大丈夫だって。あんたより酷い感じのヤツとだって何回か経験あるし、あたしたちがホモの病気を気にする必要なんてないから――」
「残念だが、制服プレイには飽きたんだ」
「ナマでも大じょ――って、はぁ?」
 今度は少女が道化役を演じる番だった。ぱちりと目を見開いて、口はOの字を描く。対するカイツールは肩をすくめた。シニカルな笑みのおまけ付きだ。
「あ、そ」
 やがて、少女は立ち上がった。ドアの方まで歩いていく。
「せいぜい、ひとりでマス掻いてろよ、オッサン」
「ひとつ質問」
「あ?」
「その服はどこで――」
「裁縫が得意で悪かったな」
 扉が叩きつけられる。
 メタリカの“ONE”を口ずさむ声が遠ざかっていく。

 あてつけだ。狙って歌っていたに違いなかった。








投稿者:蟻蛾
VD未対応 小説 蟻蛾 読み切り
最終更新:2012年07月09日 18:08