ムーシェがどこかへ行ってしまった翌日も、エクシーレはいつもと変わらぬ朝を迎えていた。
とあるミグラントから購入したプレハブや元からこの工場に合った居住空間で生活している人々は、
配給されるウェットティッシュで顔を洗って、濾過した水で口を濯いだ。
男たちは格納庫に向うか、訓練をするためにキャンプの郊外に向って、女たちは子供の面倒を見ながら、
キャンプ内の掃除や地道な修繕作業に明け暮れる。
暇を持て余した子供たちは親の作業を手伝うか、自由に遊ぶかのどちらかだ。
自由に遊ぶ方を選んだ子供たちは、誰の邪魔にもならない場所を選んで、わいわいを声をあげながら走り回っている。
そんな様子を建物の屋上の縁から見下ろしていた
エルフィファーレは、足をぶらぶらとさせながら、
いつもとは違う自分の様子に困り果てていた。
腰には小さなホルスターを吊るしていて、中にはムーシェから預けられた拳銃が収まっている。
マルコウィッツの知り合いの女性から御好意で貸してもらっているワイシャツとズボンは、小柄なエルフィファーレには少し大きかったが、
それでも彼女の魅力は損なわれることはない。
コクピットに閉じ込められていた期間と、療養生活の影響から、元から華奢な身体はさらに細くなってしまっていたが、
人を引き付ける腰のラインと大きな二つの目は未だに健在だ。
それでもエルフィファーレの心境は晴れやかではなかった。
昨日のあの出来事があったから、少しだけ気持ちは軽くなっているのに、今度はムーシェに会いたくてたまらない。
彼がいつ帰ってこれるかが分かるだけでも良いと、そう思っていた。
すべきではないと思っていても、昨日の夜の内に彼に抱かれていたら、こんなに苦しい思いをせずに済んだのかもしれないと、
そんなことも考えてしまう。すべてが妄想なのに、もしそうだったとすれば、今まで感じたことのない満足感と安らぎが得られると、
エルフィファーレは感じている。
娼婦兼傭兵として第9領域を生き抜いてきたエルフィファーレは、傷ついたりした男たちに癒しを与えるオアシスのような存在で、
自分の身体で心の傷が少しでも癒えるならと、そう思っていた。
ムーシェに対してもその感情は変わらない。ムーシェには兵士特有の空気があった。
心優しい彼でさえ、やはり一番落ち着ける場所は戦場なのだと、そう思っているに違いない。
何度も何度もそういう男たちに会っては分かれてきたエルフィファーレには、それが分かる。
「……本当に、戻ってきてくれるんですよね」
遠く見える山並みまで延々と続く荒野と砂漠を眺めながら、エルフィファーレはぼそりと呟く。
その言葉を言い残して発った男たちは、皆等しく一つの終わりを迎え帰ってこないのだということを知っていても、
彼の帰還を望まずにはいられない。
今までもエルフィファーレは男たちに愛されて、男たちはエルフィファーレと共にいようとした。
だがいつも、女の前でかっこよく見せようと言う無意識な強がりが彼らを殺す。
時にはブレードで融解し、時には金属の悲鳴と共に圧死し、時には機体もろとも爆散する。
その度に胸が痛くなる。胸を引き裂かれるような、あるいは万力で潰されてるかのような、
喪失感と悲しみを同時に味わうその感覚を思いだし、エルフィファーレはぎゅっと胸に手をあてた。
今回もそうなってしまうのだろうかと、エルフィファーレは考えないようにしていたが、最悪の事態を考えてしまう癖が頭に染み付いてしまっている。
嫌な癖だと自分でも思うのに、最悪の状況を容易に想像できてしまう。いつもそうだと、エルフィファーレは唇を噛みながら思った。
好きな人も、家族だった人も、戦友だった人も、みんな死んでいくのに、心のどこかでそれを冷ややかに見下ろしている自分がいる。
それを自覚する度に、エルフィファーレは自分が酷く醜悪な人間に思えてしまうのだった。
乾燥し切った風がエルフィファーレの肌を撫で、その髪を弄び、どこかへと吹き抜けていく。
誰かが階段を昇ってくる気配がしたのは、そんな時だった。
「…………」
エルフィファーレの手が自然にホルスターに伸びる。
冷たい拳銃のグリップの感触が伝わってくると同時に、ポケットサイズの45口径自動拳銃を使用するイメージが頭の中で構築される。
安全装置を外し、グリップをしっかりと握って、アイアンサイトで敵を照準し、胸部を撃ち抜く。
反動を受け止めながら跳ねあがった銃身を制御し、次弾を頭部に撃ち込む。踊るように、パン、パン、と二度撃てばいいだけだ。
けれど、エルフィファーレはそうしなかった。
安全装置を解除しかけた細い指が銃から離れ、躊躇うような間をおいてから、自動拳銃をホルスターに押し込んだ。
階段を昇ってきたのは、ボギーと呼ばれている初老の戦車兵だった。
軍人らしいがっしりとした体格で、背も高く、艶のないアッシュブロンドの髪を刈り上げており、岩から削り出されたような顔に無精ひげを
生やしている。老け顔で、初対面の相手には必ず50歳以上と思われるんだと、マルコウィッツが言っていたのをエルフィファーレは覚えていた。
「おやおや……こんなところに人がいるとは珍しいなぁ」
砂漠の砂を被った灰色のような、不思議な色合いのミリタリージャケットに両手をつっこんだボギーが口元に笑みを浮かべながら言った。
エルフィファーレはにこりと笑みを返して、
「そうなんですか?」
と相槌を打った。
ボギーはエルフィファーレを見ずに、遠くの荒野と砂漠を眺めながら、ジャケットから手を出して、
手に持った煙草を咥えて、ジッポーで火を点ける。
深く深く息を吸い込んだ後、ふっと表情を緩ませながら紫煙を吐きだす光景は、
たしかに退役した老人のようだと、エルフィファーレは一瞬思った。
「そうなんだよな、景色良いのに。階段上るのがそんなに面倒くさいのかな。みんな若いのにねぇ」
「もしかしたら、皆さんへとへとで屋上の存在自体を忘れちゃってるんじゃないですか?」
「ああ、そうかもね。一般男性から募集した予備役は訓練漬けだし、
メカニックは日夜火の車……おまけに資金のやりくりもギリギリときたもんだからなぁ」
こんなブラック会社滅多にないよ、と言いながら、ボギーはさらに紫煙を吐きだした。実に美味そうに煙草を吸う人だ。
高級料理よりも煙草の方が美味しいと言い出しそうだな、と思いながら、エルフィファーレはエクシーレを再び見下ろす。
もう一度よく見ると、エクシーレはイル・シャロムのスラム街を抜き取ったような雰囲気があった。
廃材の寄せ集めのような小屋があったかと思えば、立派な工場や格納庫が建っている。
工場や格納庫はその場所の王のように大きく、バラックはこうした建造物のせいで日光が当たらなくなるのだ。
ただ、イル・シャロムのスラムとエクシーレが違うのは、バラックでもきちんと日光が当たるような場所に建てられていて、
環境整備がきちんとしているという点だろうか。
ゴミや食べ残し、あるいは無機物が散乱しているスラム街に対して、エクシーレはまったくと言って良いほどゴミが落ちていない。
放置されたゴミは疫病や伝染病を呼ぶと、軍医のマルコウィッツが警告でもしていたのだろうかと、エルフィファーレは思った。
「……でも、綺麗ですよね、ここって」
「買うのにはお金がかかるから、盗んできた装置を使って、可能限りリサイクルしてるからねぇ。
雨水も貴重な水資源になる。キャンプ設立の時に都会っ子たちがひぃひぃ不平を言っていたのが懐かしいなぁ……」
「その都会っ子さんたちは、どんな不平を言ってたんですか?」
「えーと……なんだっけ……。たしか……『こんなにゴミを分別しなきゃならないなら、分別係とか分別委員会とか作りゃ良いんだ』
だったかな……まあその後、そいつが分別係やらされることになったんだけどね」
にっひっひと人の悪い笑みを浮かべながら、ボギーの咥えている煙草の先端がぽうっと赤く光る。
自業自得ですね、とエルフィファーレが肩を震わせて笑うと、ボギーは唇を窄めて紫煙を吐きだした後に
「まあそいつももういないんだがな」と言った。
左手首に嵌めた軍用時計をじっと見ながら、ボギーは続ける。
「ここは難民キャンプだからねぇ。働き口や住む場所ができりゃ、そっちに行ってくださいねって場所。
五体満足な野郎は、もうほとんど残っちゃいないよ。くっだらない使命感で残ってる野郎どもも、いることはいるがーねぇ」
「……それがエクシーレ実働部隊ってわけですね」
「うん、そう。くだらない使命感を持って敗残兵ごっこを続けてる、くだらない連中。それが俺らなんだよなぁ」
ボギーは自分を含めてそう言っているらしく、自嘲するように引きつった笑みを浮かべて、ふっはっはと笑いながら紫煙を吐きだす。
紫煙は乾いた風にさらわれ、ボギーのうしろへ吹き抜けて言ったかと思えば、もういなくなっていた。
子供たちの笑い声が階下で響いている。格納庫からは、可搬型発電機の動作音と金属音が聞こえる。あとは、風の吹き抜ける音だけだ。
「……その筆頭が今はあの軍曹ってんだから、不思議なもんだ」
しばらく間をおいてボギーがぽつりと言った。
エルフィファーレはボギーが言わんとしていることがなんとなく分かって、くすりと笑い、ボールを蹴って遊んでいる子供たちに目を戻す。
ボギーの呟きが、風の音にまぎれて小さく届いた。
「あの軍曹ほど無茶無理無策を嫌ってる男はいないと思ってたんだがなぁ」
子供たちの笑顔を見ながら、エルフィファーレは風の音に紛れて、小さく言った。
「やれると思ったから、あの人はやってるだけなんですよ。きっと」
それはボギーの呟きよりも小さかったので、誰に届くことも無かった。
ただ風だけが彼女の声を受けて、吹き抜けて行っただけだった。
最終更新:2012年07月13日 01:44