夜が明ける様子を、元中尉は寝惚け眼でじぃっと見つめていた。
軍の放出品である大型テントに広げられた保温シートと寝袋が恋しいのか、外気に曝された肌は鳥肌をたてて、身体の生理現象でぶるぶるっと震えが込み上げてくる。
それでも中尉はいつも羽織っている政府軍の部隊章などが縫い付けられたコートを羽織り、ポケットから安物の煙草を取り出してジッポーで火を点け、紫煙が五臓六腑に染み渡るまで深く吸い込んだ後、美味そうに煙を吹き上げた。
ストレスを喫煙で発散している元中尉など知ったことではないのか、寒々とした砂漠の夜が今終わりをつげ、乾ききった空気の向こう側、地平線の向こう側から生命の象徴である太陽が緩慢な動きで紫色に染まった空を消し去りながらも、空を目指して上り始める。
「ふぅ………」
吸い込み、紫煙を吐き出すと、むかむかとしていた精神状態がぼんやりと軟化していくのが感じられ、元中尉はほっと肩から力を抜いた。
元中尉は砂漠の夜明けを眺めながら煙草を吸うのが好きだった。精神的に余裕のない時は決まっていつもより早く起きて一人で煙草を吸い、何本か灰にしてから一日の始まりを実感するくらい好きだった。
一日の始まりを実感することほど嫌なことはないのだが、それすらやってやろうと言う気になってくる。いつしか夜明けを眺めながら煙草を吸うことは、元中尉の中では一種の儀式のようなものになっていた。
湿度がほぼ存在しないため空気中には雑菌も存在しないから、空気がとてもクリアで目に見える風景も清々しいほど綺麗に見える。
その時に起こる現象全てが、元中尉にとっては癒しそのものになっていた。
吹き上がる砂塵に含まれる石英の粒が太陽光を反射して、白み始めた空をきらきらに光らせるのが好きだ。
平坦そうに見える地平線から太陽がのっそりと現れて、闇夜に慣れ切った目がじんじんと痛むのが好きだ。
碌に整備もされずにぼろぼろになっている対空自走砲が太陽光を浴びて、非難するように太陽光をぼんやりと反射させるのには哀愁すら覚えた。
吹き荒れる暴風が砂と共に太陽を覆い隠そうとしている時、それでも上り続ける太陽を見続けるのが好きだ。
砂粒が頬に当たってちくちく痛むのは寝惚けた頭を正常にしてくれるから、コーヒーの代わりをしてくれているのだと感謝すらしていた。
けれどそれを分かってくれる人が、この世の中に幾人いると言うのだろうかと、元中尉は煙草を燻らせながら考え込んだ。
きっと幾人もいないだろうと思う。砂漠は不毛で何もないのだ。その先入観ばかりが人の中にあるから、砂漠の美しさには誰も触れようとしない。
「……いや、違うか」
一本目の煙草を吸いきり、吸殻を地面に投げ捨ててブーツで踏み潰しながら、元中尉がぼそりと呟いた。
自嘲気味な笑みを浮かべて二本目の煙草を咥え、火を点けて吸い、紫煙をふうっと吐き出すと、強烈な太陽光に目を細めながら言った。
「何もないからこそ―――なんだろうな」
何もないからこそ砂漠は美しいのだろうと、元中尉はそう思った。
煩わしいほどの人間関係も爛れた資本主義も、女も野生動物も存在しないに等しいこの砂漠では、石英の粒で何もかもが削られていくように、身も心も徐々に削られ洗練されていくのだろう。
もっともその恩恵を預かることのできない愚者どももいるわけだが―――と元中尉は二本目の煙草を吸いながら枯れた笑みを浮かべて、一日の始まりを実感しつつ、二本目の煙草を地面に投げ捨てて踏み潰した。
その日の朝は賞味期限切れの軍用糧食を食べることから始まった。ボソボソとしたクッキーのようなものと、栄養素を詰め込んだ結果何の味なのかも形容できなくなったジュースと、少しばかりのミネラルウォーターが朝食だ。
缶詰のウィンナーを何個か開けてはみたものの、冷めたウィンナーは脂でぎとぎとしており、胃の弱い者は胸がむかむかとしたままテントに戻って雑魚寝した。
昨日の大一番で失態を犯した馬鹿野郎の意識が回復したのは昼になってからだった。
一応の手順を心得ている元中尉がぱぱっと異常がないかを確認した結果、その馬鹿野郎は馬鹿であるということ以外に異常がないと言うことが分かったの で、ヴラジーミルは再び総員集合を命令した。
ヴラジーミルの機嫌はすこぶる良かった。
自走式対空砲の上に仁王立ちして、どこぞの独裁者のような口ぶりと動作でギャングどもを洗脳して死の尖兵に仕立て上げ、馬鹿どもをさらに鈍化させて究極の馬鹿へと昇華させた。
群衆から一歩下がったところに居た元中尉は自走式対空砲の上にいるヴラジーミルが教祖か何かで、ギャングどもが救いを求める哀れで薄汚れて罪にどっぷりと浸かった子羊のように見えた。
「―――我々ならきっと成し遂げられるはずだ! 戦力は微々たるもので、我々すべてが戦闘のプロフェッショナルではないが、我々にはそれさえも跳ね除ける強運と力がある!!」
たしかにヴラジーミルは強運の星に生まれついていた。そうでなければこの三年間で死んでいただろうし、そもそもバンガードに発見されて野盗組織と認定され殲滅される恐れすらあった。
だというのにヴラジーミルは意識してか無意識かは分からないが、バンガードと接敵しないようにしていた。弱小勢力を付け狙っては突如強襲し、適当なものを奪ってとんずらするのがヴラジーミルの基本方針だった。
言っていることは大層な割に、やっていることは野盗と変わりがないのだと考えると、元中尉は思わず失笑してしまう。遺言とは言え、こんな奴の世話をどうして今まで続けられたのだろうかと、自分でも分からなくなるくらいだ。
「奴らは僕から大切なものを奪い取っただけでなく、我々を陥れるつもりだ……これに対抗するには、暴力しかない! 徹底的で一方的な、暴力しかないのだ!」
若き指導者で士官学校中退のヴラジーミルの言葉がまだ続く。太陽はすでに真上に昇り切っており、頭上から太陽光が降り注いでいる。
元中尉は顎に生えた無精髭を撫で上げながら汗を拭き取ると、コートの裾で汗でべたついた手を拭いた。そしてふと、この三年間どうして逃げなかったのかと言う答えが浮かび上がってきた。
元中尉には犠牲にするものなど何もなかった。家族は死んだし、財産も無かった。家も戦闘で潰れたし、妻子もなかった。やりたいことも見つけ出せず、ただただぼけっとしていただけだった。
だから恩師であった准将の息子を世話することになったのだったと、元中尉はヴラジーミルの演説もどきを聞き流しながらぼんやりと思った。ヴラジーミルの隣で副リーダーを気取っているペインは無視する。
新政府は職にあぶれた市民のためになんの政策を打ち出すことも無く、ただ就職専用の部署を開設しただけだったし、軍事力に物を言わせた独裁政権は泥酔した爺のような胡散臭さしかなかった。
結局、こんなくそったれなことしか俺にはのこっていなかったのだと、元中尉はヴラジーミルを見ながら、胸の中で呟いた。
「いつものように我々は前進する! 戦列を組み、エンジン音を轟かせ、奪え殺せと叫びながら邁進する! 暴力だ! もはや我々には、暴力しか―――」
突然、鞭がしなったようなパシンッと言う音が砂漠に響き渡った。何の音だろうと言う思考と、ヴラジーミルの頭が弾け飛んでいるという視覚情報が噛み合うまで約数秒。
その数秒で馬面のギャング、ペインの頭も弾け飛んだ。二人とも左側頭部を思いっきり殴られたかのように、不自然に首を曲げて、右側の頭蓋骨と血肉を吹き飛ばされ、粉微塵になった脳みそを露出させながら死んでいた。
元中尉は思考と視覚情報がかちりと音を立てて噛み合わさるのを待たず、無意識に叫んでいた。
「狙撃手だ! 伏せろ!」
そう叫ぶと同時に、ペシンッという死の鞭が振るわれる。今度はモヒカン頭のギャングが「ぃぅぁ!?」という妙な声を吐き出しながら倒れた。胸に小さな穴が開いていたのを見た元中尉は、心臓が破裂して即死だったろうと判断した。
ギャングたちが右往左往して叫び声をあげまくっているからか、ペシンッという弾丸の衝撃波の後に聞こえるライフル本体の銃声は中々聞こえてこない。普通ならばどんなに耳がイカレていても聞こえる銃声が聞こえないほどの悲鳴をあのギャングどもが上げているとは、なんつう見かけ倒しだと悪態をつきながら、元中尉は下手に動き回らないよう石になった。
狙撃手を相手にした場合、下手に動いてはならない。それが訓練された狙撃兵である場合は尚更だ。彼らは彼らなりの順序付けを行い、弾丸を完璧に着弾することのできる殺傷空間を作り出してから狙撃に至る。ヴラジーミルが撃たれ、テクニカル部隊の隊長だったペインが撃たれたのは、その順序の上に位置していたからだ。
「ヴラジーミルが死んじまった! ヴラジーミルが死んじまったよぉ!!」
指揮官の死亡と隊長の死亡、そしてモヒカン頭の死亡と見えない敵から襲撃されているという多大なストレスに耐えられなくなったのか、AK突撃銃を持った坊主頭のギャングがふらふらと立ち上がって喚き散らし始めた。
伏せろという言葉が舌の上まで滑り出てきたところで、坊主頭は案の定頭に風穴を開けられ、額から頭蓋骨と脳みそを吹き出しながら地に伏せた。
これで何人死んだ? と元中尉が考えていると、23mm対空機関砲を荷台に載せたテクニカルに向って、棘々頭の男が意味不明な言葉を喚き散らしながら、左右に蛇行して走って行った。
テクニカルまでの道のりは短かったため、棘々頭の男は無事にドアを開けてエンジンを始動させた。防弾ガラス越しに男が恐怖と歓喜が綯い交ぜになった複雑な表情を浮かべると、男の目の前のフロントガラスが円形に白く染まった。
「ひ、ひいぃぃぃ!?」
数百メートル遠方から放たれた弾丸は流石に防弾ガラスには敵わず、フロントガラスの一部を白く染め上げてめり込むだけで終わった。
だが棘々頭の男はそこまで冷静にものを考えられるほど肝っ玉が据わっていなかった。奇声を上げた男はドアを開けると何もない砂漠を数秒程ひた走った。
そして赤い霧を頭から吹き上げながら地面に倒れ込み、何度かゴロゴロと転がった後、ぴくりとも動かなくなった。いったい、これで何人死んだ?
ぼんやりと死人の数を考える元中尉を嘲笑うかのように、遅れてやってきた銃声が乾いた砂漠に響き渡った。
最終更新:2012年08月06日 02:41