俺は銃座だと、
シメオン・ムーシェは思った。しかし、銃座にしては不完全な銃座だと、同時に思った。
人間の身体には関節を一定の角度で固定する機構など存在しないし、心臓の鼓動と身体の末端まで駆け巡る血流の所為で、完全な不動的存在になることができない。
心臓が鼓動する度に血流が血管を膨らませ、必要不可欠な酸素を供給し続ける。その度に身体は微動を続け、脳は考えを巡らせ続け、必然的に悩みが生まれる。
完璧な銃座は悩むことなどない。目的のために考えることもしない。敵が何であるかも考えず、時と場所も憚らずに装備した銃器を撃ちまくるだけだ。
引き金を引き、反動を全身を使って受け止め、湾曲した形のボルトハンドルを上げて引く。高熱で焼けた薬莢が砂色のシートの上に転がり、纏わりつく大気を威嚇するように燻った音を立てる。
新たな標的を順位付けし、補足しながら、シメオンは考えた。俺は銃座のように節操無しではない。では、俺は何なのだろうかと。
銃を据え置き、倒すべき敵が到来した時、絶妙なタイミングで引金を引き、銃火と銃声と共に、死と言う結果を残す俺は、今の俺はなんなのだろうか。
答えは二回目の引き金を引き切った時、ライフルの反動と共にやってきた。今こうして行っている行為そのものが、シメオン・ムーシェと言う人間の在り方を明確に示しているではないか。
『俺は狙撃手だ』
狙撃という行為を構築する手順一つ一つが、俺と言う人間の在り方を示している。ボルトハンドルを上げて引き、次に魔弾となるタングステンカーバイト徹甲弾芯仕様の7.62㎜×51弾を装填する。
俺はそうやって、骨格と大地に支えられた狙撃銃に弾という命を吹き込み、照準器で10倍に拡大された視野の中で、次に命を刈り取られる人間どもを観察し、どいつがどんな人物であり、重要であるかを推測する。
まず最初に殺したのは指揮官だ。身振り手振りと、彼を見る男たちの目が〝持つ者〟を見ている目であり、身体を弛緩させ、茫然自失状態にあったことなどを考えた上で、この指揮官はカリスマ性はあるが、部下の自主性を認めない男だというのが分かった。
次に殺したのは恐らくある種の隊長だ。指揮官の隣に立ち、男たちを見下ろしていることからそう順位づけたが、本当にそうであったのかは怪しい。何しろ、双眼鏡とか無線機とか、そういった目印を身に着けていない連中だったから、判別が難しい。
そこからはもう、順位付する意味がなかったため、動きだした奴から撃ち殺すことにした。そうすることで、敵は『動けば殺される』という認識を持つ。
そうしてしまえば楽なものだ。動かない標的に銃弾をぶち込むのは、競技染みていて心が躍る。
口元に笑みを浮かべながら、シメオンは何時の日だったかも覚えていない、今はもうぼんやりとしか覚えていない記憶の断片を思い出した。それは狙撃手について、誰だったかは覚えていないが、とにかく素人が発言したものだったのはたしかだ。
『どうして子供まで撃ち殺したんだ。あんたらのその銃に付いているスコープだったら、子供の顔まで見えてただろうに』
誰がどうしてそう言ったのかはほとんど覚えていないと言うのに、その時自分がなにをしてそう言われたのかだけはしっかりと記憶していることが驚きだった。
その時、俺はこう言ったのだと、シメオンは思い出した。
『俺は子供を撃ち殺した。たしかにその顔もよく見えた。だが、子供はテロリスト共に合図を送っていた。交戦規定によれば、これは発砲せざる負えない……ということになっている。指揮所からも発砲許可が下りた。だから撃った』
それだけの話だと言いたげに、俺は言い放ったに違いないと、シメオンは苦笑した。
今も同じようなことをやっている。戦闘区域に指定された場所で、狙撃地点を選定し、そこを隠蔽し、目標を監視した後に交戦規定と照らし合わせ、発砲許可を得て撃ち殺すのだ。
シメオンからすれば、ただそれだけのことだった。ただそれだけのことで人道的だとか、道徳的だとか、騎士道とかブシドーとか言われるのはとても腹が立った。わざわざ面倒な交戦規定に従っているっていうのに、どうして非難されなきゃならないんだと、シメオンは常々そう思ってきた。
―――だから、俺を理解してくれる相棒が欲しい。
引き金を引き、また一人の男を屠りながら、シメオンはそう思った。
俺を冷酷な計画殺人鬼だと認識していながら、きちんと俺と面と向かって、俺を見てくれる相棒が欲しい。
出来ることならば、そうした相棒と共に時を過ごし、笑いあって、言葉を交えて、互いに信頼し合い、唯一無二の存在としてその手を握ってやりたい。
そして願わくは、それが〝彼女〟であってほしいのだと―――もしそうであるならば、それ以上の幸福などないのだと。
「……今は、そう思っている」
標的がぴたりと動きを止めたのを確認し、ストックの位置を微かに調整する。
スコープ内の視界に影が映らないようにしながら、シメオンは小さく呟く。そして、低倍率スコープらしき筒状のものが装着された突撃銃を持っている男に照準線を合わせ、狙点を定め、更に調整を施した後、じれったくなるほどの時間をかけて引金を絞った。
引き金に掛ける力は、たった5キログラムにも満たない小さな力だ。その力だけでは、赤子の手すら圧し折れないだろう。だが、そんな程度の力で人を殺せる。殺せてしまうのが、ライフルという道具だ。
使用弾薬は7.62㎜×51弾。狙撃用に開発されたM118型。弾頭重量175グレイン、11.3グラム。初速は毎秒2600フィート、790メートル。人体を破壊するために内包するエネルギーは、3500ジュールを上回る。
しかしその値段は人間一人と釣り合うことはない。人間一人が生み出すことのできる金に比べたら、酷くちっぽけな値段で数十発入りの箱が購入できるだろう。箱は綺麗に封をされ、中には平べったい底部を晒している数十発の弾丸が、工業印と雷管を見せつけるように輝かせている。
それら一つ一つを、命を穿つ存在に羽化させるのが俺と、狙撃銃だ。撃針が雷管を叩き、発射薬に火が入り爆ぜた瞬間、照準線を重ねられた者は絶対的な物理現象に従って破壊され、もっとも酷い場合は骨を砕かれ肉を抉られ、自らの血で窒息して死ぬことになる。
だからこそ、そういった死を司る狩人であるからこそ、死に触れず、ただ生きていることを感じていたい時もある。長らく俺はライフルに没頭してきたが、今はもう違う。俺は彼女と共にいることで、生きていることを感じていたい。濃密な戦いの時間と対になる、平穏で暖かな時間を、彼女との思い出が欲しい。
ああ、そうだと、シメオンは首元から赤い液体を吹き出して地面に伏せた男をスコープ越しに眺めながら次弾を装填した。
俺は彼女が欲しい。言ってしまえば一目惚れと言う奴だろう。彼女はとても魅力的で、まだ俺がどんな人物かも知らない。たとえ知ったとしても、彼女なら俺を優しく抱きとめてくれる気がした。
長らく感じることのなかった人の温もりに埋没し、その思い出に浸れるようになれる身分だろうかと、シメオンの中で誰かが囁いた。だがシメオンはその誰かの声を一蹴りし、身分など関係ないと言った。
「俺は乾いている。凍えきっているんだ」
広大な砂漠の一角で狙撃銃を構え、十数名の男たちを一方的に殺戮しておきながら、シメオンは粘ついた唾液で半ば接着されていた唇を開き、孤独に気づいて仲間を呼ぶ犬か何かの様に、喉を震わせた。
発砲時に銃口から発生する衝撃波で、砂が舞い上がる。砂はシメオンの手に張り付き、皮膚を侵食し、その色と艶を奪い取っていた。砂色に染まった手は、まだ中身の詰まっているミイラかなにかのようでもある。
ギリースーツに縫い付けられたキャンバス地などはその荒い縫い目に肌理の細かい砂を張り付かせるだけ張り付かせていて、遠目から見ればシメオンの身体の輪郭など、どこにもないように見えるほど不確かなものになっていた。
しかし、彼の緑色の瞳だけは変わらない。ギリーの切れ目から覗くシメオンの瞳は、じっとスコープを見たまま動くことも、瞬きすることも無かった。けれどもその瞳は、哀れな男たち以外にもう一人、心から望む人の姿を地平線よりも遥か彼方に見出しているようだった。
祈るような声が、銃声に打ち消される。また一人の男が、砂の大地に伏せ、赤き血を垂れ流しながら死んでいく。
最終更新:2012年08月18日 23:57