空が重い。赤色の光が背中を押し潰し、僕の身体の輪郭は地面に黒々と滲んでいた。ぼやけた意識よりはっきりとした影は底無し沼のように足に絡みついてくる。油断すれば地の底にまで引きずり込まれてしまうだろう。
顔がじんじんと熱を帯び、気怠い痛みは鉛玉となって脳の中を跳ね回っている。体を包む大気は、どこか薄ら寒く感じられた。
青い人影が視界の端にちらついた。
見上げると自警団の人たちが僕を見つめている。青に白いラインを引いた派手な服。肩から吊り下げた大きな銃。退屈に膿んだまぶたの下に、変化を待ち望む瞳。そんな彼らから顔を背けて、門をくぐる。
広い牧草地に通る土道を進んでいくと、細長い馬小屋が斜めに、僕の家が真っ正面に向いている。
ポーチでシラクサを振っていた牧童のパンチャが僕に気づいた。手でひさしを作ると、一層深めた浅黒い顔をしかめるようにしてこちらを睨む。暫くして、僕の状態がわかったのだろう、彼は急いで家に駆け込んだ。
次に姿を見せたときにはメイドのおばさんも一緒だった。悲鳴が僕の白んでいた意識を貫く。それに応えるように遠い街の夕闇の中でコヨーテが一斉に吠えたのを覚えている。もの凄い形相で駆け寄って、僕の体を抱きかかえた。そのまま玄関に突進して、台所へ一直線。洗面器にお湯を貯めながら、遠巻きにこっちを見ていたパンチャに“奥様”を呼んでくるように命じた。
僕は拒んだけれど、彼女は聞こうとしなかった。
母さんは救急箱を持ってやって来た。僕の様子を見ても、彼女の頬に赤みが浮かぶことはなかった。いつもと変わらない青白い顔で華奢な体は今にも吹き飛んでしまいそう。それほど寒くはなかったのにショールを胸の前でぐっと引き締めると、メイドのおばさんやパンチャ、覗き込むリベカを追い払う。そして、僕を椅子に座らせ、洗面器を近くに寄せた。
母さんはお湯で濡らしたタオルで傷口に付いた砂利を拭いながら、何があったの、と尋ねた。
僕は何も言わなかった。俯いた拍子に顔の前へと下りてきた長い髪を耳に掛ける、そんな彼女の仕草を見つめていただけだ。
一通り汚れを取る頃にはお湯は底が見えないほど茶色く濁っていて、次に左手の甲に冷たい脱脂綿が触れた。傷口に薬液が染み込んで口の中に悲鳴が漏れる。思わず引っ込めようとしたけれど、母さんはそれを素早く掴んで引き寄せた。
「話しなさい、アーリー」
依然として無表情だったけれど、その黒い瞳は生き写しのような僕の瞳を正面から見つめていた。
「母さんを悲しませないで」
そんなのって、ずるいよ。
胸にこみ上げてきた熱い吐き気と鼻へのツンとした痛みを何とか抑えてから、僕は口を開いた。
ずっと前にエスコバル神父――彼の名前は出さなかった――に言われた通りのことをした。終始一方的な喧嘩だったけれど、無我夢中に放った左拳が、一発だけ、そう一発だけがアイツの鼻に真っ向から当たった。アイツは泣きながら降参した。僕は唖然とするクラスメートを残して帰った。それだけだ。
僕の短い話が終わると、母さんは消毒液の匂いを吹き消すように深く溜め息を吐いた。そして視線を患部へと逸らし、無言のままに手当てを続ける。切れた拳にはガーゼと包帯を、腫れた頬には湿布を、擦れた膝には絆創膏を、きつくもなく緩くもなく、まるで興味がないような加減だった。だから、僕は嫌われたのだと思った。
急に自分のしてしまったことに恥ずかしさを感じて顔が熱くなった。部屋の隅でうずくまっていた暗闇が立ち上がり、大きく口を開けて僕を飲み込もうとする。息をするのが苦しくなって、世界が滲んでいく。
でも、母さんは僕の頬に優しく触れて微笑んだ。ご飯にしましょう、そう言ってゆっくりと立ち上がった。
そういえば台所には焼けた肉や蒸した芋の美味しそうな匂いがする。
アルモアダの地下生産工場から毎日何万トンと出荷される複製食品の安物なんかじゃない。対岸の低度汚染農牧地から取り寄せた原型食品だ。母さんは、脂身が多くてぶよぶよした複製肉や水分が少なくてぱさぱさした複製野菜が大の苦手だった。メイドのおばさんにも食材は“絶対”に原型原料のものか自然生産のものを使うように頼んでいるほどだ。
僕は自分が物凄くお腹が減っていることに気づいた。胃が萎んで大きな音を出す。
まだ痛む体をやっと持ち上げて、差し出された手を握った。僕は母さんのこの手が大好きだった。ひんやりとしてどこか頼りない感じも、いつか本で読んだ象牙のように滑らかな手触りも、包んでくれる柔らかさも、大好きだった。
この世の何よりも、守りたいと思う。
らぱぱん、ぱん。
その音で、僕は目を覚ました。
部屋中が夜に覆われて青黒い。四隅はまるで空間に切り込まれた溝のようだ。
ベッドから抜け出し、窓を開ける。
海は一層深い藍の色、空は月も星も無い紫色で境界線はぼやけている。遠くで明滅するのは街に張り巡らされた建設機器の障害灯だろうか。それらとは別に三本の光線が真っ暗闇の牧野の上で揺れていた。照らす先には影が蠢いていて、大きくなったり、小さくなったり、転がるようにして逃げようとしている。それが立ち上がって人の形になったとき、
らぱぱん、ぱん。
湿った音と閃く光。
影は倒れる。そのままうずくまって動かなくなった。僕は双眼鏡を取り出して、影を見た。
光が近づくにつれて、浅黒い素足、短いズボン、墨が一点滲んだシャツ、見知らぬ少年の顔が暗闇の中からぬめりと現れる。自警団の三人は彼の手から太鼓のばちのようなものを取り上げていた。血の入ったシリンダーだ。そしてビニルシートを広げて小さな体を包むと、どこかへ運び去った。
彼は馬の血を盗んでブローカーに売ろうとしたのだろう。父さんがデザインした複製馬は都市の人たちに人気があったから、たとえ自警団が巡回するようになっても、こうした泥棒は後を絶たなかった。
アルモアダにいる複製体はみんな産まれつき子供を作れないようにできている。この都市における食肉・観光・愛玩用、色々な動物の複製・生産は自治体と正規契約したOVAが一手に請け負っていて、加工前動物の外部からの持ち込みや無許可増産は禁止、個体ひとつひとつはバーコードで管理されている。そして、彼らはすぐ死んでしまうから定期的に新しいのを買わなくちゃいけないんだ。
でも、どうして山腹の人たちはみんなで決めたルールを破ろうとするんだろう。それって自分勝手で悪いことだ。今でこそ血液や生殖細胞からでしか複製体が作れない段階だけど、技術復元が進んで色んな部位から増やせるようになったら、彼らはもっと大胆になるに違いない。
光が遠ざかって、闇と無音が野原を覆いだす。海からの突風が駆けてきて部屋中を潮の香りで満たした。僕は窓を閉める。
酷く喉が渇いていた。
一階に下りて、台所に向かう。蛇口を捻ると、浄水機のいつもは気にならないほど小さな駆動音が耳障りに聞こえる。母さんは水道水じゃなくてパッケージされた水を飲みなさいと言う。でも、僕もリベカもお腹を壊したことなんて一度もない。少しカルキの臭いが強いくらいで飲めないことはないんだ。
自室に戻る途中、母さんの寝室で声がした。扉は閉まっていて様子はわからないけれど、誰かを怒っているようだ。押し殺したような小声に耳を澄ます。
「……だから嫌だって言っ……こんな田舎……治安だって悪く……また急用ですって?……“あの子”のときだって……だったじゃない。あなたがいつも勝手に――」
「――なに、してるの?」
僕が振り向くと、リベカが不思議そうな表情で此方を見つめていた。
「お兄――」
慌てて彼女の口を塞いだ。そして彼女を連れてその場を離れた。
「どうしたんだ?」
後ろ手に扉を閉めながら、リベカに訊いた。彼女は僕のベッドの下を確認するように覗いていた。
「お兄ちゃんの部屋にはいないんだね」
「何が」
「子供攫い鬼」
「いるわけないだろ」
「でも」
「ほら」
僕は点灯したベッドライトを持って部屋中の隅から隅を照らし出した。何も無い。いるはずがない。
「うん」リベカはそう言って、にっと笑った。
「あんしんだ」そしてベッドの端に腰掛けた。
「それにククイじゃなくてココだろ」
その隣に座りながら、僕は言った。「エル・ココだろ」
それは大人が聞き分けのない子供に言い聞かせる単なるこけ脅しだった。いい子にしていないとエル・ココがあなたを攫いに来るわよ、なんて。
大人っていつもそうだ。自分たちは空っぽだから、どこか別のところから恐いものを引っ張ってきて、それを振るって子供を従わせようとする。そんなのは暴力と一緒だ。どうして自分の子供を恐がらせるようなことができるんだろう?
そんなの、自分勝手だ。父さんと母さんはあんな奴らとは違って、僕らに何かを無理強いするようなことはなかった。
「そんなもの、いるわけないだろ」
今度の意味は“僕の部屋には”ではなくて“現実には”という意味だ。
「でもパンチャが」リベカは不服そうだ。
「ほんとに見た、ろじで人をさらうところを見た、って」
「それが本当なら……」声に熱を帯びだした妹を落ち着かせるように囁いた。
「……何でパンチャは無事だったんだい?」
「ふむ」
彼女はいつか見た“考える人”の物真似をする。やがて、鼻を摘んで深く息を吸う。妹が言うには、これはエスコバル神父の物真似らしい。そして、僕とじっと目線を合わせて答える。
「わかんない」
「あのね」
「あ、お守り……かな?」
「じゃあ、リベカも大丈夫だ」
「なんで」
僕は彼女の胸元を指で示した。明かりを受けて銀色がぎらついた。エスコバル神父から貰った髑髏をあしらった首飾りがぶら下がっている。南部出身のメイドのおばさんが忌み嫌っていたものだったけれど、これはちゃんとした魔除けのお守りだった。確か山腹の人たちからは“死の聖母”とか呼ばれているものだ。
リベカが、なるほど、と素早く一言。今度は誰の物真似かはわからなかった。
続けて「たしかに」と顎に手を当てて少し重みを含ませて言う。これはわかる。彼女のオリジナルだ。
「うん、たしかに」
「わかったなら、ほら」
自室に戻るように促した。だが妹はさっきから「たしかに」と繰り返すだけで一向に動こうとしない。何となく解っていたけれど。
「わかったよ。だけどオネショだけはするなよ?」
「だいじょぶ、しない」
言うが否や、素早くベッドに潜り込み、自分の体を肩まですっぽりとシーツで覆う。
「これ、よんで」
そして、本を差し出してきた。表紙は擦り切れていて名前は読み取れないが、僕にはそれが何か知っていた。もう何十回も読まされたので出だしの部分をそらで音読できるほどだったんだ。
「また?」
「うん」
僕は寝転んで爛々とした瞳のリベカに寄り添う。擦れて膨らみを増したページを捲ると、一枚の写真が滑り落ちた。
馬の背に乗って自慢げに笑うリベカとその後ろで困った表情をする僕。父さんは此方側――たぶんカメラマンの横にいる母さん――に微笑みを向けながら、僕らのすぐ横に立って先導している。手綱の一方を僕が、もう一方を父さんが、それぞれが馬の上と横にいながらしっかりと握っていた。
その写真をサイドテーブルに置いて、僕らは“醜いアヒルの子”の世界に入っていった。
読み終わる前にリベカは眠りについていた。シーツを上げてやる。口が少し開いている。
僕は何故か、その唇に触れてみたくなった。左手を差し出して、指を軽く乗せる。柔らかくて、熱い――。
ああ、なんてことだ。どうして?
冷たい炎が鎌首をもたげ始めた。僕は必死に抑えつける。止めろ、止めろ。
身を捩って妹に背を向ける。必死に、必死に、まぶたを閉じる。朝になれば。早く。腕に爪を食い込ませて身体を丸める。闇にうずくまる。
エスコバル神父はそんなことは無いと言ってくれるけれど、僕にはわかる。はっきりとわかる。僕は穢れている。どうしようもないくらい、穢れている。自分で自分を殺してしまいたいほど、穢れている。
怪我の手当てを受けながら、あのとき僕は確かに真実を言った。母さんに嘘をついたわけじゃない。言わなくていいと思ったから言わなかっただけだ。言えるはずがなかった。
思い出せ。
あの一撃が全てを反転させたんだ。
暫く僕は呆然としていたはずだ。アイツは鼻からは流れ出る血を止めようとして、しきりに悪態を吐いていた。滴る赤色を見て、じんと胸が苦しくなったはずだ。何故こんなことをしているんだろう、と自問もした。
だけど、もう止めようよ、そう言いかけた僕に、はやし立てる声の重なり合いが注ぎ込まれてきた。
“やっちまえ! やっちまえ!”、って。
石を投げ入れた池を思い出してくれればわかると思う。反響に水面を揺らしながら、何か赤黒いものがどんどんと水位を上げていく。眼球が完全に浸されると、白く薄いフィルターのようなものが瞳に張り付いた。
その瞬間だろ? 全てが壊れたのは。
頭が爆ぜた。心臓が弾けた。眼球が裂けた。冷たい炎が背筋を駆ける。身体中が痺れる。内臓が沸騰する。流れる血の感触と熱の全てを理解することができた。頭の中に心臓が入っていた。どくん、どくん、合わせて身体が揺れる、ゆれる。冷たい炎の心臓だ。
そうだ。何故、気付かなかったんだろう。
冷たい炎は突進した。自分の身体がいとも容易く押し倒されたことにアイツは驚いていたけれど、簡単なことだった。僕は依然として僕の身体の中にいたけれど、でも本当は宙を漂っていて、取り巻くクラスメートのひとりひとりの目玉を通して冷たい炎を見ていたんだ。僕は、色とりどりの声で、大小様々な口で、何重にも叫んでいた。
“やれ、やれ! やっちまえ、やっちまえ!”
冷たい炎は嬌声に押されるまま馬乗りになる。両膝で両腕を地面に押しつけた。アイツは雄叫びを上げる。だけど無力だ。
あのとき、とても興奮していた。
冷たい炎は暴れる頭を掴んで固定する。眼をじっと覗き込む。アイツはまぶたを閉じようとするけれど、食い込んだ指はそれを許さない。中心に向かって歪む表情、外に向かって歪む表情。その二つが対面する。
僕は周りでまだ叫んでいる、“そうだ、やっちまえ!”。
不意に、冷たい炎の中の僕がアイツの眼に映り込んだ気がした。青く澄んだ瞳の奥から僕がどろりと顔を出す。その長い線虫のような身体をうねらせて喜びを示していた。そして分裂し、分裂し、もつれ合い、球をつくる、つくる。それは不思議な光景だった。理科の実験のようだ。何だか面白くていつまでも眺めていたい気がする。
この先は何になるんだろう?
早く、早く。爪が突き立つ。
次は、次は。アイツの頬が――。
でも、球の表面にひとつ赤い線が入り始めたときに、アイツは泣き出して、僕は死んでしまった。たぶん涙に溺れてしまったんだと思う。
沈黙に気づいて見上げると、周りにいた僕は唖然としている。さっきまで騒ぎ立てていたクセに。間抜けで無意味で憎たらしくて、ひとつ残らず灰にしたくなる顔と顔と顔と、顔、顔、顔顔顔……。
うんざりだ。馬鹿な僕。うんざりだ。姑息な僕。うんざりだ。
冷たい炎は立ち上がって汚れを払うと、家に帰った。
その途中で僕は身体の中に戻ることができた。だけど、節々がまるで僕を拒むように固くて思うように動かせないし、地面の感触も空気の流れもどこか白々しくて、別人の身体みたいだった。
ぽつぽつとした音を聞いて、僕は拳が血だらけだったことに気づいた。
僕は、泣いた。
隠れて泣いた。
僕は、死んだ。
溺れて死んだ。
“どっとはらい”
そんなの嘘だ。
ああ、父さんに会いたい。父さんはどうして帰って来ないんだろう。
父さんに、会いたい。
父さんが帰ってくれさえすれば、全て元通りになるんだ。母さんの病気は治るし、リベカもベッドの下を恐れることもなくなる。僕のこの冷たい炎もきっと吹き消してくれるはずなんだ。
父さんは、なんで帰ってこないの?
僕らより、首都の方がそんなに大事なの?
僕が、悪い子だから?
お願いだよ、帰ってきてよ、父さん、父さん――
らぱぱん、ぱん
――どこからか、赤い音が聞こえた気がした。
どこかの闇の中で少年が死ぬ音だった。
最終更新:2012年08月17日 04:18