「君たちは見たところ、ここの教区の人ではないね」
僕らに声を掛けたときと同じ調子で、神父は言った。告解室の中は暗かったけれど、信者部屋と神父部屋との間の仕切り窓は開いていて、彼の浅黒い笑みがよく見えた。
「はい。フアン司教の紹介できました」
「へぇ、それは随分と遠いところだね」
臨海部にある聖ヴィクター教会は再開発のあおりを受けて封鎖中だ。僕らが山腹の方まで来るのはこれが初めてだった。
「私はエスコバルだ、よろしく」神父は言った。
「アレフです」
「ふむ、アーリーでいいかい? 最近、呂律が回らなくてね」
「はい、構いません」
「よし、アーリー。今日の素晴らしき巡り合わせを共に祝福しようか」
差し出された手は、父さんのより固くて、ところどころに切り傷があった。触れ合う部分から熱い火照りが伝わって、少し汗が浮いてしまった。
「遠いところまでよく来たね。しかし、堅信の時期に被ってしまうとは」
「いえ。妹にとっては、あなたが担当で幸運だったんじゃないでしょうか」
神父がニヤリと笑った。悪戯を思いついたときの少年のようだ。
「フアン司教とその仲間たちは私よりもずっと教義に近いところにいるからね。一つくらいくれたっていいのに、彼らは大量の聖餅を脇に抱えて400ヤードくらい先を走っているんだ」
「神父さまもラグビーをやるんですか?」
「そりゃあ男の子だもの。最近はご無沙汰だがね。必死の形相で追いかけてくる神父を想像してごらんよ」
僕はその光景を思い描いて吹き出した。
「ぞっとしないですね」
「だろ? マッド・ファーザーとか呼ばれちゃ洒落になんないよ」
肩をすくめる姿はあのフアン司教と同じ職業の人とは思えなかった。
神様の下で働く人たちは神様に近づけば近づくほど、その姿は人間離れしていく。眉間は谷のように深く、垂れ下がった口の端は床にまで届きそう。真っ黒な服で顎まですっぽりと包んでいるというのに、暑い日にも汗一つかきやしない。ピン穴のように小さな黒目は暗がりの中でも刺すように光って、悪戯しそうな子供を追っている。そうした聞き分けの無い、彼らの言う“どうしようもない子”を、地獄の話をして恐がらせることが唯一の趣味に違いなかった。
僕は神様を恐れていたけれど、フアン司教のせいで教会を好きになれたことなんてなかった。彼は行儀の良し悪しに関わらず子供というものを心底嫌っていた。嫌われているのが分かっているのに、好きになれるはずがない。
でも今は、エスコバル神父を好きになりかけていた。彼は世界中の人々全てを愛しているように思えた。彼の開くミサなら毎日だって通ってもいいくらいだ。
「それで」やがて、エスコバル神父が言った。「今日はどうしたのかな、アーリー」
彼の目の穏やかさが、さっと意味を変えたのが解った。顔には以前として微笑みが浮かんでいたけど、おどけたような表情ではなかった。今度は僕が話す番だった。
ああ、遂にこの時がやってきた。
僕は頭上の十字架を仰ぎ見る。だけど、銀色がぎらりと輝いたような気がして、とっさに顔を伏せた。
しまった。
組み合わせた両手に額を押し付けた。首筋に注がれる光にぞわりと寒けが走る。神様は全てお見通しだ。嘘をつこうとも、身を隠そうとも、罪は僕の後ろにいつまでも張り付いて、決して逃さない。そして、後光から目をそらすような不信心者には、決して祝福は訪れない。
「僕は――」
自分の言葉がどこか遠くから聞こえたような気がした。
僕の身体がどんどん小さく縮んでいく。だけど取り囲む壁はじりじりとその厚みを増して、身体だけじゃなく心臓までも潰そうとしていた。頭上の十字架を意識すればするほど、脳みそが頭蓋骨から引き剥がれて、白く冷たいもやに溶け出していく。
「神父さま、僕は――」
何とか先を続けようとするけれど、口の中がどんどん乾いていって、喉の奥にまで迫り上がった心臓を吐き出しそうになるほどだった。鼓動は身体を揺らすほど激しいのに、背筋をなぞる汗は冷たくて、粟立った肌がその通り道からじわりと広がっていく。
僕の魂がついに顔から蒸発して白い雲に変わる。そのまま部屋の隅に漂って、十二歳の少年を後ろから見つめていた。少年は震えていた。
告解を恐れていたのはリベカだけじゃなかった。僕は、妹を押し込むことで自分の順番を先延ばしにしようとしていた。告解の暗がりに跪いていながら、エスコバル神父の微笑みを見て、もしかするとこのまま夕暮れまでたわいのない話をし続けて“もう暗いからお帰り”と言ってくれるのではないか、と期待していたんだ。
神様はそんな僕を赦さないだろう。
だけど今の僕には、自分の犯した罪を口にすることは地獄に落ちることより恐かった。罪を認めることが恐かった。
父さんの落胆する顔。母さんの悲しそうな顔。リベカの猜疑に満ちた顔。僕は家族の愛と信頼を裏切ることになる。そんなことになるくらいなら、いっそ――。
不意に、手に触れるものがある。
目を開けると、握り締めた両手にでこぼこした手のひらが覆い被さっていた。
「大丈夫だ、アーリー。大丈夫」
神父はそう囁きながら、きつく握りしめた僕の手をほぐした。突き立てた爪が食い込んで、今にも血が出そうだったんだ。
「君の涙は無意味なものじゃない。神様もきっとわかってくれる」
神父の微笑みが滲んでいく。僕は耐え切れなくなって、熱くなった顔を伏せた。真っ暗闇の腕の中で、頭を撫でる神父の手を感じた。
「僕は、人を殺そうと思いました」
「続けなさい、アーリー」
神父の促す声はどこまでも穏やかで、その手を止めようとしなかった。
「彼は父さんを侮辱した」僕は一気にまくし立てた。
「何もできなかった。言い返すことも、何も。僕は恐かったんです。父さんや母さんに嫌われることや信頼を失うこと、悲しい思いをさせてしまうことが。だから何度も何度も、彼を殺すところを想像しました。泣き叫んで許しを乞う彼を、考えつくあらゆる方法で殺しました。でも、その度に彼は起き上がり、僕を嘲笑うんです。豚野郎の息子だって」
「アーリー、君は悪くない。誰だって家族を大切に思う気持ちは変わらない――」
「違うんです、神父さま」
僕は顔を振り上げた。
「想像していくうちにだんだん、僕の中で何か赤黒いもの――冷たい炎のようなものがぐずぐずと生まれてくるのがわかったんです。そいつは僕の身体を乗っ取ろうとしました。胸の内に熱い血飛沫を擦り付けながらぐるりと回転して、頭の中へ這い上がるんです。そして激しい光を次々に発しては、黒い跡から汚れた行為を僕に示すんです。侮辱した彼だけじゃなく色んな人――メイドのおばさんや牧童の少年たち、街行く人々、先生たち、そして、父さんや母さん、リベカにすら、その行為の矛先に選ぶんです」
声が詰まる。泣き出していたのだと思う。
「それを喜んでいる他の僕がいるんです。興奮している僕がいるんです。止められなくなる僕がいるんです」
僕は、腕の中に沈み込んだ。外のリベカに聞こえないように、声を押し殺して泣いていた。熱湯のような空気が肺から押し出されて、止められなかった。神父は何も言わなかった。
「実はね、私も心の中で人を殺したことがある。私には、罪の行く先の、その向こうを教えてやる義務があった」やがて、神父は口を開いた。
「彼ら総じて豚だった。貧しい人々を騙し、まだ幼い子供たちをも食い物にする糞豚ども」
僕は顔を上げて、神父を見た。そこには微笑みはなかった。目の奥にあるぎらついた光をどこか遠くに向けていた。
「奴らの最後はとても醜かった。穢らわしい血反吐と臓物をぶち撒け、自らの汚物にまみれていながら、まだ罰を拒んでいた」
不意に、目の光を僕に向けた。心臓の動きが一瞬とまって、ぞくりと寒気が背中を伝った。
「家族の誰かが、他者に辱めを受け、そして死に追いやられたとき、君はどうする?」
「僕は……」
言葉が詰まった。神父の顔に落ちた影は深いのに、黒目は異様な輝きを放っていたからだった。
「君は復讐する」
彼は応えを待たずに続けた。
「そして、相手の家族が君に復讐する。始まりは咄嗟の思いつきだったとしても、純真たる者を巻き込みながら憎悪は広がり、誰にも止められなくなる」
そこで、彼の口から吐息が漏れて、目の光が消えた。
静かな沈黙が広がるのと同時に、違和感が浅黒い微笑みに溶けて消えていく。
「“律法全体を守ろうとも、一つに躓かば是すべてを犯すなり”」
再び口を開いた神父は穏やかな目をしていた。
「聖ヤコブの言葉さ。人間は罪を重ねるうちに後戻りできなくなってしまう。たとえそれが小さな始まりだとしても、罪を罪で覆い被せていってしまうわけだね」
そして、顔をぐっと近づけた。お香みたいな、だけど、なんだか頭がぼおっとするような甘ったるい香りがした。
「約束してくれ、アーリー。彼に立ち向かうんだ。君の思いをぶつけるんだ。これ以上、僕の家族を侮辱するなら二度と窓の外へ出せないような顔にしてやるぞってね」
帰りは下り坂で楽だったけれど、一列になって引かれるロバを見たリベカはひたすらに乗りたがった。幸い、お金を幾らか持たされていたし、気持ちも晴れやかだったので、僕はそれを許した。
リベカは鼻の先から首までが白くて、あまりバーコードが目立たないロバを選んだ。観光局のロゴ入りシャツを着たタクシーのおじさんは、ソイツは第八世代の老いぼれだから危ないよ、と言って他のを進めたが、彼女は聞かなかった。ムイニーちゃんとまで名付けだす始末だ。
僕らは乗馬なら経験はあったけれど、ロバになんて、しかも鞍無しで乗るのは始めてだった。揺れる度に小さな悲鳴を上げてしまう僕をリベカはころころと笑った。
僕らはいつもの明るい兄妹に戻っていた。血は繋がっていないけれど、そんなことは関係がなかった。父さんは戦死した親友との約束を果たすために、まだ赤ん坊だったリベカを引き取った。彼女にとって家族と言えるものは僕ら以外に存在しないし、僕らにとっても娘はリベカただ一人だけだ。
暖かいオレンジ色の光の中で、リベカは歌った。
ケ・セラ・セラ。
何事もなるようになるわ。
明日のことなんて誰にもわからない。
ケ・セラ・セラ。
なるようになるのよ。
「ドリス・デイみたいだね、お嬢ちゃん」
おじさんに褒められて、にっと、はにかむ妹を、僕はこの世の何よりも愛おしいと思う。
橙色の海の香りがひとすじ、リベカの金色の髪を撫で梳かした。
最終更新:2012年07月20日 03:36