意識に厚い靄が掛かっていた。
 耳鳴りが酷く、三半規管は洗濯機に放り込まれてもみくちゃにされた後みたいに狂い、全身が鈍痛を訴え、自分がどんな状態にあるのさえ分からない。
 至近弾を受けたせいだと、ムーシェは数十秒にも数分にも数時間にも感じられる、無限にまで引き延ばされた時間の中、ぼんやりと思った。砲弾が炸裂した際に生じる爆圧や爆風などが、人間の感覚器官を狂わせているのだ。
 しばらくすると、ムーシェは自分がうつぶせに横たわっていることに気づいた。それから、ゆっくりと手足を動かし、五体満足の状態であることを確認し、腰のベルトに下げているナイフシースとホルスターの中味に触れる。
 愛用の45口径半自動拳銃『ガヴァメント』は、カイデックス製のオープントップ型ホルスターに挟み込まれていた。ステンレスブレードのマチェットナイフは、片刃の剣でも収納できそうな合成繊維製ナイフシースにすっぽりと収まっている。
 オーライ、良い子だ。それでこそ俺の相棒ってもんだと、ムーシェは砂だらけの口元を引きつらせた。何故なら同時に、もしかしたら、お前らが俺の末路に華を添えることになるかもしれないがと、そう思っていたからだ。

「く、そが……」

 悪態をつき、頭に張り付いているデザートパターンのジャングルハットを放り投げ、棒きれみたいになった両腕に力を込めてなんとか起き上がる。
 まるで生まれたばかりの小鹿みたいだと、ムーシェは揺れる視界の中で思った。脳の命令を聞かない足にいら立ちながら、必死になって両足を踏ん張って直立し、首元を覆うシュマグをうっとおしそうに引き千切る。
 乾き切った砂漠の風が露出した肌を撫で上げる。それはまるで、これから味わうことになる血みどろの報復と対になっているかのようだ。肌に突き刺さる砂の粒子は、砂漠を戦場にしたことに対する自然の抗議だろうか?
 なんにせよ、俺の勘は当たっちまった。俺はやはり、任務に私情を挟むと必ず手酷く失敗する性質らしい。

「……いや、今回は、まだ良いか。ただ、俺が死ぬだけだ」

 諦め切った顔で、ムーシェは曇天を見上げ、ふうと息を吐き出す。
 そうだ。ただ、俺が死ぬだけなんだ。この前みたいに、また大事なものを亡くすわけじゃない―――。

「―――ディナ。俺も、そっちに行く」

 自分と同じ、旧約聖書の女性の名を持つ妹にぽつりと呟くと、ムーシェは数カ月振りに声を上げて笑った。
 もう、どうしようもない。きっと、苦しい最期になるだろう。骨は尽く粉々になり、肉は抉られ、目は潰され耳は突き刺され、流れ出した血は砂を潤すだろう。
 だがそれでも、その先に穏やかな日常が、まだ待っていてくれると言うのなら、耐えられる。家族の温もりを、あの声を、何気ない団欒を、もう一度送ることができると言うのなら。
 もしそうでなければ、神などいないと地獄で叫ぼう。死後も続く理不尽に、身も心も焼かれ続けながら、呪詛を唱え続けよう。
 孤独な男の寂しげな笑いは、酷く一瞬で終わった。
 笑った後、ムーシェはホルスターからガヴァメントを引き抜いた。その表情には、諦めなどという軟弱な言葉は見出せない。
 すべての責任は行動を起こした自分にある。それを始めから認識しているなら、焦燥に駆られ、過ちをもみ消そうとはしないだろう。
 その最後がたとえ自らの死であったとしても、甘んじて受け入れなければならない。行動を起こすと言うことは、即ちそのようなことなのだから。

「さぁ、やってやろうじゃないか」

 誰に向けたものでもない台詞を吐き、最期の抵抗とはよく言ったものだと思いつつ、ムーシェはエンジン音が砂丘の向こう側から迫ってくるのを聞き、膝を下ろして両手でガヴァメントを構えた。
 艶消しの黒一色に塗装されたガヴァメントは、自走式対空砲に吹き飛ばされた狙撃銃と同じく、ムーシェの良き相棒であり、ムーシェを死神へと変貌させる小さな凶器だ。装填された弾丸直径11.5㎜のホローポイント弾は、いつも彼に味方する。
 組み込まれたパーツはムーシェが自費で購入したもので、官給品ではない。軽量化された撃鉄は引き金を引いてから発砲までのタイムラグを縮め、手に吸い付くようなラバーグリップは銃の制御を容易にする。
 ホワイトダットが塗装されたノバックリアサイトは照準し易く、集光ファイバーを埋め込んだフロントサイトはどんな状況であっても視界に入り込んでくれる。緻密な作業を得意とする職人が作り出した各種内部パーツは、スムーズかつ完璧な動作を保証していた。
 これこそ、プロフェッショナルが持つ銃だ。繊細な作業工程を経て生み出された部品は、堅牢な作動機構と剛性に富んだフレームの一部となり、それらは強力な45口径の弾丸を放つためだけに存在している。その銃が今、ムーシェの手に握られている。銃こそが、彼の強みであり、最強の守護天使と言えた。

「……エル、すまん。帰れそうにない」

 生きて帰ればそこにあっただろう日常を夢見ながら、ムーシェはぽつりと呟き、突撃銃を抱えて稜線を越えて出てきた痩せっぽっちの無法者にフロントサイトをぴたりと合わせると、滑らかに引金を引き絞った。
 ガヴァメントの咆哮と共に無法者の意識は脳髄より解き放たれ、砂上に空しくぶち撒けられる。続いてやって来た男にも照準を合わせて引金を引き、反動を制御しながら次の標的を探す。引金を引き、銃口から飛び出す45口径HP弾は、アドレナリンで痛みが分からなかろうが、躊躇うことなく人体を引き千切った。
 手早く三人を地獄送りにした後、ムーシェは叫び声をあげながら砂丘を跳ぶように駆け下りてくる男に照準を合わせ、火薬と鉛の鉄槌を下し、男の死体と一緒に転げ落ちてきたAK突撃銃を足元に引き寄せる。
 続いて稜線上で散弾銃を構えていた男を小気味よく二連射で撃ち倒し、素早くマガジンを排出して、腰の予備マガジンを装填。下卑た笑顔を張りつかせた黒人の男に照準を向けようとし―――ガヴァメントを支えていた左腕が弾き飛ばされる。
 火で熱した鉄の棒を無理矢理捻じ込まれたような激痛と、アドレナリンの過剰分泌で神経が鈍る感覚が一緒くたになって脳を直撃し、混乱した命令系統は最善の選択からどんどん遠ざかっていく。
 右手がしかと握っていたガヴァメントで黒人の頭を吹き飛ばし、両膝を地面から放して稜線を駆けのぼる。
 自走式対空砲のエンジン音に近づいていくのは、自殺行為でしかなかったが、四連装二十三ミリ対空砲から逃れるにはそれしかない。
 砂丘を回り込んだピックアップが背後で急停車する気配を感じながら、ムーシェは稜線を今まさに越えようとしていた十代半ば程の子供を、反射的に撃ち殺した。
 隣で子供を元気づけていたそばかす顔の白人は、一瞬目を白黒させたが、すぐに抱えていた短機関銃の銃口を上げてムーシェに狙いをつけ、引金を引こうとした。
 だが、一瞬だけでも唖然としたのが命取りだった。すでに銃口は白人の額に照準されており、引き金は撃鉄のロックを解除し、撃針が雷管を叩き終え、銃口から弾丸が飛び出ていた。

「ぅげ」

 踏み潰された蜥蜴のような声を上げ、頭を大きく仰け反らせて砂上に倒れた白人に見向きもせず、ムーシェは駆けだす。
 自走式対空砲の近くで片手に突撃銃をぶら下げていた馬鹿ども四人は、やっと突撃銃を構えはじめたばかりで、発砲まで数秒程かかるに違いなかった。
 その数秒で対空砲が狙いをつけませんようにと、ムーシェは願い、随伴歩兵の真似事をしていた馬鹿者にガヴァメントを撃ちまくりながら、敵中に突貫する。

「ひ、ひぃっ!?」

 拳銃一丁で突っ込んでくる気の触れた男に戦慄し、一人は逃げ出し、あとの三人は目を見開きながら突撃銃のストックを肩にあてて、引金を引こうとしていた。
 しかし、動作の一つ一つが遅すぎる。スライドを後退させたまま物言わぬ鉄となったガヴァメントに別れを告げ、ムーシェは腰からマチェットナイフを引き抜くと、体当たりでもするかのように、三人の内の一人に斬りかかる。
 無意識のうちに上げていた獣のような雄叫びに、精神的な支柱を崩された男は顔面の神経を引きつらせ、ジーザスという男の名前を呟いて突撃銃から手を放した。
 自走式対空砲は誤射を恐れて発砲できず、ただただ砲塔を左右に振るだけで何もできない。やってやったと、ムーシェがマチェットを振りかぶった時だった。
 突如、ムーシェは背後から突き飛ばされたかのような衝撃を右肩に受けた。前のめりになって下降していたムーシェはバランスを崩し、勢いよく砂に顔面を突っ込んで、もくちゃにされながら砂丘を転げ落ちていく。
 ようやく身体が自由になると、ムーシェは右肩から生暖かい液体が漏れ出しているのに気付き、右手が満足に動かせないことを知り、唖然とした。右肩は血で赤く染まり、骨が砕けたのか、白いものがちらりと見える。
 両腕が使い物にならなくなり、もはや自決することも叶わず、ムーシェは呆然と顔を上げ、稜線の上に立つ男を見た。
 無精髭を生やして、政府軍官給コートを羽織った痩せた男。顔立ちは老けきっており、年齢は人生の転換期に差し掛かる四十代半ばだろうか。
 男は、片手に艶消し黒色に塗装された大型の拳銃を持ち、何者の指図も受けるものかと言う雰囲気を滲み出している。それはまるで、指導者のような立ち姿だ。
 奴をどうして最初に殺さなかったんだと、ムーシェは自分を責めた。奴を殺せば、俺は銃殺で済んだ筈なのに。
 そして案の定、ムーシェを銃殺したがっている男たちの足元に拳銃を撃ち放ち、その男は堂々と宣言した。

「奴を殺すな。殺した分だけ、罪を償ってもらう」

 何が罪だ、畜生、さっさと殺しやがれと、ムーシェは思い、両足を踏ん張って立ち上がり、叫び声をあげてやろうと口を開く。
 しかし、ムーシェが叫ぶことはできなかった。男の声に感化された無法者どもがムーシェに向って走り、まるで棍棒のような使い方をして突撃銃のストックを腹部に叩き込んだからだ。
 込み上げてくる激痛と胃液に、疲弊した神経と意識は耐えられず、一人の女の為にけじめをつけようとした馬鹿な男は、力なく砂上に倒れ伏した。






投稿者:狛犬エルス
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最終更新:2012年11月08日 03:32