狙撃手は捕虜になることができない。捕虜になったとしても、それは捕虜と呼ぶに不相応な、非人道的な私刑が待っている。
 銃火器によって殺人可能距離が比較的に伸びる以前から、戦闘とは大いに混乱する者であり、大抵の場合、誰が誰を殺したのかすら分からない。
 だが、狙撃は違う。かつて獅子心王と呼ばれた王をクロスボウで射抜いた男は、王に許されはしたものの、王が死ぬと、その臣下たちによって皮剥ぎの刑に処せられた。
 ライフルが生まれ、望遠鏡と組み合わせて狙撃銃として運用されるようになっても、その原理は滅ぶことなく続き、有能な狙撃手たちは悲惨な最期を迎えた。
 俺もその内の一人として名を刻まれるだけなのだろう。墓石にはきっと、こう書かれる。

『シメオン・L・ムーシェ 彼は死ぬまでスナイパーであった』

 それは良い。俺に至るまで、ムーシェという家系はずっと射撃にしか才能と楽しみを見出せなかった、銃狂いばかりだったのだ。その系統がまた一つ増えるというだけだ。
 もはや夢と現実の違いなど、シメオン・ムーシェには分からない。殴られ、蹴られ、唾を吐かれ、罵声を浴びせかけられ、感覚のないまま尿を垂れ流し、骨が折られていても、彼には現実のことなのか理解できない。
 夢現の中でムーシェはずっと、死というものがどんなものかを考え続け、それが肩に手を置いて魂を身体から抜きだし、苦痛やしがらみから解放してくれるのをじっと待っていた。
 しかし、死はやって来ない。ムーシェがどれほど心待ちにしても、彼は空から下りてこなかった。時折、元政府軍の将校らしき男が視界に移り、ムーシェを殴ったが、それでも死はなかなかやって来ない。
 どうしてだと、ムーシェは思った。思わず、全身を震わせて、

神よ、何ゆえに我を見捨てたのだ!?(Eli, Eli, Lema Sabachthani)

 と叫びそうにもなった。身体が末端まで燃え上がるほどの怒りに駆られ、絶叫を上げそうにもなった。
 しかし、それらの感情はすぐに鎮火し、形をなさずに消える。その度にムーシェは思い出すのだ。狙撃手の最期とは、一発の銃弾がくれる死か、神すら目を逸らす私刑による死の二つだけだと。
 それに気づき、次にやってくるのは後悔と深い悲しみだった。泣いてはいけないという法律はなく、泣けばそれだけ敵が満足し、小便を顔に掛けられもしたが、しかし、泣くしかなかった。
 感情が無くなるまで泣き続けると、途端にムーシェは何も感じなくなった。正確に言うなら、現実から目を逸らし、心の中で安らぎを得ようと、ありもしない想像で精神を癒そうとした。
 それは家族水入らずの休日であり、父との狩猟の毎日であった。時には獲物の驚異的な生命力に驚愕し、死に体となった鹿がそれでもなお懸命に山肌を駆け走る様は、心を打たれるほど美しく見えた。
 美しいものと想像し、ムーシェは次にエルフィファーレの姿を思い浮かべる。どこか猫のように気ままな雰囲気を持ってはいたが、本当の猫は信用した飼い主にとことん甘えるらしい。
 戦闘の後遺症ではなく、本当の意味で甘えて欲しかったなと、ムーシェは思った。そうであるなら、いっそのこと夫婦になり、ライフルと軍隊に身体を捧げた馬鹿な若造から、一人の女と家庭に命を捧げる父親になれたかもしれないのに。

「……ヘリのローター音だと?」

 ぽつりぽつりと降り始めた雨が雷雨となり、空を雨粒のカーテンで覆う中、シメオンの耳に中年男の声が聞こえてきた。
 希望と言う水を得て、彼の意識は混沌とした汚濁から立ち上がり、再び肉体と言う強靭な意志を持つ。テントの中、ランプの明かりの向こうに、中年男の髭面と、のっぺりとした無法者の顔が映る。

「で、でも中尉殿……こんな天気の中をヘリが飛んでくるなんて、ありえませんよ」

 尻尾を振る忠犬のように無法者が言うと、兵士は顔を顰めて無法者を殴り飛ばし、激痛に呻き声をあげ地面に這いつくばる犬を、思い切り蹴飛ばした
 あの勢いで蹴られたのだから、骨の一本や二本は覚悟しておくんだなとムーシェが笑みを浮かべると、中年男はホルスターからガヴァメントを抜き、充血した目をぎらつかせながら走り寄る。
 ムーシェには今の自分がどんな顔をしているのかが分からなかったが、相当な不細工になるまで殴られたと言うのは理解していたし、唾や尿を浴びて汚らしい恰好をしているのも自覚していた。
 だから、中年男が嫌な顔をするわけでもなく、恐怖に顔を引き攣らせながら胸倉を掴み、銃口を頭に付きつけてきた瞬間、今現在の状況を大凡理解する事が出来た。神は、我を見捨ててはいない。

「貴様、何をした。いや、それ以前に貴様はいったい何者だ!?」
「元政府軍第175斥候狙撃小隊長、シメオン・ムーシェ一等軍曹」
「そんな下らないことを聞いているとでも思ったか!? 貴様、もしやバンガードの手先か。特殊工作員なのか。答えろ、スナイパー!」

 銃口でムーシェの頭を殴りつけ、口角に泡を溜めながら中年男が狂ったように叫ぶ。
 だが何度殴ろうとも、幾多の骨を折ろうとも、その内臓をいくら潰したとしても、希望を見出した男の心を折るにはまだ足りない。
 殴りつかれた中年男がムーシェを椅子ごと蹴り飛ばす。受身も取れずに砂の地面に倒れたムーシェは、左肩に襲う鈍痛に顔を顰めはしたが、口元の笑みを消すことはなかった。
 肩で息をしながら中年男は、血と汚らしい体液に塗れた男を見遣り、戦慄した。先程は子供のように泣きじゃくっていたあの男が、古代の剣闘士のように自らの意思を瞳に滾らせている。

「お前は……お前らはいったい………?」

 よろよろと後ずさりながら、中年男は呟く。雨音と雷鳴に交じり、なにかが風を切って進む音が聞こえてくる。
 ヘリのローター音は徐々にその音量を増し、身体の内側まで震わす低音を轟かせ続け、避けられぬ空からの死と、絶滅者の到来を予感させる。
 今や世界のすべてが敵を委縮させていた。敵とは即ち、騒音を撒き散らす少数のことであり、天からも人からも見捨てられた、暴力の権化。
 低音は敵の血潮を震わせ、ミサイルの飛翔音は耳を劈き戦意を切り裂く。ACなどではなく、それらは必ずやってくるからこそ、恐怖される。
 ガヴァメントが中年男の震えに合わせ、かたかたと小さく鳴き始めた。冷や汗を掻き、絶望で冷え切った瞳をムーシェは見返す。
 手足を椅子に縛られ、身動きすら取れない男は、しかしまったく恐れを見せずに言った。

「神はやって来た。神はお前を打ちのめすだろう」

 中年男はこの男が狂ったのだと思い、テントから逃げ出そうと足を動かした。
 だが彼がテントの外へ逃れるよりも早く、攻撃ヘリより発射された対戦車ミサイルがテクニカルに着弾し、地面を震わせ、火柱を舞い上げる。
 神は来た。神は殺戮のための武装を携え、死の権化である兵士を懐に飛翔し、鉄の身体を翻しながら12.7㎜弾を異教徒に放ち、これを滅した。
 その神の姿は紛うことなく、流線型のボディを漆黒に染めた攻撃型ヘリコプター、スーパーハインドだった。





投稿者:狛犬エルス
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最終更新:2012年11月26日 00:23