真っ暗な空間に一人いる。
顔の表面をこすってみる。
触覚によってでもなければ世界との接点を見出すことができない。暗闇の中で手の平を眼前に翳してみても、何も覗えるものなどない。
被撃墜。という言葉を思い浮かべながら、今やるべきことを迅速に探っていく。捕虜にだけはなってはならない、というのが、彼らが自分自身に申し渡したことだった。その場合には、躊躇いなく自死を選べ、というのが彼らの要求だったのだ。
私は一つ溜息を吐いた。
この暗闇では、パルス拳銃がどこにあるのかも分からないではないか。
先ほどから、世界を覆っている暗闇の向こう側で、何者かがうごめいている気配のようなものがあった。かつん、かつん、という乾いた音が、隔壁の向こう側から断続的に響いている。
つまり、敵はすぐそばにいるのだ。
コックピットハッチの向こう側に、誰かがいる。
非常灯すら動作しないという危機的な状態において、一体何を望めというのだろう、私は自分自身に問いかける。
一切身体を動かせる気がしなかった。救い難い無気力が四肢の隅々までに染み渡っている。どうせ死ぬのであれば、第一に、できるだけ労力の掛からない、そして第二に、苦痛の無い方法で――そんなことを考える。しかし、思い浮かぶのはそこまでだった。
隔壁の外で鳴り響いていた音が消えた。
そして、かつ、かつ、と、さながら、慎重に距離を取るかのように、機体から足音が遠ざかっていくのも分かる。次の瞬間、先ほどから周囲をちらついていた微細な電子信号が、妙に鮮明なほど脳裏に焼き付いた。
男は何か電気信号を放つ物体を機体に設置していたのだ、そして、その設置が終わったがために機体から引き上げるようとしているのだ。そのことが瞬時に察せられた。
でも一体何が、と思う。
でもその問いは意味を為さなかった。
衝撃が身体を襲った。
暗闇の中を塵と、そして風とが吹き荒れた。
その衝撃の前に、ほとんど反射的に身体をよじる。腕で目を覆って、ひとまず網膜が傷つかないだけの対処を試みて――次の瞬間に違和感に気付いた。
光が差し込んでいる。
真っ白な光が、腕と腕を重ねたその隙間を縫うようにして、瞼の裏側の視界を赤く染めていた。
どんどんと気が遠くなっていく。さきほどの衝撃で、どこかをぶつけてしまったのか。
瞼を薄ら開ける。
白んでいく視界を縁取った、コックピットハッチの輪郭の姿だけが、強く脳裏に残った。
◇
白い霧に、世界は包まれていた。
足元をそよぐ風に、思わず身じろぎをする。
左右を見回して、一切のものがそこに存在していないということを悟った。何もない空間だった。自分が今踏みしめている地面も、通り一遍の地面ではなく、白く、すべすべとした感触の奇妙なものであるということに気付く。
そのひどく現実感を伴った非現実的な世界に、戸惑いを隠すことができない。
ここは一体何なのだ? と思う。自分が負った損傷というものが、あまりにも大きかった所為なのか? それで幻覚を見ているのか? あるいは、ここは死後の世界なのだ、とでも言うのだろうか?
などと心中繰り返す。
自問自答は意味を成さない。ただただ、じりじりとした焦燥感だけが足元から自分を攻撃しているかのようだった。一歩後ずさってしまう。
再び周囲を見回すのだが、やはり風景は一切が霧の内に埋もれている。
一体何が起こっているのか、上手く把握することができない。
風が吹いて、白い霧がゆっくりと動いている。
霧はところどころで濃くなったり、あるいは相対的に薄くなったり、それを不断に繰り返していた。
叫んでみようかとも考えたが、しかしそれはやめてしまう。何の意味も無い、ということが、理屈ではなく直感によって思い知らされていた。でも、何事かを叫んでいなければ、そのときもまた大きな圧迫感に苛まれることになるにも違いなかった。
不意に、正面の霧へと視線を留めた。
そこに何者かの気配を感じ取ったのだ。
空気が動いている。その流れによって、誰かの纏う白い衣が、音を立てて揺れていた。微かにではあるが、衣のはためく乾いた音が耳朶を打っている。
正面に、誰かが背中を向けて立っているのだった。
白いシルエットに、腰の辺りまで垂れた茶色の髪が揺れていた。白い衣が、ローブのように全身を包んでいた。
その後姿を見た瞬間から、何故か震えが止まらなくなっていた。
自分は取り返しの付かないことをしようとしている。その意識が巻き起こる。
あるいはそれは、既にやり終えてしまった後なのだ。
運命は決定付けられている。もう、そこから以上に進むことはできない。自分はきっとこの先どうしようもない間違いを犯すだろう、そう思われたのだった。
ただただ止まらない震えを前に、その、何者かの裸の足が、少しだけ動いた。
はっとして、呼吸が止まる。その誰かは、こちらを振り向こうとしている。
長い髪が揺れた。
最終更新:2013年01月24日 19:34