荒野は、この第九領域を代表する地形だ。赤く青く空が表情を変えるその下で、脱色され照らされるがままに横たわる死のカンヴァス。
その上を、一本の筆跡が燐光を揺らめかせて走っていた。
「いやー助かったよホント、あのままだったら俺は死んでたね」
「命の恩人に対する物言いとしちゃえらく軽くないかい、おっさん」
「そりゃ、俺の命は吹けば飛ぶくらい軽いからさ」
「どうも拾う奴を間違えたらしいな。俺はあんたが金になると思ってたんだが」
「あいにく俺は悪業の持ち主でね」
「やれやれ……」
蒼白のジェットが鉄灰色の装甲車両を幽霊船のように走らせる。その積荷は二人の男とひどく痛んだ鉄塊だ──かつては白く輝いていた事もあった。しかし今はその装甲も日に焼け、一度失われた手足や頭は黒く錆の浮いたもので置き換えられていた。
「なんで塗り直さないんだい……」
「何だって?」
「あんたのACさ。あんなみっともない機体で仕事をもらいに行こうなんて、ちょっとどうかしてるぜ」
「その事か。色々あるんだよ。それに、今までだってあれで通してきたもんでね」
「まあ、戦場であんたと他の奴を見間違える事はなさそうだ。けど、ジャンクと間違われるかも知れないぜ、おっさん」
「それを言ったら俺の身体だってジャンク寸前だ」
二人は爆笑した。フライトジャケットを着た運転手の手にはジョイントがあり、男の目つきは軽い酩酊状態を示している。対して、隣に座る年嵩の男はゆったりとした姿勢を取りながらも油断なくモニタに目を走らせていた。
外部から第九領域に入り込む手段は多くない。地上の大半は汚染も薄れ居住可能地域が広がっているが、こと第九領域の周辺は事情が異なる。領域を囲うように通行不能帯が存在し、わずかな隙間はこの数年でようやっと通れるようになったという状態だ。だからこそ、第九領域は外部からの干渉を受けずにここまで来たのだとも言える。ともあれ、その隙間の手前まで運び屋に運んでもらった男は、そこから先は自力で進むより他になかった。
彼とさほど歳も離れていないのではないかと思われるしわがれた声の運び屋は、鼻歌交じりに「お客さん、ここいらで終点だ」と言ってACを投下した。
焼けつくような陽光の下、傷だらけのAC──《バッドカルマ》は砂煙を上げて着地した。
「道中楽しかったよ、あんたみたいな奴はなかなかお目にかかれないな」
「そりゃ光栄だ」
「支払いも悪くなかったしな」
「いやあ、運び屋相手に金をケチったら何されるかわからないからね。汚染帯の真ん中に落とされたらどうしようかってヒヤヒヤしてたよ」
「ハッハッハ、なかなか言いやがる」
「あんたの相方のなんとかって傭兵にもよろしく言っといてくれ。助かった」
「お互い様さ」
「また会う事は……なさそうだが、あったらその時はよろしく頼むよ」
「ああ、それじゃあな」
《オイレン》と呼ばれる大型の輸送ヘリは反転し、来た道を戻っていく。しばしそれを見送ってから、彼──ジャイ・イェンは愛機に歩を進めさせた。警戒のため、制御システムはスキャンモードに設定されている。
この先何があろうと、それは彼自身が背負わなければならないのだ。
しかし、今までもそうだったのではないか?
「……私ゃアラバマからルイジアナへー……、バンジョーを持ってー出かけたところですー……」
彼はのんびりと歌い始めた。今となっては意味のない土地と人々の歌を。
「もう一つ聞くがよ」
唐突に運転手──《ランダージョック》の男、
マックス・フリーマンが言った。彼らは目的地の手前にある大きな丘陵を迂回しつつあるところだった。
「あんた名前は?」
マリファナで曇っていたマックスの目が、唐突に鋭くなった。ジャイ・イェンは片眉を上げて応じる。
「会った時に名乗った気がするが、ジャイ・イェンだ」
「嘘だな。JNだかジャイアントだか知らんが、おっさん、あんたその名前を本名だとは思ってないだろ……」
「……」
「俺はいらねえ隠し事をする奴が大嫌いなんだ。わかるかい」
「困ったな」
ジャイ・イェンは頭をかいた。
「情けない話なんだけどな、本名がわからないんだよ。そもそも、きちんとした名前をつけてもらった事があったかどうかもわからん」
「俺だってろくな育ちじゃないが、自分の名前くらい知ってるぜ」
「気がついたら自分の名前がただの番号だったなんて、あんまりない経験だとは思うよ」
ジョイントを口に運ぶ途中でマックスの動きが止まった。彼はコンソールの隅にジョイントを押し付け、吸殻をキャビンの後ろへ放った。
「悪かったな。忘れてくれ、JN」
「……気にしなさんな、俺も慣れた。それにしてもこのあたりは物騒で仕方ないね、お前さんに助けてもらった時の……あの、あれだ、ACだよなあれは」
「ああ、ここら辺は地下遺跡に近いからな。そっから出てきたんだろうよ」
「ビーハイヴ? あの連中、まだ生きてたのか?」
「そりゃ何の話だ? 遺跡から出てくる連中はまあ生きてるっちゃ生きてるようだが」
「……ああ、俺の勘違いみたいだ。まああれが生きてるってのはそうみたいだけど、人間じゃないよな」
欧州方面から南下して第九領域へ入ったジャイ・イェンを出迎えたのは、ACだった。少なくとも、ACの形をしていた──最初は。
両者は当たり前のように交戦状態に入り、《バッドカルマ》はそれなりに手こずりながらも目標を排除できるはずだった。
「コアを二つに割っても動くとは思わないだろ普通。俺もこの仕事は長いけど、あんなのを見たのはまだ二度目だな」
「前に見た事あったのかよ」
マックスが新たに火をつけたジョイントを吹き出しかけた。ジャイ・イェンは真面目くさった顔で呟いた。
「あんなのは一生に一度でたくさんだ。なんとか片付けたけどな、俺も死ぬとこだったよ」
「どんな奴だった?」
「黒いACだよ。通信で何か話しかけてきたが、よくわからなかったな……そうそう、今俺たちの後ろに載ってるACの三割くらいはそいつのパーツで出来てる」
「聞くんじゃなかった。なんだってまたそんな縁起の悪い事をしたんだい……」
「何言ってるんだ、俺はこれでも信心深く験を担ぐ方なんだぞ。魔除けになるかも知れないじゃないか」
「俺にはろくでもないものを呼び寄せるとしか思えないぜ。だから襲われたんじゃないのかい」
「さあねえ」
砂煙を巻き上げて進む鉄塊──《フリーウェイ・エクスプレス》は丘陵を迂回し終え、ようやっと彼らの前に目的地が現れた。砂の上に翼を広げる巨躯、その足元にあるのが《バタリア》──近年少しずつ増えてきた外部からの流入者を積極的に受け入れる都市区だ。ジャイ・イェンはモニタにかすかに映る光をよく見ようと目をすがめた。
「なんかやってるな」
「ん、またかい……最近騒がしいんだよな、《バンガード》の連中もよく来るようになったし」
「揉め事かい? 来たばっかりでこれってのは気が重いな。弾もないのに」
「俺たちはもうちょい様子を見てから……何だって」
ジャイ・イェンは席を立ち、ポケットをいくつか叩いて与信素子を探し出した。そのままマックスの手に押し付ける。
「マックス、運賃はこいつで足りるかな? 足りなくてもこれ以上持ってないんだけどね」
「ああ……いや、充分だ。というか、多過ぎるくらいだから……おい、待ちな」
「釣銭は取っとけばいい。次の時にサーヴィスしてくれよ。それじゃ」
「違う、走ってる最中に降りる奴が──」
マックスが止める間もなく、意外なほど軽い身のこなしでジャイ・イェンはキャビンの後部ハッチを開けて出て行った。そして、さほど間を置く事もなくキャビンに振動が伝わってきた──デッキに積み込まれていた《バッドカルマ》が起動したのだ。
「あ、あー、聞こえるかな? そこで交戦中の人たち?」
ジャイ・イェンは開放回線で呼びかけてからしばし言葉を切り、ノイズの中に「何だ」「誰だ」という声がある事を確認する。
「俺はジャイ・イェン。ここには来たばかりで右も左もわからないが、《バタリア》だっけ? 俺を買わないか──腕は今見せる」
マックスは状況を素早く察し、ロックを外していた。青いイオンがノズルから吹き上がり、天使を見失ったACをグライドブーストの焔が地獄へと蹴り出した。弾はほとんど残っておらず、装甲の傷も浅くはない。それでも彼は飛び出した──この先何があろうと、それは彼自身が背負う事。
ただ天使に導かれて進む事と、自ら道を選ぶ事のどちらが正しいのかは知らないが、彼は業を負って生きる事を知っていた。
そして、それがどうにもならない悪業である事も。
最終更新:2013年12月31日 23:27