『ヴィルヘルムもそういうものを持ってるの?』
 少女はそうやって呟いた。
 僕は表情を変えることすらできなかった。あの時と同じ空気が、部屋の中を漂っていた。同じ匂い、同じ温かさ、同じ音の響き、同じ光。僕は少女の顔をぼんやりと見ていた。少女は、僕に対して無垢な瞳を向けている。少女は僕に対してそれほど正直になれていなかった時期に、そういう表情をよく覗かせていた。
 僕の口元が勝手に動く。僕は、隣に座る少女に対して、同じ言葉を象っていく。
 誰でも持っているよ。気づいていない人もいるけど
 同じ言葉、同じ調子。同じ表情、でも、頭の中に渦巻いている思考だけが別物だった。
 一体何でこんなことを繰り返しているのだろう、と僕は思う。一体何故、僕は少女に対して同じ表情をすることしかできないのだろう。そして、一体どうして僕はこの世界から抜け出すことができないのだろう。どうして、僕は変わることができないのだろう。
 どうして。
 僕はにっこりと微笑んでいた。
『私は、どうなんだろう』
 そう呟く少女に対して、僕はいつも通りの呟きを返すことしかできない。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し。同じように言葉を紡ぐことしかできない。同じ表情、同じ仕草、同じ言葉、同じ微笑み。
 そして、そこには僕と同じように、かつてと変わらぬ少女の姿が存在していた。
 少女は何も変わっていなかった。僕がその時に眺めたままの少女が、そこにいた。同じ表情だ。年齢さえも変わっていない。彼女は、いつまでも十六歳だった。僕だけが年を取ろうとしている。この世界の季節は少しずつ移りつつあった。僕は少女の方を眺めながらに、再び口を開く。同じ言葉、同じ内容。
 いつまでも繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し。
 繰り返し――
 少女が不安そうにこちらを眺める。
 その表情が、暗闇の中に飲み込まれていく。
 僕は全ての結末を知っているのだ、と思う。
 それはどこにも辿り着かなかった。何の意味も無かったとは思いたくなかった。否、意味はあったのだ、確かにあったのだ。それが、最後には台無しになってしまったとしても。最後には、全てが崩れ去っていったとしても、そこには意味があったのだ。何故なら僕はまだ記憶を抱えているからだ。それを抱えていなければ何の意味も無いからだ。僕は、僕はこの記憶をずっと抱いて生きようとしていた。あるいは、その為に何かを犠牲にしてしまったとしても、それで構わなかった。そうでなければ僕は歩いてさえいけないからだ。
 それでよかったのだ。
 それでよかったのだ。僕は。
 僕は少女に対して微笑む。いつものように微笑む。何度となく微笑む。同じように微笑む。繰り返し、繰り返し。

     ◇

 トレーニング・ルームの扉が油圧で開く音を聞いて、僕は目を覚ます。
 鉄アレイ、バーベル。その手のトレーニング材が床の上に乱雑に散らばっている。ひんやりとした強化プラスチックの質感を背中に感じながら、僕は気絶するように――あるいは実際に気絶していたのかもしれない――ベンチの上に横になっていた。
 そこに、かなり顔を顰めながらブローカーのガーニーがやってくる。
 汗臭え、と彼が呟いたのを聞いて、僕は静かに笑みを浮かべた。ベンチの隣に置いてあるサイドテーブルの上に、飲みかけのミネラルウォーターと食塩が置かれてあった。
 そんな僕のことをブローカーは見下ろしながら、暫くの間黙っていた。
「ヴァールシュタイン卿への定期連絡はどうなってる」
 そして彼は言った。
 僕は、暫く頭の中が空白状態だったので黙っていた。
「――ああ、今から二時間後だよ。うっかりするところだった」
 僕は身体を起こしながらに言う。すると、そうか、とブローカーは呟いた。いや、ブローカー、というのもおかしな表現かもしれない。彼は今はオペレーターだった。僕から殆ど定期的な収入を得ている時点で、むしろ僕が彼に対する斡旋役のような状態になっている。
 ガーニーは僕の方を無表情に眺めていた。僕は、指先に少し食塩を付けて舐め、続けて携行容器の中に入っていたミネラルウォーターを口に含んだ。飲み過ぎない程度に、身体の反応を確認しながらに喉を潤していく。そして、僕が再び正面へと視線を向けたところで、ガーニーはまだそこに立っていた。僕は呆気にとられたような気持ちで、彼の方を眺めた。
「どうしたのさ、一体」
「……あの娘のことだ」
 僕は、その言葉を聞いてようやく、頭の中の状態が通常に復してくるのを感じていた。
「ああ、あの子か」
 でもやはり眠りから覚めたばかりで、上手く現実に対応できておらず、僕は上の空の答えを返してしまう。
 それを感じ取ったのか、ガーニーも「しっかりしてくれよ」と小さな声で呟いていた。僕としてもどうにかしたいところではあった。
「――とにかく、あの娘は存在しているだけでそれなりのリスクを伴うもんなんだ。情報が聞き出せるなら、聞き出すし、それが駄目なら、鎮静剤なりなんなりを使って意識を減退させて、どこかへ売っ払っちまうべきなんだよ。それで俺達はリスクとおさらばできる」
 多分ガーニーが喋っている言葉の三分の一くらいまでしか聞けていなかったと思う。
 でも、僕は「分かったよ」と呟いていた。
「ならいいんだ」とガーニーは言って、踵を返していた。
 ぷしゅ、という音と共に、スライド式の扉が閉まる。
 僕は、薄暗い――というかほとんど灯りは無いに等しい――部屋に取り残されたまま、何というわけでもなく視線を上へと向けた。そして、口を開けたまま、じっと天井を眺め続けていた。ぐおん、ぐおん、ぐおん、という換気ダクトから聞こえてくる音だけが、その場に響き続けていた。

     ◇

 僕はシャワーを浴びた後で、例の部屋を訪れることにしていた。一応まともな服に着替えてから、数時間前に訪れたところの部屋の前へと辿り着く。スイッチを押してドアを開閉させると、そこには先程見た時と同じ態勢のまま、少女がベッドに横になっていた。
 髪の真っ白な――あるいは銀色の――少女だった。
 とても綺麗な髪だった。
 僕は、しばしその髪がベッドの脇からだらりと垂れているのを眺めてから、部屋の中へと足を踏み入れた。
 彼女のベッドの横には、尿瓶が空のまま転がされてあった。僕はそれをちらりと見た後で、彼女の方へと近付いていった。彼女は、しっかりとした目付きで天井を眺めていた。手には手錠を嵌められ、足には足かせが寝台に括りつけられる形で嵌められている。
 僕はそんな彼女を見ながら、その寝台の真横のサイドテーブルの上に、食事が手を付けられず放置されているのも確認する。
 僕は表情を変えないままに彼女の方を眺めていた。
「少しは食事を取った方が良い」
 僕は呟いた。でも、予想通り、彼女は僕に対して何らの反応も示さなかった。
 僕も、それで特に感想を持つわけでもなかった。ただ突っ立って、少女の表情を観察するように眺めているだけだ。
 少女は無表情だった。
 そして、視線と表情をぴくりとも動かそうともせず、天井をじっと眺めていた。
「――白い重量逆関節。あれは、フルール・ド・リスじゃなかったのかな」
 僕は、少女が相変わらず反応を返そうとしないのを見て取る。
 同時に、少女の決意が、ちょっとやそっとのことでは揺らがないであろうことを確かめると、踵を返した。
 そのまま出口の方へとゆっくりと歩いていき、左右開閉式の扉を開ける。部屋を出て行く一歩手前で、立ち止まった。
 こういう素振りは我ながら茶番じみているな、と思いながらに口を開く。
「君の乗っていたAC」
 僕は彼女の方を振り返らずに言った。
 僕は暫く黙っていて、そして、思い出したかのように言葉を続けた。
「アレは特殊なACだね。少なくとも、軽く見ただけでも純正品には存在しない機構が幾つも確認することができた。そしてどうやら常に外部から稼働位置を特定される仕組みにもなっていた。アレを見る限りで君はどうしても普通の人間であるとは思えない。君の首の後ろに空いているソケットとか、とにかくその辺りを見てもね」
 僕は独り言を喋っていた。自分で自分につくづく白けてしまうくらいになって、ようやく僕は喋るのを止めた。
 そして無言のまま入り口を出て行った。
 最後まで振り返らなかった。






投稿者:Cet

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最終更新:2014年02月28日 00:50