年が明けた。ほとんどいつもと変わらない、でも細部に至っては変化が見られるという日常が、限りなく長く続いていくような日々だった。
そのような日々の中では往々にして、自分の位置というか、それに起因する様々なものの位置や、距離感といったものを計れなくなってしまうものだが、しかしそれでも青年はそれらの日常を過ごす中で、笑みを絶やすことはなかった。
二月が訪れた頃に、建設中のビルが六階の高さにまで達していた。何分、巨大なビルである為その建造には随分と時間が掛かる。そして、テロの危険を考慮すれば、もちろんそのリスクは莫大なものとなってくる。
だから青年はその警備というものに駆り出されていた。ACのコックピットに座り、通信機に耳を押し当ててぼんやりとしている状態を続ける、というのが彼の主な役割であった。通信機越しには、
マジックタッチ社が雇用したミグラントの通信車両から、索敵情報が送られてくる運びとなっているのだが、しかしそのような報告の内に警戒を引き起こすような情報が含まれていたことは、これまでに一度もない。
青年にとっては、正直退屈を感じないでもない時間であった。しかしそれでも、休日になればエンリカが祖父を伴って彼への慰問にやってくることもあった。そういう時には、彼は一応通信担当の人間からの連絡を聞き漏らさないようにヘルメットを着用したままに、ACから降り去って彼女らの会話に混じった。そんな時間は、隅から隅まで退屈であるとは決して言えなかった。
「じゃあ、また今度」
そう言いながらに、数時間の時を過ごしたあとで祖父と共に去っていくエンリカが、名残惜しそうな、もっと言えば、どこかしら物足りないような、物欲しそうな表情を浮かべるのが、青年には愛おしかった。だけど、その要請に答えるのは、もっと先のことだろうと青年は感じていた。
青年は決して予言者ではなかった。だから、自分の判断には一応の自信を持つことができた。
◇
「こちらがヴォルフムント氏だ、エーレンハイト」
昼下がりの、建設中のビルの脇。建設に伴う騒音が鳴り響く中、そう言って、老人が紹介する壮年の男の目に見覚えがあった。男の方もすぐに気付いた。灰色。
「部下は私のことを『ヴォルフ』と呼んでる。それからリゼルフォード氏とは同じハイスクールを出ていて……」
「この御仁は軍人の家系でな、加えて誰かを統括する役職の機会が多いと来て、生徒会に立候補したこともあったんだそうだ……、確か役職は副会長と言ってたかな?」
「二年次の時に、一応会長もやりましたよ、リゼルフォード氏」
ちなみに、リゼルフォードというのは老人のファミリーネームだ。
もちろん、エンリカの名前にも同じフレーズが後に付いてくる。
「そういうわけで、よろしく、エーレンハイト。ところで、君とは昔会ったことがあるな」
「ええ、そうですね」
特に否定することもなくそう応えると、老人が「どういうことだろう?」と問いかけた。「道でぶつかりそうになった仲ですよ」とヴォルフムントが答える。
そんな具合に、その日は先だって契約していたミグラントとの初顔合わせが行われていた。
そこで建設中のビルの周囲には、灰色にそびえ立つ壁面が、一時的なものではあるが張り巡らされている。そしてその内側の空いたスペースに、MTが鎮座ましましていた。その数は、全部で六機だ。
ヴォルフムントの背後には、威圧的なムードを醸し出す男たちが五人並んでいた。そういった関係もあって、一応この場にはエンリカの姿はない。邪魔にならないように、と念押しをされて、今はこの敷地内のどこかを散歩している。
「基本的に、ACはMTに比べて大きな戦力だ。強度が高い。だからエーレンハイト、君はある種リーダーのような扱いを受けることがあるかもしれない、その時には、柔軟な対応をしてくれ」
「了解です」
これは、一応の建前というものだ。
ミグラントに全面的な指揮権を渡すというのでは、不合理なものがあると老人には前々から思われていたのだ。だから一応、戦力として多大なものがあるACの存在が、彼らを統括する象徴のようなものとして、またマジックタッチ社の権能のようなものとして扱われるというのが、彼らとの契約上の条件であった。
そしてこのヴォルフという男は、その条件に対してさしたる抵抗を覚えることはないらしく、その部下たちも今のところ大人しそうに佇んでいるだけだった。あるいは、指揮者としての手腕というものが発揮されているのかもしれない。
「君とは、いずれ話を取り持つ必要がありそうだな、戦闘における感覚の共有とか、あるいは他の日常的な感覚の共有の為にもね」
「そうですね」
青年は短く答えた。
「……さて、では一旦ここで失礼させてもらおうかと。
ウチで扱ってるMTの面倒も見なくちゃならないものでして」
男は社交的な笑みを浮かべながらにそう言った。
そしてその後、彼は青年と老人に一通りの挨拶のようなものをすると、部下と共に、自らが所有するMTの方へと歩き去っていった。
その六人の後ろ姿を、老人と青年はぼんやりとした視線で眺めている。
「どうだった?」
背後から飛んできた声に、二人は同時に振り向く。
エンリカだ。自分が出てくるタイミングをずっと伺っていたらしい。
「そうだな……、堅実で、信頼の置けそうな人柄だったよ」
「まあ、仕事に関してはな」
青年が答えるのに、老人が付け加える。何かしら思うところがあるのかもしれないが、それを受けてエンリカの眉が寄っていた。
そこでふと、思い出したかのように青年が口を開く。
「ところで、さっきヴォルフ氏が軍属の家系だって話がありましたけど」
「ああ……、今はもう存在していない軍だ。分かるだろう?」
青年は頷いた。
老人がその場から歩き去った後、時間を惜しむかのようにエンリカは青年の方に向き直る。青年はといえば、その視線に今までにないような決意か何かを感じ、思わず息を飲む。
「……ヴィルヘルム」
「あ、ああ、うん。何かな」
声がつっかえる。
いつかのようにではなく、今度は、青年の声の方が。
「貴方の誕生日から、もう三ヶ月くらいになるね」
「そ、そうだね」
青年はどうしたことかシャツの下が汗ばんでくるのを感じる。
今は二月なのだ。
少女は何かをためらうかのように、視線を伏せる。微かに憂いを帯びた目元には、どこか切なげな感情に訴えるものがあった。
「わたし……」
少女が何かを言おうとする。
何故か、青年の方が唾を飲み込んだ。ごくり、と喉がなる。
「リゼルフォード氏は知ってるのかな、このこと」
そして二人は飛び上がった。
あくまで、比喩表現としての話だが。
二人が視線を巡らした先には、灰色の髪の、グレーの目をした壮年の男が立っている。
少女は真っ赤な顔をして固まってしまう。手を宙空に差し伸べたまま、掴むべきものを失ってしまったかのように、奇妙な力の入り具合で硬直していた。
「……悪趣味ですよ」
「お、おじいさまのこと、よく御存知なんですか?」
二人の言い出したことのどちらに反応しようかと、暫く考える素振りを見せたあとで、少女の方へと視線を向けた。
「同じハイスクールでね、年齢は大分離れてるけど、同校出のある種の有力者が呼ばれるパーティーで何度か顔を合わせたことがあるんだ。
シクロクラーフト社から防衛任務の依頼が届いた時に、そのクライアント欄の名前に見覚えがあってね、そういう個人的な面識もあって、依頼を受諾させてもらうことにした」
男は淀みなく喋った。
「君がエンリカちゃんだね」
「そ、そうです」
ぎこちなさげにエンリカは頷く。男は、彼女の顔を正面からしげしげと眺めている。
エンリカは、不思議そうな表情をして視線を返した。
「そうじゃないかと思ったんだ、どこかしら、リゼルフォード氏に似たところがある」
「え……」
戸惑いの声を上げるが、それは無理もないように思われる。
なんせ会社経営をしている立場の老人と似ていると言われても、肯定的な反応を返せる十六歳少女は中々いないのではないだろうか。
そういうわけで、傍らに立つ青年にしても少々不思議そうな顔をしていた。でも、次第にその疑念は解消されていくと見え、青年の眉の間が平坦になり始める。
「……似てるかな?」
少女の問いかけに、どうだろう、と青年は仕草だけで示した。でも顔は若干笑っている。
少女はそれを境に考えこんでしまった。
そこで、会話の輪から自然と離脱する形になってしまった少女から目線を外し、男が青年の方を見遣る。
それから口を開いた。
「はっきり言って、現在の防衛体勢には些か無駄が多い」
「そうですか」
青年の相槌に、男ははっきりと頷く。
「まあ、リゼルフォード氏の言う通り、威力的なアピールとしてACを配備するというのは然程間違ったことではない。
でも、この領域には通信車両――もといレーダー車両も居ることだから、まあいつも気を張って機体に乗っているなんて必要は殊更にはない。
もちろん、通信車両のレーダー観測手に関していえば別だがね、でも、自動アラートのシステムなんかが無いわけでもあるまいし、結局のところ、もう少し気を抜いたところで警備は簡単に成り立つだろう。どうだろうか?」
「その通りだと思いますね」
青年は頷いた。
男は微かに首を傾けるような力の抜けた姿勢で、口元には飄々とした笑みを浮かべていた。
その印象は、到底壮年の域に入った男が見せるものには見えない。もっと年若い男の放つ雰囲気のようなものが、男にはあった。
その時、男がエンリカの方をちらりと見遣る。依然、彼女は考えごとに没頭しているようで、男の視線には気付かない。
「大切にしてやれよ」
男が言うのに、青年は複雑そうな顔をする。
「もちろん」
その後でそう返した。男は、顔に愉快そうな表情を浮かべている。
しかしその表情を浮かべているのも束の間だった。視線を伏せ、平坦な表情に戻る。
「それと……、ここは平地で、周囲に防衛に使えるような建造物が存在していない。だから、はっきり言えば防衛にはとても不利だ。攻める側に与した方がよほど有利に戦える。
その辺りに関しては、レーダーによってカバーするしかないな」
そうやって、自分の分析を一通り口にしていた。
「分かりました……、ところで、夜間に関してはどうするんですか?」
「俺達はここで眠る。一応、アダム・グレイスフルが利用する為の小さな宿舎のようなスペースを用意してもらっているからな。
なんなら君も来るといい。酒くらいは御馳走しよう」
「そうさせてもらいましょう」
青年は必要以上に固くならないで、柔らかい表情で答える。そのころエンリカは、まだまだ首を捻っている最中だった。
全てが終わるまでに、あと幾日もない。
投稿者:Cet
最終更新:2012年04月30日 02:33