日付は休日で、時刻は正午を過ぎたところだった。老人はエンリカを伴って建築途中のビルを訪れており、折しもビルの敷地内に作られた休憩用のプレハブでは、昼食が行われている。老人が私用車で大量に買い込んできた昼食を、現場での作業をする人々が自分の好みで選ぶようになっていた。
プレハブには様々な香ばしい臭気が満ちている。ハンバーガーのソースの匂いやら肉の匂いやらスイーツの匂いやらだ。しかしそこにいる人間にとっては特に気にならないらしく、老人や、その隣に座るエンリカもまた、別にどうということはない態度で自分の手元のハンバーガーを齧っていた。少女の座席の前のテーブルには、コーラの入った紙コップが置かれている。
やがてそこに勢いよく青年が飛び込んでくる。がらり、と引き戸状になった扉を開けて、社長、と一言告げる。老人がこくりと立ち上がって、それからエンリカと目を見合わせた。「ここにいなさい」と一言老人が言うのにこくりと頷く。部屋に満ちていた喋り声の層が幾分薄くなったように思われた。
老人が引き戸を閉めると、青年はどこか無表情に近い顔をしていた。老人にとってはその青年の表情はあまり見知ったことのない表情で、一体何があったのかと顔を曇らせる。
「レーダーに反応がありました、敵影がこちらに多数接近しています。
少なくとも三機のACが確認されています。ここにいては危険です」
「……敵の所属は分かるか」
「恐らくはバンガードと」
青年の言葉に、老人は俯く。
「どこに避難すれば良い」
「正直に言って、どこにいても安全とはいえません。建設途中のビルの一階部分が相応なのではないかとヴォルフさんが」
「分かった。しかし、やられたな。
バンガードも随分潔癖症なのか、それとも単に好戦的なのか」
老人は重々しいやりきれなさを顔に浮かべている。
そもそも、ヴォルフのような元々は政府軍にいた人間を抱え込んでいるクライアントは、バンガードからある種の警戒を抱かれて当然だったのかもしれない。
そして彼らは兵器工廠でもあるのだ。反抗の意思ありと見なされ、粛清の、あるいは『警告』の対象にならないとも限らなかった。
それを見落としていたのは、やはり老人の悔やみきれない点である。
「僕は、ストレインジの方に戻ります。
レーダーが捉えたのは敵が三十キロ圏内に入ったところからです。ヴォルフさんの話では、三十分たらずで敵はこちらを包囲できるし、そもそも逃げようとしても向こうからの捕捉を避ける手はないのだそうです」
「全力で抵抗しろ、その後の判断は儂に任せれば良い。
それよりも、エンリカのことだが」
「あの娘については、僕は……」
先程から無表情だった青年に、初めて感情の色が浮かぶ。老人も眉をぴくりと動かせる。
青年の顔にあるのは、一目見れば、後悔の類の何かであるように思える。とにもかくにも、苦々しい何かを噛み締めているような、そんな表情だった。
「僕は、あの娘を失いたくない」
「それは当たり前だ、だからこそ、あの子に言っておくべきことはないのか」
その言葉に青年が顔を上げる。そこには何かの決意のあとがある。
その時、プレハブの入り口ががらりと開いた。
エンリカだった。
「ヴィルヘルム……?」
「すみません、社長。ちょっとだけ」
老人は頷いて、そしてプレハブの中へと足を向けた。制限時間は三十分だと、彼も理解しているはずだった。
扉が再び閉まると、そこには二人の姿が残される。沈黙には、何か日常とはかけ離れたものが混じっているようにも思われた。
「……一体何が、」
「なんでもない、どこぞの勢力がちょっとした警戒戦力を差し向けてきたんだ。
多分威嚇じゃないかと思うんだけど、念のためにね」
青年はいつもの落ち着いた表情でそう言うのだが、エンリカの顔は晴れない。
やれやれ、と内心青年は思う。誤魔化すのも一苦労だった。
「本当のことを言ってよ」
「本当だよ、大丈夫、君は、ひとまず社長と一緒に行動していればいいから。とりあえずは一旦社長と合流して――」
「ねえ、いい加減にして。
そういうのって、分かるんだから」
突き刺すような指摘を受けて青年は、淀みなく喋っていたその言葉の続きを、どうしても引っ張り出してくることができなくなる。
そして微かに広げていた腕を、ぱたりと落とす。軽く首を振る。
少女の顔に、悲痛な色が浮かび始める。
「……死んじゃうの? 私たち」
「その危険性が無いとは言えない。
だから、今最善を尽くさなきゃいけないんだ」
「嫌っ」
エンリカが叫ぶ。
青年はその声に多少なりに動揺し、周囲を気にする素振りを見せた。
「嫌ったって、他にはどうしようもないよ。ひとまずは一応頑強なコンクリートでできた建物の中に逃げ込む以外に、捕捉されないでやり過ごすという方法はないんだから」
青年はそう言う。
クーデター以降のバンガードの行動には、どこかタガの外れたようなところがあった。
抵抗勢力に少しでも与した人間には、譲歩も、酌量も、一切の躊躇の余地なく、例えそれが無抵抗の人間相手であったにしても、攻撃を加えてくる可能性があるのだ。
これは一つの戦争なのだ、と青年は思う。
「いや、いや、いや。いや」
一方で、少女は青年の言葉の一切を自分の中に入れまいとするかのように、目を固く閉じて首を振っていた。
「じゃあどうすればいいんだよ、何か君に考えがあるなら――」
「まだキスもしてないっ」
その叫びに、青年は額に手を当てた。
それは、決して少女のあまりにも場違いな叫びに対して軽蔑を覚えたのではない。
むしろ、少女にその言葉を発させるに至らせた感情が、どれほど切実だったかを把握したからこそ、青年は頭を抱えていたのだ。
「……女の子が、そんなこと言うもんじゃない」
「そんな風に誤魔化してばっかり」
青年は精一杯に理性を働かせて少女を窘めようとしたが、事ここに至って、少女の感情はもはや歯止めが効かなかった。
「だって貴方は、いつも、私に我慢させてたっ」
青年は首を振る。
そして手を伸ばし、少女の腕を取った。自分の右手で、少女の右腕の内側を掴むような格好だった。
少女が息を呑み、言葉を詰まらせたところで、青年は少女の背を背後の壁へと押し付ける。顎に左手の指をやって、自分と視線の向きを重ねるようにする。
少女は戸惑いを顔に浮かべていたが、抵抗しようとはしなかった。
青年が少女の唇を塞ぐ。
それは本当に少しの間で、すぐに二人の唇は離れた。けどそれで終わりではなかった。青年はさらに少女の首筋に唇を這わせる。少女の身体が固く震えるのに対して、青年は顎にやっていた手を今度は少女の首の後ろから回し、左の肩にやった。そしてそのような動作もほとんど一瞬だった。次の瞬間には再び少女の唇を塞ぐ。微かに息が漏れる。それがどちらの吐息なのかは分からなかった。
青年は今度は舌も使った。少女の舌の付け根を締め付けるようにして差し伸ばす。反射的に少女が顎を引こうとするが、しかし後ろから回した腕がそれをさせない。
絡んだ舌をゆっくりと擦り合わせるようにして、じんわりと染み出してきた自分の唾液を、青年は少女の口腔に送り込んだ。少女の身体がその意図に気付いて強張るが、でも少女はもはや抵抗することができない。可能性としてもそれはありえない。青年は同時に、その舌の動きで少女の唾液をも奪った。二人が唾液を交換するような形となる。
少女の喉が、ややぎこちない様子で、こくり、と、間を置いて二回ほど鳴った。
そこでようやく青年は少女を解放する。
溜め込んでいた息が少女の口から漏れた。腕はまだ肩に回されたままだった。
青年は、自分の口の端を右手で拭った。
「もし今日を無事に乗り切ったらさ」
エンリカの瞳は潤んでいて、頬には赤みが差している。
そして呼吸は浅く、同時に不規則だ。それに対して青年はどこまでも冷静で、どこまでも落ち着いているように見えた。
「もっとすごいことをしよう、約束する。
だから、今日は僕の言うことを聞いてくれるかな」
青年は、微笑みさえも浮かべている。
少女の身体がゆっくりと、背中を壁に擦りつけて、下へ下へとさがっていく。それに合わせて青年も姿勢を変えた。
そこで、プレハブの扉が開いた。青年は何事も無かったかのように身体を離す。
「話は終わ……何をしていた?」
「別に何も。激励です」
そう言う青年は真顔だった。
それに対して、少女はぺたんと両膝を同じ方に向けて座っている。背中を壁に凭れさせていないと、姿勢を崩してしまいそうだった。
老人はそんな少女の姿を見て、暫く黙りこくっていたが、やがて何かを諦めたかのように首を振る。
「……まあいい、全ては後だ」
「そう、全ては、今日という日を乗り切った後です」
青年の言葉に、少女の肩がぴくりと反応する。
青年は笑みを浮かべている。
「彼女を連れて行ってあげてください、一人じゃ動けないようだ」
「……」
老人はほとんど青年を睨みつけるような視線で見つめていたが、しかし青年はそれでも全く表情を変えなかった。
再び老人が首を振る。
「……迎撃を頼む」
「任せて下さい」
そう答えるのを聞いた後で、老人はエンリカの傍らに片膝を立てて座り込む。その後ろから、作業員の人間が続々と顔を出し始めていた。その光景を背に、青年は歩き始める。
「戻ってきたか、遅かったな」
ヴォルフムントの第一声はそれだった。すみません、と青年は短く述べる。
「リゼルフォード氏には伝わったか」
「ええ、もう作業員を含めて避難の体勢に入っていると思われます。大きな混乱も無いようでしたし」
「そうか」
男はそれまでを確認すると、自分の顎に手を当てた。何かを考えているらしい。
青年はその間、沈黙の支配する中で周囲を見渡す。
そこは、レーダー装備が施された通信車両の隣にあるスペースで、屋外ではあるものの一応ヘッドクォーターとして機能している場所だった。簡易テントの下には机が並べられており、通信機器がセットされている。
その通信機器の前には、ヘッドセットを装着した男がさっきからコンソールに何らかの指示を送り続けているが、その表情は緊張で強張っていた。
そこから分かるように周囲の空気はひどい重さを帯びていた。青年はそこまで確認すると、ヴォルフムントの方を見やる。
沈黙を守っていたヴォルフムントが口を開く。
「さっきから降伏の信号を出してるっていうのに全く返答がない。あいつら、どうやら一切の躊躇もなく俺たちを叩くつもりらしい」
あまり期待はしてなかったことだが、青年は力の抜ける思いだった。そんなに戦争がしたいのか。
その時、ガタリ、と何かが倒れる音が辺りに響いた。
そのテントの下にいた人間全員が、一点を見つめる。
椅子が蹴倒されていて、頭にブルーのバンダナを巻いた大柄な男が立ちすくんでいた。その足は震えている。
男が大きく腕を広げて、叫ぶ。
「冗談じゃねえよ、ヴォルフ!」
その訴えに、ヴォルフムントは動揺の無い視線を差し向けた。
「そうだよ、冗談じゃねえ。これは現実だ」
「だったら逃げようぜ、俺たちだけだったら包囲を突破できる!」
「できねえよ、ACが三機だぞ? 一度捕捉されたらもうそれでお終いだ」
ヴォルフムントはあくまで冷静に語っていた、そしてその冷静さに、大声を張り上げていた男が徐々に困惑を募らせていく。
「だ、だったら、俺達は……」
「最善を尽くして、運命を受け入れる。それが唯一の手立てだろうが。
今までだってそうしてきたんだよ。だから俺達は今こうして生きてる。
そして生きてる限りで、こうしてまた次の問題に直面し続けていかなくちゃならない」
そう並べられた言葉に、叫んでいた男は黙った。
だらり、とその太い腕を力なくぶら下げるのを見て、ヴォルフムントが男から視線を外す。
「いいか、コールサインをもう一度確認する。
俺がローテ・アイン、以下機体番号順にローテ・ツヴァイ、ドライ、フィアー、フュンフ、ゼクスだ。
それと、……ヴィルヘルム。お前のコールサインは覚えているな?」
「
ブラウ・アイン」
自分の復唱に、心臓が何故か強く反応する。しかし最初にそれを聞いた時の衝撃は、もっと強いものだった。まるで頭が張り裂けそうなほどの記憶の奔流が、身体の中を駆け巡っていったのだ。そして、その衝撃が徐々に薄れていくにつれ、焦りや緊張といったものはどこかへと消えていっていた。そして今、事実彼はひどく落ち着いていた。この非常時にあってさえ、彼の手は少しも震えなかったし、あるいは時間が過ぎるにつれ心臓の鼓動が早まっていくようなこともなかった。
ヴォルフムントが頷く。そして、彼は顎をやった。
「自分のMTのところに行け、フォーメーションについては、接敵する前の段階でまた連絡する」
その命令に対して、男たちは頷くと、足並みを揃えて去っていった。
続けて、通信機の前に座る男が指示を要求するような格好で顔を上げる。
「お前はそのコンソールを持って車両で待機してろ」
その言葉に男は頷いて、コンソールを手で持ち上げた。
やがて、男が去って行くと、そのテントの下にはヴォルフムントと青年の二人きりになる。
ヴォルフムントが溜息を吐いた。
「なあ」
青年は目線で応える。
「お前、怖くないのか?」
意外さを覚える質問に、青年は答えを出せなかった。
ヴォルフムントが首を振る。
「はっきり言って、俺は今とてつもなく怖い。何せどう考えてもこれは分が悪い戦いだ。戦力差、そして地形の有利不利、そういったことを考えれば、俺たちが死ぬってことはそう想像に難くない。
でも、どうやらお前はそういうことを分かった上で、それでも落ち着き払って突っ立ってるように見える。何故だ?」
男の言葉に、青年は暫く黙っていた。
そして口を開く。
「……なんだか、前にも同じことがあったような気がするんです」
「同様のこと?」
青年は頷く。
「そう、つまり、なんだか同じことを繰り返しているような、そんな気がするんです」
ヴォルフムントは、その言葉に対して少しの間何も答えなかった。
やがて、戸惑いも露わに口を開く。
「……お前、絶対イカれてるよ」
それを聞いて、青年は静かに微笑んだ。