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知念朝睦『副官の証言』

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沖縄県史第10巻(1974年)より

知念朝睦『副官の証言』

元海上挺進第三戦隊副官  
元陸軍少尉 知念 朝睦


渡嘉敷島へ


 私は昭和十八年召集をうけて、鹿児島第四連隊に入隊しました。その後幹部候補生に合格して見習士官となり、昭和十九年七月、当時編成して間もない、水上特攻隊(マルレ)の搭乗員として、四国に居た赤松隊に配属されました。

 約一か月、厳しい訓練ののち宇品港を出て、門司、天草、鹿児島と点々として、南方に向ったのは九月も中葉すぎていました。

 九月末に、着いた所は、南洋ではなく沖縄でした。船はそのまま私の郷里の首里を向いにして、渡嘉敷に入りました。

 赤松隊では、県出身は私ひとりでした。方言が通ずるので、いろいろ問題がありました。それだけに、私はつとめて、村民との交渉を必要以外はさけていなければなりませんでした。

 戦争ですから兵隊優先は止むを得ないことです。民家に分宿している兵隊たちは母屋を占領していました。小さい島ですから、いやおうなしに軍、民接触せざるを得ません。

 いろいろなしわ寄せが村民にかかり、たちどころに行きづまっていました。はじめは、そうでもなかったのですが、私は聞かぬふりしていたのですが、「この兵隊どもがここに来なければ……」と方言で愚痴をこぼしていました。それが日がたつにしたがって、兵隊に対する不満は大きくなり、広がって行きました。

 そういう状態でしたから私は万言も使わないし、村民と用事以外は殆んど口をききませんでした。村民の生活が、まともに出来なくなるのですから愚痴も仕方のないことでした。

 このようなことは、沖縄の縮図のようなもので、兵隊が来て数か月で沖縄全体が、そういう雰囲気になっていました。

 私は隊長のお供で那覇に出ることがありました。首里は私の生地ですし、私の家族は熊本に疎開して首里にはいませんでしたが、出覇の度ごとに親戚の者を訪問して、安否を気づかっていました。

 とある一日、私はその親戚の家族とくつろいでいました。そこへ陣地構築にかり出されて、モッコやツルハシを背負っている男女がぞろぞろと、私のすぐそばを通り、ちらっと私を見て、「此奴らのために難儀するよ」と過ぎていきました。

 沖縄県人の心の中には木土人に対し特別の異和感があったことは素直に認めなければならないと思います。どうにも他府県の連中のために自分の生活が毎日破壊されて行く状態には、我慢がならないと、いうことでした。

 私は県立工業学校を卒業して、大蔵省に入り、大分と東京から採用された同年の二人と一緒でしたが、その時、私には東京は全く別世界でした。私は寮で毎日出てくる「おかず」の名さえ知らなかったのです。 「琉球者」とさげすまれ、苦しいことばかりで、なじむまでに永い時間がかかったように思います。

 そういう私は、いつの間にか、他府県人には負けないぞ、という生き方にかわって行っていました。これは大なり小なり、他府県で生活した沖縄県人が体験することです。

 このように他府県人に対する異和感と、他府県人が持っている差別意識とが、まぜあわされて、この戦争できまざまな形になって現われたと思います。


はじめての敵


 十・十空襲は那覇でぶっつかりました。当日は第三十二軍の兵棋演習の行われる予定でそれに参加する赤松隊長のお供で私は波之上にあった旅館に慢泊りしていました。

 兵棋演習は参謀本部が招集し、第三十二軍の綜合的作戦計画ということで、水上特別攻撃隊の部署についても、討議されることになっていました。

 当日、爆撃と同時に私たちは近くの高射砲陣地に避難しました。何十機と群がっている敵機に、高射砲隊はひるまず応戦するのですが、弾は米機にあたりませんでした。

 私たちはその場を出て、今の山形屋うらにあった船舶司令部に行きましたが、大町司令官はどこに避難したのかわかりません。司令部の近くの壕に避難していると、那覇の街は燃えていました。はじめての敵は、あまりにも強烈でした。


海上挺進隊○レ


 海上特攻隊は、慶良間には三つありました。梅沢少佐のひきいる座間味の第一戦隊は、単頭中隊で、司令官大町大佐はときどき、そこへ、作戦計画で現われているようでした。

 ○レは米軍上陸まえ一回だけ実弾で合同演習を行ったことがありました。○レは当時公表してはいけない秘密兵器でしたので、演習は当然村民を村内から出さず、峠には衛兵を立てて、厳しい監視の中で行われていました。

 渡嘉敷、座間味、阿嘉で丸く囲んだ内海で全舟艇は二百五十キロの爆雷を抱えて、内海の中心に向って全速力で三方から押し寄せ、敵艦に三〇度の角度で接近し、舟艇の先きが、敵艦に接触したと見るや、爆雷を投棄して、六〇度方向転回をして、即ち三〇度の角度を保ちながら遁走します。その後、四秒で爆発するので搭乗員は助かる算段は、充分にあるわけです。

 赤松隊は百隻の舟艇を持ち、三つの中隊に分かれて、おのおの渡嘉志久、阿波連に配備していました。

 私は本部付の警戒小隊長で、出撃の時は私の舟艇が先頭を切ります。私の次に赤松隊長艇、そのあとに三中隊が横に広がって続き、突撃の態勢にうつると、ぱーっと散兵して、目標に向うことになっていました。

 当初は、舟艇は搭乗員もろとも「休当り」することになっていたのですが、むざむざ、搭乗員を殺すべきではないと、改められていました。一説には、演習風景を撮った映画を天皇陛下がご覧になって、若い者を殺すな、といわれて、改められたと聞きました。

 さて私たちは、ただ一日きりの演習で、敵艦を待っていました。


自沈した○レ


 三月二十三日、早朝から始まった空襲は二十四日、二十五日と続いて、激しさを増すばかりでした。二十五日駆逐艦を先頭にして、巡洋艦、潜水艦と二十隻ばかりの米艦が慶良間列島の内海に侵入して来ました。

 その時、基地隊は「出撃準備せよ!」と各中隊に連絡していました。搭乗員は、爆雷を点検したり、給油をしたりして、最後の調整に余念がありません。

 夜に入って、泛水作業が、軍民一体となって行われました。水盃をかわし、基地隊は、重機を構えて、背後から援護射撃にそなえていました。

 泛水も無事終わって、先頭を切る私は、機関銃を抱えて、今か今かと、出撃命令を待っていました。

 しかるに、その時、内海に居ったのは、哨戒艇一隻、他には何も見あたりません。このことは、隊長に私が報告しました。止むなく司令部へ敵艦の所在について、指示をあおいでいました。返って来たものは、「赤松隊は、本島に合流せよ」という命令でした。

 気の早い連中はモーターを回転させて今にも飛び出して行かんばかりです。行く者も、見送る者にも緊張の瞬間でした。

 折から慶良間列島視察中、阿嘉から渡嘉敷に来ていた大町司令官は、泛水を中止し、すみやかに揚水するよう、命令しました。

 勇躍出撃しようとしていた隊員たちは、気をそがれて唖然としていました。二五〇キロ爆雷のついた舟艇を海面から引きあげ、レールにのせるだけで隊員たちは精根つきていました。

 とうとうグラマンの飛ぴかう中に、その秘密兵器の姿をさらけ出してしまったのです。どうにか一部は壕の奥に穏し、揚水出来ない大多数は、破壊してしまわなければなりません。隊員たちは命令どおり、ピッケル状のもので船底に穴を開け、海底に沈めてしまいました。

 私の部下の結城伍長は、出撃するといって聞きません。隊長の命令でも聞けないと、まさに飛び出さんとしていました。私は結城の舟に穴を開けました。彼は舟もろともどぼどぼ沈んでしまいました。海底で梶を握っている彼をひき上げたのは、やはり私の部下でした。

 これで、我が隊の当面の目標「敵艦百隻撃沈」は遂げられぬままに、むなしく終ってしまいました。目標を失った若者たちは、酒を飲む他仕方がありませんでした。

 二〇歳にも満たない若者たちは、よっぽど腹のすわった連中でした。二十三日の空襲は渡嘉敷を徹底的にたたいていました。ちょうど部下を引きつれて、阿波連に状況視察に出ていた私ははいつくぱって一歩も動けません。

 私の軍刀と傍に居た部下の拳銃が、かちかち合って鳴っているのです。不思議に敵機の爆撃の中でよく聞えました。私の体がふるえてとまらないのです。その部下が隊長殿、寒いのですか、「ばかたれ、何が、……」と私は気ぱってみせていました。

 米軍は上陸していました。私たちは、あらかじめ設営していた西山陣地にひきあげました。


集団自決のこと


 西山陣地では電話も通ぜず各隊との連絡は容易ではありません。かろうじて各隊が集結していた頃、西山陣地の後方では、村民の自決が行われていました。

 十歳くらいの女の子と、兄弟らしい男の子が陣地に私を訪ねて来て、お母さんが自決したというのです。はじめて自決のことを聞きました。

 この子らは阿波連から恩納川に行き、西山陣地近くで、この子が手榴弾を発火きせ、母親に投げたところ、赤児と母親の間におち、死んでしまったということでした。その自決場所には、妻子を殺したという男が半狂乱に、私に、自分はどうしても死ねないので斬ってくれと、わめいていました。この男も、姉弟も元気に居ります。

 どうして、こういうことがおきたのか。その動機は、おそらく、数日まえ阿嘉が全滅し、村民は自決したときいて、いずれ自分たちもあのようになるんだと、きめていたに違いありません。そこへ、米軍の迫撃砲です。山の中をさまよい、わいわい騒いでいるところへ、どかんと飛んで来たのがそれです。

 もう生きられる望みを断たれたと、思っていたのです。それが自決をさせたと思います。しかし私が問題にするのは、十歳の少女がどうして手糟弾を手に入れたか、ということです。

 それにしても私が見た自決者の遺体は六、七体でした。記録に残る三二九体というのは見てもいないし知りません。三二九体なら、それは、恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。

 赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。

 私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素どおりしてはいかなる下令も行なわれないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。

 もっとも、今現存しているA氏が機関銃を借りに来ていました。村民を殺すためだというので赤松に追い返えされていました。


軍隊と村民との間


 小さいこの島ですから、軍は軍、民は民というわけにはいきません。集団自決や米軍の攻撃で深い傷を負った人たちが、米軍に救われ、回復して戻って来ると、とたんに村民は、米軍に対する考へ方が変って来たようでした。

 村長や助役や郵便局長が、山から降りて、米軍に投降し、こんどは、村民を山から降ろすために、いろいろ宣撫工作をしていることにまでなっていました。

 軍隊にとっては許しがたいことで、スパイ行為です。夜陰にまぎれて村民がぞろぞろ山を降りる情景が見られました。

 そのような中で、米軍の捕虜になって逃げ帰えった二人の少年が歩硝線で日本軍に捕えられ、本部につれられて来ていました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました。

 少年たちは年が年ですから、戦争の恐ろしさも、軍規の厳しさも何も知らなかったのでしょう。軍隊でほ当然利敵行為は許しません。村民が捕虜になって、陣地や兵力に関する情報が敵に通じないという保証は出来ません。そういうことで私も人を斬りました。


伊江島の女性を処刑する


 伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕えられ処刑されました。ところが、その中の女性一人が生き還って逃げてしまったのです。基地隊の西村大尉は私を呼ぴつけ、おまえが逃がしたのだろうというので、私は非常にしゃくでした。

 今度は捕えたので来てくれというので、行ってみると、女性は首を斬られて、頭がぐきりぐきりと小きざみにふるえていました。破傷風に罹っているのです。破傷風で死んだ高鳥少尉と同じ症状でした。

 この女性はすっかり観念し、刀じゃなく銃でやってくれといっていました。銃は敵に向けるぺきものなのですが、私は自分の短銃で殺しました。

 私はこの女性は以前から顔見知りでした。伊江島の人たち一千名が強制収容きせられた四月下旬、私は決死隊として、収容所内に潜り込み、「知念少尉だ」と名乗り出たことがあります。その時の村民の狼狽の色は並たいていではありませんでした。

 村民は私をかくまい食事一切の世話をしてくれました。昼は床下に、夜になると這い出して、情報の収集をしていました。私を世話した中にその女性がいたのです。顔をよく憶えています。

 私がやったことは軍隊でやったことで、命令に従ってやったまでのことです。私には何もやましいものはないと信じています。渡嘉敷の戦争に関する何冊かの本の中には、私に同情的に書かれているものがありますが、「やられたのは沖縄人、やったのは日本軍」という考え方には賛成しません。

 私は沖縄県人といっても赤松隊の一兵士です。


朝鮮人について


知念 軍隊は作戦を遂行しただけです。やましいことは何もありません。むしろ沖縄県人の内部に問いかけてみるべきではないでしょうか。私も云いたくないことはあります。云うと現存している人たちに迷惑がかかるかも知りません。

筆者 では地元に迷惑のかからない朝鮮人について。

知念 朝鮮人は陣中日記にもあるように、いち早く逃げ出し、米軍に投降しました。しかし中には、逃げ出したが、米軍に投降しない者がいて、その連中は村民から物は盗んで喰うし、強姦はするし非常に危険な存在になっていました。

筆者 食糧を盗んだり、強姦事件もありましたか。

知念 村民からそのような報告を受けていました。赤松隊長の命令で私は討伐隊を編成して捜索をしていました。村民の通報で海岸にひそんでいる三人の朝鮮人を捕え、私は「おまえたちの名誉にかかわることは一切公表しない。靖国神社にも祀るから‥‥」と説得して斬りました。よろこんで死にました。

筆者 村民の要請は村会か常会かの決定によるものですか。

知念 いちいち村会か常会にかける間なんてありません。個人的なものでした。おそらく強盗も強姦もしなかったでしょう。

筆者 村民が殺してくれと要請したのですか。

知念 殺してくれとは云いません。しかし報告のとおりだと、軍規にふれますから殺さなければなりません。

筆者 殺された理由は何ですか。

知念 逃げた連中が畑を荒らしたことは事実です。私たちは何といっても村民の生命が大事ですし……。

 朝鮮人は軍夫およそ二百四、五〇名、慰安婦六名が私たちが上陸まえからいました。鈴木大隊が引きあげたあと、軍夫は赤松隊が引きとり、各中隊に五、六〇名ずつ配置して使役していました。朝鮮人は米軍上陸あと自活隊を編成して食糧の自給自足をさせていましたが、投降してしまいました。

 慰安所は今の小学校のすぐ向いにありました。雇主も朝鮮人でした。慰安婦の中には女学校を出たという、教養と品位の高い者が居りました。一回の遊び賃が一円五〇銭でした。一人は空襲で焼死しましたが、残り五名は、軍夫と同じ行動をとったに違いありません。

 日本軍は実際は朝鮮人までいちいちかまっていられなかったのです。しかし捕虜になって本島に渡る時、処刑した三人も焼死した七名も遺骨を持ち帰って、阿嘉収容所で、朝鮮人に引き渡しました。

 阿嘉収容所で朝鮮人グループが私を私刑にかけたことがありましたが、本部に居たという軍夫にかばわれ難を逃れました。私たちは、朝鮮人については、その姓名も知りません。ことばは通じなかったし、立場は違うし、あまり関心もありませんでした。


大城訓導の処刑


 当時、渡嘉敷小学校の校長は戦後立法院議員になった宇久真成氏で、私の同郷の先輩です。びっこのために軍隊にとられなかった崎田訓導は、私とは付属小学校のクラスメートでした。そういう関係で大城訓導とは多少面識がありました。

 昭和十九年十月頃、三十二軍の方針によって赤松隊も現地から防衛隊を召集することになりました。 「大城訓導も人隊すべし」という村民の強い意向で、やむなく人隊したようで、兵隊になるにはちょっと年をとりすぎているようでした。

 大城訓導は同じく教師である夫人と女の子一人をつれて那覇から赴任したぱかりで間借生活をし、まだここの生活にもなじんでいなかったといいます。身重の夫人と幼子をおいて、入隊することは不本意だったといいます。

 戦争状態になると、土地も食糧の蓄えもない母子に、村の人たちが分け与えた生活をしていたといいます。それが続くはずはありません。妻子の窮状を聞いた訓導は、逃げて妻子のもとへ帰りました。三回逃亡しては捕えられ、とうとう処刑されてしまいました。


山を下りる


 八月十七日、米軍の投降勧告文書を持って陣地にやって来た二人の男が処刑されました。この投降勧告文書について早速将校会議を開いて、私が軍使となって、投降の交渉をすることになりました。私たちは二日まえ、ラジオで日本が無条件降伏したことは知っていました。