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控訴人準備書面(1)3/3

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控訴人準備書面(1)3/3



第4 手記「戦斗記録」のゲラと『紀要』末尾の6行

1 はじめに

  甲B115の手記「戦斗記録」(写し)は、『沖縄県史料編集所紀要第11号』(甲B14)掲載の梅澤手記の末尾6行について大城将保が自身の認識を示したものであるか否かという争点に関連する証拠である。

同書証をめぐっては、その作成経過等について、控訴人側において改めて資料調査を行い、控訴人ら代理人において新しく入手した書証(甲B115、128、129、130、131)の提出とその証拠説明を行った(平成20年6月27日付証拠説明書、平成20年8月12日付証拠説明書(6))。

これら新証拠により、上記末尾の6行が大城将保によって作成されたものであり、自らの調査に基づく大城自身の認識を示したものであることが一点の曇りもなく明らかとなった。

2 『紀要』作成までの関係証拠の整理

『紀要』(甲B14。昭和61年3月31日発行)発表までに、控訴人梅澤及び大城将保が作成した関係書証について、改めて時系列順に整理すると、下記のとおりである。

  • ①甲B130  梅澤書簡「自決命令を出したとは以ての外である」(昭和60年10月6日)
  • ②甲B25の1 大城から梅澤への手紙(昭和60年10月16日)
  • ③甲B129 梅澤による手書き「戦斗記録」(昭和60年10月ないし昭和61年2月頃)
  • ④甲B128  沖縄県史料編集所紀要第11号』掲載「座間味島集団自決に関する隊長手記」原稿ゲラ(昭和61年2月21日頃。但し、梅澤が切り貼りして加工)
  • ⑤甲B131  大城の手紙(昭和61年2月21日)

控訴人らが原審原告準備書面(7)p41以下等で主張したとおり、昭和60年10月に沖縄県史料編集所主任専門員大城将保が、県史の《梅澤命令説》の訂正を手紙での連絡により求めた控訴人梅澤(甲B130)に対し、それを実現する手順として、控訴人梅澤の立場からの詳細な手記を発表ないし提示するのが適当と示唆した(甲B25の1)ことを受け、まもなく、控訴人梅澤は、戦時中の体験を「戦斗記録」と題する手書きの手記にまとめ、その写しを沖縄県史料編集所大城に送付した(甲B129)。手書きであったのは、控訴人梅澤はワープロ、パソコン等は当時も現在も使用せず手書きで書面を作成するのが常であるためである(甲B27等参照)。

  その梅澤手記「戦斗記録」を受け取った大城が、その手記も含め、『沖縄県史料編集所紀要第11号』(甲B14)掲載の「座間味島集団自決に関する隊長手記」と題する論考(報告)にまとめて原稿化し、掲載準備のために活字化(ワープロ打ちないしパソコン入力の上での刷り出し)した上で、それを、内容確認の機会を控訴人梅澤に与えるため控訴人梅澤に送付してきた。それが甲B128号証の、切り貼り、書き込み前の段階のものである。

  控訴人梅澤は、本書証から、自身の手記部分のみを取り出し、コピーして知人らに資料として配布するなどしたいと考え、2枚目の終わりに7行分あった「戦斗記録」のタイトル、執筆者表示及び冒頭書き出しの部分を切り取り(その際、大城が付していた2枚目左端の「2」という頁番号部分がなくなった)、3枚目の右端に貼り付けるとともに、その分横長になってB4サイズからはみ出ることとなった左端部分をカットした(その際、大城が付していた3枚目左端の「3」という頁番号部分がなくなった)。そのため、他の頁については基本書式が40行であるにもかかわらず、3枚目だけが48行になったのである。

3 大城将保の弁解

 上記2に挙げた書証のうち、平成20年8月12日に提出した甲B131の大城の控訴人梅澤宛手紙は近時に発見された新証拠であるが、これにより、当時の両者のやりとりの全容がほぼ判明した。

甲B131の大城の手紙は、最終段階の原稿チェックを求める内容となっており、『紀要』の原稿ゲラ(甲B128)と共に、大城は、この手紙を控訴人梅澤に対し送付してきたことが明らかである。

  原稿ゲラとこの手紙の送付は、日付からして昭和61年2月21日頃であるが、手紙の記載によれば、その時点から「すぐに印刷にまわさなければ」ならない状況であった。

  しかし、この段階の原稿ゲラには問題の末尾6行がなく、それが加えられたのは、昭和61年2月21日頃から印刷が開始されるごく短期間のうちのことであったことが分かる。末尾6行は梅澤手記『戦斗記録』の一部であるというのが、大城及び被控訴人らの主張であるが、大城が『戦斗記録』に末尾に控訴人梅澤に断りなく6行を書き加えたとすれば、他人の手記の無断改変で、当然許されない。

  大城は、当該部分を「私が電話で梅沢氏本人から同氏の結論的見解を聞き取って加筆したものです」と述べており(乙45p2)、被控訴人らも原審ではそれに沿った主張をなしているから、大城は、甲B131の手紙の送付後に、かような電話での聞き取りと加筆をなしたと、更なる弁解をするのであろう。

しかし、かかる弁解はいかにも不自然である。

何より、昭和61年2月21日の時点で「すぐに印刷に回す」という「ほぼ完成稿」の段階であったのであり、そこから控訴人梅澤の書いた部分を更に手直しをすることは考えにくい。

  また、甲B131には「もしご意見があればお電話ででもご指摘いただければ」とのメッセージが書いてあるが、手書きのものを忠実に活字にしてもらった控訴人梅澤には、加筆修正を認めるような「意見」は当時なかったことは明らかである。むしろ控訴人梅澤は、自分の手書きの手記が活字として完成されたことに喜び、知人らへの配布用に切り貼りしてコピーしたほどであり、控訴人梅澤から加筆を求める電話をするはずがない。

  それでは大城から控訴人梅澤に電話し、「梅澤の結論的見解」をあえて聞き取り、末尾に付け加えたのであろうか。

  一体何のためにそのようなことを大城が行ったのか。全く不明である。

  末尾の6行は、土壇場で慌てて「梅澤の手記に」付け加えねばならぬ内容では全くない。戦記の記述の中で、控訴人梅澤の「自分は住民に自決を命じてはいない。決して自決するでないと村幹部に対して言ったのだ」という主旨の事実主張は、明確に述べられており、控訴人梅澤の「真実を明らかにする手記」として既に完成している。

  仮に大城の主張する「電話での聞き取り」を想定したとしても、「印刷直前に急にどたばたと電話確認して他人の手記に加筆する。そして、それが誰が書いたのかよく分からないような体裁になっている。執筆者(控訴人梅澤)に、加筆した原稿をチェックさせた痕跡もない」という結果が、歴史研究家のリポートのあり方として倫理的にどうなのかという疑問があり、果たして大城がそのようなおかしなことを真実行ったのかという疑念に立ち戻らざるを得ない。

4 結論

 上記のように、新証拠も含め証拠資料を丹念に検討すればするほど明らかになるのは、『紀要』(甲B14)の末尾6行は、印刷に回す直前に、リポートの最後の「まとめ」として、大城が自身の認識を書いたものであるということである。

そのように考えることが、記載内容に照らしても合理的である。

まず、『紀要』の末尾6行のうち、第1文は、この大城のリポートの前半(「一“隊長命令説”について」)の内容と符合することが指摘できる。

  リポート前半の要旨は下記のとおりである(甲B14 p36~38)。

○ “隊長命令説”には二種類の原資料が考えられる。
○ その1つは『鉄の暴風』である。
○ もう1つが、「宮城初枝氏の手記『血ぬられた座間味島・沖縄緒戦死闘の体験手記』」と、そのもとになった「座間味村当局が琉球政府及び日本政府に提出した『座間味戦記』」である。
○ それら二種類の原資料のうち、後者の記述が、山川泰邦『秘録・沖縄戦記』、『沖縄県史第8巻』、『沖縄県史第10巻』、『沖縄大百科事典』等の多くの書籍で、引用されている。
○ 二種類の原資料の前者(『鉄の暴風』)は、隊長自ら自決現場に立ち会って命令を下したように書かれているが、後者(血ぬられた座間味島』、『座間味戦記』)はそうではない。
○ 多くの住民証言から、役場の書記が「忠魂碑前に集合して玉砕するよう」伝達して回った事実は確認されている(控訴人ら代理人注:一方で、隊長自ら自決現場に立ち会って命令を下したという証言は一切ない。即ち、『鉄の暴風』の記載を裏づける証言は確認されていないということが、暗に指摘されている)。

一方、問題の末尾6行の第1文は、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源になって居ることがわかる」という記載である。これは、要するに「(二種類の原資料のうち、後者の)『座間味戦記』及び『血ぬられた座間味島の手記』の内容が諸説の根源となり、通説化して、多くの書籍において述べられることとなっている」という趣旨であり、リポート前半の趣旨と完全に一致しているのである。このような一致は、筆者が同一、すなわち大城であるからにほかならない。

くどいようであるが、事件の当人である控訴人梅澤が、体験を縷々語った手記の末尾に、突然に冷徹な資料検討の結果(そしてそれら資料は、その部分以外では、梅澤手記の中には全く触れられていない)を語り出し、諸説の根源が○○であると「分かる」等の、第三者的な調査結果報告をするはずがない。

結論として、末尾6行は大城が自分の認識を書いたのである。報告者としての「まとめ」あるいは「コメント」をリポートの最後に書かねば、他人である控訴人梅澤の手記でリポート全体が終わることとなり、リポートとしての体裁上も不自然ということもあり、また、裏づけとして宮城初枝に真相を聞き取ったという研究者としての成果報告を付記する趣旨もあって、大城は末尾6行を書いたのであろう。

細かいこととなるが、『紀要』の46頁の上段と、下段の末尾6行との間には、1行分の空白がある。これは、他の頁が上下段とも19行あるのに対し、46頁の上段が18行しかない(ように一見見える)ことから、分かる。

この1行分の空白が意味するものは明白である。その空白の前が梅澤手記であり、後ろが大城によるまとめのコメントであるがゆえに、1行分の空白が挿入されたのである。そうでなければ手記の途中で突然に1行空ける理由がない。

上記のように、いかなる角度から検討しても、『紀要』の末尾6行は大城が自身の見解を記したことは明々白々なのであるが、この点を大城は見苦しくも否認し、大城が文科省(教科書検定調査審議会第2部会日本史小委員会)に対して提出した平成19年11月22日付意見書においては、大城は、「『現在宮城初枝氏は…」云々の文章には私にはまったく身に覚えのない記事であって、事実無根のデマ宣伝としか言いようがない」(甲B104資料⑸)などと述べている。自身のリポートに付された「現在宮城初枝氏は…」を見たことがないかのように大城が言うのは控訴人らとしても全く理解に苦しむところであるが、いずれにしても、大城の弁解も、苦しさ極まって、支離滅裂の有様になっていると言わざるをえない。

5 「真相は梅沢氏の手記のとおり」

以上のように大城が『紀要』の末尾6行を書いたことを控訴人らは改めて述べ尽くしたが、その中の第2文には、こう書かれている。

「現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記のとおりであると言明して居る。」

これがリポートの最後の締め括りであり、この内容が正しく大城の当時出した結論であったのである(尚、ここでは「宮城初枝氏」となっているが、控訴人梅澤の手記中では、宮城初枝について(宮平ないし宮城)「初枝さん」と2箇所で書かれており〈甲B14 p41下段、p42上段〉、そのことも記述の主体が両者異なることをうかがわせる)。

大城の宮城初枝に対する調査に関しては、甲B131の大城の手紙の冒頭の「宮城初枝さんはじめ関係者のご意見をうかがったり、関係文献をあさったりするのに手間取ってしまいました」と書かれている部分が非常に重要である。ここから明らかなように、当時、大城は宮城初枝その他の関係者に対し入念な再聴取を行うとともに、関係文献を精査し、控訴人梅澤の説明について検証を行っていたのである(いかに控訴人梅澤の抗議があるからといっても、検証に耐えられないような控訴人梅澤の虚偽弁解を無批判に『紀要』に掲載することは報告者として避けなければならないと大城が考えたのは、当然のことであろう)。

その上で、大城が前記の締め括りの一文を記した意味は極めて大きい。

前記の「真相は梅沢氏の手記のとおり」との表現は宮城初枝の「言明」を借りた形にはなっているが、かかる経緯やリポートの文脈からして「決定的証人」と評価の上で初枝の証言を引用しているのであり、そこには同時に大城自身の認識が示されているのである。

6 補足―神戸新聞記事と梅澤供述の信用性の回復―

大城は、昭和61年の神戸新聞の記事(甲B10)中に書かれた、自身の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」、「新沖縄県史の編集がもうすぐ始まるが、この中で梅沢命令説については訂正することになるだろう」というコメントについては、現在、「でたらめな談話記事」、「神戸新聞の記者から電話一本もらったことはない。おそらく梅沢氏の言い分と私の解説文の一部をまぜあわせて創作したのであろうが、誰がみても事実と矛盾する内容で、明白なねつ造記事である」と述べる(乙44)。

しかしながら、前記のとおり、昭和61年3月発表の『紀要』で、大城が「現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記のとおりであると言明して居る」という形で「《梅澤命令説》は間違いだというのが真相」との旨明らかにしていることは、この神戸新聞記事の内容と完全に符合するものであり、前記5までの分析は、『紀要』末尾6行問題について控訴人梅澤の供述の信用性を回復するものであると同時に、この神戸新聞記事、さらには翌年の同新聞の記事(甲B11。宮村幸延が「歴史を“拡大解釈”することにした」等のコメントをしている)の信用性を回復し、更に高めるものであると言うことが指摘できる。このことは、宮村幸延の『証言』書面(甲B8)をめぐる控訴人梅澤の供述の信用性を高めるという評価にも繋がることも、付言しておきたい。


第5 宮平秀幸証言(控訴理由書p119「第4」)の信用性

1 被控訴人らの主張

被控訴人らは控訴審準備書面(2)において、宮平秀幸証言(以下「秀幸証言」という。)が、①『座間味村史下巻』(乙50)掲載の宮平貞子証言(以下「貞子証言」という。)、②秀幸自身のビデオ証言(乙108の1。以下「ビデオ証言」という。)、③本田靖春著『座間味島一九四五』(乙109)掲載の秀幸自身の証言(以下「一九四五証言」という。)、④『母の遺したもの』(甲B5)掲載の宮平春子証言(以下「春子証言」という。)、及び、⑤同書掲載の宮城初枝証言(以下「初枝証言」という。)と食い違っているとして、秀幸証言に信用性はないと主張する。そして、貞子証言や春子証言等の信用性を裏付けるために宮城晴美の陳述書(乙110。以下「晴美陳述書(2)」という。)を再び提出している。

しかしながら、上記食い違いには各々以下に述べるような合理的理由があり、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではないし、晴美陳述書(2)についてはそもそもその内容自体信用性に乏しいものである。

2 貞子証言について

藤岡信勝拓殖大学教授は、平成20年1月から同年3月まで3回にわたり座間味島を訪問し、秀幸を中心に関係者から綿密な聞き取り調査を行うと共に、秀幸証言と他の証言との食い違いについて分析を行い、それらの結果を意見書に纏めた(甲B132)。

藤岡教授は同意見書において、①貞子証言は、秀幸が本部壕にいた後に忠魂碑前で家族と合流したという事実の前後関係について混乱が見られること、②秀幸の祖父母は足が悪くうまく歩けない状態だったことからすれば、貞子証言を、書かれているままに「家族全員でお米をもらいに出かけた」という意味で読むと家族の行動が非合理的なものとなるから、言葉を補って読む必要があり、その意味で同女の証言は不完全な証言であること、③秀幸の妹である宮平昌子の証言と秀幸証言とが忠魂碑前での出来事について符合していること、等を指摘し、貞子証言は明らかに虚偽であると分析している(甲B132p4~11)。

以上の通りそもそも貞子証言自体が虚偽であるから、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。

3 ビデオ証言について

秀幸は陳述書(甲B142)において、①このビデオの撮影は村役場を通してのものであったこと、②当時、秀幸は田中登村長から呼び出され、「集団自決の本当のことを話したら村に居られないようにしてやる」と脅かされていたこと、③撮影前に田中村長の妻恵美がわざわざ家に来て、母貞子に「秀幸さんに集団自決のことを喋らせてはいけない」とクギをさしたこと、④撮影は、周囲に漏れないように家中の電気を消し、カメラのスポットライトを当てて行われたこと、⑤誰かが家に訪ねてくるたびに撮影を中断したので、撮影に3日間もかかったこと、⑥真実を話せない、まるで「監視下」のような状況での撮影であったために、⑴3月23日から同月25日までの行動についてはサラッと流すような内容に止まり、本部壕での梅澤隊長と村幹部とのやり取りや、村長が忠魂碑前で村民を解散させたことについては全く触れられず、⑵3月25日の深夜、足の悪い祖父母を連れて一家7人が何キロもある部落の中を徘徊した真の理由(整備中隊でも第二中隊でも兵隊から「死んではいけない。出きる限り生き延びなさい」といって食料を与えられ、励まされたこと)についても話せなかったこと、等を述べている(甲B142p4~5)。

現に、問題のビデオ映像(乙108の1)を見ると、秀幸は3月23日から同月25日までの行動を話す場面(その中には「軍の玉砕命令」に言及する場面も含まれる)において、それまでインタビュアーに向けていた視線を下げ、うつむいたまま、自信なさそうに、言葉を選びながら、声を小さくして、話をしている(乙108の2・反訳書p6の2~15行目の部分がそれに該当する。)。他の場面での同人の生き生きとした語り口と比較すれば、その自信のなさと慎重さは鮮明である。これは正に、真実を語っていない自分に対する後ろめたさの表れである。

以上の通り、ビデオ証言は秀幸が村当局からの圧力を受け、敢えて《梅澤命令》の不存在を裏付ける事実に触れていない内容のものであるから、秀幸証言と食い違うのは至極当然のことであり、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。

4 一九四五証言について

藤岡教授は前記意見書において、①本田靖春(以下「本田」という。)の取材を受けた当時、秀幸は座間味村の田中登村長から、「本当のことをしゃべってはいけない。援護金がもらえなくなったら座間味の人は飢えてしまう。それでもよいのか。いかなることがあっても、あれは軍の命令であったことにしなければならない」と圧力を受けていたため、集団自決について絶対に語ってはならない部分があったこと(その部分とは、⑴本部壕で村の幹部に梅澤隊長が自決用の弾薬の提供を拒否し、更には「自決するな」と命じたこと、及び、⑵忠魂碑の前で野村村長が「解散命令」を出したこと)、②そのような特殊事情と、秀幸の話し方の特徴(自分以外の肉親の体験であっても、あたかも自分の体験のように場面を描写的に再現する語り方)、更には本田の限られた取材時間(夜十時頃からの数時間)といった要因が重なることにより、本田が秀幸から聞き取りを行う際に誤解が生じたこと、等を指摘し、一九四五証言との食い違いは秀幸証言の信用性を減殺するものではないと分析している(甲B132p11~20)。

以上の点から明らかなように、一九四五証言もまた秀幸が村当局からの圧力を受け、敢えて《梅澤命令》の不存在を裏付ける事実に触れない内容となっているのであるから、秀幸証言と食い違うのは至極当然のことであり、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。

5 春子証言について

被控訴人らは、春子証言に照らせば村長は忠魂碑に向かっていないことが明らかであると指摘し、そのことをもって秀幸証言は虚偽であると主張する。

問題の春子証言の内容は、「一家は盛秀を先頭に、忠魂碑に向けて出発した。燃えあがる炎と飛んでくる砲弾におびえながら歩いていると、突然数メートル先に証明弾が落下し、あたりが昼のようにパーッと明るくなった。これ以上進むと危険である。しかたなく、来た道を引き返すことにした。ちょうどその時、村長と収入役がそれぞれ家族を連れ、盛秀一家の方に向かってくるところだった。ここで全員忠魂碑に行くことをやめ、農業組合の壕に向かって歩きだした。」というものであるところ、その証言では、春子らと遭遇するまで村長がどのような行動を執っていたのか、その詳細について明確に述べられているわけではない。春子らが、村長と収入役と出会ったことが事実であったとこしても、忠魂碑前で解散を指示してから引き上げて来る道程で春子らと出会った可能性は十分ある。

また、藤岡教授は意見書(2)において、①村の三役(村長、助役、収入役)は、伝令を派遣して忠魂碑前に村人を集合させた張本人であり、自分で村人を集合させておきながら、自らは何の指示も与えずに現地に行くことをやめ、自分たちだけで勝手に別の場所に避難するなどという無責任な行動はあり得ないこと、②証明弾が落ちたことは理由にならないこと、③まして、盛秀は人一倍責任感の強い、意志強固な人物であったこと、を理由として、「村の三役が誰も忠魂碑前に行かなかったという春子の証言こそ、社会常識から考えて到底受け入れることのできない荒唐無稽なつくり話です。」と結論付けている(甲B145p18⑵)。

   よって、春子証言もまた秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。

6 初枝証言について

被控訴人らは、3月25日夜の本部壕での村幹部と梅澤隊長とのやり取りの場面に係る初枝証言の中に野村村長と秀幸が出て来ないことを指摘し、そのことをもって秀幸証言に信用性がないと主張している。

しかしながら、藤岡教授の意見書所収の秀幸陳述書(甲B132p2)によると、①野村村長が他の村幹部より少し遅れて本部壕に到着したこと、②本部壕の入り口にはアメリカ軍の火炎放射器で焼かれるのを防ぐため、水で濡らした毛布を吊るしていたこと、③その毛布の陰で秀幸が村幹部と梅澤隊長とのやり取りの一部始終を聞いていたこと、が明らかである。

そうだとすれば、到着時間の遅れや遮蔽物(毛布)の存在が要因となって初枝が野村村長の存在に気付かなかったことが十分考えられるし、秀幸は毛布の陰で(即ち本部壕の外で)やり取りを聞いていたのであるから、初枝が秀幸の存在に気付かなかったことが十分考えられる。

以上より、初枝証言の中に野村村長と秀幸が出て来ないことは何ら不自然ではないから、同女の証言は秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。

7 晴美陳述書(2)について

 晴美陳述書(2)には、「本部付の伝令であった中村尚弘氏に聞いてみたところ、『秀幸は伝令ではなかった』と明言しているのです。」と堂々と述べられ、秀幸が伝令であったと証言しているのは嘘であるとの決め付けが為されている。

しかしながら、当の中村尚弘(以下「中村」という。)の証言によると、晴美と20秒くらい挨拶と立ち話をした際、同女から「秀幸叔父さんも尚弘さんと一緒に軍の伝令をしていましたか」と尋ねられ、「いいえ、一緒ではなかったよ」と答えただけである(甲B143)。
沖縄戦当時中学生だった中村は4人でチームを作って村役場に詰め、軍と役場間の伝令を務めていたのであり、上記の通り同人が晴美に「いいえ、一緒ではなかったよ」と答えたのは、そのチームに秀幸は入っていなかったという意味に過ぎない。それを晴美は「秀幸が伝令ではなかった」という話にすり替えて、殊更に秀幸証言の信用性を貶めようとしているものである(甲B142・秀幸陳述書p1~2)。

晴美はこのような手法で事実を捻じ曲げているものであり、そのような操作を施してまで作成されている同女の陳述書(2)は、そもそもその内容自体信用性に乏しいものである。

 また、晴美は陳述書(2)において貞子の記憶力の良さを殊更に強調し、貞子証言の信用性を高めようとしている(乙110「2」)。

しかしながら、前記「2 貞子証言について」で述べた通り貞子証言自体が虚偽であるから、いくら晴美が貞子の記憶力の良さを強調しようとも、貞子証言の信用性を高めることにはならない。それに、そもそも前記⑴の通り晴美陳述書(2)の内容自体信用性に乏しく、秀幸証言を否定しようとする意図的なバイアスが働いていることが明らかであることからみても、それが貞子証言の信用性を高めるものということはできない。

 以上の点から明らかなように、晴美陳述書(2)の存在もまた、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えない。

8 まとめ

以上より、被控訴人らが主張する各証言との食い違いや、晴美陳述書(2)の存在は、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。

秀幸は本件訴訟前の平成13年の時点から《梅澤命令説》を否定する証言をしていたのであって(甲B113・9枚目)、今になって新たな証言をするようになったわけではないし、そもそも同人が嘘を付いてまで《梅澤命令説》を否定しなければならない理由は全く存在しない。秀幸証言は『母の遺したもの』掲載の宮城初枝証言と大筋で一致しているのであり、同証言との間に細かな部分について齟齬があることは、むしろ秀幸証言が創作の加えられていない原体験を如実に語るものであることを示している(創作の加えられたものであれば、後になって種々の疑問を向けられることのないように、それこそ細かな点まで一致している筈である。)。

以上


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