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7-2 台湾占領と抗日武装闘争

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7-2 台湾占領と抗日武装闘争



台湾民主国の成立

日本が朝鮮から後退しなけれぱならなかったとすれば、陸奥外相の「進むを得べき地」の第二である台湾こそはぜひとも確保する必要があった。下関条約調印直後、李鴻章は台湾では割譲をめぐって、はげしい騒動がおこっていると指摘し、台湾譲
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渡は再議に付したいと提案したが、時日の遷延が列強の干渉をひきおこすことをおそれた日本政席は、五月一〇日、樺山軍令部長を大将にすすめ、台湾総督兼軍務司令官に任命し、占領を既成事実とすることをいそいだ。樺山総督は、二四日宇品を出港し、途中で大連湾から直行した近衛師団と沖縄中城(なかぐすく)湾で会同のうえ、台湾にむかった。

その間、台北では台湾割譲反対運動をすすめていた全台義勇統領邱逢甲(きゅうほうこう)らが、巡撫唐景崧に日本人が台湾接収にきたならば、開戦するのみであると申しいれていた。五月一五日、かれらは独立を主張し、列強に台湾独立を承認し、共同して援助をあたえるならば、鉱山と農地の租借をみとめるとよびかけた。列国の利権をよびこみ、その共同保護で日本の台湾占領を阻止しようとしたのである。

二三日、全台湾島民の名で、つぎのような「台湾民主国独立宣言」を発した。
「日本、清国を欺凌(ぎりょう)し、わが国土台湾の割譲を要求す。台民朝廷に嘆願を重ねるも効を奏せずして終れり。倭奴不日攻め来らんこと我すでに知る。われもしこれを甘受せば、わが土地、わが家郷みな夷秋の所有に帰す。しかれども、われもしこれを甘受せずんば、わが防傭たらざるゆえ、長期持続し難し。われ列強と折衝を重ねしも、いずれも援助を期さぱ、台民まず独立せよと主張せり。それゆえわが台民敵につかうるよりは死することを決す。また会議において台湾島を民主国とし、すべての国務を公民によりて公選せられたる官吏を以て運営せんことを決定せり。(下略)」
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台湾独立運動に結集した人びとは、台湾民主国総統に唐巡撫を推挙し、二五日台北において独立式典を挙行した。台湾民主国は年号を永清とし、監色の地に虎をえがいた虎旗を国旗とさだめ、台北を首都とした。大将軍に台湾帯幇辮(ほうべん)軍務(台湾守備軍副司令官)劉永福(りゅうえいふく)を任命したほか、議院をおいて立法府としたといわれる(黄昭堂『台湾民主国の研策』)。

台湾独立の原動力となったのは、台湾士紳と地主富豪であった。士紳は官吏の資格を所有するか、もしくは官吏を経験した知識を有する地方有力者で、村落、連荘(れんそう)、血族団体、職業団体にたいする強い影響力をもっていた。かれらは清朝続治下で出世の可能性があり、また支配を続けるために現状維持をのぞんでいた。また、地主富豪は日本軍の財産没収をおそれて独立運動に協力した。したがって、かれらの独立運動には重大な限界があった。その大部分は、のちに日本軍が統治をはじめると、社会的混乱をおそれ、財産をまもるために協力者となるか、中国本土に逃亡した。また、唐巡撫以下の
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高級官僚は、台湾士紳に脅迫されて民主国に参加したもので、最初から戦意をもたなかった。

民主国の建国は、かれらが期待した列強の干渉をよぴ出すことも、清廷の援助もひきだせなかったが、抗日意志を結集するうえでは重要な役割をはたした。清廷は、台湾割譲阻止が日本の再戦の口実となり、清朝自体を崩壊させることをおそれて冷淡な態度をとった。李鴻章は、北京周辺の安全のために遼東半島の確保は重要であるが、それにくらべれば台湾の損失は軽いと考え、一九日、ドイツ政府が台湾問題で再戦となれば、中国の賠償はさらに増大し、台湾のみでなく海南島、舟山列島などの要地を尽くうしなうであろうから、独立運動を抑圧すべきであると勧告すると、翌日、清廷は唐巡撫を免職して上京を命じたほか、台湾在留官員の帰還を命じた。そのうえ、李鴻章は伊藤首相に「自ら水陸両軍を派遺して、以て弾圧し平安を保つべきなり」と打電した。

日本は、民主国が安定的に存続し、列強の承認をうけるときは面倒な外交問題が発生するとみて、二九日、澳底(おうてい)に上陸し、台北に進撃した。李鴻章は、叛乱鎮定以前に台湾引渡しの全権が上陸すると、人民が激動するという理由で鎮定後の授受を希望したが、伊藤首相はそれを拒絶し、六月二日、李経方全権は樺山総督と三貂角(さんちようかく)沖の日本軍艦上で手続きをおこない、国際法上の台湾授受を完了した。この日、樺山総督は「来月三、四日頃に台北府に進み、かの所謂新政府なるものを撲滅(ぽくめつ)し終れば、第一次の小平和を得べく、ゆえに本鳥の未来については尊慮を労するに及ばず」と報告した。日本軍が台北にせまると、唐総統以下の民主国要人は本土に逃
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亡し、七日に台北は陥落し、はやくも一七日には姶政式をおこなうことができた。

抗日武力闘争の展開

台北が陥落し、台湾民主国が事実上崩壊してのち、中南部の土豪、民衆による抵抗は本格的にはじまり、事態は樺山総督の予想とはちがった方向に発展した。民軍は勇敢に抗戦し、後方を攪乱して日本軍の進撃をこぱんだ。台北、新竹間では「人民すなわち土兵にして、その数いくばくなるを知らず、鉄道を破壊し電線を切断するもの皆土兵の所為なり、かれらは我の寡兵をみればたちまち襲いきたり、もし優勢なるを知れば遠く森林間に遁走するを常とす」という典型的なゲリラ戦術をとった。樺山総督は抗日軍討伐にあたって、「沿道住民の良否判明せざるにつき、残酷ながら」徹底掃蕩せよ、と命じ、その結果「家を焼夷すること数千に及」んだ(『台湾征討図絵』)。

大本営はこの事態に驚き、すでに増援に送った混成第四旅団にくわえ、第二師団の残部と第四師団の後備歩兵二八個中隊の増派をきめ、臼砲隊、工兵隊、要塞砲兵隊、憲兵隊とともに台湾に出征させた。それは平壌戦から海城攻略戦を戦った第一軍の兵力をうわまわる大規模な用兵であった。

六月下旬、前台湾知府の密書が劉永福将軍のもとに到着した。それは張之洞が回送してきた許景澄駐露公使の電報が「ロシアはすでに台湾の自主を承認した。黒旗軍(劉摩下の軍隊)は健在なるや否や、果してニカ月維持しうるや否や、外援すでに得られたれば、速やかにこのことを軍民に諭し、死守して去るなかれ。不日救兵到る」と告げたと密報していた。これは虚報で、
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許公使がこのような電報を発したかどうかも疑わしいが、情報から遮断されていた劉は、ロシアは台湾の自主を認め、湘帥(しようすい)(張之洞)もまた援兵の派遺を承認したとよろこび、抗日を決定した。六月二九日、台南の文武官百余人は血をすすって同盟を誓い、劉永福を統領に定めて台湾南部の抗戦体制を再建した。だが、張之洞は実際には全く援助をあたえなかった。台湾民衆は猟銃や木砲を主要な武器とし、義兵の六、七割までは竹槍や青竜刀で戦わねばならなかった。劉将軍指揮下の旧清国軍二万人は、義兵にくらべれば装傭が良かったが、大部分は非戦闘地帯の南部に駐屯し、戦にのぞむと潰散した。しかし、ベトナムでフランス軍を大敗させた黒旗軍の統領として、伝説的な名声をもった劉永福の存在は義兵の士気をたかめ、装傭の弱点をゲリラ活動でおぎない日本軍をなやました。日本軍は「全台は皆兵の観あり」と歎き、住民を無差別に殺戮した。住民は「日本兵士による姦淫、惨酷、暴虐は天も日もなし」と訴えている。住民は自衡のためにも抗日運動に立ちあがらざるをえなかった。

予想以上の抵抗に困惑した樺山総督は、七月下句、劉将軍に書簡を送り、「全局奠定(てんてい)の運にあいて独り無援の孤軍を以て辺陬(へんすう)の域地を守るも、犬勢の為すべからざる」を説き、抗戦を放棄するならば、将官の礼をもって清国に送還するとつたえたが、劉は「貴国の軍律厳ならずして姦淫焚戮(ふんりく)いたらざるところなし」と指摘し、決死、領土と人民を守ると勧告を拒絶した。近衛師団は住民の抵抗にくわえて雨期の河川氾濫と炎暑になやまされ、疫病の大流行で戦闘カをうしない、台中、彰化戦後は一カ月休養して戦力を回復しなければならなかった。徐驤(じょじょう)、簡精華(かんせいか)らは
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団結して戦い、しぱしば勝利をおさめたが、政治綱領をうちだして全台湾民衆の総力を結集できなかったため、単純な軍事的闘争に頼らざるをえなかった。そのため、結局は近代的な武器をもった日本軍に敗北した。義兵にとってもっとも大きな弱点は、工場、鉱山、兵器庫の集中していた北部を占領されたため、中、南部では弾薬、武器が欠乏し、補充ができないことであった。

この点に注目した大本営は「〈賊〉は兵器弾薬その他諸般の軍需をあおぐべき資源に欠けるをもって、久しくその戦闘力を保持する能わざるべく、‥‥ニカ月間は一切歩を新竹以北にとどめ、ここに根拠を固め、海路安全の期を待ち、〈賊〉の疲弊に乗じ全力を挙げて海路並進せば、これが戡定(かんてい)に必ずしも三師団の兵力を要せざるべし」と指示した。日清戦争において日本軍は、はじめて本格的抵抗にあったのであり、〈兵糧攻め〉によってようやく勝利の展望をもつことができたのであった。

一〇月五日、近衛師団は南進をはじめ、九日嘉義を占領、混成第四師団は布袋嘴(ふたいし)に、第二師団の残部は一一日枋寮に上陸した。嘉義南部一八堡義勇軍、鳳山南部六堆の義勇軍は婦女子までまじえて抗戦したが、旧清国軍部隊は艦砲射撃だけで逃亡し、劉永福将軍も一九日厦門(アモイ)に脱出した。二一日ついに台南は落城し、抗日軍の組織的抵抗は終った。一一月一八日、棒山総督は「全島まったく平定に帰す」と大本営に報告することができた。

台湾占領の意義

日本軍は四万九八三五名の兵力と二万六二一四名の軍夫を投入し、近衛師団長北白川宮能久(よしひさ)親王、近衛第二旅団長山根信成(のぶしげ)以下四六四二名の陣没という犠牲をはら
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い、四力月の日子をついやして、ようやく台湾を占領した。だが、抗日武装闘争はつづいた。一八九六年三月、台湾総督府条例を公布して軍政を解体し、民政に移行したが、台湾総督の武官制は堅持し、総督は、一九一九年まで軍隊指揮権を握ったままであった。民政は内地延長主義をとり、住氏の生活習慣や従来の行政組織を無視し、住民の基本的人権をみとめず、参政権もあたえなかったから、抗日意識は高く反乱はたえなかった。一八九八年から一九〇二年までの五年間に、日本当局は、公式に「叛徒」一万二〇〇〇人を処刑もしくは殺害したとみとめた。

日本の台湾領有の意義は、すでに澎湖島作戦の開始にさきだって、財政責任者松方正義によってあたえられていた。かれは直隷作戦を指向した大本営を批判し、北京占領は「名聞」においては赫々たるものがあろうが、「実益」上は台湾占領の方が重要であると指摘した。松方によれぱ、台湾は「南門の関鍵(かんけん)」であり、「北守南進策の第一著の足溜り」であった。したがって、台湾を占領するならば、日本の勢力は、インドシナ半島、マライ半島から南洋群島におよぶはずであった。つづけて松方は、台湾は日本が占領すれば、このような大利益があるが、列強も台湾を度外視しないと指摘し、「他国より占領せられては、我邦に非常な損害をあたうることもまた勿論」で、「今日において占領する能わずんば、終古占領するの機会はこれなく」と、列強にさきんじて台湾を奪取することが急務だと力説した。松方は、帝国主義時代における領土併合の意義を正確に把握していた。日本にとって台湾領有の第一の意義は、南進の拠点確保であり、第二の意義は、他国の併合を阻止するための「防衛的」占領であった。事実、ドイツのウ
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イルヘルムニ世は台湾領有に積極的であり、ロシアのロバノフ外相はフランスのアノトー外相の影響をうけて、澎湖島に日本が要塞をきずくことを阻止しなければならぬと考えていた。スペインも、フィリピンを領有していた関係から日本の台湾領有に制限をくわえるか、あるいはみずから領有したいと考えていたという。フランスは日本の澎湖島領有に積極的に反対し、三国干渉の要求中に、そこに防備施設を置かぬことと他国に割譲しないことを約束させようとはかったが、ドイツの反対で実現せず、フランス単独の申出により、日本は七月一九日、台湾海峡の自由航行と、台湾と澎湖島の不割譲宣言をおこなった。このときすでに、台湾およぴ澎湖島について、列強は無関心ではなかったのである。

台湾占領の第三の意義は、それを日本資本主義の販売、原料市場として確保することであった。矢内原教授が指摘したように、当時の日本の発展段階では、これを要求する内在的必然はなかったが、「まず実践的一歩」を踏めば、「実質これに追随」した(『帝国主義下の台湾」)。台湾にたいする資本の進出は、総督府の土地調査を通ずる「無主地」の国有化、警察的強権による強要的買収によってすすめられたが、それと並行して、はやくも一八九五年一二月、日本製糖株式会杜が総督府の権カと政策の後援をえて設立され、後年の大日本精糖を軸とする「糖業帝国主義」建設への第一歩を踏みだしたのである。
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