tomato2
(概要無し)
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まずどの宗教にも属しません。そして、死んだあとは、エネルギーの粒子みたいなものになって、宮沢賢治の有機交流電燈のように真空の中でその粒子が他者の粒子とも交流して、明滅します。そして、銀河鉄道の夜の飴みたいなもののように、自在に姿を変えられるような、さらには、人間世界とは姿形と存在の意味が異なるようなものになれたり、とにかく幸せな感じになります。そして、その過程を経て、輪廻転生のように、また即座に生まれ変わるのだと思っています。
死後のことを考えると、私が死んだ後、私はエネルギーに変わり、物質の枠を超えて、何かが、いや、何かではなく、もっと広がり、無限に広がっていくような感覚が湧いてきます。エネルギーという言葉を使うけれど、それは物理的な意味でのエネルギーではなく、もっと深いもの、形を持たないもののような気がするのです。そのエネルギーは私一人のものではなく、他のものと交流し合い、存在するという感覚、いや、それは存在していると言うべきではなく、もっと—それが何かを越えていく、時間をも超えて、いや、時間さえも必要ないような状態に—なる。けれど、時間がないということは、私が—それでも何かとして存在し続けることができるのかどうか、そう思うと、いや、もしかしたら、時間や空間も、私の一部であり、その枠が無くなるとき、私はまた違う形態に変わる、形を変え、いや、形を持つことすらないのかもしれません。
その変化は、きっと一度きりのものではないでしょう。何度も何度も、無限に繰り返すことになるのかもしれません。それが—繰り返しというと、何かを繰り返すことを想像しますが、繰り返すことではない、何かが—永遠に動き続け、終わりがなく、でも終わりがないという概念も—もう必要ではなくなって、無限に、いや、無限という言葉すらも—限界を感じるときが来る。無限というものを超えて、もっと—無限という概念を超えて、ただひたすら、感じる、感じ続ける、感じることそのものが—それが、私の存在であり、死後の私の姿そのものなのだと思うのです。
存在というものは、私にとってはもはや定義できるものではなく、もしかすると、死後の私というものを語ること自体が無意味になってしまうのかもしれません。だって、私という存在が、私ではなくなるのだから、もう「私」という枠組みがなくなる。そのとき、何かが—何かが絶えず動き続け、他のものと交わりながら、いや、交わるという言葉さえもふさわしくない気がして、けれど、動き続ける、それは、何かが変わっていく過程、でも変わるということも、もう—変わるという言葉では足りない。何かが、形をとらずに、ただ—動き、存在するということ、その状態こそが—私の死後の存在であるような気がするのです。
そして、それはまた—再生というのも違う、それも一つの誤解で、再生というのは、過去に戻るということかもしれませんが、死後の私は—再生ではなく、ただ、無限に形を変え、進化し、また変わり、また無限の中で—でもそれが再生と呼べるかというと、再生でもない、成長でもない、ただ—変容し続ける。その過程が、私の存在そのものであると感じます。何度でも変わる、そしてその変化は、私の意識が—変わるというよりも、意識の枠組みが完全に外れて、意識というものすら持たなくなるような気もするのです。
このように考えたとき、死後の私は、何もかもが消え去って終わるわけではなく、むしろ、逆に—何もかもが一つになって、でもその「一つ」もまた形を取らず、無限の相互作用の中にあって、ただひたすらに、感覚が広がり、感じるという—それが私だと思うのです。いや、それが私であることすら、もうないのかもしれませんが、それでも—それが、死後における私の状態そのものであると—何度でも思い続けるような気がするのです
最終更新日時: 2025/09/19 09:11