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女生徒は舞台上に立って、そこから身を乗り出した。
そんな彼女に抵抗するように風が吹き上げ、彼女は、身震いした。
ここから飛び降りたら、本当に死んでしまうんだーー。
「死んではだめよ」
後ろから声が聞こえて、彼女は振り返った。
「いいえ、私が貴方を死なせない」
「先生。…あたし、ここから飛び降りる気はありません。いじめられてるけど、でも死ぬのは怖いから」
「でも、今、本当に向こう側に行ってしまうかと思った。貴方は感じていなくても、私にはわかったわ、死の気配が」
先生は、女生徒の隣に立った。
「私は、あなたの“味方”だから。だから、死なないで」
「……はい」
「ここから離れたところへ行きましょう。死なんて考える余裕のないほど安全な場所へ」
先生は女生徒の手を取った。

その数日後、先生は故意に、向こう側へと行ってしまった。

――――

秋のはじめの、夕方、女は机に足を乗せ、新聞を広げて読んでいた。
女の正面にはガラスの押し戸があり、女側が一段高くなっている。
時々通る人々を、女は新聞紙越しに、つまらなそうに見ていた。
通る人々はたいてい、見向きもせず、その看板の前を通り過ぎていく。
「あー、やっぱ看板、もう少し大きくした方がいいかなあ」
女は誰もいない部屋に、ため息とともに言葉を吐き出した。
新聞を読むのも飽きたようで、机の上にたたきつけて、立ち上がった。
それと同時に、ガラス戸の向こう側で、一人の女の子が立ち止まった。
制服から見るに、この近くにある羽和高校の生徒だ。
でも、女は見たことのない顔だった。このあたりを通る生徒は素性までは知らずとも、顔は全員覚えていた。
となると、わざわざこっち側へ来た、しかもどうやらここを目当てに。
女は喜びと、興味の混ざった気持ち悪い笑みを浮かべた。
その瞬間、女の子と目が合って、ぞっとする。
恥ずかしさをこらえながら、そのシャープな顔立ちが一番栄える表情に切り替える。
女は、ガラス越しに手招きをした。
女の子は、おそるおそる扉を開けて、足を踏み入れた。
頭上で鈴の音が鳴った。ガラス戸の先は、まるで別世界に来たかのようであった。
「いらっしゃい、会馬探偵事務所へ」
「こんにちは」
女の子は丁寧にお辞儀をして、女を見た。
そして、何かに驚いたように、一瞬目を見開く。
「あの、優秀な探偵さんがいると聞いて、来たんですけど」
「ええ、私は会馬未枝。確かに、探偵だわ」
優秀かどうかは置いといてね、と付け加える。
「あなたの名前は?」
「瑞 有多子です」
なるほど、名前に子が付くからか、古風な雰囲気が漂っている。持っているカバンに、白くて小さい花のキーホルダーが揺れている。
「うたこちゃん、と呼んでいい?」
「はい」
「今日はどんな御用で、ここに?」
未枝は、扉をそっとノックするように聞いた。
「先生が死んだ理由が、しりたくて」
「先生というと――羽和高校の?」
「はい、担任の先生でした」
そこで未枝は思い出した。数日前、羽和高校の教室で先生が亡くなっていたというニュースを。
大々的に報道はされてなかった。けれど、自殺だろうということはなんとなく察しがついた。
「先生が死んだ理由っていうのは、科学的なこと?それとも、感情的なこと?」
「……どっちもです」
「どっちも、つまりあなたは先生の死に疑問を抱いているということなのね?」
「先生は、自殺じゃありません。あれは、誰かに殺された」
有多子はその落ち着いた容姿に見合わず、唇を強くかみしめていた。
「殺された?その根拠は?」
「手首が縛られていた。その状態で、首を吊ることはできない」
「それは、決定的な証拠ね」
未枝は頷いたーが同時に一つの疑問が生まれる。それならばなぜメディアでは、他殺だと報道されていない?
それから、と有多子が続けるので、未枝は思考をそちらに戻した。
「私、いじめられていて。先生は私の味方だとそういった。そんな先生が、自ら命を絶つわけがない」
「……そうね」
確かに直接証拠、情況証拠ともに、他殺だということを示しているように思える。
なのに、自殺として片付けられている。
本当に自殺だった場合、先生が、どうしようもなく自ら命を絶たなけばいけない理由があったのだとしても、
生徒に味方といっておきながら死ぬのは、一般的におかしい。
あくまで、一般的な話に限るが。
メディアが大々的に報道しないのは、学校の関係ということもあり、もし殺したのが生徒や先生なのだとしたらその人間のプライバシーを守る意味合いがあるのかもしれない。
とにかく、殺されたのか、それとも本当に故意に命を絶ったのか、検証が必要なようだ。
「そういえば、先生は教室で、亡くなっていたの?」
「はい、正確にはいつもは使われていない空き教室で。たまに部活とかで使う部もあったみたいですけど、ほとんど使われていなかったです」
「第一発見者は、生徒?先生?」
「私です」
有多子はきっぱりと言い放った。先ほどから恩師が亡くなったとはいえ、妙に落ち着いてる。
「どうして、教室で死ぬ必要があったんだろう」
「先生は殺されたんです。だから死ぬ必要はなかった」
未枝は自分よりも小柄な有多子をじっと見つめた。
「話を変えよう。先生を見つけたとき、どんな状況だった?」
「誰かからはわからないけど、その空き教室に行くように指示されたメモ紙が引き出しに入っていた。
それで様子を見に行くと、先生が、首を吊っていた。
 最初は自分で死んだんだろうと私も思ったけど、手首が縛られていたから、殺されたんだって、思った。その犯人の誰かが、私に見せつけるために、呼び出したんだろうっても、考えた」
「そのメモは先生が書いたって可能性は?」
「ありえません。字体が全然違っていたから」
そして有多子はかばんからメモ紙を取り出した。
「見てください。これは先生の授業の板書だけど、全然違う」
有多子が見せたスマホの画面には、黒板とそして黒スーツ姿のスラっとした女性の姿が映っている。
これが、彼女が言っている先生か。釣りあがった目は意志の強さを感じるが、どちらかといえば生徒に嫌がらせをしそうな雰囲気だなと思った。人は見かけによらないが。
そして当の筆跡は明らかに違った。先生の字は文字通り整っており、女性らしさを醸し出す字だ。
一方、メモ用紙の方は乱れている。荒々しく、どちらかといえば男性のような字体である。
「先生の遺体を見つけたとき、学校に警察は来た?」
「きました」
「警察は他殺と疑わなかった?手首が縛られていたなら、他殺の可能性ももちろん視野にいれていたはずだと思うんだけど」
有多子は、敵意と、そして悲しさを帯びた瞳で未枝を見た。
この子は嘘をついていると未枝は思った。しかも、結構最初の辺りからそれに気づいていた。
「そんなに殺されたんだと思うなら、こんなところに来るより、警察に訴えた方が早くない?
それとも、私を通して警察に聞いてくれってこと?」
未枝はけたけたと笑った。それはその気がなくとも、馬鹿にしているように聞こえる場合もある。
「もう、なら最初からそう言ってよ!」
未枝は机の上の電話を手に取った。
そして慣れたように誰かに電話を掛ける。
「よかったね、私に警察関係者の知り合いがいて」
未枝は少し低い声で、言った。
有多子の額には、汗がにじんでいる。
その汗を有多子はハンカチで拭った。
「おーい、今時間ある?勤務中?知ってるよ。あー、でも電話出てくれたってことは話聞いてくれるよね?要件があるなら早く?あのさー」
電話の向こうの相手は怒っているようだったが、未枝に逆らえないらしい。
未枝は笑っている。
「羽和高校の先生の件なんだけど」
電話越しでも聞こえるくらい、ガミガミと未枝に言っていた警察官の声が急にしおれたように小さくなった。
未枝は勝利を確信したような表情で有多子を見た。逃げるならいまだよ、という感じの視線をわざと送るが、
有多子はそこから動かなかった。
「今、ここにいるんだよね。その第一発見者の生徒がさ」
「はあ!??なんで!?!?」
未枝は受話器を耳から離した。
「いや、自分で来たんだって。私が連れてきたわけじゃないから」
「そっちに行くよ。電話だと長くなるから」
「ありがと、待ってるよ」
電話越しだが、投げキッスを送る未枝。
それを向こうも察したのか、話中音だがすぐに聞こえてくる。
「まったく、あいつはかわいくないな」
やれやれといった様子で、椅子に思いっきり腰かける。
未枝は有多子を観察するように上から下まで眺める。
有多子は何かを言いかけるが、それを遮る。
「そこに座って、いいわよ」
未枝は向かって左側のソファを指差した。
有多子は何も言わず、そっと腰かけた。
その様子はまるで名家の娘のように、実に丁寧だった。
「有多子ちゃんは」
未枝は二人が出会った直後のように話しかけた。
「私のこと、なんとなく先生と似てるって思ったかもしれないけど、それは違うわよ」
それはほとんど未枝の独り言だった。
「なんでかは、後で教えてあげる」
お茶の煮だした香ばしい香りが、部屋に漂った。
未枝は有多子に向かいあうように座った。
それから二人は会話することなく、ずっと座っていた。
お茶を二杯飲みほしたころ、
未枝の後ろの方で、扉が開いた。
「お待たせ」
「勝手口から来たの?」
「いいでしょ、家族みたいなもんなんだから」
「というかよく抜け出して来れたわね?」
「嫁が呼んでるんだったら行ってやれよって」
「違うって何度言ったらわかるの、あの人」
「あながち間違ってないけどね」
「うるさい」
未枝がその男を突飛ばそうとするが、男に押し返され、我に返る。
勝手口から入ってきた男-森岡-は、有多子を見た。
「この子、本当に第一発見者の子で間違いない?」
「そうだね、あってるよ」
その男は、一人がけの椅子に座った。
「久しぶりだね、有多子ちゃん」
有多子は何も、言わずに、そっぽを向く。
未枝が、嫉妬の混ざったような、顔をしたことには、誰も気づかない。
「あれ、千作さん、まだ帰ってきてない?」
「兄さんはもう少ししたら帰って来るよ」
「そうか、久しぶりに挨拶していこうかなあ」
「それより、早く、話を」
「会えたこと喜ばないの?」
「目的はそうじゃない」
「素直じゃないなあ」
この男は明らかに先ほどの電話越しの男で、電話では未枝のペースに吞まれていた。
だが、いま、この男は逆に未枝を小突いている。そして未枝は、少し照れているようにさえ見えた。
有多子はその様子を見て、緊張とは違う汗を流していた。
「それで、羽和高校の先生の件だよね。結論からいうと彼女―三島 夢花―は自殺だったんだ」
あの、平安なら美人だと言われただろう顔でー夢花などというかわいい名前、たいそう親にかわいがられただろうなどと思案するが、それは思考の外にすぐに追いやられた。
「手が縛られていた件はどう説明するの?」
「そのことなんだけど、手首を縛られたのは、死んだ後だったんだ。つまり、彼女が自ら命を絶った後で、誰かが殺されたように見せかけるために縛った」
「なるほど、手首に内出血がなかったから、とかそんな感じ?」
「その通りだよ」
未枝は有多子に視線をやった。先ほどより、顔が青ざめていた。
「で、有多子ちゃんは、教室に行くように指示を出されたと言っていた。しかも、ご丁寧にメモも見せてくれた。それはほんとうかな?」
「あれ?メモは警察が証拠品として持ってるよ」
「やっぱり。じゃああれはやはり偽物のメモなわけね」
未枝はあたりまえだ、というように頷いた。
「となると、本物のメモはその先生が書いた?」
「そうみたい。自殺する前に書き、有多子ちゃんに見つけてもらうように仕向けた」
「その意図はわかっている?」
「先生や生徒の証言から、ある程度はね。でも有多子ちゃんが知りたいか、どうかかな」
それは未枝が、先生の顔だちを見たときに思ったことだった。
有多子は、銅像のごとく固まって、うなだれている。その目はうつろだ。
未枝はそっと、つぶやくように、だが力強く言う。
「第一発見者が私に語った言葉は、先生が自殺であると知っている者の言動だった。他人に殺されたことを、強調して他人に言い聞かせなければいけなかった。いや、なにより自分に言い聞かせておきたかった。先生は自分で死を選んだのだ、と。なにより、警察の主張を覆すほどの証拠を握っているなら、警察に訴えかけた方が圧倒的に早いでしょう」
「確かに。だから有多子ちゃんがここにいると聞いたときは心底驚いたよ」
「それなのに、わざわざ私のところに来た。救いが欲しかった」
ねぇ、そうでしょう?という問いかけは未枝の心の奥底にしまわれた。
「あたしは、つみに、とわれますか」
有多子が震えた声で、言葉を絞りだした。
「自殺の原因を直接作ったわけではないし、警察も彼女がそうしたことを知っている。未枝さんには虚偽の申告をしたみたいだけど、未枝さんもそれが嘘ということに気付いたからね。罪にはならないよ。なにしろ君は被害者だよ。いじめを受けていたのだし、さらに味方だと思っていた人が」
男はそこで、言葉を止めた。
「これ以上は、やめておくよ」
「あたしは……これからどうやって生きていけばいいですか」
「それは、君が、決めることだよ。親とよく話し合って、ね。無理に学校にも行かなくてもいいと思うし。
色々、道はあると思うから」
「もしも困ったら私のことも頼っていい。いいえ、頼りなさい。それと」
有多子は未枝の方へ視線を向けた。
「私はその先生と微塵も似ていない。嘘の正義を掲げたりはしないから。私が思う正義で、予期せず人を傷つけてしまうこともある。今回の貴方のようにね。けど、貶めようとしているわけじゃない。それだけはわかって」
有多子は、目に涙をためて、小さく二回、うなずいた。
外は、深い黒に染まろうとしていた。
有多子の、その残酷で、美しい色と同じように。

―――

「だから、宅急便が11時に来るって言ってるでしょ」
「別に宅急便くらいいいでしょうよ」
「ダメなの。それまでは家を出れない」
「森岡くんも現場にいるんだけどなあ」
森岡という単語に、未枝は眉をかすかに上げた。
「あいつがいるからなんだっていうんですか」
「会いたくないのかい」
「貴方は何度言ったらわかるんですか、私は嫁じゃないって」
「おや?私は嫁だなんて一言も」
「ああああ、もう!」
未枝は自身の頭をくしゃくしゃとかき回すと、椅子から立ち上がって後ろを向いた。
未枝の前で、にやにやとした笑みを浮かべるのは、石郷。森岡の上司である。
「彼が呼んでるんですか」
「そうだったら、来てくれるのかい」
「……いや、行きません。話を聞くだけで十分です、第一、私は警察関係者ではありませんし」
石郷の言葉に、一瞬迷いが浮かんだが、未枝は冷静になった。
これは、罠だと思っていた。石郷が森岡と、自分を示し合わせるための。
もてあそばれている気がして不快に思っていた。
「それに、宅急便が」
「あとで連絡してもう一度来てもらえばいいじゃありませんか」
その時、二階から足音がした。
階段から顔をのぞかせたのは、白髪の男だった。
未枝と石郷を不思議そうに、見た。
端正な顔立ちは、どことなく未枝に似ている。
「兄さん、ごめんなさい。うるさかった?」
「いいや。大丈夫だよ。僕のことは気にしなくていい。出ておいで」
「でも……」
「はんこなら押せるから」
未枝はなにかをこらえながら、靴を鳴らした。
「こうなったら絶対行かないから!!」
「お兄さんもそういっているんですし」
「未枝、そんなに怒らないで」
「兄さんはいいけど、石郷さんは、許さないわ!!」
未枝は立腹して、外に出ていってしまった。
「すみません」
千作は困ったように頭を触って謝った。
「未枝はああなるとしばらく帰ってこないので。代わりに私がことづけておきますよ」
そこで千作ははっとした。
「ご挨拶が遅れました。未枝の兄の会馬千作です」
「ああ、気にしないでください。私は石郷です」
「名前は存じております。未枝から時々聞いていますので」
「私の話を?」
「ええ、まあ」
未枝が石郷のことをあまりよく思ってないということは、言わずにおく。
「どうして妹さんは、森岡くんの話をすると怒るのでしょうか」
石郷は、本当に何も知らない様子で聞いた。
「プライド、というものだとおもいますが。といっても素直になってくれてもいいのですが……」
「未枝だけに、見栄っ張りということですか」
そこで石郷ははっとした。いつも部下から、無神経だと言われている。
気を付けているつもりだったが、つい口に出してしまった。
「未枝は、なににでも一生懸命で、真っすぐな子なんですよ」
石郷の言葉に反発してなのか、千作はそういった。千作は曇りのない笑顔だったが、その笑顔に、石郷は寒気を覚える。
「それで、ここに来たからには、何かお話が?」
「ああ、いや。合馬さんに協力してほしいことがありましてね」
森岡くんのことはともかく、と石郷は言った。
「状況的に自殺と思われる事案なのですが、どうやら違うようで」
千作の瞳が獲物を見つけたときの、獣のようにギラついた。
少し鈍感な石郷も気づくくらい、明確に。
「もう少し詳しく、聞きたいのですが」
千作はこの話に食いついている。石郷は怖くなってしまった。
この男、よくわからない。
「いや、容疑者は、事件が起こった時間友人とゲームをしている真っ最中で。オンラインでしたが、ビデオと通話を繋いでいたので、机の前にいたことは明らかなんです」
「なるほど。その映像が録画だったということは、ありえなそうですね。通話も繋いで、反応もしていたのなら」
「そうなんですよ。亡くなった被害者ーこの容疑者の妻ーですが、亡くなる直前、部屋にいたことがビデオを通して確認されています。が、その妻が、ベランダから飛び降りた」
「なるほど。確かにその話を聞く限り自殺のようですね。でも、違う?というのは」
「一緒にゲームをしていた相手が、ゴン、という音を聞いたのですが、その直後、容疑者はベランダの方に様子を見に行った。そしたら妻が飛び降りていた、と」
「ほう?」
千作は顎に手をあて、うなるような声を出した。
「容疑者の部屋は15階です。地上まではかなりの距離がある。果たして、飛び降りたときの音が聞こえるものでしょうか。ゲーム音でかき消されていたと思うのですが」
「ふむ、しかもそれが相手にも届いていた、と」
「それに、ベランダは容疑者の自室でした。妻がそこから飛び降りたのは、不可解ではないでしょうか。そこにいたら止められる可能性の方が大きいでしょう。夫の自室を、しかもゲーム中にそこをわざわざ選ぶのはまるで」
「自分が死んだのはまさに夫がゲームをしていた時間だと証明するため、に思えますね」
「そう、そうなんですよ」
と言いながら、石郷は千作の後ろを気にしている。
「証明して特をするのは夫しかいません。もしも妻がよっぽどのかまってちゃんで、夫にかまってほしかったとしても、ゲームに集中していて、気づかないことのリスクが大きい」
千作の座っている、ソファが不意に沈んだ。千作の隣に、気づけと言わんばかりに鎮座する者。未枝だ。
「死亡時刻は、本当にその容疑者がゲームをしていた時間?」
「ええ。妻が飛び降りてすぐ、通報したそうで。死亡時刻はその10分ほど前、ほぼ誤差はない」
石郷は、最初から未枝がそこにいたかのように、言葉を紡いでいく。
「そう考えると、先に息の根を止めておいて、どこかに隠しておくのも無理かしら?」
「それも無理でしょう。容疑者の住む部屋から下の一部の住民は、窓の外を何かが落ちていくのを目撃している。そのあとすぐ下を見たら、女性が、血を流して倒れている。これらのことから、死亡時刻をくつがえすことは不可能だ」
「ビデオを繋いでいて、死ぬ数分前まで、奥さんはそこに映っていたんだ。
もし先に殺していたとしても、その後、友人とゲームをするのは正常な精神じゃあ不可能だろうね」
未枝はテーブルの端を見つめながら、正確に、必要な情報だけを石郷から引っ張りだす。
「その女性は、その飛び降りたことが死因?」
「そうです。毒をのまされた痕跡や、ほかに外傷はなかった」
「ゴン、という音を聞いた後の様子を聞きたいんだけど」
「ああ。容疑者は慌てた様子で、ベランダの方に行って、そしてスマホで通報していた。けど、その様子の時だけ、音が聞こえなかった」
「音が、聞こえなかった?」
未枝は、電気に打たれたように、目を見開いた。千作もなにかに気付いたようで、未枝の方を確認している。
「友人が設定をいじった記憶はないし、向こうに、声が届いているか、呼びかけてみた。そうしたら、容疑者は、こういったそうだ。『焦ってミュートにしてしまった』と」
「容疑者はベランダの方を確認したなら、画面の外に消えるはずよね。それはどのくらいの時間だったか、とか聞いた?」
「それも聞きましたよ。もしかしたら、その時間に殺したのかもしれないと思ったから。
でも、いくらなんでも5秒で人は殺せないでしょうよ」
石郷はやれやれ、というように手を振った。
「なんで5秒で人は殺せないと思ったの?」
「え、いやだって無理でしょう」
「だからなんで」
石郷は拍子抜けしたように、口をあんぐり開け、一瞬天を仰いだ。
そのあとで、でも証拠はあるぞ!というふうに息を吐いていった。
「ベランダにはもちろん、転落防止の柵があったし。身内といえ、抵抗されるでしょう。
それに、」
「それに?」
未枝は、真紅の口紅のついた唇を、右に挙げている。
実に、彼女に似合う色だ。それはもう、これ以上似合う人はこの世にいないだろう、と確信させられるほどに。
「睡眠薬を飲まされたり、手足の拘束、口をふさがれた跡もなかったし……」
石郷は、自分が取り調べを受けている気分になった。
対等だと思っていた、いや、少し自分の方が上だと思っていた立場が、今は、未枝の方が、上だ。
そういえば未枝は、自分より身長が少し高いな、とか、この場に及んで考えてしまう。
卑しい気持ちは何一つなしに、美しいと思ったことはあったが、そう思った時よりも、ずっと、美しいと思った。それは容姿だけでなく、内面的に。
さっき千作が言ったように、真っすぐな、心が。
「石郷さん?聞いてます?」
「え?」
身体を揺らされて、自分が関係ないところに行ってしまったのだと自覚する。
千作が、石郷の目の前で、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
未枝の方に目を向けると、唇を固く結んで、先ほど感じたものはどこへいったのやら。
「えっと、なんの、話でしたっけ」
自分は、刑事失格だ。色仕掛けにまんまとハメられるような、人間だ。
いや、過去に実は、かけられたことがある。その話は、今はしなくてよい。
「5秒で人は殺せる」
「どうやって」
何も考えず、反射的にそう答えた。先ほどの無駄なことを、考えている頭は、なぜ今、働かないのだろう。
「薬、拘束、そして抵抗なしに、人を殺すのは、実は簡単なのよ。相手の同意があれば」
「同意、?」
相手の同意、の前の、息を吸ったのが聞こえるほどの、一瞬の沈黙が心地よかった。
「そう」
「奥さんが、殺されることに、同意をしていた、あるいは、殺してくれと頼んでいたとしたら?」
「……それは、ありえな…いや、あり得る」
その時、石郷のスマホが鳴った。
「森岡くんか。え?容疑者に別の容疑が?は?児童買春?」
未枝は石郷のスマホを、にらみつけている。
「わかった。そっちに、戻るよ。今どこにいるって?いや、会馬さんのところ。
君が行けって言ったんでしょ。謎は解けたかって?ああ、おかげさまでね。会馬さんは、すごいね、
さすが、君のおよ……」
そこで未枝は石郷のスマホをひったくって、大声で叫んだ。
「自分で来い!!私に話つけるのはあんただろうが!!上司送ってくんな!馬鹿野郎ー!!」
通話を勝手に切る。石郷に、無言で、スマホを返す。
そして、勝手口からどっかに行ってしまった。
今ごろ森岡は、唖然としているはずだ。
「森岡くんは、なんと?」
「ああ……。容疑者に、別の犯罪の疑いが」
「奥さんはそれを知っていたのかもしれません。それで、自分の命と、旦那さんがやったことを、天秤にかけた。本質は同じなのに」
それじゃあ、未枝を探してきますので、と千作は外へ出て行った。
「二人は、お似合いだよ。最高に」
石郷は、そっと呟いて、探偵事務所の正面のガラス戸を開けて、通りに出た。
空を見上げて、息を吐いた。石郷の、胸にはある決意が宿り始めていた。
それから、石郷が、二人の関係性を揶揄することは、なくなったのだという。

――――
「未枝!」
未枝が店に入るなり、茶髪の女が大声で名前を呼んだ。
庶民的な、低価格で商品を提供するカフェ。
昼下がりだが、それなりに客は入っているが、その声は店中に響いてしまった。
「声が大きい」
「いいじゃない。いまやってる家業の宣伝になるでしょ」
「まあ、そうだけど」
でもね、と続けようとしたがその言葉は女によって遮られる。
「未枝。変わってないね、すぐわかったよ」
「安子だって、変わってないよ」
「いやあねぇ、変わったわよ。髪型の色とか違うし。それに年も取った」
「私だって年は取った」
「わかってるよ。未枝はあの頃からなんにもかわってないみたい。今もかわいい」
未枝は顔をしかめた。
「あ、怒ってる。未枝は、かわいいってほめるとすぐ怒る。あともう一つ弱点があったよね。も」
未枝は嫌な予感がした。先手をきって、話しかける。
「今日はなんで呼んだの」
「そう、そのことなんだけど」
安子は、未枝に左手の指輪を見せつけた。
「私、結婚するんだあ」
安子は満面の笑みを浮かべていたが、未枝は怪訝な表情をしている。
「なに?どうしたの?大学時代からの友人の結婚がよろこべないって顔してるけど」
「違う、喜んでるよ」
「なんか泣きそうな顔してるよ」
「普段からこんな顔よ」
未枝は、大学時代からの友人である安子が、何をいわんとしているのか察しがついた。
どうせこの子も、「あいつ」とのことを聞いてくるつもりなのだ。
「結婚したら、どうするの?」
「そうだなあ。しばらくは今の仕事を続けるけど、子供が欲しいから、子供ができたら、専業主婦になる」
茶髪に少し派手なメイク、露出の高い服。このような体だが、安子は昔から家事が得意だった。
妹と弟がひとりづついて、子供の扱いもお手の物だ。
「未枝は」
「私のことはいいよ。安子の結婚の報告なんだから」
安子はつまらなそうにして、未枝をまじまじと眺めた。
「納得したよ。未枝は一途なんだね。髪型もさ、メイクも、服も、なにひとつ変わってないから」
「別に。これが楽なだけ」
未枝は少し長い、黒に艶めくポニーテイルを揺らした。
左頬にはひとつ、ほくろがある。
「あのあと、どうなったの」
「あのあと?っていつの後?」
「森岡と別れた後」
コーヒーを飲む、未枝の手が止まった。安子が、未枝に呑めと言わんばかりに、先に注文していたものは、すでに冷め切っている。
未枝は、コーヒーの表面を見ている。
「探偵業を始めたのは、知ってるよ。未枝が話してくれたもんね」
安子は、頬杖をついて未枝の言葉を待っている。なんとも小悪魔的なしぐさと表情だ。
「……」
未枝は頑なに、口を閉ざしたままだった。ついにコーヒーを飲み干して、席を立つ。
「結婚の報告、ありがとう。ちなみに私からはそういう話は、ないから」
ずっと、これからもありえないのだ、可能性さえもないという風に、未枝は言い切った。
それを察した安子は、未枝に興味がなくなったというように、視線を床に落とした。
「ふうん。すごい否定するってことは、そういうことなんだねえ」
未枝は自分のことを理解してくれたのだと思った。しかしながら、未枝の中には、言い表すことのできない、わだかまりが広がっていた。
その時、店員の声が聞こえた。
「お客様の中に、会馬未枝さんはいらっしゃいますか」
「え?未枝、呼ばれてるよ」
「言われなくとも……会馬未枝は私ですが」
「お客様にお電話です」
「電話?」
未枝は店員から電話を受け取った。
「もしもし、だれ……」
「いまから10分後に、森岡惠二を殺害する」
なんのことか一瞬わからなかった。相手の声はボイスチェンジャーを通しているようだった。
「いたずらならよして」
「いたずらではない。もう一度言う。今から10分後に、森岡惠二を殺害する」
未枝がパニックになりかけていると、おそらく男であろう電話越しの相手が続けた。
「俺が電話を切ってから10分後。阻止したければ、殺害現場に来て、身代わりとなれ。お前なら、できるだろう、会馬未枝」
「わかった、わ」
「森岡に、居場所は聞くな。森岡がスマホを手にしたのを見た時点で、殺害する。それではな。待っているぞ」
電話が切れた。
未枝はその場に突っ立って、恐怖におののいていた。そのまま、無我夢中に外へ飛び出した。
頭の中は、霧に覆われたみたいだった。なんども、聞いたことを、反芻して、かみ砕いていく。
「未枝!」
その様子に安子が後を追おうとするが、未枝は雑踏の中へ消えてしまった。
相手は未枝がカフェにいたことを、知っていた。つまり少なくとも、カフェが見えるところにいたはずだ。そこから、10分の範囲。東西南北のことを考えて移動しては、到底間に合わない。
犯人は、未枝に猶予を与えている。電話を切ってから10分。ということは少なくとも、相手もその後に移動するということである。
いいや、移動しないでこの場所におびき寄せ、殺害する可能性もある。だが、それでは犯人が先に見つかってしまうことのリスクがあるため、やはり相手方も、移動するのは確実だろう。
森岡が、スマホを手にしたのを見た時点で、と未枝に、注意喚起していた。
この雑踏の中で、特定の人物を探すのは大変苦労するだろう。
つまり森岡は、目立つところ、例えば高いところに来るか、あるいは最初から特定の場所にとどまっている可能性もある。
留まっているというと、なにか目立つものの前にいる。
犯人もまた、その様子を見ることができる場所、つまり辺りを見回せるような場所にいるということである。
未枝は腕時計を見た。15時14分になったところだった。電話中に店内の時計を見たとき、15時10分だったので、4分していた。
未枝は、辺りを見回した。
このあたりで、目立つ場所。そしてそれを眺めることのできる場所。
ふと上を向くと、看板が目に入った。
そうだ。確か朝方、このあたりで女性が歩道橋から突き落とされたというニュースを見た。
未枝も女性だからと、一人歩きは気を付けるようにと、言われた覚えがある。
それは向かって東の方、ここから行けば、歩いて5分、走って3分。
未枝はその方向へ走り出した。
足の速さには、自信がある。小学校、中学校と、たいてい徒競走は1番か、2番。
だが今、ヒールを履いていることと、あの頃から10年以上、どちらかといえば、20年に近い年月が経っている。
そもそも、未枝の考えが必ずしもあっているとは限らない。
もし、合っていなかったら?もし、森岡が、本当に殺されてしまったら?
私は、私は。未枝は自問自答していた。
信号にひっかっかってしまった。時計を見るのが、怖かった。
時が止まってほしいと、願った。それでも、確認しなければならなかった。15時17分。
永遠にも思えた、赤信号が、青色に変わる。それは、救いの青色にも見えた。
歩道橋は見えてきた。歩道橋のところに、何人か作業している。おそらく、警察の現場検証だ。
だがそこに、森岡は、いない。なぜ、いない。まだ、来ていないのか。あたりを見回した。
周囲には、4階から、5階のビルがある。どの建物に?
その時、未枝は気づいた。自分が、道の真ん中にいることを。そういえば、道の方でも警察が作業している。
この状況は、まるで―――。
「未枝、さん!」
クラブが入るビルから、森岡が自分の方へ駆けてくる。
未枝の脳裏に、とある記憶が浮かぶ。
『未枝、危ない―――』
あれは、もう、5年以上前の話だ。
今と同じように、兄が、自分をかばって――。
ガラガラ、と何かが崩れる音、ーそれは記憶の中の音だったと思うーが鳴って、未枝は道路に倒れこんだ。
未枝は、はっとした。
「森岡!!」
森岡が、自分にかぶさるようにして、倒れていた。彼の白いシャツが、赤く、染まっていた。この世で最も、見たくない赤に。
未枝は、森岡に、触れた。
右の、脇腹から、出血している。
「未枝、さん……だいじょうぶ、ですか」
「しゃべらないで、私は、無事よ」
幸い、警察官が傍にいたので、すぐに救急車が手配された。
未枝は、森岡を、そっと抱きしめた。
「ごめん、わたし、」
「未枝さんが、無事なら、いいんだ、僕は……」
森岡の手の甲に、ぽたりと一粒、跡を残した。

――――

それは10年ほど前のことだった。
未枝は、大学生だった。大学から帰るとき、外で食事をしようというので、兄の千作と待ち合わせていた。
街路樹のある通り道を二人で歩いているとき、未枝が、お店のショーウィンドウが気になったようで、少し先に歩いて行った。
その時に、事故は起きた。
何かを、はがすような音が千作の耳を劈いた。そして、土とカビのにおいが、鼻腔を通り抜けていく。
すべてがスローに思えた。ほんとうにそのようなことがあるのだなと思った。
街路樹が、未枝の方に、倒れようとしている。
それは女性にしては背が高い未枝の2倍以上。
『未枝、危ない―――』
千作は未枝の名前を呼び、急いで駆け寄ると、未枝を突飛ばした。
『兄さん!』
未枝は、自分をかばって、木の下敷きになる、兄を見た。
千作は頭から血を流し、動かなかった。
「兄さん!兄さん!」
「え……」
かろうじて、意識はあった。人通りが多い道だったので、すぐに病院に運ばれ、千作は一命をとりとめた。
だが、千作は、その事故の影響で、脳の一部の機能が損傷した。喋れはするが、文字を読むことができなくなった

……

「おそらくは、この物語も、読めまい」

――――

未枝はそっと、目を開けた。目の前には、真っ白な布があり、その中で、森岡が横たわっている。
その白さに、未枝は一瞬、最悪のことが起きたと思った。
だがそれは杞憂だった。部屋は明るく、森岡の顔の方にまで、布は及んでいなかった。
未枝は安心し、ため息をついて、そっと立ち上がった。
立ち上がった時に手をついた場所が、ひどく濡れていた。
森岡は、穏やかな息をしている。
ここまで、どうやってきたのか、森岡が倒れたあとのことはよく覚えていない。
それに夢を見ていた。ひどい悪夢。いや、実際に起こったことなのだし、
夢ではない。
だが、見知らぬ誰かが語り掛けてきたような気がした。
未枝が、近くの椅子に腰かけようとすると、看護師が部屋に入ってきた。
「ああ、目覚めたのですね。森岡さんは、まだですか」
「この人の、傷の具合は?」
「そんなに深くなく、臓器の損傷もありません。命に別状はないですし、弾丸も捕りのぞかれたので、後遺症などの心配はないでしょう」
弾丸。その言葉にやはり、森岡は誰かに打たれたのだと思った。
「いまは麻酔で眠っていますが、もうすぐ起きると思います。様子を見てですが、一か月くらいで、退院できると思います」
「ありがとう、ございます」
未枝がそういうと、看護師はそっと会釈して部屋を出ていく。
それと入れ替わりに、石郷、そして千作が入って来る。
「兄さん、そして石郷さんも」
未枝にはいつもの気迫がなかった。
「ああ、森岡くん、よかった。大事がなくて。本当に」
「石郷さんに連絡を受けてね。未枝は大丈夫かい」
「わたしは、なにも、」
「森岡くんは、誰かに打たれたって話だけど」
「そう、私を、かばってね」
未枝がなにをいいたいのか、千作だけは理解していた。
未枝は項垂れて、椅子に腰かけた。
「会馬さん、その撃たれたという話なんですが、その森岡くんと一緒に出ていた藤元というものから聞いた話で、森岡くんが聞き込みをしていたところに、電話があったそうで。いまからお前の大切な人を、お前の前でころしてやる。だから通りに出ろ、と。それで通りに出たら、あなたがいて、森岡くんは、いちもくさんにあなたの方へ。そして撃たれた、と。そういうことですが」
「……彼が、建物から大慌てででてきたのは本当よ。それと、」
未枝は、石郷の方を見た。私にも似たような電話があった」
「おや、というと?」
石郷は手帳とペンを取り出した。
「あの場所から、少し離れたカフェにいたとき、店に電話が。森岡惠二を10分後に殺すから、それまでに現場に来て、身代わりになれ。という趣旨の、それで私は店を飛び出してあの場所にね」
「犯人は、二人に電話を?どっちも殺すつもりだったのでしょうか」
「僕には、未枝をおびき寄せてころそうとしたように思えるのですが」
「……ふむ、たしかに」
石郷は、頷いた。
「あの場所、今朝方事件が起こったばかりで。警察がいることは明白でした。その場所を選ぶのは、ずいぶんとおかしな話ですよね。自分だって、すぐ捕まってしまう可能性があるのに」
「それに、近くに森岡くんにもいることをしっていて、電話した。大切な人をころす、と。その時点で、犯人は、森岡くんが未枝をかばうことを予想していたはずです」
「ということは、最初から本気で殺す気はなかった?」
「そうでしょう。本当に殺したいのなら、まわりくどいことをする必要はない。どちらかといえば、二人を試したように思えるのですが」
「私のせい」
未枝が、震える声で、言った。
「私のせいで、かれは、撃たれた。私がいつまでも、未熟だから」
未枝は病室の外へ出て行ってしまった。
「あの、ぶしつけなことと分かったうえで、お聞きするのですが」
「はい」
「森岡くんと会馬さんは、大学時代の友人だときいたのですが」
「ええ、そうですね。友人というか、森岡くんが、未枝の後輩にあたりますね」
「なるほど。ええと、その当時から仲はよかったのでしょうか」
「まあ、態度は今と大体同じでしたが、その、結婚の約束を。」
石郷は、その事実を初めて知った。酒の席で、森岡が酔って、未枝のことをかわいいと、でもかわいいというと彼女は怒るのだと。自分は未枝のことが好きだけど、彼女の想いを尊重したいから、だから、自分は、このままでよいのだ。と言ったのは聞いた。その時確か自分は、森岡を叱った気がする。
「その結婚の約束が破談になったのは、なにか理由が?」
「その二人の仲を引き裂いたのは、僕なんです。意図せずに、なんですけど」
「なんですって?」
千作は両手を前に出し、ふる。わざとじゃないんですが、間接的に。と付け加えた。
「僕が、結構大きな事故にあって。生活に支障が出るほどの。それで未枝は、生計を立てるために、大学を辞めてしまったのです。働いて兄さんを支えるんだ、と。それで、森岡くんとの結婚を断って。連絡先もその当時は削除していたはずです」
「そんなことが、」
石郷は、唖然としていた。
「僕も。未枝に、気にしなくていいよ、と未枝は自分のしたいことをすればいいんだよ、と。言ったのですが、僕を支えるのがやりたいことだ、ときかなくて。でも本当は、、。事故にあう前も、森岡くんのことは、よく話をしてくれましたから」
「貴方自身はそのことをどう思って?」
「もちろん、罪悪感というかはあります。こうして二人が再開して、あの頃のように仲睦まじくなったのは幸いでした。でも、このままでは、すっきりしないですね。僕ももう、職について、問題なく生活できていますし」
「こう、お互いに押し問答をしているような、そんな感じですね」
石郷は、うなった。
「もう少しで、未枝の誕生日なので。その時に森岡くんがなにか動いてくれたらいいのですが」
「森岡くんには、少しきつめに助言しておきましょう」
うんうん、と。
「これは単純な興味本位ですが、お兄さんの今のご職業は?」
「ああ、保育士を、しております。あの子たちは難しい言葉を使わなくていいでしょう?
節分のときなどは、子供たちに追い掛け回されていますよ」
千作の、目じりを下げて柔和に笑うその表情とあいまって、世界で一番説得力があると思った。でも、謎を解くときの彼は、まるで別人だ。
いったい、どういうことなのだろう。
石郷は、この会馬兄弟に興味を抱いていた。未枝のことはわかってきたが、兄、千作のことは、いまいちわからない。
推理小説などであれば、笑顔の裏に狂気が隠されていような雰囲気がある。
それにこの人は、白髪だが、自分より10歳くらい、年下のはずである。
白髪なのは事故の影響かもしれないが。
石郷にとっては、数ある難解な事件よりも、この兄弟のことが気になってしかたなかった。
やはり、自分は刑事失格だ。と思った。そして、石郷の心の中には、この時点で、暗いものがとどまっていたのである。
それはまた、後の話。

――――――
木々の間から、光が差し込む、図書室。
もうそろそろ、生徒が入れる時間は、終わる。
森岡は、借りていた本を棚にしまおうとした。
「あ」
一番奥の、棚の裏。そこは机と椅子が並んでいて、誰でも使えるようになっている。
そこに、一人の女性が突っ伏している。
「未枝さん?」
森岡は声をかけた。が、返答がない。
森岡はそっと、傍によって、隣に腰かけた。
この位置は、入り口から死角になっている。
未枝が突っ伏す机には、ノートが広がっており、文章が途中で止まっている。
俺の家で、昨日の夜も、遅くまで起きてたな、などと森岡は考えた。
その原因をつくってしまったのは、自分だ。朝には、いなくなっていたが。
申し訳ない、と思いながら、今、頭を撫でたら、未枝さんは怒るだろうか。
そう考えながらも、森岡の手は未枝の頭に伸びる。
その瞬間未枝は飛び起きた。
未枝は、明らかに、怒っている。
森岡は、必死に弁解しようとする。
「未枝さん、もうすぐ図書室、しまるよ」
「ん」
未枝は、そう短く言うと、ノートや文房具を片付けて、立ちあがった。
「無理しちゃだめだよ」
「わかってる」
森岡を置いて図書室を出ようとした未枝の背に、声をかけた。
「今夜も、家に来るんだよね」
未枝は振り向かなかった。
「今日は、行かない」
未枝は、怒っているわけではなかった。
言葉として出そうになった劣情を、抑え込むように、唾を飲み込んだ。
「でも、未枝さん、すごく、きれ……」
未枝は、ノートを森岡の口に、押し付けた。
「馬鹿。それは外で言わないで」
「じゃあ未枝さんも、こんなところで寝ないでよ。ほかの人に、寝顔見られたくないんだ」
「……それは、気をつける」
未枝は、それだけ言うと、さっさと、図書室を出て行ってしまった。

―――――
窓から、月明かりがさす。
森岡は、長い眠りから、目を覚ました。
そばには。未枝がいた。
森岡は、未枝の頭を優しくなでた。
未枝はそれに、目を覚ます。
「森岡、」
「未枝さん」
「やめて、撫でないで」
「はは、相変わらず、未枝さんはかわいいな」
未枝は口を堅く結んだ。
「かわいいって、言われるのは、そんなに嫌い?」
「かわいい、じゃなくて、ちがう」
「ん、なんだろう。」
森岡は、目を見開いて、首を傾げた。
「その話は、いいのよ。その……」
「今回俺が怪我したのは、未枝さんの、せいじゃない」
「また、守れなかった」
「またっていうのは、千作さんのこと?」
「兄さんだって、あんただって、私のことを、かばって」
「守りたいと思ったからだよ」
森岡は、ピアノの旋律のように心地よい、声で言った。
「未枝さんのことを、守りたいと思ったから。きっと、千作さんも、同じ」
そして、と続ける。
「同じように、未枝さんも、俺や、千作さんのことを、守りたいと思ってる。そうじゃないのかな。」
森岡は天井を一度仰いだ。
「俺が刑事になったのは、確かに市民を守りたいという気持ちがあったからだ。でも、本当に守りたいのは、未枝さんなんだよ」
未枝は驚いて、目を見開いた。いつもの未枝ならば、うるさい、などど一蹴しているだろう。
だが、今は違う。
「未枝さんが、強がっているけど、本当は弱くて、繊細で。そして優しいことを、俺は知ってるよ。千作さんにはまけるかもしれないけど」
しばらく、沈黙があった。
「私が、探偵になったのは……兄さんを、喜ばせるため。運のよいことに、私にはその才能があった。兄さんの笑顔が見たくて、私は、」
未枝は、顔を両手で覆った。
「私は……あんたのために、何をしたらいい?」
顔を隠していたが、未枝は、泣いている。
「昔みたいに、惠二って呼んでほしいなあ」
「けいじってよんだら、混乱しちゃうでしょ」
「ん、まあそうかな」
二人は、そっと、幸せをこぼした。
「未枝さんが、俺のために何をしたらいいか。未枝さんにはそのままでいてほしい。俺は、そんな未枝さんが、好きだよ」
森岡は、未枝の涙を、親指で拭って、
おいで、と。未枝を抱きしめた。
「やだ、離して」
「誰も見てないから」
「そういう、問題じゃない」
「離したくないな、今は」
森岡が、耳元で言った。
「……今だけ、よ」
未枝は素直にそれに応じた。
「未枝さん」
「なに、」
「……愛してるよ」
「……」
未枝は、声には出さなかった、が、わたしも、と口を動かした。
森岡の心に、その声は、聞こえた気がした。
―――

「こんにちは」
「おや。森岡くん」
森岡は、正面の入り口から探偵事務所に入った。
その手には、紙袋を下げている。
「未枝なら、出ているよ」
「仕事、ですか」
「そうだね」
「そうですか」
森岡は少し、悲しそうにうつむいた。
「いつ、帰ってきますか」
「さあね。未枝が謎を解いたら、かな。それまでどのくらいかかるかは、僕には。でもきっとすぐだよ」
千作は得意げに笑った。
「これを未枝さんに」
千作は神妙な顔で、それを見た。
紙袋の隙間から、青い、手乗りサイズの箱と、便箋の封筒が、垣間見えた。
「思いを直接、伝えなさい」
「やはり、そうですよね」
「そこに、君の本当の気持ちが、記されているんだろう」
わかっていたというように森岡は押し出した手を、自分の傍に戻した。
「未枝に、電話するよ。埠頭に来るように。あそこは君たちが通っていた大学が見える」
千作は固定電話の受話器を手に取った。
呼び出し音が数回鳴り、もしもし、と応答がある。
「未枝、あとどのくらいで帰ってこれそう」
「わからない。でも、すぐに戻るわ。兄さん、どうしたの」
「今日、その仕事が終わったら、埠頭へ来てほしい」
きっと、未枝は向こうで怪訝な表情をしているだろうと思った。
もしかしたら、こちらが何を考えているかもすぐに理解したかもしれない。
「……わかったわ」
沈黙の後、未枝は素直に承諾した。
通話が終わると、まだ時間があるから、と森岡をソファのほうへ促した。
「森岡くん」
「はい」
名前を呼ばれ、森岡は姿勢を正した。
「お茶でいいかな」
「お気遣いなく……」
森岡は姿勢を低く、千作のことを見ている。
「未枝は」
千作がお湯を沸かしながら口を開いた。
「君も知っている通り、素直じゃなくてね。時々わからなくなるだろう、どう思っているのか」
森岡は、どきりとした。それはまさに、森岡が思っていたことだった。
「でも、君のことを、大切に思っているはずだ。大学時代も、今も、未枝は私に君の話ばかりする。あの当時から変わらず、毎回、同じ表情で。いや、日々その思いは、強まっている。まるで恋焦がれた少女のようにね」
森岡は、何と答えたらいいかわからなかったので、自身が問いたかったことを口に出した。
「未枝さんは、貴方の笑顔が見たくて、探偵になったと、言っていました。大学をやめたのが、兄である貴方が事故にあったことが原因だとは知っていました。でも、探偵になったのと、それとは、結びつかなくて」
「それは、多分、僕が推理小説家を目指してたからかな」
千作はティーカップをテーブルに二人分置きながら、気恥ずかしそうに、笑った。
「推理小説家を?えっと、目指してた?……あきらめてしまった、のですか?」
森岡は、聞いてからはっとした。千作はいいんだよ、と言って、言葉をつづけた。
「字が読めなくなってしまったから。事故でね。君もそれは知っているでしょ」
「はい」
「しゃべることはできるけど、文字が読めないし、書けないから。あきらめるしかなかった。
全部、歪んで見えるんだ。僕が思い描いていた世界が」
森岡は、千作のその言葉を選ぶ感覚が、小説家のそれであることを感じ取った。
「未枝は、昔から、僕が推理小説を書いていることを知っていた。まあ、なぜか未枝は、僕のことを探偵だと勘違いしてたみたいだけど。
兄さんは、探偵みたいだね、かっこいい。なんて言って。僕は、違うよ、と。僕は探偵の助手だよ。って。
探偵は二人もいらないんだ。って。そしたら、未枝は怒ってた」
千作は懐かしむように笑っていた。それに森岡の心は針を刺したように痛んだ。
この人は、自分の知らない未枝さんを、知っている。
「昔も今も、未枝はかわいいよ。わかるでしょう」
「それは、まあ……」
「もしも、今、文字が読めたら。かけたら。間違いなく主人公は未枝だよ」
千作は真っすぐに、森岡を見て言った。
森岡の心は、さきほどより、ずきりと傷んだ。
「まあ僕は、万年筆を持つには少し足りなかったてことだ。千なんて、名前についてるから」
千作は悔しさを感じさせないほど朗らかに笑った。だが、言葉には、その無念さ、切なさが表れている。
「僕も、結婚したほうが、いいのかなあ」
千作が、突拍子もなく言った。結婚、森岡はその言葉を、ひっそりと心中で、誰にもバレないように、反芻した。
「どうしてですか」
「ん、いや、未枝には、自分のしたいことをしてほしいんだ。僕のことを、気にしないでさ」
千作は期待を込めるような目線で、森岡を見た。
その目線に耐えられず、目をそらす。千作がどんな表情かは、知らない。
「そういえば、ここでの探偵は未枝さんですけど、未枝さんが出ていても、開いていますよね」
森岡はなにかを思い出したように言った。
「まあね。未枝がいない間は、僕が代わりに。
推理小説を書いて時の名残かな、謎があると、首を突っ込みたくなるんだよ。千作だけに、詮索が好きなんだよ」
千作は、苦笑い開いた。森岡もつられる。
上司である石郷が、いつだか口にしていた。
会馬さんの兄のことがよくわからない、と。確かにその気持ちはわからなくはない。
少なくとも、自分は大学のころから交流があったけど、いつでもにこやかな、優しい人という印象だった。いまでもそうだ。
でも、やはり兄弟であるから、似ている。この人も多くを語らないが、その心の奥底に、真っすぐな信念を持っている。
お互いの気持ちの強さも、そうだ。この人には、俺は敵わないな。それでも―――
森岡は立ち上がった。
「千作さん」
「ん?」
「未枝さんが、その気になったらで、いいんです。俺に、未枝さんを、ください」
森岡は、勢いに任せてそういった。でも、後悔はしていなかった。
思わず口走ってしまったが、それを千作に言えて、よかったと思えた。
これで、なんの迷いなく、未枝に会える、気がした。
「未枝は、もう」
千作は何か言いかけたが、やめて頷いた。
口角をあげて、卒業する生徒を見送る先生のようなまなざしを、森岡に向けた。
「……頼んだよ」
「はい」
「もう、行くかい」
森岡は頷いた。
「ありがとうございます」
「いいや、僕は何も、してない。僕はずっと、誰かの引き立て役だから、ね」
森岡は、深々とお辞儀をして、探偵事務所を出た。
これから向かうのは、埠頭。
大学時代、純粋な気持ちでお互いを見つめあっていた、あの場所。
その頃に、今なら、戻れる気がした。
―――――――

「森岡くんを打った人物に、心当たりは」
「さあ。でも、きっと大学が一緒だった誰かじゃないの?」
未枝は、あたりを見回して、不機嫌そうに、椅子に座っている。
そこに相対すのは、石郷だ。
なぜか、広い会議室に二人きり。
「なぜ、そう思うんです」
「さあね」
未枝と森岡に脅迫電話をかけ、そして森岡にけがを負わせた犯人は、まだ見つかっていない。
撃たれた際、警察が傍にいて、なおかつ、撃った場所まで特定されたが、犯人は逮捕されていなかった。
「会馬さん、適当なことをおっしゃらないで」
「私が適当に推理した時が一度でもあった?」
「いや、それは」
未枝は、眉をひそめて、石郷を、にらんだ。
石郷は椅子からたちかけて前のめりになっていたが、椅子に腰を戻す。
そしてハンカチで汗をぬぐった。
「……他の人、呼ばなくていいの?」
「え?」
「立会人はいなくていいのって聞いてるんだけど」
「立会人、とは?」
「ほんとうに、一人でいいのね?」
「いや、先ほどから何をおっしゃっているのか」
「それが、貴方の望みなのね」
未枝は納得して、立ち上がった。窓の外を眺める。
「わざわざ、森岡くんに、休みまで与えて。あなたにとっては、一番知られたくない存在なのね」
「正直に言ったほうが、いいわよ。じゃないと私、」
「……わ、わかりました」
石郷は、何かに気付いたようだった。それは恐怖におののいたようにも見える。
ため息をついて、うなだれた。
「貴方、警察官でしょ」
「まあ、一応は、」
「一応って、そんな中途半端な気持ちで?そりゃあそう、よね。こんなことを起こしたのだから」
「……自分は、警察官に向いてないと、感じていましたから」
「それで、やめるきっかけが欲しかった?だから、犯罪に手を?」
どちらが警察官か、わからない。もしも何も知らない人にこれを見せたならば未枝の方を警察官だという者のほうが多いだろう。
「殺す気は、なかった」
「そうね、だって急所を外してたもの。でも、彼が本当に死んでたら、どうするつもりだった?」
「それは」
「死ぬことを想像に入れないで、撃ったの?」
「いや、」
「迷いは」
未枝は、石郷に隙を与えず、質問していく。
「迷いは……なかった」
「微塵も?」
「自分は、厳しい訓練を積んだ警察官ですし」
「へえ、」
その一言で、怒っているのだろうということは、容易に推測できた。しかし、いつもの怒りとは違っていた。
「警察官の立場を利用したということよね」
「まあ、いいようによっては」
「貴方が、自分で言ったように、警察官、失格だわ」
「ええ、そうですね。わかっています」
「みんな、知ってるのよ。貴方が犯人だってこと。でもね、いつ言おうか、迷ってたのよ。気づいてなかった?いや、貴方なら気づいていた。気づいていたからこそ、ここに私を呼んだんでしょう」
「……おっしゃる通りです」
「貴方は同僚からも、信頼されてたみたいね。きっと、彼もそうだったと思う。その信頼を、貴方は最悪の形で裏切った。彼が知ったらどう思うでしょうね」
「悲しむ、と思います」

石郷は机の上を見たまま、口だけを機械的に動かす。
「それもあるけど、それより怒ると思うわ。警察官としてのありえない行為に。そして何より……」
未枝はそこで口を閉じた。
「会馬さん」
「何?」
「森岡くんのこと、頼むよ。自分の代わりに」

「貴方にそれを言う権利は、ない。余計なお世話よ」
石郷は、恐る恐る斜め上を見上げた。
「最初から彼を、貴方に任せた覚えは、ないわ」
石郷は、これ以上、何も言えないなと思った。さらに委縮してしまった。
この人の、信念のもとに、己のことは、語る筋合いはない。
「わざわざ、彼に休みまで与えて。あなたにとっては、一番知られたくない存在なのね。だけど、貴方よりずっと、私の方が……」
未枝は首を振って、もう一つ、石郷に問うた。
「私がもし今、貴方を殴ったら、罪になる?」
「ど、どうでしょう。ならないと思いますけど」
「そう。でも殴らないわ。やっていけないことが何か、わかっているから。貴方と違ってね」
未枝は石郷に背を向けた。背中まで伸びたポニーテイルが揺れる。
「あと、なにかいうことはある?」
「いえ、別に……その、謝って済む話ではないので」
「そうよね。すみませんで済んだら、警察官は、いらないもの」
そう言って、未枝は部屋を出ていく。
石郷は、広い部屋にひとり、取り残される。
時計が刻む秒針が、自分の罪が公になるまで、もう少しだといっているように、耳の奥に響いている。
その場からしばらく、動けなかった。

ドアが開いて、誰かが入って来る。
それが、自分の部下たちであることはすぐにわかった。部下は、最初言いよどんだ。
「どうしてですか」
「……それは、取り調べ室で、話すよ」
石郷は短く笑った。それは、警察官ではなく、それとは正反対の道を行く、者のものだった。
「石郷警部、いや……石郷道吉、殺人未遂の容疑で、逮捕します」
石郷は、小さくうなずいた。
「残念、です」
正義の裁きが下された。正しき志を持つものによって。

――――――

それは、森岡が、刑事になって数年したころだった。
「森岡くん」
森岡は上司の石郷に呼び出された。
「最近このあたりで、新しく探偵業をはじめた者がいるらしい。そこで、その者に、情報提供などを頼めるか、聞きに言ってくれないか」
「わかりました」
「会馬探偵事務所、というところだ。看板が小さいって話だから、注意して探すんだ。住所は、これだ」
メモ用紙を手に取って、確認する。
「じゃあ、頼んだぞ」
「はい」
森岡は、スマホで住所を打ち込んだ。そんなに遠い距離ではない。
自転車に乗り込んだ。
「会馬、珍しい苗字だなあ。」
そう近くに何人もいる苗字ではない。
森岡の頭の中に、ぼんやりと、女性の姿が浮かぶ。濡れ羽色のポニーテイル。左頬のほくろ。すらっと、長い脚に似合う、パンツ姿。
「まさか、そんなこと」
現に、彼女がもともと住んでいた住所とは異なる。
彼女は、確かに見た目は探偵、あるいは刑事といった感じの見た目だ。性格も、少し気が強い。
頭も、おそらく凡人よりはよい。でも彼女は、そんなものとは無縁だったはずだ。将来は安定した職につくのだ、そのために勉強を頑張るのだと言っていたのを知っている。
でも、今彼女は何を、しているのだろうか。
大学をやめ、自分にさよならを告げた彼女。
森岡はその会馬という名の人物の正体を確かめるため、急いで向かった。
「ここ、か」
確かに言っていた通り、看板は小さい。それでは客が来ないだろうに。
しかし、正面のガラス戸から、机と椅子が真正面に見える。
そこに、誰かが、座っている姿が見える。新聞を広げて読んでいる。男性だろうか。
ふいに、新聞紙が下がって、その奥から、姿を見せたのは、女性だった。
ぬれば色のポニーテイル。左頬のほくろ。人によって好みの別れる切れ目。
ちなみに森岡は、その切れ目が好きだった。
その、この身が焦げてチリになってしまうような力強い視線で、じっと、見つめられる。
彼女だ。あの頃。大学の頃と何も変わってない。
森岡が、ポニーテイルが好きだといったから、目元ははっきり、口紅は真紅が一番似合うといったから、だろうか。
何も変わってない。
森岡は、探偵事務所に足を踏み入れた。
「警視庁から来ました、森岡です。アポは取ってあると思うんですが」
彼女はこちらのことを知っているだろうが、挨拶は丁寧にした。それがマナーだ。
いや、彼女が知らないふりをするかどうか、試す部分もあった。
それで、無視されたら悲しかったが。そうならないという確信が、あった。
「警視庁の森岡って、あんただったの」
「未枝さん」
「警視庁、ねえ。ってことは警察なんだよね」
「そうだよ、未枝さん」
「ふうん」
「未枝さん」
「何!!何度も呼ばないで。私は確かに未枝だけど」
目の前の彼女は怒ったように、腕を振った。でも本当に怒っているわけではないのだ。
未枝は、世にいうツンデレという性格なのだ。森岡が知っている限りでは、少なくとも大学時代からそうであった。
「探偵、やってるんだ」
「まあ、そうだけど」
「よかった、また会えて」
未枝は、森岡を見つめ、その後で、椅子を回して後ろを向いてしまった。
「で、なんの情報が欲しいの?」
「え?」
「だって、情報提供を頼みに来たんでしょ。なんの情報が、ほしいの」
「今日は別に、頼まれてないよ。挨拶だけ」
「そう」
「私の担当は、惠二になるの」
「今のけいじは、どっち」
「警察官の方、」
「そうか。わからない。担当にしてもらおうかな」
「ちゃんと仕事しなさいよ」
森岡は、あははと笑って室内を見回した。
「その、迷惑をかけたくなかったから、さ」
「なんのこと?」
「いや、なんでもないわ」
未枝は勢い余って、森岡と相対するが、頬を赤く染めて、目が泳いでいる。
「未枝さんはやっぱり、かわいいなあ」
「うるさい!帰れ!」
「はいはい、挨拶だけで頼まれたことは終わったからね。じゃあ」
「……待って」
「どうしたの?」
未枝は何か、言いたげに、腕を組んでいる。
「いま、彼女とか、いるの?」
森岡は、目をしばたいた。
「いや、待って!!そうじゃない、違う。なにか困ったことがあったらうちに、」
「いないよ。あれから、ずっとね。未枝さんのことが、忘れられなかったから」
未枝は、驚いたように、しかし安堵も混ざったような表情を見せた。
「私だって……」
「未枝さんが、その気なら、今でも」
「それは……必要ない!!」
締め出された。でも、一瞬迷いがあったのは気のせいだろうか。
俺が好きだった、未枝さんのままだ。
これは、運命だろうか、と浮かれた気分で、警視庁に帰った。
何事かと思い、追及されて、説教された。それでも、上司や同僚は温かく、見守ってくれていた。

ーーーーーー

海から吹く風に、髪が揺れる。
未枝がいつくるかわからない。だが来るまでここでのんびりするのもよいだろう。
埠頭は、広い。だが、未枝は必ずここへ来る。大学が見える、この場所に。
森岡は、紙袋の中の、青い小さな箱に目をやった。
どうせ、必要ないと、また言われるのだ。
それはそれで、よい。自分に思いをよせてくれてくれるのなら。
森岡は、未枝と出会った思い出の数々を思い出していた。
いつの間にか、日が暮れていた。
建物などがライトアップされて、美しい。
その時間の経過が、未枝との思い出の多さを、
想いの大きさを、表していた。
ヒールの音に、森岡は後ろを振り向いた。
猫が、飼い主とそうでない人の足音を聞き分けられるのと同様に、森岡にはそれが未枝の足音だとわかった。
風が強い。未枝の髪が、大きく靡く。
未枝は、髪を、耳にかけた。
「未枝さん、伝えたいことが、あるんだ」
未枝は、だまって森岡の方を、じっと見ている。
「俺と、結婚してください」
森岡は、手乗りサイズの箱を、未枝の前に、差し出した。
「やっぱり、そういうことね」
未枝は、そっと、笑った。穏やかだ。
周りには、ひとがちらほら、いる。
「必要ないわ」
やはり、断られた。いつもは、それで終わるのだが、未枝はその後に理由を添えた。
「結婚なんて形式。それより大切なのは、心よ。だから、私たちには、必要ないのよ」
「でもせめて、これを」
森岡は、未枝の左手を取って、薬指にはめた。未枝は、それと、森岡の顔を交互に、見ていた。
「……別れ来るのが、怖かったから」
未枝の言葉に耳を傾ける。
「だから、自分から、去ってしまおうと、
でも、忘れられなかった。同じように、忘れられないと、言ってくれた、とき、嬉しかったのよ」
未枝は、泣いていた。でも、口元は、笑っていた。
「もう、大丈夫だよ。別れは、来ない。来させない」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの」
未枝は、後ろを向いた。涙をぬぐったのが、見える。
「未枝さん、俺が、未枝さんを守るから」
「本当に?私のこと、守れる?」
未枝は、楽しそうに、笑った。
「でも私、守られるだけじゃないのよ!探偵だもの。探偵、会馬未枝」
森岡は、うんうん、とうなずいた。
「これからも、よろしく」
「それはこっちのセリフだよ」
「あんたは私の相棒よ!!」
未枝は、笑って、拳を前に出した。森岡も、それに自身の拳をくっつけた。
その手には、指輪が月明かりに照らされ、輝いていた。

―――――――

親愛なる会馬千作様

貴方はこれを読むことはできないでしょうが、
あなたの妹、会馬未枝さんの、活躍、成長が、これを読んでくださる、皆さまに届いていると思います。
そしてあなたの想いも、同時に、伝わりますように。
貴方が探偵の助手であるならば、私は小説家の万年筆でありましょう。
物語は永遠でございます。
それでは、これからも幸せな時間が、続きますように。

 雨夜






2025 1/26 20:58 暇人 何これwww


2025/01/26 20:59 別の暇人 なにこれwww

2025/10/24 02:26:15 また別の暇人 何これwww





最終更新日時: 2026/05/12 13:38
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