1955年のWGP

Rd. GP Date Circuit 125cc winner 250cc winner 350cc winner 500cc winner
1 スペインGP 5/1 モンジュイック L. Taveri R. Armstrong
2 フランスGP 5/15 ランス・グー C. Ubbiali D. Agostini G. Duke
3 マン島TT 6/10 マン島 C. Ubbiali B. Lomas B. Lomas G. Duke
4 ドイツGP 6/26 ニュルブルクリンク C. Ubbiali H. P. Müller B. Lomas G. Duke
5 ベルギーGP 7/3 スパ B. Lomas G. Colnago
6 ダッチTT 7/16 アッセン C. Ubbiali L. Taveri K. Kavanagh G. Duke
7 アルスターGP 8/13 ダンドロッド J. Surtees B. Lomas B. Lomas
8 イタリアGP 9/4 モンツァ C. Ubbiali C. Ubbiali D. Dale U. Masetti

シーズン概況

 1949年に世界グランプリがスタートして以来カレンダーに名を連ねてきたスイスGPが、この1955年からその名を消した。これは、この年の6月に4輪のル・マン24時間レースで発生したアクシデントの影響による。他車と接触して空中に飛び上がったメルセデスのマシンがグランドスタンドの壁面に激突して分解・炎上、エンジンなどの一部のパーツがそのままの勢いで観客席に飛び込み、ドライバーや観客など計86人が死亡するという大惨事が起きたのである。このモータースポーツ史上最悪とも言える大惨事が各国に与えた影響は大きく、中でもスイスでは自国内でのあらゆるモータースポーツイベントを禁止するという厳しい措置が取られた。この規制はこの後半世紀に渡って続けられ、2輪のスイスグランプリもこれ以降開催されていない。

 この時代は現在と比較してライダーの地位が低く、プロモーターが絶大な権力を握っていた。プロモーター達はライダーの安全性よりも興行としてのグランプリの開催を優先し、ライダー達に支払われるスターティングマネーや賞金も低く抑えられていた。このような待遇に燻っていた、収入をスターティングマネーに頼らざるを得ないプライベーター達の不満がこの年のダッチTTで爆発した。350ccクラスのプライベート・ライダー達のスターティングマネー増額の要求が聞き入れられなかった結果、1ダース以上のライダーがスタート直後パレードのように一周した後一斉にピットインし、レースをボイコットしたのである。そしてジレラ・ファクトリーのジェフ・デューク、レグ・アームストロングらも彼らの抗議行動に同調し、その後にスタートする予定の500ccクラスのレースも危機にさらされた。
 メインイベントである500ccクラスのレース開催が危ぶまれたことによってプロモーターは態度を軟化させ、ライダーの要求を呑んでスターティングマネーの増額を認めたために500ccのレースは無事に開催された。デュークらのプライベーター擁護が功を奏した形となったが、彼らはシーズン終了後にツケを払わされることになった。FIMはデューク、アームストロングらを含むこの騒動に参加したライダー達に翌年1月1日から6ヶ月間の全てのコンペティションへの出場を停止するペナルティを課し、このためにデュークらは1956年シーズンの開幕2戦を欠場せざるを得なくなったのである。

 あっという間にグランプリを席巻したダストビンフェアリングだったが、全てのメーカーがこの流行に追従したわけではなかった。グランプリを創世期から支え続けてきた最も伝統的なオートバイメーカーのひとつであるノートンは、フェアリングに全体を覆われたマシンは本来のオートバイの姿ではなく、また閉ざされたサーキットの中だけを走るレースは本来のレースではないとして、マン島TT以外のグランプリにファクトリーチームを送り込むことを止めたのである。
 また、ドイツのNSUもノートンと同じくこの年からファクトリーの参戦を中止したが、同時にこの年から250ccレーサー、スポルトマックスの市販を開始した。ロードモデルをベースにした単気筒のスポルトマックスだったがグランプリを戦うのに十分以上の戦闘力を備えており、このマシンを手に入れたライダーはファクトリーマシンを相手に大活躍を演じて見せた。

500ccクラス

 ジェフ・デュークとジレラ4の組み合わせはこの年も磐石だった。開幕戦こそチームメイトのアームストロングに譲ったデュークだったが、第2戦フランスGPでシーズン初勝利を飾るとそのまま3連勝でシーズンの主導権を握った。第5戦ベルギーGPはリタイヤしたがボイコット騒動のあったダッチTTで4勝目を挙げた。第6戦アルスターGPでは主催者側とのトラブルによってジレラファクトリーがレースをボイコットしたためにデュークはレースに出場しなかったが、ランキング2位のアームストロングも同様に欠場した結果、デュークが3年連続となるタイトルを決めた。
 単気筒ではジレラの4気筒に太刀打ちできないことを思い知ったモトグッツィのデザイナー、ジュリオ・カルカーノは、最終戦のモンツァで前代未聞のV8エンジンをデビューさせた。当時だけでなく現在に至るまでオートバイのエンジンとしては特異なメカニズムであるV8エンジンだが、ストレートでの速さには目を見張るものがあったもののハンドリングと信頼性に深刻な問題を抱えており、完走すらままならない状態が当分の間続くことになった。

350ccクラス

 500ccクラスではジレラの後塵を拝し続けたモトグッツィだったが、350ccクラスではモトグッツィの天下が続いていた。前年のチャンピオンであるファーガス・アンダーソンは引退したもののアンダーソンの後を継いだビル・ロマスが7戦中4勝を挙げて初タイトルを獲得し、残る3戦も全てモトグッツィに乗るライダーが勝ったのである。
 引退したアンダーソンはモトグッツィのチームマネージャーに就任したがチームとの間のトラブルによって退き、翌1956年シーズンからのライダー復帰を目指したが、ベルギーで行われたノンタイトルレースでのクラッシュによって命を落とした。

250ccクラス

 NSUファクトリーの撤退により、250ccクラスは大混戦のクラスとなった。前年まで2番手に甘んじていたモトグッツィの前にはファクトリーマシンに劣らない戦闘力をもったNSUの市販マシンに加え、125ccで活躍していたMVアグスタも立ちはだかった。MVアグスタのマシンは125ccのエンジンを220ccに拡大したフルスケールに満たないマシンだったにもかかわらず、グランプリで勝てるだけの速さを持っていたのである。
 開幕戦となったマン島はこのクラスではMVアグスタに乗るビル・ロマスが制し、第2戦のドイツでは地元のヘルマン・パウル・ミューラーがグランプリ初勝利を飾った。続くダッチTTではロマスがトップでゴールしたがルールで禁止されていたエンジンをかけたままの燃料補給を行ったとして2位に降格され、代わってルイジ・タベリが繰り上げ優勝とされた。そしてアルスターGPでは後に2輪と4輪の両方で偉大なチャンピオンとなるジョン・サーティースがグランプリで最初の勝利を挙げた。最終戦イタリアでは125ccで数々の成功を収めてきたカルロ・ウビアリが250ccでの初優勝を挙げ、このレースで5位でフィニッシュしたロマスがタイトルを手にしたかに思われた。
 ところがこの年のタイトル争いはシーズン終了後に最後の一波乱があった。11月に開催されたFIMの会議においてダッチTTでのロマスの行為が改めて問題とされ、2位降格とされていたダッチTTのロマスのリザルトが失格と書き換えられたのである。これによってタイトルは逆転でミューラーのものとなった。この時ミューラーは45歳で、これは世界グランプリチャンピオンの最年長記録である。

125ccクラス

 125ccクラスの方は、NSUファクトリーの撤退によってMVアグスタ一色となった。第1戦となったスペインで後のチャンピオン、ルイジ・タベリがGP初優勝を飾ると、続くフランスGPでは前年ランキング2位のウビアリがシーズン初勝利。第3戦以降はウビアリが他を寄せ付けない強さで全勝し、4年ぶりにタイトルを奪い返した。

1954年← | →1956年

最終更新:2015年05月09日 17:57
|新しいページ |検索 |ページ一覧 |RSS |@ウィキご利用ガイド |管理者にお問合せ
|ログイン|