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1954年のWGP

Rd. GP Date Circuit 125cc winner 250cc winner 350cc winner 500cc winner
1 フランスGP 5/30 ランス・グー W. Haas P. Monneret P. Monneret
2 マン島TT 6/18 マン島 R. Hollaus W. Haas R. Coleman R. Amm
3 アルスターGP 6/26 ダンドロッド R. Hollaus W. Haas R. Amm R. Amm(※)
4 ベルギーGP 7/4 スパ K. Kavanagh G. Duke
5 ダッチTT 7/10 アッセン R. Hollaus W. Haas F. Anderson G. Duke
6 ドイツGP 7/25 ソリチュード R. Hollaus W. Haas R. Amm G. Duke
7 スイスGP 8/22 ブレムガルテン R. Hollaus F. Anderson G. Duke
8 イタリアGP 9/12 モンツァ G. Sala A. Wheeler F. Anderson G. Duke
9 スペインGP 10/3 モンジュイック T. Provini F. Anderson G. Duke
(※)アルスターGPの500ccクラスはポイント対象外

シーズン概況

 この年の3月、ヨーロッパのグランプリとは縁もゆかりも無い極東の小さな島国のあるオートバイメーカーの創業者が、突然内外に向けて「マン島TTレースに出場する」と高らかに宣言した。彼の名は本田技研工業(ホンダ)の本田宗一郎である。この数年後にはグランプリを席巻することになるホンダだが、この時点では宣言の1ヶ月ほど前にブラジルのサンパウロ市で開催された「サンパウロ市建設400周年記念国際ロードレース」に招待されて出場したのが唯一の海外レース経験であり、ヨーロッパのレース関係者でホンダの名を知っている者がいたかどうかすら疑わしい。
 このサンパウロのレースでホンダの大村美樹雄は13位完走と健闘したものの、ホンダのスタッフは市販車に毛の生えたような自分たちのマシンと本場ヨーロッパのグランプリマシンとの間に横たわる大きな溝をまざまざと見せ付けられており、更にこの時のホンダは前年に発売した新型車の失敗によりレース出場どころか会社存亡の危機に瀕していた。そんな状況の中でのTTレース出場宣言を一番訝しく感じていたのはホンダ社内の人々だったのかもしれない。
 しかし、この年のマン島に視察に訪れた宗一郎が本気だったことは5年後の1959年のマン島TTで証明され、また宣言の中の言葉が決してただの大言壮語でなかったことはその後のグランプリの歴史が証明している。

 本田宗一郎がマン島を視察した際にもっとも刺激を受けたのが、この時代に小排気量クラスを支配していたNSUのプロフェッショナルなチーム運営だったと言われている。しかし皮肉なことに、そのNSUのファクトリーチームはイタリアGPの予選でエースライダーのルパート・ホラウスを失ったことをきっかけにこの年限りでグランプリから撤退することになった。またノートンもNSUと同じくこの年をもってファクトリー活動を中止したが、両社ともに市販マシンの開発・販売は継続し、この後も多くのプライベーターを支え続けることになる。

 各クラスとも勢力図に大きな変化のなかった1954年シーズンだったが、マシンの外観には大きな変化が見られた。各メーカーが空力に関する試行錯誤を始め、マシンが様々な形状のフェアリングに覆われるようになったのである。中でも自前の風洞設備を持っていたモトグッツィはこの流れをリードし、やがてグッツィがデビューさせた前輪を含むマシンの前半分をすっぽりと覆い隠す“ダストビン”(ゴミ箱の意)と呼ばれるフェアリングが主流となり、翌シーズンにはほとんど全てのファクトリーでダストビンタイプのフェアリングを使うようになった。

500ccクラス

 ジェフ・デュークとジレラ4気筒の組み合わせは、この年も他を寄せ付けない強さを発揮した。ベルギーGPでシーズン初優勝を挙げるとそのまま怒涛の5連勝を飾り、500ccクラスでは2年連続3度目となるタイトルを決めたのである。
 アルスターGPの500ccクラスは悪天候により、レースは179km走り終えたところで中断された。当時のレギュレーションでは500ccレースの最低走行距離は200km以上と決められており、この時のレースはこれを満たせなかったために選手権ポイントの対象外とされ、中断時点でトップを走っていたレイ・アムにとっては幻の勝利となってしまった。

350ccクラス

 開幕戦のフランスではAJSに乗る地元のピエール・モネレが勝利し、マン島ではロッド・コールマンがAJSに2勝目をもたらした。しかし、世界グランプリのスタート時から活躍してきたAJSにとってはこれが最後のグランプリ勝利となってしまった。第3戦のアルスターGPはノートンのレイ・アムが勝ち、前年のチャンピオンマシンであるモトグッツィのシーズン初勝利は第4戦ベルギーGPでのケン・カバナの優勝まで待たなければならなかった。そしてディフェンディング・チャンピオンのファーガス・アンダーソンがやっと挙げたシーズン初勝利は、シーズンも半ばとなった第5戦ダッチTTでのことだった。
 完全に出遅れた形となったアンダーソンだったが、終盤の3戦ではを3連勝するなどシーズン後半には前年の速さを取り戻し、他に安定して上位フィニッシュしたライダーがいなかったこともあって終わってみれば大差でタイトル防衛に成功した。

250ccクラス

 前年の覇者、NSUのヴェルナー・ハースは前年以上に圧倒的な強さを見せ付けて250ccクラスを支配した。NSUのマシンが1位から4位までを占めた開幕戦で勝利したハースはそのまま4連勝を飾り、最短の第4戦でタイトルを決めたのである。チャンピオン決定後の第5戦ドイツGPでも優勝したハースだったが、続く第6戦スイスGPの1周目で痛恨のクラッシュを喫して連勝記録は途絶えた。

125ccクラス

 この年の125ccクラスは、前年と異なるライダーがタイトルを獲った唯一のクラスであったと同時に悲劇的なシーズンとなってしまった。
 開幕戦のマン島を制したのはNSUのルパート・ホラウスだった。これがグランプリ初勝利だったホラウスだがその後も好調さを維持し、開幕から4戦全勝で第4戦ドイツGPで初タイトルを決めた。ところが第5戦イタリアGP、予選でのクラッシュで重傷を負ったホラウスはそのまま帰らぬ人となってしまったのである。ホラウスへの追悼のしるしとしてNSUファクトリーはこのレースから引き上げ、そのままシーズン終了後にはグランプリからの撤退を決めた。

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最終更新:2012年04月29日 22:32
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