1962年のWGP

Rd. GP Date Circuit 50cc winner 125cc winner 250cc winner 350cc winner 500cc winner
1 スペインGP 5/6 モンジュイック H. G. Anscheidt 高橋国光 J. Redman
2 フランスGP 5/13 シャレード J. Huberts 高橋国光 J. Redman
3 マン島TT 6/6 マン島 E. Degner L. Taveri D. Minter M. Hailwood G. Hocking
4 ダッチTT 6/30 アッセン E. Degner L. Taveri J. Redman J. Redman M. Hailwood
5 ベルギーGP 7/8 スパ E. Degner L. Taveri B. McIntyre M. Hailwood
6 西ドイツGP 7/15 ソリチュード E. Degner L. Taveri J. Redman
7 アルスターGP 8/11 ダンドロッド L. Taveri T. Robb J. Redman M. Hailwood
8 東ドイツGP 8/19 ザクセンリンク J. Huberts L. Taveri J. Redman J. Redman M. Hailwood
9 イタリアGP 9/9 モンツァ H. G. Anscheidt 田中禎助 J. Redman J. Redman M. Hailwood
10 フィンランドGP 9/23 タンペレ L. Taveri J. Redman T. Robb A. Shepherd
11 アルゼンチンGP 10/14 オスカル・ガルベス H. Anderson H. Anderson A. Wheeler B. Caldarella

シーズン概況

 50ccクラスが新たに加わり、この年からロードレース世界選手権は全5クラスで争われることになった。50ccクラスは元々ヨーロッパ選手権として開催されており、西ドイツやイタリア、スペインといった国々のモペッドメーカーの活躍で人気のあったクラスである。

 前年、圧倒的な強さで小排気量クラスを制したホンダはこの年から350ccクラスと50ccクラスにもチャレンジを開始し、350ccクラスでは参戦初年度にして125ccや250ccクラスと同様の成功を収めることに成功した。一方、新設された50ccクラスではホンダに加えて西ドイツのモペッドメーカーであるクライドラー、そして日本のスズキという3メーカーの争いとなり、ホンダの4ストロークはクライドラーやスズキの2ストロークの後塵を拝することになった。前年、前々年と他のマシンと一緒に走るのが精一杯だったスズキは前年に東ドイツから西ドイツへの亡命を果たした元MZのエースライダー、エルンスト・デグナーと契約し、デグナーによってもたらされたノウハウによってスズキのマシンはシーズンオフの間に一気に一線級の速さを獲得したのである。また、クライドラーのマシンは50ccという小さなエンジンの出力を無駄なく使い切るために手と足をフルに使った12段変速という他に類を見ないギアボックスを持っていた。あくまでも4ストロークに拘るホンダは軽量・高出力の2ストローク勢に対抗するためにシーズン中には2気筒の50ccエンジンの開発に着手し、これ以降より高回転・高出力を目指して多気筒化とギアボックスの多段化への道を進むことになる。なお、前年グランプリデビューを飾ったヤマハは、日本国内での新型モデルの商業的な失敗を理由にこの年のグランプリ参戦を見合わせている。

 一方、ライダーにとってはこの年は陰惨なシーズンでもあった。幸先の良いスタートを切ったホンダの高橋国光はマン島の125ccクラスでクラッシュし、治療に1年を要する程の重傷を負った。そしてその後の350ccクラスのレースでは、前年の125ccクラスチャンピオンのトム・フィリスが事故で死亡した。前年の500ccクラスチャンピオンでフィリスの友人でもあったゲイリー・ホッキングはフィリスの死に強いショックを受けてマン島の後に2輪レースから引退したが、この年の12月に南アフリカのダーバンで4輪のF1マシンでの練習走行中に事故死した。ホンダのジム・レッドマンもホッキングと同様にチームメイトだったフィリスの事故のショックから引退を考えたが、ボブ・マッキンタイヤからの強い慰留を受けて思い留まった。しかしそのマッキンタイヤ自身は250ccクラスでランキング2位につけながら、8月にイギリスで行われたノンタイトルレースでのアクシデントで命を落とすという皮肉な運命を辿った。

500ccクラス

 プライベーターとしての参戦ながら、ホッキングとヘイルウッドが乗るMVアグスタは前年から出場した全てのレースで勝利を収めており、この年の開幕戦となったマン島でもディフェンディングチャンピオンのホッキングが優勝した。しかしホッキングは、直前の350ccクラスのレースで親友でもあったトム・フィリスが自分とのトップ争いの最中の事故で死亡したことにひどくショックを受け、レースが終わったその足でMVアグスタ本社に出向いてアグスタ伯爵にロードレースからの引退を伝えた。ホッキングの引退によって同じ4気筒に乗る者がいなくなったヘイルウッドは敵なしとなり、第2戦のダッチTTからイタリアGPまで5連勝で500ccクラスでは1度目となるタイトルを決めた。この時のヘイルウッドの22歳という年齢は、1983年にフレディ・スペンサーが20歳でタイトルを獲るまで500ccクラスチャンピオンの最年少記録だった。
 この年2位に連続入賞してヘイルウッドに続いたのはマチレスG50を駆るアラン・シェパードだったが、シェパードがGP初優勝を挙げたフィンランドGPにはヘイルウッドは出場していなかった。また、最終戦のアルゼンチンも前年と同じく有力なライダーが出場せず、優勝したベネディクト・カルダレーラをはじめとして地元のライダーが揃ってポイントを獲得したが、レース内容は4位のライダーがトップから5周遅れになるというお粗末なものだった。

350ccクラス

 350ccクラスにホンダが初めて投入したマシンは、前年250ccクラスのタイトルを獲った4気筒マシンRC162のボアを拡大して排気量284.5ccとしたマシンRC170だった。前年、いくつかのサーキットでRC162が記録したタイムが350ccのチャンピオンマシンであるMVアグスタにも匹敵するものだったという事実がホンダの勝算である。開幕戦のマン島ではMVアグスタのヘイルウッドとホッキングに1・2フィニッシュを許した上にエースライダーのフィリスを事故で失うという、ホンダにとっては惨憺たる結果に終わったが、続く第2戦のオランダではレッドマンがヘイルウッドに30秒の大差をつけてホンダにクラス初優勝をもたらした。そして第3戦アルスターGP、ホンダが排気量を339.5ccまで拡大した上に各部に改良を加えたRC171を投入するとヘイルウッドのMVアグスタや前年ランキング2位に躍進したフランタ・スタストニィのヤワは太刀打ちすることができず、レッドマンが第5戦のイタリアまで4連勝を飾って250ccクラスとのダブルタイトルを決めた。

250ccクラス

 前年型からほんど変更のないマシンで250ccクラスを戦ったホンダだが、前年同様にRC162は圧倒的な速さを見せ、出場した9戦全てのレースで勝利した。開幕戦からの2戦はレッドマンが勝利したが、特に第2戦のフランスはホンダの3人が1/2秒差でフィニッシュし、しかも4位以下の全てのライダーを周回遅れにするというホンダの圧勝だった。マン島TTではデレク・ミンターがグランプリ唯一の勝利を記録したが、彼はホンダのファクトリー契約ではなくマシンはイギリスの輸入代理店を通じて手に入れたものだった。その後はレッドマンとマッキンタイヤが勝利を分け合ったが、マッキンタイヤはドイツGPの後にイギリスのノンタイトルレースで命を落としてしまった。結局6勝を挙げたレッドマンがシーズンを制し、マッキンタイヤは死後ランキング2位を手に入れることになった。
 第8戦東ドイツGPではニコライ・セヴォストヤノフが5位に入り、ロシア人として初めてグランプリでポイントを獲得した。セヴォストヤノフはこの後の350ccクラスでも6位に入賞している。また、ホンダが出場しなかった最終戦アルゼンチンGPはモトグッツィに乗るアーサー・ウィラーが優勝したが、これがグランプリにおけるモトグッツィの最後の勝利になると同時に、ウィラーの46歳という年齢はグランプリ優勝の最年長記録だった。

125ccクラス

 ホンダが投入した前年型の2RC144から大きく改良されたRC145が125ccクラスを完全に支配した。ホンダが出場しなかった最終戦を除く10戦全てで1・2フィニッシュを飾り、さらにその内の6戦では表彰台をRC145を駆るライダーが独占したのである。開幕戦のスペインから2連勝した高橋国光は第3戦マン島の1周目のクラッシュで戦列を離れたが、マン島では代わってルイジ・タベリが優勝した上に5位までをホンダのライダーが占めた。タベリはそのまま連勝を続けて第7戦アルスターGPで5勝目を挙げて初タイトルを決め、続く東ドイツでも勝利して連勝を6まで延ばした。
 前年の2気筒マシンが全く良いところがなく終わったスズキはこの年は2ストローク単気筒のRT62を走らせたが、ヒュー・アンダーソンがホンダ勢が欠場した最終戦のアルゼンチンでクラス初勝利を挙げるのがやっとで、翌年は再び2気筒マシンを投入することになる。

50ccクラス

 元々ヨーロッパ選手権でモペッドメーカーが活躍していたクラスということもあり、世界選手権として初めてのレースとなった開幕戦のスペインではヨーロッパ選手権時代から常勝だったクライドラーのハンス=ゲオルグ・アンシャイトが優勝し、2位にはホセ・ブスケのデルビが入ってスペインのメーカーとして初めてグランプリでポイントを獲得した。第2戦フランスでもクライドラーのヤン・ヒューベルツが勝利したが、第3戦のマン島では一転してスズキの2ストローク対ホンダの4ストロークという日本勢同士の争いとなった。そしてレースでは2ストロークのスペシャリストであるエルンスト・デグナーが乗るスズキが「壊れやすい2ストロークは長く複雑で過酷なマウンテンコースには不利」という定説を覆し、120kmを超える平均速度でグランプリ初優勝を飾った。ロータリーディスクバルブを採用し8段ギアボックスを持つスズキのRM62はその後も安定した速さを発揮し、デグナーはドイツGPまで4連勝でポイント争いをリードした。アンシャイトもコンスタントに表彰台に上り続け、イタリアGPでは2勝目を挙げて総ポイント数ではデグナーを上回ったが、「成績の良い6戦分のポイントを有効とする」という有効ポイント制によってタイトルはデグナーとスズキのものとなった。
 ホンダはルイジ・タベリが第9戦のフィンランドGPでやっとクラス初勝利を挙げたが、単気筒のRC111では2ストローク勢に対抗できないとしてシーズン半ばには4ストローク2気筒マシンの開発に着手していた。しかしこの2気筒マシンRC112はこの年のグランプリには間に合わず、完成したばかりの鈴鹿サーキットの杮落しとして11月に開催されたノンタイトルの日本グランプリがデビューレースとなった。この日本GPにはデグナーも出場してポールポジションを取ったものの立体交差手前の右コーナーで転倒、このコーナーが「デグナーカーブ」と名づけられて後々まで名前を残すことになった。

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(※)上記テキストは、私Rikitaウィキペディア日本語版に2011年3月9日に投稿したテキストを基にしています。

最終更新:2012年06月29日 20:23
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