Rd. |
GP |
Date |
Circuit |
50cc winner |
125cc winner |
250cc winner |
350cc winner |
500cc winner |
1 |
フランスGP |
4/22 |
ポールリカール |
- |
K. Amdersson |
J. Saarinen |
G. Agostini |
J. Saarinen |
2 |
オーストリアGP |
5/6 |
ザルツブルクリンク |
- |
K. Amdersson |
J. Saarinen |
J. Drapál |
J. Saarinen |
3 |
西ドイツGP |
5/13 |
ホッケンハイム |
T. Timmer |
K. Amdersson |
J. Saarinen |
T. Lansivuori |
P. Read |
4 |
イタリアGP |
5/20 |
モンツァ |
J. d. Vries |
K. Amdersson |
- |
G. Agostini |
- |
5 |
マン島TT |
6/8 |
マン島 |
- |
T. Robb |
C.Williams |
T. Rutter |
J. Findlay |
6 |
ユーゴスラビアGP |
6/17 |
オパティヤ |
J. d. Vries |
K. Andersson |
D. Braun |
J. Drapál |
K. Newcombe |
7 |
ダッチTT |
6/23 |
アッセン |
B. Kneubühler |
E. Lazzarini |
D. Braun |
G. Agostini |
P. Read |
8 |
ベルギーGP |
7/1 |
スパ |
J. d. Vries |
J. Schurgers |
T. Lansivuori |
- |
G. Agostini |
9 |
チェコスロバキアGP |
7/15 |
ブルノ |
- |
O. Buscherini |
D. Braun |
T. Lansivuori |
G. Agostini |
10 |
スウェーデンGP |
7/21 |
アンダーストープ |
J. d. Vries |
B. Jansson |
D. Braun |
T. Lansivuori |
P. Read |
11 |
フィンランドGP |
7/29 |
イマトラ |
- |
O. Buscherini |
T. Lansivuori |
G. Agostini |
G. Agostini |
12 |
スペインGP |
9/23 |
ハラマ |
J. d. Vries |
C. Mortimer |
J. Dodds |
A. Santos |
P. Read |
シーズン概況
この年、前年にワークス活動を再開したヤマハがいよいよ500ccクラスにワークスマシンを投入した。重要なマーケットであるアメリカ最大のロードレース、デイトナ200で勝つために350ccを二つ並べた並列4気筒700ccのマシンを開発していたヤマハは、それと並行して同じシャーシを使った500ccマシンの開発も進めていた。これがヤマハのGPマシンの代名詞ともなるYZR500であり、このマシンを前年の250ccチャンピオンであるヤーノ・サーリネンと日本のエースである金谷秀夫の2人に託して開幕戦フランスGPでデビューさせたのである。
しかしYZR500の登場以上に、この年はイタリアのモンツァでグランプリ史上最も大きなアクシデントが起きたことで記憶されるシーズンとなってしまった。第4戦イタリアGP、250ccクラスのスタート直後に起きた事故は15台を巻き込む多重クラッシュとなり、サーリネンとレンツォ・パゾリーニという2人のトップライダーが同時に死亡するという未曾有の大惨事となったのである。最初にコーナーに侵入して転倒したパゾリーニがガードレールに跳ね返されたところにサーリネンが直撃し、両者ともに即死だった。直前に行われた350ccクラスのレース終盤にウォルター・ヴィラのベネリによってオイルが撒き散らされたことが原因とされており、事実、事故に巻き込まれた金谷秀夫やディーター・ブラウンらも路面にオイルが残っていたと証言している。250ccのレース前にオイルが処理されていないことに気付いたジョン・ドッズをはじめとする数名が警告を発したがイベントの進行を優先するオーガナイザーらによって警告は無視されていた。但し、後の1993年になってパゾリーニのマシンのエンジンの内部写真が公表され、これによってパゾリーニのマシンの右側ピストンが焼き付きを起こしていたことも判明している。
この事故で500ccクラスのエースに抜擢したばかりのサーリネンを失ったヤマハはこの年のこれ以降のレースへのワークスチームとしての出場を見合わせ、デビュー直後のYZRの本格的な活躍は翌年以降となってしまった。しかしその一方でこの年はヤマハが水冷の市販マシン、TZシリーズのリリースを開始した年でもある。TZ250/350は空冷のTD/TRと比べて最高出力などにはそれほどの違いは見られなかったが水冷化によって信頼性・安定性が大幅に向上しており、瞬く間にヨーロッパ中のロードレースを席巻することになった。特にTZ350は350ccクラスのみならず、わずかな排気量アップで500ccクラスや国内選手権の750ccクラスなどの上位クラスに出場するライダーが続出した。
500ccクラス
MVアグスタとともに7年の間不動のチャンピオンであったアゴスチーニだったが、この年は2ストロークの新型マシンYZRを投入したヤマハと、前年MVアグスタのチームメイトとなりこの年は500ccクラスにも出場することになったフィル・リードという、内外の強敵と戦うことになった。YZR500はサーリネンのライディングによって開幕からいきなり2連勝し、もう1台に乗る金谷秀夫も開幕から3位・2位に入るという、これ以上ないデビューを飾った。ところがイタリアGP250ccクラスのレースでの事故によってサーリネンが死亡し、突然エースライダーを失ったヤマハ・ワークスはシーズン半ばにしてこの年の選手権から撤退してしまう。
前年の350ccに続いて500ccでも4気筒の新型をデビューさせ、YZRという強敵がいなくなったMVアグスタ陣営ではリードが第3戦西ドイツでMVアグスタでの500cc初勝利を飾り、コースの安全性の問題によってファクトリーとして出場しなかった2戦を挟んでダッチTTでは2勝目を挙げた。一方、チャンピオンのアゴスチーニは開幕戦のフランスでサーリネンを追っている最中に転倒してから不運に見舞われ続け、シーズンも後半に入ってからのベルギーGPでの初優勝が今シーズン初めてのポイント獲得だった。アゴスチーニは続くチェコスロバキアでも連勝して巻き返しをはかるがその後も好調さを維持したリードがアドバンテージを守りきり、スウェーデンGPで3勝目を挙げて500ccクラスでは初めてとなるタイトルを決めた。ついに500ccクラスの連続チャンピオン獲得の記録が途絶え、ハンドメイドのマシンで1勝を挙げたキム・ニューカムにも遅れをとってランキング3位でシーズンを終えたアゴスチーニは、この年のシーズンオフに長年慣れ親しんだMVアグスタを離れて最大のライバルであるヤマハへ移籍することを決意した。
350ccクラス
500ccクラスのタイトルを失ったアゴスチーニだが、350ccのタイトルを守ることには成功した。ヤマハに乗るチューボ・ランシボリが3勝を含む7度の表彰台という安定した速さで誰よりも多くのポイントを獲得したが、ベスト6戦のポイントを有効とする有効ポイント制のためにタイトルは4勝を挙げたアゴスチーニのものとなったのである。そしてこれがアゴスチーニがMVアグスタで獲得した最後の世界タイトルとなった。
250ccクラス
ディフェンディングチャンピオンのサーリネンと、ヤマハワークスのチームメイトである金谷が、開幕戦から3戦連続ワン・ツーフィニッシュという最高のスタートを切った。ところが第4戦イタリアGPでの多重クラッシュによってサーリネンが命を奪われ、金谷も負傷して戦列を離れてしまう。ヤマハワークスがいなくなった残り8戦は市販のヤマハに乗るプライベーターたちの争いとなり、その中で1970年の125ccクラスチャンピオンであるディーター・ブラウンが4勝を挙げてタイトルを獲得した。2勝のランシボリは350ccクラスに続いてランキング2位となっている。
125ccクラス
ヤマハのケント・アンダーソンは前半6戦のうち不出場のマン島TTを除く5勝を挙げて選手権を大きくリードしたが、ダッチTTでの転倒によって足を骨折する大怪我を負い、チェコスロバキアGPまで欠場せざるをえなくなった。しかしシーズン後半は一転してヤマハに乗るチャス・モーティマーやブリヂストンのヨス・シャージャース、マイコのバリヤ・ヤンソンらが勝利を分け合う混戦となり、そのためにアンダーソンはシーズン前半に築いたアドバンテージを守りきって初めてのタイトルを獲得することができた。
50ccクラス
デルビワークスの撤退によって50ccクラスはクライドラーが支配するクラスとなり、中でも1971年のこのクラスのチャンピオンであるヤン・デ・フリースは全7戦中5勝を挙げ、前年アンヘル・ニエトに奪われたタイトルを取り戻した。
最終更新:2012年10月07日 20:05