1978年のWGP

1978年のWGP

Rd. GP Date Circuit 50cc winner 125cc winner 250cc winner 350cc winner 500cc winner
1 ベネズエラGP 3/19 サン・カルロス P. P. Bianchi K. Roberts 片山敬済 B. Sheene
2 スペインGP 4/16 ハラマ E. Lazzarini E. Lazzarini G. Hansford P. Hennen
3 オーストリアGP 4/30 ザルツブルクリンク E. Lazzarini K. Ballington K. Roberts
4 フランスGP 5/7 ノガロ P. P. Bianchi G. Hansford G. Hansford K. Roberts
5 イタリアGP 5/14 ムジェロ R. Tormo E. Lazzarini K. Ballington K. Ballington K. Roberts
6 ダッチTT 6/24 アッセン E. Lazzarini E. Lazzarini K. Roberts K. Ballington J. Cecotto
7 ベルギーGP 7/2 スパ R. Tormo P. P. Bianchi P. Pileri W. Hartog
8 スウェーデンGP 7/23 カールスコーガ P. P. Bianchi G. Hansford G. Hansford B. Sheene
9 フィンランドGP 7/30 イマトラ A. Nieto K. Ballington K. Ballington W. Hartog
10 イギリスGP 8/6 シルバーストン A. Nieto A. Mang K. Ballington K. Roberts
11 ドイツGP 8/20 ニュルブルクリンク R. Tormo A. Nieto K. Ballington 片山敬済 V. Ferrari
12 チェコスロバキアGP 8/27 ブルノ R. Tormo K. Ballington K. Ballington
13 ユーゴスラビアGP 9/17 リエカ R. Tormo A. Nieto G. Hansford G. Hansford

シーズン概況

 1978年のグランプリシーズンが始まろうとしていた時、ヨーロッパのレースファンの注目を一身に集めていたのは間違いなくスーパースター、バリー・シーンだった。今も昔も、ことモータースポーツに関してはヨーロッパとアメリカとの間には深い溝が存在しており、すでに1974年のダッチTTで一度グランプリに登場してその非凡な才を見せたことがあったとは言え、アメリカのグランドナショナル・チャンピオン、ケニー・ロバーツの名を知っている者がヨーロッパのグランプリファンの中にどれほどいたかは甚だ疑問である。しかしこの年のグランプリシーズンが終わった時、バリー・シーンはおろか250ccと350ccという激戦区でダブルタイトルという快挙を成し遂げたコーク・バリントンも、スペインの英雄リカルド・トルモの初タイトルも、全てはケニー・ロバーツというインパクトの影に隠れてしまっていた。

 元250ccチャンピオンのケル・キャラザースをチームのブレーンに据え、グッドイヤーのサポートを取り付けるなど準備を万端に整えて満を持してヨーロッパに渡ったロバーツだったが、最初からヤマハのエースだったわけではない。この年のヤマハ・ワークスのエースは1975年の350ccチャンピオンのジョニー・チェコットであり、ロバーツはワークスマシンYZRの貸与こそ受けたものの契約はヤマハ本社ではなくAMA時代と同様のUSヤマハだった。この時代のロバーツの代名詞ともなった黄色に黒のストロボラインが入った俗に言う「インターカラー」はUSヤマハのものである。今で言うサテライト・チームのような扱いのロバーツに与えられたのはYZR500が1台だけで、ほとんどのコースが初体験であるにもかかわらずTカーの無い状況では転倒などでマシンを壊すことは許されなかった。このような状況の中でコースを習熟するためにキャラザースが考え出した戦略が、250ccクラスとのダブルエントリーという当時としても既に500ccに乗るワークスライダーたちには余り見られなくなっていたチャレンジである。
 ロバーツのグランプリに対するアプローチは、ある意味では単純な哲学だった。即ち、速く走るために必要なものはどんなものであっても貪欲に取り入れ、勝つために不要なものは徹底して排除するというものである。前者が膝を路面で擦ろうかというほどに体を落としたハングオン・スタイルやパワースライド走法であり、後者の代表が従来のコンチネンタル・サーカス流の近所付き合いだったのであろう。ハングオン(英語ではHang off)はヤーノ・サーリネンのライディングフォームからヒントを得たというのは有名なエピソードだし、リヤを積極的にスライドさせてアクセルコントロールで向きを変えるというのはダートトラックではごく当たり前のテクニックであるということからもわかる通りこれらはいずれもロバーツが自ら考案したというわけではないが、ロードレーサーを速く走らせるために極めて有効なテクニックだということを身をもって証明し、数え切れないほどのフォロワーを生んだという意味でロバーツが元祖だと言っても間違いではないだろう。特にエンジンパワーにタイヤの性能が追いつかなくなっていたこの時代の500ccマシンには、タイヤのグリップ力以上に速く走らせることができるこれらのテクニックは有効だった。
 もう一つ、ロバーツがグランプリにもたらしたことで有名なものが、巨大なモーターホームである。この当時、レースウィークになるとお金の無いプライベーターたちはパドックで小さなキャンピングカーやトランスポーターの中に寝泊りし、ファクトリーと契約していたスターライダーたちはサーキット近くのホテルに宿泊して夜はパーティー三昧というのが普通だった。しかし、ロバーツにはそのようなヨーロッパ流のスタイルを受け入れるつもりはなく、逆に慣れ親しんだアメリカでの生活をそのままパドックに持ち込んだのである。モーターホームにはロバーツが我が家として必要とするものが全てあつらえられ、走行が終わるとモーターホームに引きこもって好きなビデオを見てくつろいだ。そしてまたモーターホームはチームの前線基地でもあり、マシンやライディングに何か問題が起きた時にはキャラザースらと時間を気にせずに納得がいくまで話し合った。こうして24時間をレースのためだけに過ごし、自分たちのコミュニティに溶け込もうとしないロバーツの態度をヨーロッパのライダーたちがよく思わなかったであろうことは想像に難くない。
 ロバーツの存在は永くグランプリを見続けてきたファンたちにとっても異質なものであった。表彰台では仏頂面でトロフィーを受け取り、インタビューではコースやオーガナイザーへの批判を繰り返す。ロバーツのそんな態度が、ファンの眼にはグランプリの伝統に対する敬意が足りないものと映ったのも無理は無い。そして、そんな“他所者”がコースでは自分たちのヒーローと互角以上の速さを見せてしまったのだから、ロバーツがヨーロッパのファンにとって悪役となる条件は揃っていたと言えるだろう。しかしそんな口さがないファンたちも、シーズンが終わるころにはロバーツの実力を認めざるを得なくなっていた。

 ロバーツには1台しか与えられなかったYZR500だったが、前年型OW35の改良型である1978年型OW35Kには一つの技術的なチャレンジがなされていた。排気デバイス“YPVS”の搭載である。排気ポート部に設けられた可変バルブによって低回転時と高回転時の排気タイミングを変化させるこの画期的なシステムは、元々は2ストロークエンジンの燃費向上と排気ガス対策のために研究されてきた技術の産物であった。2ストロークエンジンではパワーを向上させるためには排気タイミングを早くしてやればよいのだが、吸気と掃気を同時に行うという2ストロークの構造上、排気タイミングを早くしすぎると低回転時に燃焼されていないガスが排気される「吹き抜け」が起きてしまう。この低回転時の吹き抜けを防ぐために排気ポートに設けられ、低回転時と高回転時で排気タイミングを変えるためのデバイスがYPVSだが、これがピークパワーとスムースなエンジン特性という元来2ストロークでは難しいとされてきた二つの要素の両立を可能としたのである。
 一方、バリー・シーンの手によって2年連続でタイトルを守っていたスズキも、決してその地位に安穏としていたわけはない。この年バリー・シーンに与えられたのはRG500として初めてエンジンが完全に新型設計となったRGA500(XR22)である。このエンジンはロータリー・ディスクバルブにスクエア4のレイアウトという基本構成こそ変わらないものの、後ろの2気筒が前2気筒より1段高い位置にある俗に“二階建て”と呼ばれる配置となっており、これによってエンジンの前後長を短くすることができ、エンジンの冷却性向上にも寄与した。更にカセット式のミッションとなって予選中のセッティング変更時間が劇的に短縮され、またフレームや足回りにも手が加えられていた。シーズン中にはフロントのグリップ強化を狙ってフロントカウルにミニウイングを装着することもテストされている。また、市販RG500も例年通り前年型のファクトリーマシンをベースにしたⅢ型となってリリースされた。

 ヤマハ、スズキ、そして前年のカワサキに続き、残された最後の巨人・ホンダがグランプリ復帰を目指して本格的にスタートを切ったのがこの年である。1977年の12月、「1979年から世界グランプリの500ccクラスに復帰する」と突然発表したホンダはこの年の4月、新たなGPマシン開発のためのプロジェクトチームを発足させた。後にホンダの社長となる福井威夫がリーダーとなり、誰もが驚くことになるアイディアの塊の新型500ccマシンを生み出したそのチームはNRブロックと名付けられた。

500ccクラス

 ヤマハのYPVS付YZR500に乗るのはヤマハ本社契約のジョニー・チェコット、ヤマハNVのサポートで最高峰クラスへのチャレンジを開始した前年の350ccチャンピオン片山敬済、そしてUSヤマハのケニー・ロバーツである。対するスズキは二階建てエンジンの新型RGA500を今や押しも押されぬスーパースターとなっていたバリー・シーンと、前年ランキング3位のパット・ヘネンの二人に与えた。他の多くのプライベーターたちは例年通り市販RG500を駆ったが、前年ランキング2位となりながらもヤマハと契約できなかったスティーブ・ベイカーをはじめとする一部のライダーには状況に応じてワークス仕様のRGが貸与された。
 開幕戦のベネズエラGP、ロバーツは250ccのレースであっさりとGP初優勝を飾ったものの本命の500ccではわずか1周でエンジンが焼き付くという苦いデビューとなった。しかしコースサイドで優勝したバリー・シーンの走りを見ていたロバーツは、この時すでに「勝てない相手ではない」という手応えを感じていたという。そして続くスペインで同じアメリカ人のパット・ヘネンに次ぐ2位となり500ccクラス参戦2戦目にして初表彰台に上ると、第3戦オーストリアで同じマシンに乗るチェコットに16秒差をつける独走で待望の500cc初勝利を挙げた。一方のシーンはベネズエラでウィルスに感染するという不運に見舞われており、シーンがその影響で精細を欠いている間にロバーツは第4戦フランス、第5戦イタリアと3連勝で早くもシーズンの主導権を握っていた。前年ランキング3位となり、この年も第2戦で勝利を挙げていたヘネンはフランス、イタリアと続けて2位となって不調のシーンに代わってスズキを支えていたが、イタリアGPの後に出場したマン島TTでのクラッシュによって選手生命を絶たれてしまった。
 雨となった第6戦ダッチTTでは片山敬済が快走を見せたがマシントラブルで後退し、レースはチェコットがシーズン初勝利を挙げてヤマハ本社契約ライダーの意地を見せた。続くベルギーで勝ったのは、ヘネンに代わってワークスRGA500に乗ることになったウィル・ハルトッフ。予選で転倒して貴重なマシンを壊してしまったロバーツはチェコットのマシンを借りて予選を通過し、不安定な天候となった決勝では安全走行に徹して2位を得た。ちなみにロバーツはベルギーの250ccのレースでリタイヤした後、250ccのタイトルも射程距離だったにもかかわらず残りのシーズンを500ccに専念することを決めている。しかし、そのロバーツとチェコットは次のスウェーデンのプラクティスで共にクラッシュして負傷、それぞれ7位と6位に沈みようやく調子を取り戻したシーンが開幕戦以来の2勝目を挙げた。そして第9戦フィンランドでは、今度はロバーツとシーンが揃ってノーポイントに終わった。
 シーンの地元イギリスGPは、レース中に雨が降り始めてほぼ全車がタイヤ交換を行うという波乱のレースをロバーツが制して4勝目を挙げ、3位となったシーンとのポイント差をレース前の3から8に広げた。ちなみに、このレースで計時担当者のミスで正式な結果が出るまでに大きな混乱が生じたのを目の当たりにしたことが、ロバーツがグランプリの運営陣に対して不信感を持つようになったきっかけだとも言われている。
 有利な状況で最終戦ドイツGPに臨んだロバーツは堅実に走りきってシーンの目の前の3位でフィニッシュし、500ccクラス初挑戦にしてタイトル獲得という偉業を成し遂げた。ライダースタイトルをヤマハに譲ったスズキだったが、2勝したハルトッフや最終戦でGP初勝利を挙げたヴァージニオ・フェラーリら、シーズン途中でワークスRGAを与えられたライダーたちのシーンに引けをとらない活躍にも助けられ、コンストラクターズタイトルは守ることができた。

350ccクラス

 この年デビューしたカワサキのKR350は、KR250のタンデムツイン・エンジンをボアアップし、増大した排気量とパワーに対応するためにチャンバー形状の変更とブレーキの強化がなされただけの、ほぼKR250のコピーと言えるマシンである。グランプリウィーク中の走行時間を倍にしてマシン開発のスピードをアップさせるためにカワサキが考え出したのが、ほぼ同仕様の250と350のマシンを走らせるというアイディアだった。元々ヤマハのTZ250を倒してアメリカのAMAライトウェイトクラスを制覇することを目標にKR250の開発をスタートさせたカワサキにとって、KR350は言わばKR250のための捨て石とも言えるものだったのである。しかし、1975年にAMAで実戦デビューしてから既に3年以上熟成を重ねてきたKR250の資産をストレートに受け継いだKR350は、デビュー時点で既に十分に完成されたマシンとなっていた。
 その結果、市販TZ対ワークスKRの対決は、開幕戦のベネズエラGPこそ前年チャンピオンの片山敬済のTZが制したものの、第2戦以降は最終戦まで1戦を除く全てのレースでKRに乗るライダーが勝利するというKRの圧勝に終わった。中でも前年スポット参戦ながら350ccクラスでも2勝を挙げてこの年カワサキワークスに抜擢されたコーク・バリントンは、第2戦オーストリアで早くもKR350に初勝利をもたらすと第10戦チェコスロバキアまでに6勝と2位が3回と他のライダーに付け入る隙を与えない戦績でタイトルを獲得した。片山は開幕戦と第9戦ドイツGPで挙げた2勝を始め度々表彰台に上る活躍でランキング2位を得てディフェンディングチャンピオンの意地を見せ、バリントンのチームメイトであるグレッグ・ハンスフォードは3勝を挙げたものの片山に1ポイント届かずにランキング3位に終わった。

250ccクラス

 前年好成績を残したにもかかわらず、モルビデリやハーレーのマシンはカワサキのKR250に比べればすでに時代遅れになりつつあるのは明らかだった。元チャンピオンのマリオ・レガやウォルター・ヴィラ、パオロ・ピレリらのライディングをもってしても、これらのマシンはほとんど目立った成績を残すことができなかったのである。しかし250ccクラスのシーズン前半、カワサキのバリントンやハンスフォードの前に立ちはだかったのは彼らチャンピオン経験者たちではなく、市販TZ250を駆るケニー・ロバーツだった。
 ロバーツのグランプリ初勝利は本命とも言える500ccクラスではなく、この年の開幕戦ベネズエラGPの250ccだった。即ち、ロバーツは本格的なグランプリ参戦の最初のレースでいきなり勝利を挙げるという、なんとも鮮烈なGPデビューを飾ったのである。しかし第2戦スペインではバリントンとともにカワサキ・ワークスに大抜擢されたハンスフォードがGPで初めてのポイント獲得を優勝で記録するという健闘を見せ、続くフランスGPでも連勝してその速さが決してフロックではないことを証明した。ロバーツも第2戦、第3戦とハンスフォードに続く2位に入って安定した速さを見せた。ハンスフォードに比べれば出遅れた印象のバリントンが第4戦イタリアで250ccでのシーズン初勝利を挙げ、第5戦となったダッチTTではロバーツが2勝目を飾って再びランキングトップに躍り出た。
 こうしてロバーツ対カワサキ勢という様相を呈していたシーズン前半だったが、クラス第6戦となったベルギーGPを境に状況が一変する。このレースの1周目でエンジン焼き付きのためにリタイヤしたロバーツが、ランキング争いをリードしていながら500ccクラスのタイトル獲得に専念するために250ccクラスからの撤退を決意したのである。一説には、ヤマハからのサポート不足に対する不満が射程内にあったタイトルをロバーツがあっさりと放棄した原因だとも言われているが、ともあれロバーツがいなくなった今や、このクラスも350ccクラスと同様にカワサキの独壇場となった。ベルギーでのレースこそモルビデリのパオロ・ピレリが意地を見せたが、第7戦スウェーデンから最終戦までの6戦全てでKRを駆るライダーが勝利したのである。とりわけ後半戦に調子を上げたバリントンはフィンランド、ドイツ、チェコスロバキアとシーズン後半だけで3勝を挙げた上にイギリス以外の全てのラウンドでポイントを獲得するというシーズンを通して安定した速さを見せ、同じくシーズン4勝を挙げたチームメイトのハンスフォードを抑えてタイトルを獲得した。
 シーズン前半でロバーツが駆ったTZ250には、チームのブレーンであり名メカニックでもあるケル・キャラザースによって大幅なモデファイが加えられていた。さすがにワークスマシンであるYZR500に手を入れることは許されていなかったようだが、逆にこのスペシャルTZにはヤマハの方が刺激され、次期市販TZ開発の際にはフレームなどが大いに参考にされた。

125ccクラス

 エウジーニョ・ラッツァリーニ、アンヘル・ニエト、ピエルパオロ・ビアンキといったランキング上位に名を連ねるライダーの顔ぶれは前年からそれほど変わることはなかったが、彼らが乗るマシンは大きく変わった。前年モルビデリでタイトルを獲ったビアンキはミナレリに乗り換え、ビアンキのチームメイトだったラッツァリーニのマシンはベネリとの提携によってMBA (Morbidelli-Benelli-Armi) と名を変えた。ブルタコのニエトはシーズン途中でミナレリのマシンにチェンジしている。
 開幕戦ではディフェンディングチャンピオンのビアンキがミナレリにGP初勝利をもたらしたがその後は優勝かリタイヤかという極端なレースが続き、ラッツァリーニがシーズン前半の6戦で4勝に2位が2回と好調ぶりを見せた。シーズンが後半戦に入ってラッツァリーニが調子を落とし始めると、代わってミナレリに乗り換えたニエトが本来の速さを取り戻した。ニエトはシーズン終盤に4連勝と猛追したが前半に貯金を作ったラッツァリーニには届かず、ラッツァリーニが逃げきって自身初となるタイトルを獲得した。

50ccクラス

 すでにスペインでは英雄的な存在となっていたアンヘル・ニエトはこの年の50ccクラスではまったく目立った成績を残すことができず、代わってブルタコのチームメイトであるリカルド・トルモがスペイン人たちの新たなヒーローとなった。前年から本格的なGP参戦を開始したトルモは7戦行われたこの年の50ccクラスで5勝を挙げ、勝てなかった2戦でも2位表彰台に上るという前年までのニエトを思わせるような圧倒的な強さで初タイトルを獲得したのである。

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最終更新:2014年01月24日 12:02
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