1986年のWGP
1983年から1985年まで3年連続で全日本500ccクラスチャンピオンとなった平忠彦は、この間数回のスポット参戦を経て、1986年から満を持してWGPへのフルエントリーを果たす。当時のヤマハのワークスチームであったマールボロ・ヤマハ・アゴスチーニからの参戦となった平は、ヤマハとアゴスチーニの意向もあって慣れ親しんだ500ccではなく、250ccクラスへのエントリーとなった。
1986年のヤマハは、マールボロからエースの
エディ・ローソンとベテランのロブ・マッケルニア、1984年250チャンピオンのソノート・ヤマハのクリスチャン・サロン、そしてこの年から参戦を開始したキング・ケニー率いるチーム・ラッキーストライク・ロバーツのランディ・マモラとマイク・ボールドウィンと、500ccクラスのYZRライダーは満員といってもよい状態だった。
一方の250ccクラスでは、
ホンダが前年に圧倒的な強さでフレディ・スペンサーにダブルタイトルをもたらしたワークスマシンRS250RWをベースとしたNSR250をデビューさせた。対するヤマハも前年終盤にワークスマシンYZR250をデビューさせており、それまではホンダのRSやヤマハのTZなどの市販レーサーが鎬を削るクラスであった250ccクラスが、この年を最初に500と同様にワークスマシンが支配するクラスへと変貌していくことになる。
苦闘
GP開幕前、鈴鹿で開催された2&4を独走優勝で飾った平はヨーロッパに旅立ち、WGP前哨戦としてイタリアの国内選手権に出場した。このレースでは5位となった平だったが、この時早くも混戦の中で追突されてマフラーを曲げるという、「少しでも隙間があれば突っ込んでくる」という本場ヨーロッパのレースの洗礼を受けている。
そして迎えた開幕戦スペインGP予選。徐々にタイムを上げた平は、初めてのハラマで2番グリッドという好ポジションを得る。ポールを獲ったチームメイトのマーチン・ウィマーとの差はわずか0.02秒だった。予選3位には1983年のチャンピオンでヤマハのエースであるカルロス・ラバードがつけており、上位3台を独占していることからもYZR250の速さには疑問の余地がなかった。
ところが決勝の押し掛けスタート、YZR500から受け継ぐYZR伝統とも言える始動性の悪さが最悪の形で露呈する。他のマシンがスタートしていく中で平のマシンだけエンジンがかからず、平は跨っていたマシンから一旦降りて再びマシンを押し始めたのである。後続のライダー達にしてみれば、エンジンが掛かってマシンにフルスロットルを与えた矢先に目の前にマシンを押しているライダーがいたのでは堪らない。避けきれなかったマシンが次々と激突し、その中の一台のマシンが倒れた平の左足の上を乗り越えていった。
このアクシデントによりレースは赤旗中断。再スタートのグリッドに平の姿は無く、記念すべき平のWGPフルエントリー第1戦は1コーナーにも届くことなく終わりを迎え、左足甲の骨折というおまけまで付いた。
ギプスが取れるまで3ヶ月と診断された骨折だったが、2週間後のイタリアGP、平は無理やりギプスを外してモンツァに現われた。腫れあがった左足には自身のレーシングブーツを履くことができず、マールボロ・ヤマハのチームメイトで500ccクラスの巨漢ライダー、ロブ・マッケルニアから特大ブーツを借りた。
骨折した箇所はちょうどシフトペダルを操作する位置であり、シフトチェンジのたびに痛む足に耐えながら予選は10位。決勝では足に体重をかけてマシンを押し出すことができず、他のライダーにスタートで30秒も遅れてしまって22位というワークスライダーとしては散々たる結果に終わった。
それでも平は後に「モンツァのレースを走りきったことで、レーサーとして一回り大きくなることができた」と語っている。
第3戦の西ドイツGPを9位で終わった後、治療のために一旦帰国するがすぐにヨーロッパにとんぼ返りしてオーストリアGPに出場する。オーストリアでは17番グリッドから追い上げて8位でフィニッシュした。
第5戦ユーゴGP決勝では転倒。シーズン前にイタリア選手権予選のアクシデントでダメージを受けていた右足を再び傷めてしまう。
第6戦オランダ(ダッチTT)を6位、続くベルギーを9位。第8戦フランスGPではまたもスタート失敗で最下位までポジションを落とし、1ポイントを獲得する10位まで追い上げた。
その後帰国して鈴鹿8時間耐久レースに出場。ペアライダーのクリスチャン・サロンとのセッティングの違いに苦しんだ挙句、レース中盤で前年に続いてマシントラブルによりリタイヤという結果に終わった。
8耐の余韻に浸る暇もなく、翌週にはシルバーストンでイギリスGPである。平はここでも転倒、またしてもユーゴと同じ場所を傷めてしまう。
車椅子で次のスウェーデンに移動した平は、押しがけの不要な予選では7位の走りを見せたが、23周の決勝レースの最終ラップに転倒を喫する。ところが平の転倒直後に雨によるコンディションの悪化によってレースは中断、直前の22周までで打ち切られることになり、平は完走13位の扱いとなった。
サンマリノGP
スウェーデンから2週間のインターバルを置いて、8月の下旬には早くもシーズン最終戦のサンマリノGPである。ここまでの平のレース傾向ははっきりしており、予選では速さを発揮できるがスタートで後方に沈む、というパターンが繰り返されていた。後方からの無理な追い上げが祟って転倒、というレースも少なくない。3年連続全日本500ccチャンピオンという日本のエースでありながら、優勝どころか表彰台にも手が届いていなかった。
しかし、平には「泣いても笑ってもこれが最後」という開き直りがあった。サンマリノGPの舞台となったミサノ・サーキットがプレシーズンのイタリア選手権で走ったコースであったことも、精神的にいい影響を与えていたかもしれない。
この頃のWGPでは、固定ゼッケンが与えられるのは前年ランキングインしているライダーだけで、ワークスライダーと言えども前年実績のない平は毎戦違うゼッケンで戦っていた。サンマリノでの平のゼッケンは#31である。
短いインターバルがわずかでも負傷した足を癒す時間になったのか、予選ではコースレコードを更新する好調さを見せる。ポールポジションは既にこの年のチャンピオンを決めているカルロス・ラバードに譲ったものの、開幕戦以来のセカンドグリッドを獲得した。
ところがまたしてもスタートに失敗。オープニングラップは28位と、このシーズン何度も見られた光景が繰り返される。しかしここからはいつもの平とは違っていた。
トップはポールのラバード。スタートで一瞬出遅れたものの、すぐにトップを奪うとあっという間に後続を引き離して独走態勢を築く。これもこの年おなじみの光景である。
同じ頃平は急激な追い上げを開始していた。オープニングラップを28位で終えた後、3周目には18位、10周目には8位にまで上がった。19周目には6位、そして24周目にはラバードから遅れた4台が形成していた2位集団に完全に追いついた。
この時2位グループを形成していたのは、この年のランキング2位であるアルフォンソ・ポンス、同じくランキング3位になるドミニク・サロン、80年と81年の250ccチャンピオンであるアントン・マンクに250ccで優勝経験のあるファウスト・リッチを加えた、一癖も二癖もある中量級のスペシャリストばかりである。
平が2位グループに追いついた同じ周、あろうことかトップ独走のラバードが転倒してしまう。気の緩みなのかどうかは分からないが、この独走中に転倒というのはこのシーズンのラバードが何度か演じた展開ではあった。いずれにしても2位グループは一瞬にして平を加えた5台によるトップ争いへと変じた。
ラバードはマシンの再起動を試みるがかなわず、リタイヤとなった。
トップグループは目まぐるしく順位を変え、あらゆるコーナーでバトルが繰り返された。平は25周目はポンスをかわして4位に上がるが26周目に抜き返され、27周目にはポンスと3位争いをしていたリッチを抜いて4位。圧巻はラスト2周となった28周目、タイヤを滑らせたマンクとそのマンクのインを刺したポンスを一気にアウトから抜き去って2位に躍り出た。
そして29周目、24周目からトップをキープしていたサロンを抜き去り、ついにトップに立つ。平がグランプリではじめてトップを取った瞬間だった。
30周目、ファイナルラップ。平はトップを譲るどころか2位以下を若干引き離し、ついにトップでチェッカーを受けた。1982年スウェーデンGP500ccクラスの片山敬済以来となる、29勝目にして10人目の日本人によるWGP優勝であった。
確かにラバードの転倒という幸運はあったかもしれないし、ファイナルラップのマンクやポンスは順位キープの走りに切り替えて無理に平に仕掛けようとはしなかった。事実、マンクはレース後に「28周目に抜かれた後、平を追おうとしたがタイヤがスライドしてしまった。一方、平のマシンはコーナリングが安定しており、無理してクラッシュするよりポイントを稼いでおこうと考えた」と語っている。
しかし、これは裏を返せばマンクやポンスというこの後にチャンピオンとなるほどのライダーに追撃を諦めさせるほどのものが、このレースの平の走りにはあったという事でもある
ウィニングランから帰ってマシンを止めた平の元にはチームやヤマハの関係者だけでなく、他チームの関係者やジャーナリストなど、その時居合わせた多くの日本人が集まって祝福した。
表彰式の後のオープンカーでのパレードラップの最中、突然のスコールが降った。平は「それまでのバッドラックを洗い流してくれるような、とても爽やかな雨だった」と語っている。
「最高のレースだった。平というライダーはホットなスピリットを持ち、素晴らしい走りを展開した。これまであれほどの走りを見たことがない」(カジバの社長、カステリオーニ)
「完璧なレースだった。少年たちは平の走りを見て席を立ち、目を見張っていた」(ランディ・マモラ)
「実にグレートな走りをした。彼本来の力を発揮できた。どのライダーよりも素晴らしかった」(ケニー・ロバーツ)
後に原田哲也はこのレースで平がつけたゼッケン31を受け継いで1994年の250ccクラスにフル参戦し、片山敬済以来の日本人チャンピオンに輝いた。
1986年WGP戦績
Rd. |
Date |
GP |
予選 |
決勝 |
1 |
5月4日 |
スペインGP(ハラマ) |
2 |
Ret |
2 |
5月18日 |
イタリアGP(モンツァ) |
10 |
22 |
3 |
5月25日 |
西ドイツGP(ニュルブルクリンク) |
6 |
9 |
4 |
6月8日 |
オーストリアGP(ザルツブルクリンク) |
17 |
8 |
5 |
6月15日 |
ユーゴスラビアGP(リエカ) |
3 |
Ret |
6 |
6月28日 |
ダッチTT(アッセン) |
3 |
6 |
7 |
7月6日 |
ベルギーGP(スパ・フランコルシャン) |
5 |
9 |
8 |
7月20日 |
フランスGP(ポールリカール) |
6 |
10 |
9 |
8月3日 |
イギリスGP(シルバーストン) |
14 |
Ret |
10 |
8月9日 |
スウェーデンGP(アンダーストープ) |
7 |
13 |
11 |
8月24日 |
サンマリノGP(ミサノ) |
2 |
1 |
最終更新:2010年06月15日 16:49