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日も落ちて面会時間が終わり、病院で借りた傘を差して水銀燈は歩いていた。
道路を行く車のライトや、街灯に照らされて光る雨を見ながら、いつかめぐが話していたことを思い出す。

(雨が降るのをじっと見ているとね、雨粒がきらきらと、銀色に輝いて見えるの)
(そうしてるとね水銀燈、あなたのことを思い出すの)
(だって、あなたの髪みたいで、とっても綺麗なんだもの。月の光に照らされる雨が……)

突然甲高いクラクションの音が耳に突き刺さる。

「あ……」

気づかないうちに横断歩道に差し掛かっていた。信号は赤。立ち止まって、車道に出かかっていたことに気づく。
らしくない、と水銀燈は思った。最近はずっとこんな調子で、目の前のことに集中できず、注意力も散漫になりがちだった。
気がつけば、頭の中に浮かぶのはめぐのこと……めぐと過ごしてきた時間のことばかり。

「どうかしてるわ」
「本当に」

独り言に背後から返事があった。振り返ると、片目だけの視線がこちらを見ていた。

「薔薇水晶……驚かせないで頂戴」

傘も差さずに立っている、と思ってよく見ると黄色いレインコートを着ているのだった。
両手に何か荷物を下げているから、傘を差せなくてレインコートなのだろう。
どうでもいいがサイズが合っておらずぶかぶかだ。

「あなた、めぐのお見舞いにはもう行ったんでしょぉ?こんなところで何やってるの」
「お姉さまに……お渡ししようと思っていました……ちょうどお姿が見えたので」

おそらく両手の荷物は薔薇水晶が作った料理だろう。
こうして薔薇水晶が手料理を持って水銀燈を訪れるのは今に始まったことではなかった。
最初の方こそ対応が面倒で邪険にしてきたが、自炊する手間を考えたらはるかに楽だということに気づいてからは遠慮なく受け取ることにしていた。
「放っておくと……ジャンクフードばかりですから」と言われたくらいに食事を適当に済ませていた水銀燈にとっては、手料理の味もそんなに……悪くないことだし。

「今日は……ひよこ豆のサラダと……アオリイカのトウチ炒めです」

ただ、毎回聞いたことのないようなレパートリーばかりなのは気になるが。

「……ありがと」
「いえ……」

お部屋までお持ちします、と言う薔薇水晶から荷物を片方受け取り、並んで歩き出す。
数日分の料理なのか、けっこう重い。
いつもなら二人きりの時は何がしかの話題(音楽とか占いとかオカルト)を振ってくる薔薇水晶だが、それも無くしばらくお互いに黙ったままで数分が過ぎる。
横目で様子をうかがうものの、レインコートのフードに隠れて相手の表情は見えない。
その視線を察知したのか、

「本当は……心配でしたから」

薔薇水晶が口を開いた。

「心配って、めぐのこと」
「いえ……お姉さまのことです」

予想外の答えだった。

「めぐが入院してから……様子が変です。楽器にも触れず……まるで、心がここにいないみたい」

薔薇水晶に心配をかけるほどとは思わなかったが、自分がおかしいことは自分でいちばんよくわかっているつもりだった。
しかし、自分の何がどうおかしいのか、おかしいから何をどうすればいいのかは、わからない。

「……私は、」

言葉が続かない。何かを言わなければと思ったものの、何を話せばいいのか、そもそも何か話すべきなのかすらわからなくなる。

薔薇水晶がフードを持ち上げてこちらを見た。
その顔を見て、めぐが入院してから今日まで、薔薇水晶と話をした記憶が無いことに思い当たる。
いや、薔薇水晶だけじゃない。
学校もサボりがちな最近は、めぐ以外ほとんど誰ともまともに会って話をしていなかった。
(そうか、一人だったから、それで)
大事なことが頭の片隅をかすめていった気がした。
今、一人きりで立ち尽くしていると思っていた自分の前には薔薇水晶がいる。
自分だけでは何もわからなかった。なら、そこに他人がいてくれるなら。

「……私は、わからないわ。薔薇水晶」

薔薇水晶が足を止めた。合わせて立ち止まり、二人で路上に立つ。
通りから外れたここでは、あたりに人もおらず、
雨音と、時折遠くから濡れた路面を車の走る音が聞こえてくるだけだった。

「めぐともう、一緒にできない」

水銀燈は言った。それだけははっきりしていた。それが今の動かしがたい状況だ。

「私は……」

そして自分は、そのことに対してどう反応すればいいのかが、わからない。
自分が何を感じているのか、感じればいいのか、思って、思えば、どうすれば……。
これまではそこで行き止まりだった。

「これから、どうすればいいの」

やっと、それだけを言うことができた。
「行き止まり」を、誰かに伝えることができた。
じっと黙って水銀燈の言葉に耳を傾けていた薔薇水晶だったが、
しばらくして「ギター」と一言呟いた。

「ギ、ギター?」
「あなたのギターを弾いてください……何を感じるかを……観て下さい。自分の、心の中」

それだけ言うと、薔薇水晶は持っていた料理の包みを水銀燈に差し出した。
どういうわけかさっきまでそこそこ振っていたはずの雨がぴたりと止んでいたので、傘を閉じてそれを受け取る。

「これで失礼します……おやすみなさい、お姉さま」

薔薇水晶が踵を返し、去っていく。あっという間に目立つはずのレインコート姿は見えなくなり、
気づけば水銀燈は一人、両手に荷物を抱えて立っていた。

「……重いわ」

一週間分はある、と水銀燈は思った。

5分ほどで部屋に帰った直後、大粒の雪が降り出した。


あの頃めぐは、もう体力的にギターを持って歌うことが難しかったのだろう。
そのためか、そこへ現れた自分に、このギターを託してくれた。
まず目に入るのが、ブリッジ下とポジションマークにあしらわれた白の逆十字。
漆黒のボディに対比をなして、並んだ3基のシングル・ピックアップとともに存在感を放っている。
しばらく触れてもいなかったそのギターを前に、水銀燈は立っていた。
もともと物の少ない部屋だが、ろくに片付けていない食器や衣類が乱雑に散らばっている。
床には薄く埃が積もっていて、何日かぶりに掃除が必要だろうと思った。が、今はその前にやることがある。

(触れる気になれなかった)

薔薇水晶はギターを弾けと言った。行き止まりの自分がなんとか手に入れた他人の言葉だったが、いざその実行を前にすると、これまでもそうだったように何かがためらわせる。
しかし、今は弾くのだ、と水銀燈は思った。弾くために、考える。
なぜこれまで触れる気になれなかったのだろうか。
行き止まりから先へ行くために、そもそものはじめから考える。

『めぐはもう……歌えません』

薔薇水晶に知らされた。急いでかけつけた病室で、めぐが待っていた。

『もう、あなたと一緒にライブに出れない』

なんて馬鹿なの、と思った。これまでのように歌えなくなると知っていて、それでも歌い続けていたなんて。

『だからよ、水銀燈』

めぐは何と言っていたか。

『もう歌えなくなるから、今まで歌ってきたの』

そんなおかしな話があるだろうか。
理解できなかった。

『水銀燈、暇ならちっと付き合うです。謎の美少女ユニット、最近の評判を確かめに行くです』

無理やり翠星石に連れていかれたライブハウス。音楽自体ほとんど興味もなかったが、アルコールでも何でもドリンクをおごると言われてしぶしぶついていった。
1つ目のバンドはどこかで聞いたような夢とか人生とかの歌をやかましくやっていて、2つ目のバンドもどうってことない恋愛とか価値観の話をうるさくわめいていて、音の臨場感というか、演奏の生の感じは自分にとって初体験ではあったがそれ以上の感想など何も無くて、どうせ次もこんなものだろうと4杯目のジン・トニックをカウンターで受け取った直後に、めぐを見た。

明らかに場の空気が変わり、それまでバラバラに立ったり座ったりしていた客が、ステージの前に集まる。
それからの様子の何もかもを、ホールの一番後ろから全て見ていた。
めぐが細い腕を振り下ろして、ギターの和音が響く。薔薇水晶がキーボードで伴奏を重ねていく。
めぐが歌いだした。
空気が、揺れていた。

観客の誰も、飛んだり跳ねたり、さっきまでのバンドのように手を挙げて歓声を上げたりはしていない。
息を呑んでいる。水銀燈もまた、同じだった。
静まり返った人たちの頭上を越えて、めぐの歌声は響いてきた。
激しさも無く、穏やかさも無かった。ただ、泣いているような声だった。
何だこれは、と水銀燈は思った。

これまで全て、歌や音楽など下らないと思っていた。
薄っぺらな言葉、感傷、うるさいだけの騒音。
歌や音楽だけではなく、芸術と呼ばれるものが表現しているとされる感動とか感情と呼ばれるもの自体、自分にとっては信じがたいものばかりだった。
これまでそんなものを感じたことなど一度もない。
自分にとって理解できるのは、怒りや、憎しみといった負の感情だけだった。
自分に向けられてきた他人の感情はそれだけだったのだから。
だと言うのに、下らないとしか思っていなかった歌というものに、音というものに対して、初めて、

(わからない)

判断不能の感覚が自分の中に生まれたことを知った。

それからというもの、月に数回めぐ達が出演する日、そのライブハウスに通いつめた。
理解できない感覚の正体をはっきりさせるために。
それでも結局成果はなく、それでもライブハウスを訪れてめぐの歌を聴き続けるうちに、あれは何度目のことだったろうか、めぐが話しかけてきた。

『あなた、いつも一番後ろで見ているでしょう。だから覚えちゃった』

それから薔薇水晶とも知り合い、お互いに薔薇学の同じ学年であること、めぐは休学中だが薔薇学に在籍していることなどを知った。

『あなた、私のギターをもらってくれない?できれば、私のかわりに弾いて欲しいの』

知り合ってしばらくして、そう言われた。

『あなた、音楽に興味があるんでしょう?それとも、次のライブまでに弾き方覚える自信、無い?』

そこまで言うならやってもいいけど、とギターを受け取った。
本当になんとなくだった。

『思うように音を出してみて』

ピックの握り方すらおぼつかない状態で、めぐの言葉の通り、ギターをかき鳴らした時。
あの時の感覚を、正確に誰かに伝えることはできないだろう。
それでもあえて言葉にするならば……そう、まるでその音は、自分の言葉のようだと思った。

(私の……言葉)

私はあの時、言葉を手に入れたんだ。
それから少しずつギターに慣れて、曲を覚えていく度に、めぐは驚いた。

『すごいわ、水銀燈』

もっと驚かせてやろうと思った。こんな楽器ぐらい、自分にとっては何でもないのだから。

『お姉さま……これを聴いたことがありますか』

薔薇水晶からは色々な音楽の存在を教わった。
それらを暇にまかせて雑多に聴きあさっていくうち、決して数は多くないが、めぐの歌のような響きを持った音楽が他にもあるということを知った。
歌には限らず、それはギターの響きであり、鍵盤の音であり、ベースの生み出すうねりであり、ドラムの叩きつけるリズムであった。
そういう<音>を持っている人々にとっては、それが自分の言葉なのだろうか。
そんな言葉のように空気のように、何かを持って伝わってくる音が、世界には溢れている。
自分にも、そのような音を響かせることができるなら、その時には初めてめぐの歌を聴いたときのあの感覚がなんなのか、自分にも理解できるかもしれない。
そう感じるようになったのは、もしかするとめぐと薔薇水晶に関わるうち、
音楽に関わる自分というものが変化していったからなのかもしれない。
いつしかギターを弾くことは自分にとって、仕方なくでも、めぐを驚かせるためでもなくなっていた。

そうやって三人で過ごした日々には、常に音楽が響いていた。
そして三人の日々という全体の記憶にも、ひとつの音楽が響いている。
三人がそれぞれに奏でてきた、三人の言葉。
今、水銀燈にははっきりとその<音>が聞こえていた。
それは言い換えれば、誰にも自分の意思や感情を伝えようとしてこなかった、と言うより、その言葉を持っていなかった自分が、めぐと薔薇水晶、二人と共に語り合ってきた時間なのではないか……。

気づくと、ネックを握っていた。
ストラップを肩にかける。
アンプの電源を入れると、わずかに気配のようなノイズが部屋に満ちる。
弦に挟んだピックを抜き取り、耳でチューニングを合わせる。
歪ませていない6音が部屋の空気に、自分の身体に染みとおっていく。
しばらく忘れていた、自分の言葉が手の中にあった。
めぐに一番最初に教わった曲のコードを押さえ、かき鳴らした。

(めぐ)

『簡単だけど基本的なコードよ。だから他の曲もすぐ弾けるようになるわ』
めぐの声が、すぐそばで聞こえるようだった。

(もっと一緒に)

『すごいわ、水銀燈、もうそんなに弾けるようになったの?』

何度も何度も練習した動きは指が覚えていて、音楽を鳴らしていく。

(もっと一緒に、あなたと、音楽を)

言葉が感情をかたどっていく。

『もう、あなたと一緒にライブに出れない』

(めぐ――)

『ごめんね、水銀燈――』

膝をついて、めぐからもらったギターを抱きしめていた。
頬を伝うものを知って、ようやく、自分は悲しいのだとわかった。




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最終更新:2008年06月09日 01:44