勉強しなきゃならんのは自分のせいとしても、バンドで音を出せないのは退屈で仕方がない。
メンバー全員でそういう取り決めを交わした以上は、それを守るべきだということはわかっているつもりだ。
けれど、勉強の日々を重ねるごとに溜まるストレスと、ドラムで暴れだしたい衝動はそろそろ抑えがたいものになっている。
「う~あ~、もう、やってらんねーです!」
その上苦手な数学の勉強は一向にはかどらず、さっきからテキストの理解に苦戦を強いられていた。
翠星石は頭を抱えるようにしてがしがしとかきむしると、机の上にシャーペンを放り出した。
両手を組んで頭上に伸ばし、凝り固まった関節や筋肉をほぐしてやる。
あくびが出て、イスの背もたれがぎしりと音を立てる。
机の上に足を乗せると、変な姿勢になったせいか、お腹がぐぎゅるると音を立てた。勉強というものはエネルギーを消費するのだ。
携帯を見ればもう夕方の6時だった。さっき確認したのはまだ5時かそこらだったから、一時間もの間、我ながらなかなか集中していたものだと思う。
「そーうせーいせーきはぁーまーだでーすかー 姉がー腹ペコでー待ってるですのにー」
イスと一緒に回転しながら、思いついたセリフに適当な節をつけて歌う。
夕飯を食べるまではもう一ミリも勉強する気は起こらないというのに、蒼星石はしばらく前にその夕飯の材料を買いに行くと言って出かけたきりまだ戻ってこない。
机の上に戻ってきた足を置いて、目の前に来たジーンズの太ももを両手でぺしぺしと叩く。
エイトビート、テンポは120……140……ちょいとパラディドル……。
暇つぶしにそんなことをしていると、ドラムを叩きたい気持ちがむくむくと持ち上がってくる。
(くあー、思うさまドラムを叩きたいですビートを刻んで……と、お?)
ふと思いついて机から足を下ろし、さっきのペンを取って、電気スタンドの傘を軽く叩く。
(こ、こいつは……)
金属製の傘から硬質な感触が、ペンを伝わって手の中に返ってくる。
久方ぶりのその感覚は、一瞬のうちに翠星石の中でくすぶっていた衝動を発火させた。
(こいつがクラッシュで……)
引き出しを開け、雑誌をのせてスネア、テキストや
ノートを机の上に重ねてタム、ペン立てをハイハット、と身の周りのものを動かし、ドラムセットに見立てていく。
(我ながら天才的です)
あっという間に、勉強机が仮想ドラムセットに早がわりした。
あとはスティックさえあれば完璧だが、愛用のスティックは、勉強に専念するためと蒼星石に持っていかれてしまって手元に無い。
一度蒼星石の部屋に忍びこんで探したものの、どうやら鍵つきの引き出しに仕舞ってあるらしく手が出せない。
が、しかし。
(くふふ、翠星石を甘く見ちゃいかんです)
翠星石は密かに隠し持っていたスペアをクローゼットの奥から取り出した。
いくら蒼星石でも、以前修学旅行のときに(勢いで)買ったウレタン製のヌンチャクの中にスティックを忍ばせていたとは思うまい。
ヌンチャクから抜き取ったスティックを構え、両手で回して手に馴染ませる。
回転を止めて構えると、本物のドラムセットを前にした時と同じ高揚感が背筋を駆け上っていく。
しばらくぶりに開放的な気分だった。
(これです、これこそ求めていた感覚……)
あとは思う存分、暴れるだけだ。
「それでは……おほん、蒼星石が帰ってくるまでちょこっと。ほんのちょこーっとだけです♪」
10分後、結局買い物から帰って部屋にやってきた蒼星石にも気づかず『モビー・ディック』のラストを決めた瞬間を押さえられ、スペアのスティックも没収となった。
◇
「……ってなことがあってから一・度も叩いてねえです」
翠星石が話し終わると同時に、蒼星石は首が後ろに引っ張られる力を感じて、どうやらマフラーの端をつかまれたらしく、翠星石の少し前を歩いていたところを急に隣に引き寄せられた。
「おかげでストレス溜まりまくりでした」
『まくり』のところを強調して、耳元で翠星石がささやく。
「って言うから、ス、スティック返したじゃない」
言い返すと、首に強い圧迫。マフラーで絞められているらしかった。
「翠星石だって反省したです。勉強もこのままじゃヤバいと思ったから、自粛したですよ」
「そう、それは……げほ、え、偉いね」
「あ、すまんですつい」
顔色の変化でも見てとってくれたのか、翠星石が手を放した。
蒼星石はマフラーをゆるめつつ再び歩き出す。
自粛したのならそれで話は済むと思うのだが、我慢を超えた不満を結局表現するのが翠星石だった。
『ドラムを辞めようと思う』発言からしばらく、思うところをぽつりぽつり話し出した翠星石だったが、途中で「考えがまとまらんから歩きながら話すです」と言い出して、二人は今、自宅の近所を並んで歩いていた。
何か物事をつきつめて考えるときに、一人で、しかもじっとしていられないのが翠星石で、それで外に出てはきたものの、夜には雪の予報もあり、空は暗く、風は無いが空気は冷え切っていた。
今のところまだ翠星石の話からは、彼女が考えていることの核のようなものは見えてこず、このまま外にいて雪の前に雨にならなければいいけど、と思っていた矢先、ぽつりと頬に水滴を感じて、まずいと思う間もなくぱらぱらと小雨が降り出してアスファルトを濃い色に染めていった。
慌てて通りがかったバス亭の屋根の下に入る。
空を見ると、先ほどより雲が厚くなっているように見えた。
雨足も極端な変化を見せず、それなりのところで安定してしまっている。すぐには止みそうにない。
「降り出しちゃったね。帰ろうか?」
「うぇー、まだ話は終わってねえですのに……
あ、そーいやここからなら真紅のトコが近いです
ちょいと雨宿りさせてもらうついでに真紅にも話を聞いてもらうですそーですそれがいい」
あまりに白々しい口調だったが、わざとやってるわけでもなく、こういうとき本当に白々しくなるのが翠星石だった。
「まさか最初からそのつもりで」
「な、なぁーんのことですかぁ?いや、雨が降り出すとは思っても見なかったですねぇ」
蒼星石の記憶が確かなら二人で天気予報を見ながら「雪積もるですかねえ」「そのまえに雨かも」なんて会話を交わしたのは今日の朝食のときだった。
「ほ、ほらそうと決まれば蒼星石、急ぐですよ走るです!!」
蒼星石の視線を避けるように振り向いて、翠星石は勢いよくバス亭を飛び出した。
「ぐえ、ちょ、ちょっ、ま゛、じ、じぶん゛で走る、から゛」
飛び出して、駆け出す手にはしっかりと蒼星石のマフラーの端が握られていて、駆け出した先はちょうど下り坂で重力と加速が加わり、尋常じゃないくらい首が絞まった。
マフラーをやめてネックウォーマーか何かの購入を検討しなくては命に関わる。
勢いづいた翠星石に半ば引きずられるように走りながら、タートルネックも何枚か新しいのを……などと考ているうちに、真紅の家――正確には桜田家――の屋根が、住宅地の向こうに見えてきた。
◇
真紅は桜田家に間借りしている。
ジュンが小学校卒業を、つまり中学受験を控えた年の暮れ、父親の仕事の都合で長らくドイツにいた真紅がなぜ単身で日本のこの町に戻ってきたのか、はっきりした理由はいまだに本人が口を割らない。
ともかくお互いが幼少の頃、両家の親交は深かった。
かといってそれで娘を預ける方も、預かる方もどうかとは思うが、ともかく真紅は桜田家に居候となり、それからまもなく桜田夫妻が揃って海外出張となり、以来桜田家はジュン、のり、真紅の3人暮らしが続いている。
その桜田家の2階、ジュンの部屋の隣の真紅の部屋(6畳)には、計6人がひしめいていた。
「狭いわジュン」
「じゃあ僕は部屋に戻る」
「ジュン!てめぇ久々に来てやった美少女二人ほっぽらかしてどこ行くですか!」
「来てくれと頼んだ覚えは無い。あと美少女は一人しか来てない」
「なんですってぇ!蒼星石に謝るです!」
「お前が謝れよ!」
「急にお邪魔してごめんね、ジュンくん、真紅」
「あ、いや、ごめんそういう意味じゃ」
「みんなでいた方が、部屋があったかいの!」
「ホットカーペット下げても平気かしら」
「のりはどうしたです?」
「スーパー。買い物」
「まーたのり一人で行かせたですかぁ?ただでさえ甲斐性無いんですから荷物持ちぐらい率先して行くです」
「おまえは居ろとか行けとか僕をどうしたいんだよ」
「ジュン、お茶を淹れて頂戴」
「あ、僕やるよ。みんなは?」
「もらうです」
「ヒナはいいの。おなかいっぱいなの」
「もらうかしら」
「ってあーっ!金糸雀、僕のカプリコ勝手に食べたな!」
「大事ならとっとくかしら。早い者勝ちかしら~」
「あらゆる意味で二人ともお子ちゃまですぅ」
「なんだと」
「美味しいわ蒼星石」
「ふふ、ありがと」
「真紅ったらずーっと同じとこうたわせるの」
「じゃあずっと曲にかかりっきりだったの?」
「そうね。それで気づいたわ。やはり皆が揃って音を出さないと」
「げ、もう買ってきたぶん無いのか」
「行ってらっしゃいかしら」
「行くか!雨だぞ!」
「ジュンがかわいそうなの」
「それですよ真紅!久々にどうですか、コレでも」
「飲みに行くサラリーマンかしら」
「違うですスタジオ!」
「なんか寒くないか」
「あ、カーペット切れてるの」
「金糸雀!」
「ひぅ、間違えて切っちゃったかしら」
「翠星石……駄目だよ、試験前なんだから」
「一日ぐらいどーっちゅーこたあないです。皆溜まってるものを吐き出すです。雛苺、行くですよね?」
「久しぶりなの!」
「そうね、せっかくなのだし、今日一日くらいは」
「おまえら出かけるのか?僕も一緒に出ようかな」
「スーパー行くかしら?なんだかんだでお姉ちゃん想いかしら」
「今日はからむな、金糸雀……」
「金糸雀が飲んでるの、それひょっとしてチューハイじゃない?」
「うわ、ほんとだ。ジュースと間違えて買ったのか」
「なんかあっついかしら」
「こら、脱ぐな!」
「蒼星石、真紅も雛苺も行くと言ってるです!」
「うーん」
「せっかくこうして面子もそろってるです!今日しかないです!やるです!」
「でもなあ……」
「きぃぃぃぃぃ、これだけ言ってもまだわからんですか!金糸雀、ちょっとソレよこすです!」
「どうぞどうぞかしら」
「ちょ、何するの、やめ、翠星石、だめ、だめだよ……」
「ポッキーおいしいの」
「誰か翠星石止めれる奴」
「無理ね」
「あっついかしら」
「だめぇええええええええええ!!!んぐ、」
最終更新:2008年06月09日 01:43