『選ばれし者』
(キャラ) アナキン・スカイウォーカー、ハリー・ポッター、インデックス
女の声は、まだ耳の奥にこびりついていた。
黒板を鳴らすチョークの音、抑揚のない笑み、そして命の授業という悪趣味な響き。あれは夢だったのか、それとも――
瞼の裏が赤く染まる。何かが焼けるような、それでいて何も燃えていないような、奇妙な熱の記憶。意識が水面に浮かび上がるように戻ってくる過程で、アナキン・スカイウォーカーはまず自分の“呼吸”に気づいた。
浅く、速く、荒い。だが、それだけだった。
機械の呼吸音がしない。あの冷たいマスクの感触がない。
肺が勝手に自分の意志で空気を吸っている。
目を開けるより先に彼はそのことに戦慄した。ほんの前まで彼の呼吸は機械が管理するものだった。一度の呼吸すら自分のものではなかった。それなのに、いま、胸郭が自然に上下し肋骨の内側で心臓が生々しく脈打っている。
まさか。
目を開けた。
視界に映ったのは墨を流したような漆黒の夜空。
アナキンはゆっくりと身を起こす。
その動作だけで彼は自分の身体に何が起きたのかを理解し始めた。
重い。呼吸のための機械の重さではない。人間の生身の重さだ。
両足で地面を踏みしめた瞬間、久しく忘れていた感覚、爪先から伝わる路面の硬さ、靴底を通して伝わる微かな振動が全身を駆け抜けた。
彼は思わず自分の左手を見た。
人間の肌。若い、傷一つない肌。指を握り、開く。血管が浮き、筋が動く。
次に右手を見た。
こちらは違った。ジオノーシスでドゥークー伯爵に切り落とされたあの右腕、義手だ。
だがそれ以外はそれ以外は全て人間の身体だった。
膝から下の脚も、腰も、胸も、顔も。溶岩の炎に炙られ、黒く爛れ、機械の筒の中に押し込められていたはずのその肉体が、今は右腕だけが義手の姿に戻っている。
アナキンは自分の顔に触れた。頬の輪郭、鼻梁、瞼の縁。呼吸用のマスクも、頭部を覆う黒い兜も、そこにはない。素肌が外気に触れている感覚に、彼は目眩に似た感覚を覚えた。
(これは現実か?)
夢にしては痛みも匂いも、あまりに鮮明すぎた。焦げたアスファルトの匂い、遠くの排気ガスの匂い、湿った風。そして何より心臓の鼓動という機械では決して再現できない不規則な律動。
膝が崩れそうになるのを、彼はどうにか堪えた。
その代わりに記憶の方が崩れ落ちてきた。
瞼を閉じるまでもなく、それは蘇る。
医療用ドロイドの無機質な駆動音。黒い兜と胸当てが、まだ焼けただれた身体に装着されていく最後の工程。呼吸のたびに響く、シュ、コ、という音。それが自分の“声”になったのだと理解した瞬間の、あの底なしの絶望。
そして皇帝パルパティーンの言葉。
――そなたの激しい怒りが彼女を殺した。
その瞬間、アナキンの――否、ダース・ベイダーの中で何かが決定的に砕けた。フォースの奔流が制御を失い周囲にあった医療用ドロイドがことごとく引き千切られ、壁に叩きつけられ火花を散らして沈黙した。
パドメを救うために全てを捨てた。
ジェダイの掟を、師との絆を、自らの魂の在り方さえも。ダークサイドの力さえ手にすれば死からも彼女を守れると、そう囁かれたから、その手を取った。
それなのに。
結果がこれか。
両手両足を失い、皮膚という皮膚を焼き尽くされ、機械の棺のような鎧に閉じ込められ、それでも守れなかった。
溶岩の川縁でオビ=ワンが最後に浴びせた言葉が耳の奥でこびりついて離れない。
――選ばれし者だったはずなのに、と。
フォースに均衡をもたらす者。生まれた時から、その予言を背負わされてきた。
だが結局その選ばれし者が成し遂げたのは、均衡でも救済でもなく、自らの愛した女を、自らの手で葬り去るという、この上ない皮肉な結末だった。
選ばれし者。
その響きは、もはやアナキンにとって栄誉でも希望でもなく、ただの呪いの言葉としてしか機能していなかった。
あの時から、アナキンの中で何かが完全に死んだ。
残されたのは、皇帝への、燃えるような、しかし出口のない怒り。
だがサイボーグと化した肉体では、その怒りをどこにぶつけることもできなかった。もはや自分一人でパルパティーンに立ち向かう力など残っていないことを、身体そのものが証明していた。従うしかなかった。忠実な右腕として、帝国の道具として生きるしかないはずだった。
今、この瞬間までは。
アナキンは自分の胸に右の義手の指先を当てた。硬い金属の感触の向こうに確かに心臓の鼓動が伝わってくる。
(この身体を誰が戻した?)
答えは一つしかない。あの命の授業を語ったあの教師。あるいは、その背後にいる何者かだ。
アナキンは自分の足元に、見慣れないデイパックが置かれていることに気づいた。中を検めると、いくつかの支給品らしきものと共に通信端末が入っていた。
アナキンは眉をひそめながらそれを手に取った。
銀河の遥か彼方の技術に慣れた身からすれば、いかにも原始的な通信端末だ。
画面に触れると光がともりアプリのアイコンが並んでいるのが見えた。
地図らしきアイコン、画面の中央にはルール説明のアイコンがあった。
四十八時間。制限時間を過ぎれば、全参加者の首輪が起動し死に至る。そして――願いを叶える権利。
悪趣味な茶番だと切り捨てることもできた。
だが主催者は実際にやってのけた。オビ=ワンとムスタファーの業火が奪った肉体を再びこの手に取り戻させた。
皇帝の科学とテクノロジーの粋を尽くした医療ドロイドですら成し得なかったことを、いとも容易く。
それは、ただの魔法や気休めの奇跡ではない。
力だ。本物の、圧倒的な力。
肉体の再構成すら意のままにできるほどの、途方もない力。
――あらゆる願い。
その言葉が、アナキンの喉の奥に、燃えるように熱く食い込んだ。
もしこの主催者が、肉体の再生すら軽々とやってのける存在であるならば。
もしその力が、本当にこの提示通りのものであるならば。
――死者を生き返らせることも。
できるはずだ。
パドメを。
もう一度、あの声を聞ける。もう一度、あの瞳を見られる。
全身の血が、急速に熱を帯びていくのをアナキンは感じた。
ダークサイドの力が皮膚の下で疼くように脈打つ。長らく機械の鎧に阻まれ鈍っていた感覚、フォースとの繋がりが生身の肉体を取り戻したことで驚くほど鮮明に戻ってきている。
――これは最後の希望だ。
パルパティーンが守らなかった約束。あの男は、ダークサイドの力さえあれば命の摂理すら覆せると囁きながら、結局はパドメを死から救わなかった。
だが、この命の授業の主催者は違う。すでに証明した。この肉体こそが、その証拠だ。
ならばやることは一つしかない。
優勝する。
最後の一人になる。
そのために立ち塞がる者が誰であろうと関係ない。
アナキンは立ち上がり周囲を見回した。
人の気配がまるでない。
窓明かりの灯るビルはあるのに、中に人影は見えない。まるで舞台装置のような、作り物めいた街並みだった。
通信端末の地図らしきアイコンに触れると、この島の地図が表示された。中心に、赤い点が一つ。恐らく、自分の現在地だろう。指先で画面を滑らせると地形が拡大され通りの名前やいくつかの建物の名称らしきものが浮かび上がった。だが他の参加者を示すような点や印はどこにも見当たらない。
アナキンは首元に手をやった。硬く冷たい金属の感触が、喉を囲むように装着されている。首輪だ。フォースを流し込んでみるが、まるで見えない壁に阻まれるかのように力が滑り落ちていった。異様な感触だった。フォースそのものを拒絶するような奇妙な防御構造。
アナキンは小さく笑った。乾いた自嘲めいた笑みだった。
ジェダイだった頃であれば、この状況を前にして、まず脱出の方法を探ろうとしただろう。仲間を集め、協力し、この理不尽な授業そのものを打倒しようと考えたはずだ。
だが今の彼にとって、そんな選択肢はもはや意味を成さなかった。
首輪を外すのではなく優勝してパドメを生き返らせるのが全てだ。
アナキンはデイパックの中を今一度検めた。スマートフォンの他に、いくつかの支給品らしきものが入っていることには先ほど気づいていたが、その中身までは確かめていなかった。
手を差し入れると、指先に覚えのある冷たい金属の感触が触れた。
円筒形の柄。
彼はそれをゆっくりと引き出した。冷たい金属の重み、握りの感触、そのどれもが記憶にある通りだった。親指がスイッチに触れると、澄んだ起動音と共に、青白い光刃が虚空に伸びる。
ライトセーバー。
自分のものだ。間違いない。柄の傷、握りの微かな歪みまで、かつてこの手で握っていたものと寸分違わない。
なぜこれが支給品の中に紛れていたのか、その理由をアナキンは深くは考えなかった。この授業の主催者が肉体の再構成すらやってのける力を持つ以上、この程度のことは造作もないのだろう。
青い光刃を静かに見つめながらアナキンは小さく頷いた。
(これがあれば、十分だ)
アナキンは、遠くに霞むビル群を見上げた。黒々とした夜空の下、その輪郭はどこまでも無機質に連なっている。この街のどこかに、あと数十人――あるいはもっと多くの人間が同じように目を覚まし、同じ絶望と、あるいは希望と共に、この理不尽な授業の中に放り込まれているはずだ。
その誰もがアナキンにとっては通過点でしかない。
脳裏にまた別の記憶が過ぎった。
タトゥイーンの荒野。母、シミ・スカイウォーカーの亡骸を抱きしめた、あの夜。タスケン・レイダーの野営地で、彼は理性の糸を完全に断ち切った。命乞いをする者すら容赦なくライトセイバーを振るい続けた。あの時感じたのは、恐怖でも罪悪感でもなく、ただ純粋な燃え尽きるような怒りの解放だった。
そしてジェダイ聖堂での虐殺。幼いパダワンたちが恐怖に顔を歪めたあの光景。彼らはまだ未熟な子供たちだった。それでも、彼は迷わなかった。皇帝の――シスの教えの下、それがパドメを救い新しい秩序を築くために必要な犠牲だと自らに言い聞かせた。
ムスタファーで分離主義者の幹部たちを一人残らず斬り伏せた時も同じだった。命乞いする者たちの声は、もはや彼の心に届くことはなかった。
あの時と、今と、何が違うというのか。
この授業の参加者たちが、たとえジェダイであろうと、ただの一般人であろうと、あるいは自分と同じように、何か大切なものを賭けてこの島に立たされているのだとしても関係ない。
アナキンにとって、彼らは全員、パドメを取り戻すための障害物に過ぎない。
躊躇う理由など、どこにもなかった。
もし、この中に嘗てのジェダイの同志がいたとしても。もし、罪のない子供のような存在がいたとしても。彼はもう、タスケンの野営地で、ジェダイ聖堂で、ムスタファーで幾度となくその一線を踏み越えてきた。今更、一人や二人増えたところで、その手が汚れる重さは変わらない。
むしろここまで堕ちてしまった自分にとって、これほど相応しい舞台はないのかもしれない。
四十八時間という期限の中で最後の一人になるまで殺し続けるという単純明快な使命はむしろ心地よいとさえ感じられた。
迷いも、葛藤も、もういらない。
ただ、生き延び、殺し、勝つ。
その先にパドメが待っているのなら、この手をどれだけ血で染めようと構わなかった。
遠くで微かな物音がした。
アナキンはその方向へ視線を向けた。数百メートル先、ビルの谷間の路地の奥。人影らしきものは見えないが、フォースの感覚が確かに何かの気配を捉えていた。
ただ一つ、しかし明確な、生命の波動。
これまでの人生で、彼はフォースを通じて他者の存在を感じ取ることに長けていた。
戦場において敵の位置を察知する能力は、クローン大戦を幾度も生き延びた実戦経験によって研ぎ澄まされていた。
その感覚が今、はっきりと告げている。
あの路地の奥に誰かがいる。
アナキンは口元に獰猛な笑みを浮かべた。それは、かつてナブーの若きポッドレーサーが浮かべていたような無邪気な笑顔ではなくダークサイドの戦士の笑みだった。
彼はデイパックを背負い直し、消灯させたライトセーバーを腰のベルトに戻した。
フォースが静かに、しかし確実に全身を満たしていくのを感じる。まだ本調子ではないが、この程度の相手であれば造作もないはずだ。
一歩、また一歩と、彼は足を踏み出した。
路地に近づくにつれ、気配はより鮮明になっていく。
路地の入り口に差し掛かったところで、アナキンは一度立ち止まり静かに深呼吸をした。
生身の肺が、冷たい空気を取り込み、そして吐き出す。その感覚を彼はもう一度、確かめるように味わった。
――これが僕の身体だ。
――これが僕に与えられた最後のチャンスだ。
パドメ。もう少しだけ待っていてくれ。
誰であろうと自分の前に立ち塞がる者は容赦なく排除する。
優勝という、たった一つの椅子を手にするために。
アナキンは路地の暗がりへと、静かに、しかし確実な足取りで踏み込んでいった。
路地の奥は、ビルとビルに挟まれた狭い空間だった。表通りの張りぼてめいた華やかさとは違い、非常階段の錆と積み上げられたままの空の資材箱が、いかにも殺風景な光景を作っている。
その奥、非常階段の下の暗がりに、小さな人影がうずくまっているのが見えた。
アナキンは足を止め目を細めた。
白に近い銀色の長い髪が薄闇の中でもぼんやりと発光しているかのように見える。純白の布地に金の刺繍を施された修道服にも似た奇妙な衣装。安全ピンで幾重にも留められたその服は彼がこれまで見てきたどんな文化圏の衣服とも似ていなかった。
体格は華奢で、背丈も低い。膝を抱えるようにして座り込み、辺りを窺うようにきょろきょろと視線を巡らせている姿は戦士にはとても見えなかった。
(子供、か)
アナキンが足音を殺すことなく一歩踏み出すと、少女は弾かれたように顔を上げた。
エメラルドのように澄んだ緑の瞳が、暗がりの中でこちらを見据える。恐怖と、それでいてどこか場違いなほどの好奇心が入り混じった表情だった。
「あ……あなたは……?」
少女の声は緊張に僅かに震えながらも思いのほか落ち着いていた。舌足らずな、幼い響きの喋り方。彼女はゆっくりと膝を伸ばし壁に手をつきながら立ち上がった。
「わたし、インデックスって言うんだよ。気づいたらここにいて」
インデックスと名乗った少女は警戒しながらも、どこかで助けを求めるように言葉を紡いだ。
アナキンは無言のまま少女の全身を観察していた。武器らしきものは持っていない。
「ねえ、あなたも参加者、なんだよね?」
インデックスは怯えながらも一歩こちらへ近づこうとした。まるで、共に助け合える仲間を見つけたとでも思っているかのような無邪気な足取りだった。
「わたし殺し合いなんてしないんだよ。だから」
その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
アナキンが無言のまま右手を持ち上げたからだ。
彼女の瞳に映るアナキンの顔には冷たく無機質な表情が浮かんでいた。
「待っ」
インデックスが言い終える前にアナキンの指先が宙で緩やかに握り込まれた。
その瞬間、彼女の身体が、まるで見えない手に掴まれたかのようにびくりと跳ねた。
「っ、ぐ……ッ!」
インデックスの喉から、くぐもった呻き声が漏れる。彼女の両足がじわりと地面から浮き上がっていく。見えない力に喉元を締め上げられ、少女は両手で自らの首元を掻きむしるようにもがいた。だが、そこには何もない。指先が空を切るばかりで、締め付けている何かの実体を捉えることができない。
フォース・チョーク。
アナキンは無表情のまま宙に浮かせた右手の指を、さらにゆっくりと締めていった。
「……ぁ……っ、げほ……ッ」
インデックスの顔がみるみるうちに赤みを増し、やがて紫がかっていく。長い銀髪が力なく揺れ、緑の瞳には涙の膜が張っていた。彼女は必死にもがき、宙に浮いた足で虚空を蹴った。だが、その抵抗はあまりにも無力だった。
「な……なんで……」
声にならない声で、インデックスは尋ねようとした。
その疑問に、アナキンが答える義理はなかった。
「悪いが」
彼は静かに、抑揚のない声で呟いた。
「話しをするために、ここへ来たわけじゃない」
その声には僅かな感情の揺らぎすらなかった。パドメを取り戻すという、たった一つの目的のためだけに研ぎ澄まされた冷徹な意志だけがそこにあった。
インデックスの意識が酸欠によって朦朧とし始める。視界が霞み身体の抵抗が徐々に弱まっていく。
それでも、彼女は最後の力を振り絞るように、右手を伸ばし何もない宙をまるで見えない敵に縋りつくように掻いた。
その様子を、アナキンは冷めた目で見つめていた。
ジェダイ聖堂。あの時と同じだ。目の前にいるのが、まだ幼さの残る少女であろうと、それは変わらない。
パドメのため。
その一心で、アナキンは締め上げていた指先を、さらに強く握り込んだ。
「がっ……ぁ……」
インデックスの喉から漏れる音が、ますます小さく弱々しいものになっていく。彼女の身体は、もはや抵抗する力を失いつつあった。両手はだらりと下がり、蹴っていた足も力なく揺れるだけになっている。長い銀色の髪が、力を失った身体に沿って垂れ下がっていた。
その姿を見ても、アナキンの心は微塵も揺らがなかった。
むしろ、この島に来て初めて彼は静かな満足感を覚えていた。生身の肉体――否、右腕は義手であろうと、これほどまでにフォースが自在に応え、意のままに他者の命を握れるという事実に。サイボーグの体では決して感じることのできなかった全能感に近い感覚。
このまま指を握り切ってしまえば、それで終わる。
だがアナキンはふと、その手を止めた。
殺すこと自体に、もはや躊躇いはない。だが、これほど呆気なく終わらせてしまうのは、いささか味気ないようにも思えた。
彼の中に燻る怒りは、まだ発散しきれていなかった。自分自身の力を、取り戻した肉体の限界を確かめておきたかった。
アナキンは右手を握ったまま、まるで見えない糸を手繰るように腕を大きく横へ振り払った。
その動きに合わせて宙に浮いていたインデックスの身体が凄まじい勢いで横殴りに吹き飛んだ。
「――ッ!!」
声にならない悲鳴が路地に響く。彼女の小柄な身体は為す術もなく宙を舞い、そのまま近くの雑居ビルの外壁に鈍い音を立てて叩きつけられた。
ドッという重い衝撃音と共に壁面のタイルが幾つか剥がれ落ち粉々に砕けて地面に散らばる。インデックスの身体は、その衝撃で一瞬跳ね返るようにして壁から離れ、そのままずるずると崩れ落ちるように地面へと沈み込んだ。
純白の修道服が剥がれたタイルの粉塵と僅かに滲んだ赤い色に汚れていく。長い銀髪が力なく地面に広がった。
アナキンはしばらくの間、壁際に崩れ落ちた小さな少女を無表情のまま見下ろしていた。
「……っ、う……」
微かな呻き声が、瓦礫の中から漏れた。
壁際に崩れ落ちていたインデックスの指先が僅かに震えている。折れてはいないはずの右腕を支えに彼女はゆっくりと、しかし確かに上体を起こそうとしていた。
「げほ……っ、げほっ……」
噎せるような咳と共に、彼女の口の端から一筋、赤いものが伝う。それでも、緑の瞳はまだ光を失っていなかった。恐怖に見開かれたその瞳が、闇の中に立つアナキンの輪郭を震えながらも捉えていた。
「なん、で……そんな」
掠れた声で、彼女はそう絞り出した。理解できない、というよりも、理解したくないというような響きだった。壁に叩きつけられ、肋骨の何本かが軋むような痛みを訴えているだろうに彼女はまだ地面に伏したままではいなかった。震える両手を地面につき、崩れそうになる身体を必死に支えている。
「や……やめて、こんなこと」
インデックスは、震える声でそう続けながら、壁に手をついて、どうにか片膝を立てた。逃げようとしているのか、あるいはまだ言葉を続けようとしているのか、その両方なのか。
「まだ動けるとはな」
彼は低く呟いた。声には、感心とも呆れともつかない乾いた響きがあった。
「だが、それだけだ」
インデックスの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼女は必死に後退しようとしたが背中はすでに壁に阻まれていた。逃げ場はない。
「ま、待って……お願いなんだよ」
声はもはや悲鳴に近かった。だが、その懇願がアナキンの心を動かすことはなかった。彼はゆっくりと、腰のベルトに提げていたライトセーバーの柄へと右手の義手の指先を伸ばした。
冷たい金属の感触が掌の中に馴染む。
親指がスイッチに触れる寸前、アナキンは一瞬だけ、目を細めてインデックスを見据えた。壁際にうずくまり、震えながらもこちらを見上げるその瞳には、まだ諦めきれない光が宿っていた。だが、その光もすぐに消えることになるだろう。
「悪く思うな」
感情の抜け落ちた声で彼はそう告げた。
カチリと小さな音が響きライトセーバーの柄からスイッチの感触が指先に伝わる。澄んだ起動音と共に、青白い光刃が虚空に走る。刃が完全に伸びきると同時にアナキンは躊躇なく、その切っ先を壁際にうずくまるインデックスへと向け振り下ろそうとした。
その瞬間だった。
「エクスペリアームス!」
路地の入り口の方角から、若い男の声が響き渡った。聞き慣れない、しかしはっきりとした発音の呪文だった。
「――ッ」
直後、真紅の閃光が夜闇を切り裂き、握っていたはずのライトセーバーの柄が指の間から強引に引き剥がされる。青白い光刃は起動したまま宙を舞い、くるくると回転しながら路地の奥へと弾き飛ばされていった。
カランという乾いた金属音と共に、ライトセーバーが数メートル先の路面に転がる。
突然の出来事にアナキンは僅かに目を見開いた。クローン戦争におけるどの戦場でも、これほど呆気なく武器を弾き飛ばされたことなど記憶にある限り一度もなかった。
振り返ると、路地の入り口、表通りに繋がる暗がりの向こうに一人の人影が立っていた。
黒い癖毛、丸い眼鏡越しに見える緑の瞳。細身だが引き締まった体格に片手には小さな木の棒、杖のようなものを構えている。年齢は二十歳を幾つか超えたあたりだろうか。額には前髪の隙間から覗く稲妻の形をした傷痕がうっすらと見えた。
その青年は、肩で息をしながらも真っ直ぐにアナキンを見据えていた。杖を持つ手は僅かに震えている。だが、その視線だけは逸らされることなくこちらに向けられていた。
「その子から離れろ」
青年は震える声を無理やり抑えつけるようにして、そう言い放った。
路地に束の間の静寂が満ちた。アナキンは地面に転がったライトセーバーとそれを弾き飛ばした青年とを交互に見やった。
◇
選ばれし者。
その呼び名が動かしがたい重責として彼の肩にのしかかるようになったのは、世間がヴォルデモートの復活を認めざるを得なくなった頃からだった。
ハリー・ポッターがこの場に招かれたのはロンとハーマイオニーと共にヴォルデモートの分霊箱を探し出して破壊するという生死を賭けた旅の最中だった。
女教師の声、耳障りなチョークの音、そして命の授業という名の悪趣味極まりない宣告。次に目を開けた時、彼は見知らぬ路地裏に一人、座り込んでいた。
周囲を見回すと足元に黒いデイパックが置かれていることに気づいた。中には見慣れない携帯端末といくつかの支給品らしきものが入っていた。
ハリーはその中から見覚えのある細長い木の棒、杖を取り出した。触れた瞬間、指先に馴染む感触があった。
――僕の杖だ。
間違いない。柊とフェニックスの尾羽根から作られた自分の杖だった。
次に携帯端末、スマートフォンを起動するとルールが表示された。読み終えたハリーは唇を引き結んだ。
誰かを殺さなければ生き残れない。
その事実が、じわりと胸に重くのしかかる。闇陣営との戦いで死と向き合ってきたつもりだった。だが、今回の敵は闇の魔法使いではない。
恐らくは自分と同じように、この理不尽な状況に巻き込まれただけの罪のない誰かかもしれないのだ。
それでも生きなければならない。
ハリーは杖を握りしめ慎重に路地を歩き始めた。
人の気配のない街並みを進むうち、ハリーはふと奇妙な物音を耳にした。何かがぶつかるような、くぐもった音。そして微かな悲鳴のようなもの。
彼は迷わず、その方向へと足を速めた。
路地の奥に差し掛かった時、ハリーの目に飛び込んできたのは信じがたい光景だった。
壁際に小柄な少女がうずくまっている。純白の修道服のような衣装が瓦礫の粉塵と血で汚れていた。そして、その少女に向かって青年が青白く輝く光の剣のようなものを振り下ろそうとしていた。
考えるよりも先に身体が動いていた。
「エクスペリアームス!」
喉の奥から反射的に呪文が飛び出す。杖の先から、真紅の閃光が迸り青白い光の剣が青年の指先から弾き飛ばされ宙を舞って路面に転がる。
少女を助けられた。ハリーは、そのことに一瞬だけ安堵した。
「その子から離れろ」
声を張り上げながら、ハリーは杖を構え直した。震える手を意志の力で押し留める。目の前の青年の纏う空気は、これまで出会ったどんな敵とも異なる、底知れない不穏さを孕んでいた。
青年は地面に転がったライトセイバーへ視線を落とし、それから、ゆっくりとハリーへと視線を戻した。その口元に浮かんだのは、怯えでも動揺でもなく、むしろ愉悦にも似た酷薄な笑みだった。
青年が右手、義手の指先を地面に転がった柄と向けたのだ。
次の瞬間、信じがたいことが起きた。地面に転がっていたはずの柄が、まるで見えない糸に引かれるかのように宙に浮き上がり、猛烈な速度で男の手のひらへと吸い込まれるように戻っていったのだ。
パンッという乾いた音を立てて柄が再び男の掌に収まる。
ハリーは目を見張った。杖も使わず、あの重量のある柄を手元に呼び戻す。それは彼の知る呼び寄せ呪文に酷似していながら、明らかに異なる原理で行われているように見えた。
「アクシオ……? いや、違う……」
ハリーは咄嗟に呟いた。あの動きは彼が知るどんな魔法とも一致しない。杖もなく意志だけで物を操る力。
青年――アナキンは再び手にしたライトセーバーの柄を軽く握り直しながら、口の端を僅かに歪めた。
「その道具は厄介そうだ。だが」
彼は静かに、しかし確信に満ちた声で続けた。
「フォースに比べれば物の数ではない」
その言葉と共にアナキンは地を蹴った。
速い。
ハリーがその一言を思い浮かべる間もなく、アナキンの姿は既に間合いを詰めていた。
青白い光刃が親指のスイッチと共に虚空に走る。澄んだ起動音が耳を掠めた瞬間、ハリーは咄嗟に杖を振り叫んだ。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が、アナキンの胸元目掛けて放たれる。だがアナキンはその軌道を読み切っていたかのように、僅かに身をひねっただけで、その閃光を紙一重で回避した。
驚愕する暇もなく、青白い光刃が目前に迫っていた。ハリーは咄嗟に横へ跳び、非常階段の手すりに肩をぶつけながら転がるようにその一撃を避けた。刃が掠めた場所、先ほどまで彼の頭があった空間には、綺麗に切断された空気の断面だけが残っている気がした。
背筋に、冷たいものが走った。
あの剣に少しでも触れれば命はない。
「ッ――エクスペリアームス!」
体勢を立て直しながら、ハリーは再び武装解除の呪文を放った。先ほど一度成功した手だ。もう一度同じ手を使えば、あの剣を再び弾き飛ばせるはずだった。
だがアナキンの反応はハリーの予想を裏切るものだった。
彼は避けようとも、防御しようともしなかった。代わりに義手ではない左の手のひらを真っ直ぐにハリーの放った呪文へと向けたのだ。
見えない衝撃波のようなものが、アナキンの掌から放たれる。それが真紅の閃光と真正面からぶつかり合い呪文は相殺されて虚空へと霧散した。
「なッ……」
ハリーは絶句した。武装解除の呪文が、まるで見えない壁に弾かれたかのように、効果を発揮することなく消え去ったのだ。
アナキンは、ライトセーバーを片手に、酷薄な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと歩を進めた。
「同じ手が二度も通じるほど、僕は甘くない」
その言葉には、揺るぎない確信が滲んでいた。かつて銀河を股にかけた戦場を、幾度となく潜り抜けてきた男の言葉だった。初見の奇襲には対応できずとも、一度見た手筋を二度も見逃すほどアナキンは鈍くはなかった。
ハリーは杖を握る手に力を込めた。
目の前の敵は、剣術だけでなく目に見えない力を操る術を持っている。これまで戦ってきたどんな死喰い人とも、ヴォルデモート自身とさえも異なる種類の脅威がそこにあった。
だが退くわけにはいかない。
背後には、まだ傷ついたまま動けずにいる少女がいる。ここで自分が倒れれば、彼女もまた、次の瞬間には命を落とすことになる。
アナキンが再び踏み込んできた。今度は、先ほどよりも明らかに速い。青白い光刃が袈裟懸けにハリーの肩口へと迫る。
「プロテゴ!」
咄嗟にハリーは盾の呪文を唱えた。目に見えない防御の膜が彼の前方に張られる。
次の瞬間、光刃がその盾に激突した。
衝撃と共に、盾の膜が激しく波打つ。眩い火花のような光が散り、ハリーの腕に痺れるような衝撃が伝わった。盾は、辛うじてその一撃を防ぎきったものの、まるで丸太で殴られたかのような重い衝撃が腕の骨まで響いてくる。
「くッ……」
ハリーは奥歯を噛み締めた。プロテゴは多くの呪文や矢のような物理的な攻撃さえも防げる強力な盾のはずだった。だが、この光の刃に対しては、辛うじて防いだというよりも防ぎきれずに弾かれたという方が正確だった。
もう一度、同じ一撃を受ければ、盾ごと斬り裂かれるかもしれない。
アナキンは盾に阻まれたことに僅かに眉を動かした。
「インペディメンタ!」
ハリーは妨害の呪文を放った。閃光がアナキンの足元目掛けて飛ぶ。動きを鈍らせ、少しでも時間を稼げれば、そう考えての一手だった。
だがアナキンはその軌道を読んだかのように、僅かに身を捻ってその呪文を回避すると、そのまま踏み込みの勢いを乗せてライトセーバーを大きく振り抜いた。
「ディフィンド!」
ハリーは咄嗟に、その斬撃と交差するように切断の呪文を放ってみた。だが青い呪文の光線は光刃に触れた瞬間、まるで存在しなかったかのように呆気なく消滅した。
――魔法の呪文が通じない。
ハリーの背中に冷たい汗が伝う。
アナキンの猛攻は止まる気配を見せなかった。むしろ、時間が経つにつれて、その動きは滑らかさを増しているようにさえ感じられた。
まるで鈍っていた身体の感覚を、この戦闘を通じて急速に取り戻しているかのようだった。
「ロコモーター・モルティス!」
ハリーは足縛りの呪文を放った。だが、アナキンはその呪文の軌道を難なく見切り、僅かな身のこなしだけでそれを躱すと、そのまま踏み込みの勢いを緩めることなく間合いを詰めてきた。
容赦のない一撃だった。ハリーは咄嗟に横に転がりながら回避したが、地面に転がった拍子に肩を強かに打ち付けた。痛みに顔を歪めながらも彼はすぐに体勢を立て直して杖を構え直す。
「ステューピファイ! ステューピファイ!」
連続して麻痺呪文を放つ。だがアナキンはそのどちらも、最小限の動きで回避してみせた。まるで、こちらの動きを完全に見切っているかのような無駄のない身のこなしだった。
これがフォースと呼ばれる力なのだろうか。ハリーは、そんな考えを頭の片隅で巡らせた。
アナキンが左手を振るった。目に見えない衝撃波がハリーの全身を叩く。
「ぐぅッ……!」
ハリーの身体が、後方へと吹き飛ばされた。背中から瓦礫の山に叩きつけられ肺の中の空気が一瞬にして押し出される。視界が白く霞み咳き込みながらも、彼はどうにか杖を握り締めたまま地面に手をついて身体を支えた。
アナキンが、ゆっくりと歩を進めながら近づいてくる。
「その程度の力で僕に勝てると思ったのか?」
その言葉には、揺るぎない自信が滲んでいた。長年の戦場を生き抜いてきた戦士としての矜持と、ダークサイドに堕ちた者特有の底知れない冷酷さが、その一言一言に重く滲んでいた。
ハリーは痛みを堪えながら立ち上がった。膝が笑いそうになるのを意志の力で押し留める。
ここで倒れるわけにはいかない。
あの女教師が語った恐怖によってしか命の価値を理解できないという言葉。今まさに自分はその恐怖の只中にいる。だが、その恐怖に呑まれて膝をつくわけにはいかなかった。
杖を握る手にハリーはもう一度、力を込め直した。
まだ戦いは終わっていない。
アナキンはゆっくりと肩を回しながらライトセーバーを持つ手とは逆の左手を無造作にだらりと下げた。攻めあぐねているようには微塵も見えなかった。むしろ、その所作の一つ一つに獲物を甚振ることを楽しんでいるかのような、静かな余裕が滲んでいる。
「プロテゴ・トタラム!」
防御の呪文が、彼の周囲に淡い光の膜を張り巡らせる。単なる盾よりも広範囲かつ強固な防壁だった。少しでも時間を稼ぎ、体勢を立て直すための一手だった。
アナキンは、その光の膜へ向けて、躊躇なくライトセーバーを振り下ろした。
激しい火花と共に防壁が軋むような音を立てる。だが先ほどのプロテゴ単体とは異なり、今度は辛うじてその一撃を弾き返すことに成功した。アナキンの光刃が僅かに軌道を逸らされ地面へと空振りする。
アナキンは意外そうに眉を上げた。侮っていたわけではないが、ここまで凌がれるとは思っていなかったというような表情だった。
「なかなかやるじゃないか」
その言葉に、皮肉めいた響きは薄かった。むしろ純粋な戦意の高揚が滲んでいるようにさえ聞こえた。かつて銀河の戦場を駆け抜けた男にとって、手強い相手との戦いは、ある種の高揚を呼び起こすものなのかもしれない。
だが防壁は一度弾いただけで既に軋みを上げていた。二度目の斬撃に耐えられる保証はない。
ハリーはその隙を突くように杖を素早く振った。
「レダクト!」
粉々呪文の閃光がアナキンの足元の地面目掛けて放たれる。狙いは彼自身ではなく、その周囲の瓦礫だった。爆発的な破砕音と共に砕けた石片が周囲に飛び散り、視界を一瞬だけ塞ぐ。
その隙に、ハリーは横へと大きく飛び退き距離を取った。
だが砂煙が晴れた時、アナキンはそこに悠然と立っていた。左手を軽く掲げフォースという力で飛来する石片を全て弾き落としたのだろう。傷一つ、その身体には見当たらなかった。
「小細工か」
彼は静かに、しかし冷ややかにそう評した。
「そんな攻撃は僕には通じない」
その言葉と共に、アナキンは再び踏み込んだ。今度の踏み込みは、これまで以上に速い。ハリーは、辛うじて杖を掲げ防御の姿勢を取ったが、光刃はその防御ごと切り裂くような勢いで迫ってくる。
盾は完全に光刃を弾ききれず僅かにその切っ先がハリーの左腕を掠めた。
「――ッ!!」
鋭い痛みが走り袖口が切り裂かれる。皮膚の表面が薄く裂け、じわりと血が滲んだ。致命傷には程遠いが、あと僅か軌道がずれていれば、腕そのものを失っていたかもしれない一撃だった。
ハリーは痛みに顔をしかめながらも後方へと跳び退った。呼吸が荒くなっている。魔力の消耗と、緊張による疲労が、じわじわと身体を蝕んでいるのが分かった。
「かなり消耗してきたようだな」
アナキンは、そんなハリーの様子を冷徹な目で見定めていた。
「悪いが、僕は暇じゃない。優勝するには殺さなきゃいけない相手が多いからな」
その言葉の裏にある意味をハリーは正確に理解した。これまでの攻防は彼にとって単なる様子見に過ぎなかったのだろう。
背筋が冷たくなる。
これまでの人生で、ハリーは幾度となく死線を潜り抜けてきた。
だが、目の前の敵が纏う殺意の質は、これまで出会ったどの敵とも異なっていた。ヴォルデモートの持つ、執念にも似た深い憎悪とも違う。もっと純粋で、もっと即物的な目的のためだけに研ぎ澄まされた刃のような殺意。
この男は迷わない。
迷わずに自分を殺すだろう。
「まだだ」
掠れた声でハリーはそう呟いた。
「僕は、まだ倒れない」
その言葉に応じるように、アナキンは口の端を僅かに歪めた。
「なら終わらせよう」
彼はそう言うと再びライトセーバーを構え直した。青白い光刃が夜闇の中で静かに、しかし確かな存在感を放って輝いている。
路地に満ちる緊張が再び張り詰めていく。ハリーは杖を握り直し、迫り来る次の一撃に備えて深く息を吸い込んだ。
アナキンが地を蹴った。
これまでのどの一撃よりも、鋭く、速い。青白い光刃が袈裟懸けにハリーの右肩から左脇腹にかけて、一直線に振り下ろされようとしていた。
ここでハリーの脳裏に浮かんだのは、自分自身の生死ではなかった。
背後でまだ動けずにいる少女の姿だった。
このまま自分が斬られれば、次の瞬間には、あの少女も確実に命を落とす。倒れている彼女を守れる者は他に誰もいない。
迷っている時間はなかった。ハリーは迫り来る光刃から目を逸らさないまま、背後の少女に向かって身を投げ出すように飛び込んだ。
地を蹴り、崩れ落ちたインデックスの小さな身体に、ハリーは飛び込むようにして覆い被さった。両腕でしっかりとその身体を抱きかかえ勢いのまま地面を転がる。
そしてインデックスの身体をきつく抱きかかえたまま、彼は全神経を集中させ、意識の奥底にある行き先のイメージを強く思い描いていた。目を覚ました時、最初に立っていたあの場所、路地よりもさらに手前、ビルの隙間の小さな空き地のような一角。あの光景を頭の中に焼き付けるようにして描く。
パンッという乾いた音が路地に短く響いた。
同時にアナキンのライトセイバーがそれまで二人がいた空間を正確に薙ぎ払った。
空を切る音と焦げたオゾンにも似た匂いが鼻先を掠める。
だがハリーはすでにそこにいなかった。
アナキンの振り下ろした光刃は狙っていたはずの標的を捉えることなく、ただ虚しく夜気を裂いただけだった。
彼はしばらくの間、目の前に何もなくなった空間を見つめていた。
消えた。
文字通り忽然と。まるで最初からそこに何もなかったかのように青年とあの少女の気配がフォースの感覚からも同時に掻き消えていた。
アナキンの眉間に深い皺が刻まれた。フォースを通じてでさえ、その瞬間の移動の痕跡を捉えることができなかった。
握っていたライトセーバーの光刃を、彼は乱暴にスイッチを切って消し去った。
二人の選ばれし者による戦いは決着のつかぬまま唐突な幕切れを迎えた。
「逃げたか」
低く、押し殺した声で、彼はそう呟いた。声の底には隠しきれない苛立ちと、燃えるような怒りが滲んでいた。
取り戻した生身の肉体で味わう本格的な戦闘だった。だが勝敗を決するその瞬間、獲物は彼の手をすり抜けて消え去ってしまった。
拳を握り締める。
獲物に逃げられたという些細な出来事が、彼の内側に燻っていた怒りの残り火を再び煽り立てていた。
彼はしばらくの間、消えた二人がいた空間を睨み続けていた。やがて静かに息を吐き出すと路地の暗がりへと視線を巡らせる。
「次はこの程度では済まさない」
その呟きには、これまで以上に冷たい殺意が込められていた。
フォースの感覚を研ぎ澄ませながらアナキンは再び歩みを進めた。
この島のどこかにあの青年と少女は必ずいる。次に見つけた時こそ、確実に仕留める。その決意を胸に彼は夜の街へと再びその姿を溶け込ませていった。
【アナキン・スカイウォーカー@スター・ウォーズシリーズ】
[状態]:健康
[装備]:ライトセーバー
[道具]:基本支給品一式、不明支給品×1~2
[思考]:優勝してパドメを生き返らせる。
1:参加者を皆殺しにする。
2:逃げた二人(ハリーとインデックス)は次に見つけたら確実に仕留める。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
まるで狭いゴムの管に無理やり全身を押し込まれ、そのまま反対側から吐き出されるようなあの独特の感覚。
ハリーはその感覚に何度も晒されてきたはずだった。だが今回のそれは、これまで経験したどの姿くらましとも違う異様な重さを伴っていた。
着地した瞬間、ハリーは膝から崩れ落ちた。
「――ッ、う……」
抱えていたインデックスの身体を、地面に横たえるようにして下ろす。彼女はまだ意識を失ったままだったが、幸い、四肢が千切れたり、変な方向に曲がったりしている様子はなかった。
姿くらましに失敗した際に起こる身体の一部が置き去りになる恐ろしい現象はどうやら避けられたようだった。
だがハリー自身の身体は今まさに悲鳴を上げていた。
全身の血液が鉛にでもなったかのように重い。指先一本動かすだけで、肺の中の空気が根こそぎ持っていかれるような、深い倦怠感が襲ってくる。目の前がちかちかと明滅し意識を保つだけで精一杯だった。
「……そういう、ことか」
姿くらましは、本来であればこれほどの疲労を伴う魔法ではない。だが首輪が意図的にその代償を吊り上げているのだ。恐らくは瞬間移動や転移といった手段で優勝までの道のりを容易く進ませないための悪趣味な調整なのだろう。
命の授業などと嘯きながら、参加者たちに絶望的な均衡を強いてくる。まるで全てを見透かしたような冷徹な設計だった。
ハリーは荒い呼吸を整えながら、なんとか上体を起こした。腕や足に力が入らず何度も膝が崩れそうになる。それでも彼は歯を食いしばり、少しずつ身体を慣らしていった。
視線を傍らに横たわるインデックスへと向ける。
白に近い銀色の髪が、地面に力なく広がっていた。整った顔立ちは青白く、僅かに開いた唇からは、浅く弱々しい呼吸の音が漏れている。壁に叩きつけられた時の傷だろうか、頬や腕に幾つかの擦り傷や打撲の跡が見て取れた。
ハリーには彼女の素性を知る術はなかった。だが、あの青年に殺されかけていたという事実だけで助ける理由は十分だった。
この性格が時に命取りになる。五学年の時、その侠気につけ込まれ、シリウスを死へと追いやる結果になったことは、今でも胸の奥に重く残っている。
同じ過ちを、繰り返すつもりはなかった。だが、目の前で殺されたかかっている者を見捨てるという選択肢も、ハリーの中には存在しなかった。
あの青年は、これまで出会ったどの敵よりも、底知れない強さを持っていた。ヴォルデモートの持つ執念にも似た憎悪とはまた違う、もっと純粋で、もっと即物的な殺意。剣術も目に見えない力も、どちらも常軌を逸したレベルにあった。
姿くらましという最も確実な逃走手段も今は使えない。ならば少しでも距離を稼ぎ、体勢を立て直す時間を作るしかなかった。
ハリーは、震える両足に力を込め、なんとか立ち上がった。目眩がして、一瞬視界が暗転しかけたが深呼吸を繰り返し、どうにか意識を保つ。
ハリーは彼女の身体をそっと持ち上げた。彼女の両腕を自分の肩越しに回させて背負う。
全身の筋肉が悲鳴を上げていた。ただでさえ姿くらましの反動で疲弊しきった身体に、もう一人分の重みが加わる。だが弱音を吐いている場合ではなかった。
一歩、また一歩と、ハリーは重い足を引きずるようにして歩き出した。
背中に感じるインデックスの体温と、微かな寝息のような呼吸のリズムだけが、今のハリーにとって僅かな安心材料だった。少なくとも彼女はまだ生きている。
周囲を見回す。相変わらず、人の気配のない街並みが広がっていた。窓明かりの灯るビル、しかしその中に人影はない。信号機の明滅だけが、規則正しく繰り返されている。まるで誰もいない舞台の上をたった一人で歩いているような、そんな錯覚に陥る光景だった。
ロンとハーマイオニーが、今ここにいてくれたなら。
そんな詮無いことをハリーはふと考えてしまった。あの二人となら、この理不尽な状況にも、どうにか活路を見出せる気がした。
いや二人がこの悪趣味な命の授業に巻き込まれていないならそれに越したことはないか。
ハリーは来た道とは違う方向へ、意識的に足を向けた。少しでも、あの男から距離を取るために。
フォースと呼ばれる、あの得体の知れない力について、ハリーは何も知らない。
だが、あの男が自分たちの気配を、何らかの形で感知できる可能性は十分に考えられた。
ならばできるだけ早く、できるだけ遠くへ。それが今、彼にできる唯一の選択だった。
少しでも、あの青年との距離を稼ぐために。
背中のインデックスの重みが、一歩ごとに肩に食い込む。額には冷や汗がじっとりと滲んでいた。
路地を一つ抜けると、開けた通りに出た。看板の明かりだけが、無人の街を虚しく照らしている。ハリーは、その明かりを頼りに、なるべく建物の陰を選びながら進んでいった。少しでも身を隠せる場所を選ぶことが、今の彼にできる最善の行動だった。
ふと背中のインデックスが微かに身じろぎをした。
「……とうま」
寝言のような掠れた呟きが聞こえた。まだ意識は戻っていないようだったが、その声には誰かを案じるような響きが滲んでいた。
ハリーには、その名前が誰を指すのか分からなかった。だが、彼女にとって大切な誰かの名前であることだけは、なんとなく察せられた。
「大丈夫。絶対に助かる」
返事が返ってくるはずもないと分かっていながら、ハリーはそう小さく声をかけた。自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
脳裏に、あの女教師の言葉が蘇る。
――人は恐怖によってしか、命の価値を理解できません。
悪趣味な理屈だと、切り捨てたい気持ちはあった。だが今まさに生死の境を彷徨うような戦いを経験したばかりのハリーには、その言葉の一端が皮肉にも実感を伴って響いていた。
これまで、幾度となく死と隣り合わせの状況に身を置いてきたつもりだった。
だが、あの青年との戦いは、これまでのどんな戦いとも異なる種類の根源的な恐怖を呼び起こすものだった。
この四十八時間という理不尽な時間の中で生き延びるために。
そして、まだ名前も知らない、この小さな少女を守るために。
ハリーは痛む足を叱咤しながら、暗い夜の街を一歩、また一歩と進み続けた。
この少女が目を覚ました時、どんな言葉を交わすことになるのか。
互いに協力し合えるのか、それとも、この島の理不尽な仕組みが、いずれ二人をも敵同士に変えてしまうのか。
今のハリーには、まだ何も分からなかった。
【ハリー・ポッター@ハリー・ポッターシリーズ】
[状態]:姿くらましの反動で重度の疲労。負傷(小)
[装備]:杖
[道具]:基本支給品一式、不明支給品×1~2
[思考]:青年(アナキン)から可能な限り距離を取る。
1:意識のない少女(インデックス)を守り抜く。
2:ゲームには乗らず生還の道を探す。
【インデックス@とある魔術の禁書目録】
[状態]:気絶中、負傷(大)
[装備]:なし
[道具]:基本支給品一式、不明支給品×1~3
[思考]:……とうま。
1:……。
最終更新:2026年08月03日 20:02