小田山城 (おだやまじょう) | |
所在地 | 会津若松市門田町黒岩 |
別称 | |
築城年 | 承久四年(1221)か |
築城者 | 蘆名光盛か |
城主変遷 | 蘆名氏(1221…)… |
廃城年 | 永禄四年(1561)以降 |
現状 | 小田山公園 |
小田山城は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の重要な拠点の一。居城である黒川城の詰城とも、文献上に現れる黒川城の記述はこの小田山城を指しているともいわれる。また蘆名氏歴代や会津藩諸士の墓所としても利用されており、幕末の戊辰戦争の際には西軍の砲兵陣地にもなっている。
築城年代は諸説あり判然としないが、一般には蘆名氏本拠である黒川城の詰城であったとされる山城である。一説には幕内館(飯寺館か)にあった蘆名光盛が承久四年(1221)に築城したともいわれている。
小田山からさらに南の奴田山(青木山)まで拡がる広大な山城で、小田山は現在小田山公園として整備されている。山頂部には会津藩の名家老田中玄宰(ハルナカ)の墓が建てられており、その奥に小田山城跡の標柱が建っている。江戸時代に会津藩の墓地に指定され、4000基以上の武士階級の墓が残る大窪山墓地も城域に含まれており、平場の多くが墓地に転用されている。なお至徳元年(1384)蘆名直盛によって黒川城が築かれるまでは、麓に所在する小田館が居館であったと考えられている。
永禄四年(1561)蘆名盛氏が向羽黒山城を築城し、さらに天正十八年(1590)蒲生氏郷が黒川城を若松城と改め近世城郭に整備すると、小田山城は城郭として利用されることは無くなった。しかし約300年後、戊辰戦争の際に西軍の軍事拠点として再び利用される。この小田山の丘陵は若松城唯一の弱点とされていたが、ここに目を付けた西軍は砲兵陣地を構築、若松城へ1日3000発ともいわれる砲弾の雨を降らせた。藩主松平容保以下、若松城に籠城して頑強に抵抗した会津藩主従もこの攻撃によりついに開城、降伏している。
現在は小田山公園として整備されて遊歩道が設けられており、麓から山頂にかけて蘆名氏歴代廟所、西軍砲兵陣地、会津藩家老田中玄宰、丹羽族墓所などの史跡が点在しています。また近年には小田山城当時をイメージした冠木門などが復元されています。