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#region(まだ秘密ー♪)




 眠い。そう思い、目を閉じた。全身にかかっていた緊張が空気中に溶け込んで、雲散するような感覚。僕の脳もそれに合わせて一時的な活動休止に入ろうとしていた。神経細胞が瞬間的に吸い上げられようとしているまさにそのとき、インターホンの無情な響きが家中に染み渡った。
「誰だ……」
 誰だ、とは言ったがこの家に訪れる人物など高が知れているものだ。宅配便や新聞の人でないなら十中八九、今インターホンを鳴らしたのは彼女だ。引き抜かれそうだった脳神経を無理やり呼び込むとベッドから起き上がり一階のリビングに向かう。
 一回目のインターホンが鳴ってからしばらく静かだったが、僕がリビングについたころに狙ったように二度目が鳴り出した。こいつは早々に出てやらないと面倒だな。そんなわけでさっさとインターホンのスイッチを押した。これで向こう側の人間の声が聞こえるようになる。
「どなたですか?」
「宮久地です、おすそわけにきたんですが……」
 ほら彼女だ。というか、彼女以外にこの家に用のある人間など固有名詞ではいないだろうと思う。父親関連の友人が尋ねてくるなんて話もないし。
 用も分かったので、僕はインターホンのスイッチを切るとそのまま玄関に足を運ぶのだった。玄関のロックを外して、扉を開けると、そこには彼女――宮久地芹奈が少し大きいお鍋を持って立っているのだった。
「なんだ、やっぱり春樹君じゃないですかー丁寧に出たのに損しましたー」
「僕は君に安眠を妨害されたんだけどね。毎度毎度おすそ分けとはほんとご苦労なことで」
 そういいながら彼女を玄関の中に招き入れて扉を閉めた。というのも、外は寒いわけだし、いつまでもお鍋を持たせたままと言うのも流石にどうかとは思うからだ。
 この宮久地芹奈という人間は、いわゆるお隣でことあるごとに僕の家にやってきてはこういうことをする。僕のカンだと彼女がたとえ隣に住んでいなかったとしてもこういうことをしに来る人間であろうと100%読んでいるが。
「春樹君、一人でした?」
「そうといえばそうだね。父親は仕事だけど、母親は良く分からないし」
 ついさっきまで悪魔の女の子がいたわけだけど。
「それより、さっさとその鍋を僕に預けたらどうだ? 重いだろうし」
「あ、うん、それもそうですね。 それじゃ渡して――え」
 音としては、それは空白だった。
 そして次の瞬間には大質量の物体が石のタイルにぶつかった衝撃が耳に届いたのだった。状況としては、宮久地が手渡そうとしたお鍋を落とした。ただそれだけのことだが、それだけのことにこめられた意味は何か大きいものであるということに僕は薄々気がついていた。
「宮久地?」
「は、春樹君……な、なぜそれが、君に」
 それ、と言われてもいまいち把握できないが、彼女が指差した肩を指で弄ってみると、例の悪魔の女の子の羽がくっついていたのだった。
「これは、羽だね。だから何なのか僕には分からないけど」
「ご、ごまかさないでください! つまり、春樹君は会ったんですよね?」
 さて、ココに着てさらに訳の分からないことに宮久地まで訳の分からない世界の人間だったようだ。しかしおかしいな。宮久地と僕はそれなりに長く顔を合わせてきたはずだが、そんな訳の分からない世界の人間の怪しさなんて感じなかったのに。
「……というか、ついさっきまでいたよ」
「そ、そうだったのですか!? もう、マリアは何しているんですかー!」
「そして今僕が気になっているのはマリアとやらより、君のことだよ」
 ここまで普通じゃないアピールしといて、普通であるということが通るわけがないのだから。
「え、あ、ううう……それはそうですよね」
 なぜか両手を組んでもじもじとしているが、僕には関係ない。さっさと真相を教えてもらいたいだけなのだが。
 と、ここで何かを決めたように僕の方を向き直る。
「そ、それじゃ今から公園に来てくれません……ですか?」
「行くのはいいけど言葉が妙なことになってるよ。というか盛大に割ったお鍋はどうするの?」
「それだったらもう直ってるから、気にしないでいいですからね!」
 確かに、足元で割れていたはずのお鍋が玄関の横の靴置き場の棚の上で威風を放っていた。これは、ますますもって宮久地が普通でなくなってきたな。まぁいいけど。
「じゃあ、行こうか」
 そう言って僕ら二人は太陽も沈んでいる中、公園へと歩き出していた。
 そういえば、僕の睡眠はどこへ行ったのだろう。まぁいいか。

「それじゃ、話します」
「どうぞ」
 時刻は既に午後七時を過ぎている。だから、いかに公園といえど人の気配など感じられないほどに、周辺は暗闇に包まれていた。今、僕らの上を照らしているのは公園の街灯ばかりの、本当に微笑ましいくらいの明かり。
「その、私は、人間じゃないんです」
「そうなんだ」
「驚かないの?」
「いや、既にそういう予感はあったし。この世に悪魔がいることもさっき調べたからね」
 まぁ、インターネットで検索掛けただけのレベルだけど。
「つまり、その、私……天使なんです!」
「へぇ、天使」
 悪魔がいるくらいだし、対になる存在くらいいるのは普通か。
「あの、驚かないの?」
「いや、悪魔がいるなら天使がいるのは普通だと思うんだけど、変かな」
「ええと、変じゃないんだけど……あれ? うーん……」
 宮久地はさっきからなにをそんなに悩んでいるんだろう。僕が悪魔や天使を受け入れることがそんなに変だろうか。大体悪魔を目の前で見たのだから信じるも信じないも無いと思うわけだが。
「とにかく、証明しますね! 公園に来たのもそのためでもありますし!」
 そういうと宮久地は、両の手を胸のところで組むと、何事かを一言二言呟いた。そうすると、彼女の体がうっすらと発光し始めていることに僕は気がついた。
 宮久地の体は、いや、体だけでない、服装も既に違っているし、何よりも僕が知っている宮久地は黒髪だったはずなのに今の彼女は銀色がかった白髪へと一瞬で染まっているのだ。そしてなにより、そんんな彼女の頭の少し上で、すばらしい光沢をしているリングがぽっかり浮いている。さらには、さっきの女の子のように宮久地にも翼が生えている。違うのは、その翼がとてもふわりとした白い翼だということだ。
「宮久地……」
「やっぱり、驚きますよね。 こんな体にいきなりなっちゃったら……って、春樹君!?」
 彼女の言葉を聞く前から僕は行動を開始していた。まず頭髪だ。なんていっても急に変わる髪の毛なんて見たことも聞いたこともない。さて、宮久地の髪には何度か触ったことがあるような無いような気がするがそんなことは関係ない。なんていったってこのリング。どういう理由で頭上で浮いているのか。そもそもこれは何でできているのか、気になることは多い。とりあえず手触りを確認してみた。 
「あ、ああああ、ちょっ、ふやあ、春樹くん!?」
 宮久地がなんか言っているが無視しよう。このまま調査を続けさせてもらう。服装の変化もすごく興味深い。今まで着ていたはずのセーターらしき服がこれまた瞬間的に何の素材でできているのかもわからないものになっているのだから。首周り、肩、脇と触っていくが、この手触りは今までに感じたことがない。おそらく、これも人間の世界にはないものでできているからこそなんだろう。
「あっ、あっ、春樹、くん……!」
「すごいな宮久地、変わろうと思うだけでこれだけの変化をするなんて」
「待ってくだ、さ……そんな風に触っては……ひゃあ!」
 それにしてもふさふさだ。あの悪魔の女の子の翼はもう少し硬い印象があったけど、やはり天使というだけあってその羽ひとつひとつがとてもやわらかい。その先端から根元のところまで。根元、つまり生え際にあたる部分はさらにすごい、血流のような温かな脈動だって感じられる。見た目がいかにこの世界の常識から外れているといえども根本的なところではあまり違いはないということのだろうか。
「い、いいかげんにしてください!!」
「うご」
 と、僕はあの悪魔の女の子から突き飛ばされたように、またしても吹き飛ばされてしまった。やれやれ、僕は調べていただけなのに、やはり人というのは思うに忙しすぎる生き物じゃないかと思う。あ、しかし宮久地は人間じゃなくて天使か。
「はぁ……はぁ……と、とにかく、これで私が天使であるとわかりましたね?」
「げふ……あ、ああ、十分すぎるほどに理解できたよ」
「そうでしょうねーあんなにべたべた触ればわかってくださいますよねー」
 さて、宮久地が何を言っているのか僕にはよくわからないがそんなことよりも、宮久地が天使って言うことの話は本題ではなかったはずなのだが。
「それより、もう一つ話があるんじゃなかったかな。 確か、マリアだったか」
「ああ、そうでした。 春樹君が今日会ったはずの悪魔の女の子についてお話しないといけませんね」
 そういいながら、宮久地は頭のリングや背中をやたらと手で直しながら、僕に話し始めた。それにしても、翼を直すのはなんとなく髪の毛の感覚でわかるのだが、あのリングを直すのは何か意味があるんだろうか。あれの位置くらい念じたりすることでどうにかならないものだろうか。
「それで、もしも人違いだったら怖いのでもう一度、あの羽見せてくれませんか?」
「どうぞ」
 僕は、ズボンの右ポケットから例の黒い悪魔の羽を取り出すと、宮久地に渡した。宮久地はそれを何度かくるくると回したりひらひらとさせたりすると、うん、と一回首を縦に振ると僕に返してきた。
「やっぱり、あのマリアのものでした……」
「ふうん、そうなんだ」
 そもそも、マリアって誰なんだ。というか、悪魔にしてはずいぶんと優しそうな名前だなと僕は思った。
「それで、マリアというのは私のお友達なんですよ。この世界にくる前はそれなりに遊んでました」
 それなり、という部分が若干気になるが、まぁ許容範囲だろう。
「それで君は一足先にこの世界にやってきて、何らかの仕事をしていた。しかし、あるときになって彼女もこの世界にやってきて、それで出会ったのがこの僕だった。 そうだろう」
「……は、はい。 まさしくそうなんですけど……えーと、あれー?」
 導き出される推理を言っただけなのに。いったい何をそんなに困ることがあるというのだろう。それとも彼女はこの僕が数十分にわたってうーんうーんと頭でもひねっていろとでもいいたいのだろうか。
「うーん……まぁ、いいことにします。じゃないと私が保てません!」
 と、彼女がやけに誇らしげに上に向かって宣言しているわけだが。さっぱりわからない。
「君の言いたいことがよくわからないけど、大体これで合っているんだろう?」
「ええと、はい確かにそうですー……それで、今後のことなんですが」
「今後?」
 今後、と言われても特に思いつくこともないのだが。宮久地が勝手にミスをして自分が天使だとバラしたのだから、彼女が悩むことはあれど僕が悩むことはないと思うのだが。
「マリアのことですから、たぶん、春樹君にこれからちょくちょく付いて回ると思うんですよ」
「……本当に?」
「はい……」
 なんということだ。また彼女を調べられるのか。
 いや、そんなことより僕の睡眠がとられてしまうことのほうが問題だろうか。うん、これは悩みどころだ。そして死活問題だ。車でいうならガソリンがガソリンスタンドまで持つだろうかというくらいの問題で死活問題だ。
「悪魔というのは、人間を悪い道に引き込もうとするのが元来の仕事ですから、だから春樹君を悪い道に誘うためにマリアが追っかけてくるかなーと……」
「ふうん、悪魔の仕事か。 大体予想通りだな」
 というか、インターネットに書いてあった。
「それで、大方天使の仕事って言うのは人を良い方向へと導いてやるんだろう」
「あ、あたりです……」
 それもインターネットに書いてあったことだが。
「つまり、君がこの世界にいるのは役目を果たすため、か。 ずいぶんとご苦労なことだなと僕は思うよ」
「……そういうつもりでいいことをしてるつもりは」
「まぁ、いいんじゃないかな。 天使という役割があるわけだし、何も悪いことではないと思うし」
「ち、違うんです! わ、私が春樹君におすそわけをしたりするのは、その……」
 と、そこまでいうと、彼女は言葉をとめて、そのまま黙りこくってしまった。何がどう違うのか、僕にはよくわからないが。まぁ彼女が違うというなら違うんだろう。何かが。
「まぁ、いいよ。 話はわかったし、帰ろうか」
「……はい」
 僕が公園の出口に向かって歩き出すと宮久地も後ろをついてきた。その足取りは、どこか重たげだったのが気になったが、今は家への道を歩くことに集中することにした。
 後ろを歩く彼女の姿はもう、いつもどおりの"宮久地芹奈"だった。
 真っ暗闇の帰り道を、二人でぶらぶらと歩いていると、背後から宮久地の声が聞こえた。
「あの、春樹君」
「なんだい」
「……私のこと、どう思ってますか」
「どうって……」
 毎度毎度、おすそ分けを持ってくる変わり者の隣人だと思っているわけだが。
「昔からこうやって過ごしてきた、幼馴染、そう思ってませんか?」
「そうかもしれないな」
「……違うんですよ」
「違う?」
 僕はここではじめて、彼女の方へと振り返った。そこには、スカートのすそをぷるぷると震えながら掴んで、涙を浮かべながら話し掛けてくる彼女がいた。
「春樹君が知ってる私の記憶は、みんな私がこの世界にやってくるときに植え付けた偽りの記憶っ。 だから、私はあなたと幼馴染でもなんでもないんですよっ!」
 そして、彼女は泣き出した。時々しゃっくりを混ぜながら、むせび泣いていた。
 思い返してみれば、僕は宮久地との直接的かつ具体的な記憶はないかもしれない。しかし。
「確かに、君と僕は幼馴染ではないかもしれない」
「……ひっ、ふぇ……?」
「けれど、君が僕にいつもおすそ分けをしてくれたことは、偽りじゃないだろう」
「あ……」
 ぽかんと、口を開ける彼女を横目に、僕はもう一度帰り道へと向き直った。
「帰るぞ」
「……はい!」
 心なしか、二度目の彼女の足取りは、最初よりも軽かったような気がした。


「ふむ、眠いな」
 悪魔の女の子が家で眠っていた、その翌日。実に普通の一日だった。
 起床するときも、学校に登校するときも、授業を受けているときも、下校するときも、何らおかしいことなどなく。まぁ強いていうと宮久地がるんるん笑顔で僕に弁当を渡したくらいで特に何もなかったわけだが。その際に数人の男子から睨まれていた気がするがそれもどうでもいい。
 そんなわけで僕は睡眠を楽しもうとベッドに潜りこんでいる真っ最中なのだった。
「やっぱり、眠っているときが一番幸福な気がする――」
 そうして、僕は目を閉じた。そう、目は閉じた。
 次に響いたのは無機質なインターホンの音なんかではなく、トラックが衝突したようなそんな爆発的な破壊音だった。
 音の原因は明らかに一階からのものだったので、僕は落ちかけていた意識を無理やりに覚醒させられた状態でその原因を確かめることにした。
 そこにあったのは、惨状だった。
 階段から下りて、右の方にはリビングとキッチン。そして左には玄関があるわけだが、目の前に見えているのはなぜか玄関の扉だった。様々なものを巻き込んできたらしく、一部の靴はリビングのテーブルにまで飛んでいる始末だ。
 ここでようやく僕は玄関の方を見た。そこには、これらの惨状を生み出した張本人がすごい仁王立ちをしてこちらを睨みつけていた。
「せ」
「せ?」
「責任を取りなさいよぉぉぉぉっ!!」
「……は?」
 前略、家族へ。僕は唐突に悪魔の女の子から責任を取れと言われたのですがどうすればよいのでしょうか。
「あれだけ弄繰り回しといて、アンタは……アンタはぁぁ!!」
 追伸、おまけに靴入れの上にあった花瓶まで投げつけられたのですが僕には良く分かりません。
「……ええと、とりあえず君はなんなんだい?」
「フフフ、良くぞ聞いたわ! そう、私こそ後に七大悪魔に名を連ねるであろうマリアントワージュ・セロディアス――」
「やっぱりあなただったんですね、マリア」
「ふぇえ!? セリナぁ!?」
 壮大な自己紹介。続いて訪れたのは僕の隣人宮久地芹奈だった。二人が以前友達だった、というのは本当かは分からないが、これで少なくとも顔見知りであることは間違いないだろう。
 それにしても、やけにうろたえているな。ええと、名前は確かマリアだったか。さっきまで高らかに名前を叫んでいたはずなのに今では汗すら浮かんでいる。
「それにしても、今でもあの妙な口上を使っているんですね」
「な、なによぉ、いいじゃないのよ私がどんな風に自分の名前を名乗っていたとしても!」
「ええ、そうですね。 ただし、その名前が本当の名前なら、ですけど」
「うぐぅ!」
 どうやら、さっき名乗ったマリアントワージュ・セロディアスなんちゃらというのは偽名だったらしい。すでに宮久地が正しているので証明も何もないが、宮久地の指摘を聞いてからマリアの額の汗の量が増加したので間違いないだろう。
 そんなことより、僕にはもっと大事なことがある。
「それで、マリアだったか」
「マリアントワージュ・セロディアス! マリアって言うのはやめて」
「じゃあ、セロディアス。 君に聞きたいことがあるんだけど」
「な、何よ」
「僕の家は誰が直してくれるんだ?」
「知らないわよそんなの! 聞くならもうちょっとマシなこと聞きなさい!」
 やれやれ、どうやら僕の家の玄関が吹き飛んでリビングがグチャグチャになっていることは彼女にとっては取るに足らないことのようだ。どうも、彼女以外の物は通行に邪魔であっても障害物以下の評価しかもらえないらしい。
「ごめんなさい、春樹君。 あとで私が直しておきますから」
 ほう、これだけの破壊でも直せるとは、天使って便利だな。四日前に書けなくなったボールペンも直してもらえないだろうか。
「ちょっとセリナ、こんな奴の家なんて直す必要ないわよ?」
「でも、だって、私は天使だから。 それに……」
 そこまでいうと僕の方をちらっと見た。いったい何だっていうんだ。
「と、とにかくこんなことやめて今までどおりに仲良くしよう?」
 宮久地が右手を差し出す。しかしその右手が握られることはなかった。
「ふざけないでよ……」
「え?」
「そうやって天使、天使って、そんなんだからセリナもオヤジも!!」
「きゃあ!」
 怒りの色を見せたマリアが宮久地を突き飛ばす。いきなりのことに対処できなかったらしく宮久地は靴入れに思いっきり背中をぶつけるとそのままうずくまってしまった。音からして結構な勢いでぶつかったんじゃないかと思う。
「……池田春樹!」
「うん?」
「あんたは私がぜえったいに悪の道に堕としてやるんだから! 首を洗って待ってなさい!」
 というと、すでに扉のなくなった玄関から彼女は出て行った。
 とりあえず、吹き飛ばされた宮久地のそばに僕は歩み寄った。
「大丈夫か?」
「は、はいなんとか……少しだけ痛いですけど」
「そうか……うんと、少し待ってて」
「え?」
 ええと、確か階段の下の小さいスペースに救急箱が置いてあった気がしたんだけど。買いだめのトイレットペーパーや非常食を押しのけると、その奥にちゃんと救急箱があった。とりあえず救急箱から消毒液とガーゼを取り出すと宮久地のそばに戻る。
「見せて」
「え、いえそんな、このくらい……」
「いいから、背中を見せて」
 彼女は数秒の間、考え込むように下を向いていた。けれど、僕の言葉に押されたのか首をこくりと縦に振ると、服をまくって怪我をした個所を僕に見せてくれた。いくら天使といえども、怪我をしないというわけではないみたいだ。ぶつけたところが、少しだけ青くなっていた。
「やっぱり、少し打ち身になっているな」
「は、はあ……そうですか」
「それに、体温も少し高いように思えるけど、風邪でも引いた?」 
「い、いえ! それは、ち、違うんです!」
 何が違うのか僕にはよくわからないが、彼女が違うというならそれは違うのだろう。たぶん。
 僕は消毒液を怪我をした場所に塗りこむと、そこにガーゼを貼った。確か打ち身をしているなら冷やす必要があったはずなんだけど。
「あとは冷やせばいいと思うけど、氷でも取って」
「あの、春樹君……私は、もう大丈夫ですから」
「けど、処置は完全じゃないよ」
「いえ、いいんです。 あとは自分で治癒できますから」
 服を戻して立ち上がると、ゆっくりとこちらを向いた。顔を伏せているためよく見えないがやっぱり少し赤い気がする。
「その前に、春樹君のお家、直しますね。 ご家族が帰ってきたら大変ですから」
 そうすると宮久地は両手を組んで、僕には決してわからない言葉で、昨日の公園の時のように呪文を唱え始めた。それはまるで、呪文というよりは一つの歌を歌うかのような、そんな美麗さを含んだきれいな言葉だった。
 周辺が一段と輝いて、それが僕の目の許容量を超えたと思った次の瞬間には、荒々しく吹き飛んでいた扉はきちんと玄関に付いていた。それだけじゃない。粉砕されかけていた靴入れは以前と何も変わらない状態になっているし悲惨なことになっていたリビングの方もこれまたマリアがやってくる前の状態にきっちりと元に戻っていた。
 僕がこれらの一連の変化に驚愕していると、背後から扉の開く音が聞こえた。それは、宮久地が扉に手をかけたからだった。
「…………ありがとう」
 それだけいうと、そのまま彼女は帰ってしまった。
 後に残ったのは、僕が救急箱を引っ張り出したという、その事実しか残っていなかった。





「首を洗って待っていろ、か」
 僕は今学校の屋上にいた。なぜか、と問われても特に答えようがない。なぜならここにいるのは僕の気まぐれでしかないからだ。ちなみに、時間なら今ごろはきっと五時間目でも始めているころだろう。なぜ授業に出ないのか。それならまだ答えようがある。理由は簡単だ。あの悪魔の女の子、マリアが気になるからだ。
 首を洗って待っていろ、などと言うくらいだから、学校で授業を受けているときに例のごとくバサーッと現れてくれるんじゃないかと思い一時間目から窓をチラチラしていたが結局現れなかった。おまけに教師からはとてもにこやかな表情でチョークを投げつけられるし、なんて痛い一日だろう。少しだけ期待していた分、心も痛い。
「あー、見つけた!」
 心の中で浮かべれば何とやらだ。頭で考えただけで現れてくれるなんて、それだったら一時間目から来てくれたっていいんじゃないだろうか。
「どうも。 名前はマリアだっけ?」
「マリアントワージュ・セロディアス。 言っておくけど、三度目はないわよ」
 鉄柵の向こうから、思い切りにらまれた。ちなみに、現在僕がいるのは飛び降り防止用の鉄柵のすぐそばだ。だから、必然的にマリアがいる場所は鉄柵の向こう側、つまり空中ということになる。
 しかし不思議なのはマリアとほぼ同じか、少し小さい程度の大きさの翼でなぜ飛ぶことができるのだろうということだ。ゆったりとバッサバッサとはためく黒い翼。やはり悪魔や天使にはまだまだ理解のできないことが多いみたいだ。
「それで、セロディアス。 どうして早いうちに僕に会いに来なかったんだ?」
 こっちは今朝からずっと意識していたのにどういうことだ。僕がベッドから起き上がるときも朝食を食べるときも着替えをするときも歯を磨くときも宮久地といっしょに学校へ通学するときもホームルームが始まったときも授業が行われているときも宮久地からお弁当を渡されたときも昼食を食べているときも僕は気にしていたというのに、これじゃ拍子抜けもいいところだ。
「だって、その、アレよ」
「……あれって何だ」
「ア、アレはあれよ! 悪い!?」
「いや、あれって言われても僕にはわからないし」
「ムグググ……な、何よ! だって恥ずかしかったんだもんっ!」
 頭から煙でも出てくるんじゃないかっていうほどに顔が真っ赤なんだが、大丈夫なんだろうか。なんか微妙にふらふらしてるし、この子も風邪でも引いてるんじゃないか。
「恥ずかしい?」
「ぜんぜん知らない人ばっかりいると恥ずかしいの! しょうがないでしょ!?」
 何がどう仕方ないことなのか僕にはわからないが、思うに人を悪の道に誘惑しなければならない立場としてはそれは致命的な弱点なんじゃないかと思えるんだけど。
「そうなのか」
「そうなの! 私がそうって言うんだからそうなの!」
「ふうん、ところでずっと気になっていたんだけど」
「何よ」
「責任って何のことなの?」
「ぶほぉ!」
 疑問をぶつけただけなのにすごい勢いで口から色々飛んだんだけど。とりあえずツバがかかって気になる。
「な、なななななななな!?」
「何を驚いてるのかわからないけど、君が言いだしたことだよ」
「それは、その、責任は責任よ!」
「いや、何に対しての責任なのかが知りたいんだけど、僕は何かしたかい?」
「何かって、あんただってそりゃ……あうう……!」
 また赤くなったぞ。本当に、僕が何をしたっていうんだ。思い当たるのは彼女を調べたことくらいだけど、変なことは何もしてないはずだけどな。
「と、とにかくあんたはさっさと悪の道に堕落すればいいの!」
 結局答える気はないらしい。また理解できないリストが増えそうだ。それにしてもさっきから彼女が言う悪の道っていったいどういうことなんだろう。
「それで、僕をどうやって悪の道とやらに引きずり込む気なんだい」
「…………えっと」
 なんかいきなり考え出したぞ。僕はてっきり悪いことへの魅力でも語って自発的にそうさせるものだとばかり思っていたんだけど。
「あーもう、こうなったら実力行使!」
「うぐっ」
 ありのままに今起こったことを話すと、鉄柵の向かいにいたはずのマリアが飛び上がって僕に向かってきたなと思っていたら屋上の壁に押さえつけられていた。
「悪いことしないなら、殺すわよ?」
 彼女の左手に首根っこを握られていることで、僕は満足に動くこともできやしない。さらに、いつの間にやらマリアの右手にはバカみたいにでかい三又の槍が握られているし。というか、悪いことしないと殺すってなかなか聞かない言葉だな。
「うく……かはッ……」
「フフン。 やっぱり悪魔はこうでなくっちゃね。 心地良いわ」
 しかしこれ、意外とマズいかも、しれない。呼吸をふさがれているからだんだん思考もまともに、考えられなく……
「ほら、早くイエスって答えなさいよ。 今なら下僕程度で勘弁してやらないこともないわ」
 いや、こたえたいのは山々だけど、首が、ふさがって、答えが……うあ……
「あ、が……」
「下僕じゃ満足できないのかしら? じゃあ執事ならどう? 今だったら私専属の執事にでも」
「いいかげんにしなさいマリア!」
「ひゃう!?」
 そのとき、屋上で一つの怒声が悪魔の少女に向けて放たれた。聞き間違えるわけも無い。その声は明らかに宮久地のものだった。声に驚いたのか僕の首からその手は離されていた。今のうちに呼吸はさせてもらおう。
「えっほ、げほ……」
「大丈夫ですか、春樹君?」
「な、なんとかね……げほっ」
 宮久地に背中をさすってもらって、なんとか普通に呼吸できる状態になった。危うく答える前に死ぬところだった。
「マリア、いくら友達といえど今のは許せないですよ」
「な、何よ、だってこうやった方が手っ取り早いし、それに悪魔っぽいかなって……」
「相手が死に掛けてて、それがマトモな交渉だと本当に思ってるんですか!?」
「う、うみゅう……だって、だって……」
 あからさまにマリアがへこみだした。まぁ、実の友人に本気で怒られれば落ち込むものだろうとは思うが。
「あんな風に首を絞めたら死んでしまうに決まってるでしょう!? それをマリアは――」
「ありがとう、宮久地。 けど、僕にも言いたい事があるから怒るのはそれくらいにしてくれないか」
「け、けれど春樹君が……」
「頼むよ、宮久地、話させてほしい」
「……わかりました。 春樹君がそういうのなら」
 そういうと宮久地はスッと下がってくれた。流石は幼馴染――本当は違うらしいが、まぁどちらでも僕にはどうでもいいことだ――聞き分けのいい人は僕は嫌いじゃない。むしろ好感を持てる。それよりもとりあえずマリアに答えなくては。
「――マリア」
「なに……」
「とりあえず悪の道にも誘われる気も君の下僕にも執事にもなる気はない。そんなことよりもだ」
「……え?」
「君は悪魔なのに、悪魔らしさを気にしているのはなぜなんだ?」
 そう、彼女は先ほどから言葉のどこかに悪魔らしさを入れ込んでいる。悪魔っぽい、悪魔らしい。それが僕にとってはとても不思議だった。だから僕は聞きたくなった。なぜ、そんなにも悪魔ということにこだわるのか。彼女、マリアは悪魔であるはずなのに。
「何よ、悪魔が悪魔らしさを気にしたら何かいけないって言うの?」
「いやそんなことを言う気はない。ただ気になっただけだよ。宮久地は――君にとってはセリナか、彼女は一度だって天使だからとか、天使らしくとかそんなことは口にしなかったのに、君はやたらと気にしているようだからね」
「むぐ……」
 僕がこういうと、マリアは苦い顔をしながら口を閉じてしまった。やはり何か原因があるようだが、それが何なのかは今の僕にはわからない。
「マリア……ひょっとして、今でも気にしてるんですか?」
「セリナと話すことなんて、ない」
「マリアのお父さんの――」
「だぁかぁら! 私はセリナと話すことなんてない! 今の私の相手はこいつ、池田春樹! セリナは関係ない!」
 激昂したような叫びをあげながら、僕の目の前には巨大な槍が突きつけられている。下手に動くと串刺しより酷いことになりそうなので今は黙っておこう。
「池田春樹……今日はこの辺で勘弁したげるけど、絶対に、私はあんたを悪の道に堕としてみせるんだから」
 そう宣言すると、この間のようにバサバサとその黒い翼をはためいてどこかへと飛び去ってしまった。僕がそれを確認すると、後ろから走りよってくる音が聞こえる。
「春樹君、大丈夫ですか!?」
「ああ、あの馬鹿でかい槍には刺さってないよ」
「よかった……春樹君がマリアに何されるか、ほんとに心配で……」
 そういいながら僕の手を握り締める宮久地。どうやら、だいぶ彼女には心配を掛けさせてしまったらしい。なぜそこまで僕のことを気にするのかはよく分からないが。心配を掛けさせてしまったならそれは僕の不手際だろう。
「ええと、すまない」
「いえそんな、私が春樹君に謝ることがあっても、春樹君が謝ることはありませんよ! 私が、ちょっと目を離した隙にこんなことになって……」
「いや、僕がここに一人できたのは独断だ。 責任が生じるならそれは僕にある。 宮久地が責任を負うことじゃない」
「で、ですけど春樹君が危うく大変なことに……」
「ちょうどいいところで君は来てくれただろう? それだけで十分だよ。 それに――」
 そして僕は宮久地の右手を握って僕の胸に当てた。制服越しとはいえ、恐らく心臓の鼓動の振動くらいは伝わるはずだ。
「あわ!?……ひゃ、ひゃるきしゃん……?」
 宮久地の顔がなぜかゆでだこになっているが、まぁどうでもいいだろう。きっとこの間の風邪でも続いているんだろう。
 彼女の状態など気にせず、僕は自身の話を続けた。
「君のおかげで、僕は一切怪我は負わなかった。 少しだけ首は痛むけど、問題は無い。 だから、それでいいだろう」
「え、えと……!」
「僕の体を触る以上の証拠が、まだ必要なのかい?」
「か、体を触る――以上――う、うひゅう――」
 僕の話が終わるのと、宮久地がばったりと倒れるのはほぼ同時のことだった。彼女の頭がコンクリートに重力に任せた衝突をする前に一応支えてはおいたけど。
 しかし、顔をここまで真っ赤にさせて倒れるなんて、普通じゃないだろう。今まで僕は風邪だ風邪だと思っていたが。
「……まさか、天使の世界でインフルエンザが流行中なのか」
 それなら納得がいく。現に倒れているわけだし、これはもう重症以外の何物でもないわけだし。
 とりあえず、僕の六時間目の授業は宮久地を保健室に運ぶことになりそうだ。まぁ、宮久地はそこまで重くはないからできないことはないだろう。
 僕は宮久地の体を一番抱えやすい格好で抱え込むと、そのまま保健室に運び込んだのだった。
 しかし、後でクラスの人間全員から宮久地について質問を投げかけられまくったのだが、あれは一体なんだったんだろう。僕のクラスにはどうやら宮久地のファンが多いのかもしれない。まぁ、僕には関係ないが。


「そろそろ、だろうか」
 あれから翌日、僕は家にいた。学校は既に放課後となっており、校舎に残っている人間は恐らく生徒会や委員会などの役員たちや部活動で個人個人の技術を磨いているような人たちばかりだろう。そんなことは今の僕には関係ないが。
「私を呼びつけるなんて、いい根性してるじゃないのあんた」
「ああ、来てくれたか。 いや、もしかしたら文字が読めないかもと学校で無償に気になって仕方が無かった」
「文字が読めないって、あんた私を馬鹿にしてるわよね?」
「そうあからさまな怒りを見せないでくれ。 君やセリナは僕の認識からすれば別の世界の存在だし、使ってる言語体型も違うのかとも思ったんだよ」
「……あんたが何を言いたいのかいまいちわかんないけど、馬鹿にはしていないのよね?」
「うん、してるつもりはないけど」
「だったらいいわ」
 馬鹿にはしていないが、どうも僕の話がきちんと通じていない気がする。まぁ、大まかなことが伝わればそれでいいか、と僕は自分自身を納得させることにする。
「で、どうして私を呼んだわけ?」
「昨日君が知らない人間が大勢いるのは好まないと言ったから、君が僕に接触しやすいようにいつ会えばいいのかを教えようと思ったんだよ」
「それで家の窓にメモを置いたってわけ?」
「うん、そう。 しかし言葉が伝わってよかったよ。 少し気になっていたけど、この世界とそっちの世界の言葉は同じなのかい?」
「え、ええ。 そうみたいね。 何でかは知らないけど」
 ひょっとしたら僕らの世界の言葉は向こうでは使われることが少なくて、こっちで言うところの外国語みたいな扱いなのかとも思っていたけど、どうやら根本的に同じらしい。しかし地球では圧倒的に英語と中国語を使ってる人間が多いはずなのによく日本語なんてきっちりと使ってるな。うん、この辺りのことは宮久地に改めて聞き直した方がよさそうだ。
「あんたがなんであんな窓にメモを置いたのかはわかった。 けど、肝心などうして私を呼んだかを説明してないわよ。 ああ、もしかしてやっぱり私の下僕になりたいっていう申し出かしら?」
「いや、違う」
 昨日も断ったはずなんだけど、おかしいな、マリアの顔がみるみると赤くなっている。とりあえず話を続けて気でも逸らそうか。
「昨日聞き損ねたことを、改めて質問しようと思ってね」
「昨日のって、何よ」
「君がやたらと悪魔らしさを気にすることだよ」
「……そのことね。 とりあえず、あんたには関係ないし、話したくもないの。 わかる?」
 やはり彼女はこのことに答えたくないようだ。となると、それ以上のことを知るには何かしらの状況変化が起こるか、僕が推理するかのどちらかしかない。
「まぁ、そうだろうね。 昨日君がいなくなったその後に、宮――セリナに君の事を聞いたんだけど、彼女は言わなかったからね。 自分の友達が知られたくないことを、私が話すわけにはいかないって、そう言われたよ」
「……セリナ」
「どうやらセリナは君のことが大切らしいな。 いい友達だと僕は思うけど」
「――うっさいわね、あんたは何よ――何なのよ――」
「僕はただ、気になるだけだ。 宮久地のこと、天使のこと、マリアントワージュ・セロディアスと名乗る君のこと、そして悪魔のこと。 全く知らない世界が僕の目の前にやってきた。 それが気にならないわけがないだろう」
「セリナ――」
 彼女、マリアは、少しだけ声を震わせていた。そんな声の揺らぎは、それに呼応するかのように全身で表され始める。そしてとうとう振動が顕著になったとき、彼女の体は膝からストンと崩れ落ちた。
「悪魔のことは、今は聞かないことにするよ。 しばらく、君のしたいようにしてるといい」
「……礼なんて絶対言わないから」
「そうか」
 彼女は床に座り込む中、僕はベッドへと向かいそのまま寝転がった。特にすることがないときは、大抵はこうしてる。そのまま眠ることも多い。今は、マリアという存在がいるので眠るとどうなるかはわかったものではないけれども。
 マリアのすすり泣く音が聞こえながら、僕は寝転がっている。そんな状態が恐らく三分くらい続いただろう。唐突に、ベッドのバネがより深く沈みこむのを感じた。見れば、マリアがベッドに座っていた。泣くのは、もうやめたようだ。少しだけ目の周りが紅くなっているのは、人間も悪魔も同じらしい。
「……あんたの質問、他の事だったら一つだけ答えてあげる」
「なんか、唐突だな」
「な、何よ! なんかあんたに借り作ってる気がして癪だからっていうだけの話! それだけだからっ!」


#endregion

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